Okinawa 沖縄 #2 Day 261 (18/03/24) 旧北谷間切 北谷町 (02) 字大村 (玉代勢本村・伝道本村)
北谷町 北谷集落 (チャタン)
字大村 玉代勢 (タメーシ、たまよせ)
- 長老山 (チョーローヤマ)、北谷三箇合祀所
- チブガー
- 樹昌院 (ジュショーイン)
字大村 伝道 (ディンドー、でんどう)
- 塩川 (スーガー)
- 北谷御先龍宮神
- 北谷グスク
- 東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ)
- 殿 (トゥン)
- カガンガー
- グスク火ヌ神
- 西ヌ御嶽 (イリヌウタキ)、十三御香盧 (ジューサンウコール)
- 金満按司墓?
前回、北谷集落、北谷ヌ前集落を訪問したが、まだ脚の調子は良くなく少し痛みがあり、遠出は我慢していた。痛みが引いたので今日は伝道と玉代勢本村を訪れる。
字大村 (おおむら)
北谷三箇は北谷、伝道、玉代勢を示し、この三つの村は北谷城の南側に隣接して形成生され、所謂、城下町だった。かつての伝道は現在の大村と吉原及び桃原、玉代勢は現在の大村と玉上に当たっていた。
伝道内には謝苅屋取集落と西桃原屋取集落があり、この二つの屋取集落は1940年 (昭和15年) に字謝苅として独立行政区となり、1949 年 (昭和24年) に字桃原の一部を吸収して字吉原となっている。玉代勢内には仲山屋取集落と屋宜屋取集落があり、1938年 (昭和13年) に字玉上として独立行政区となっている。玉代勢本村と伝道本村は1949年 (昭和24年) に合併して字大村となっている。
伝道本村と玉代勢本村の字大村のほぼ全土は戦後米軍基地として接収され、米軍軍人関係以外は殆ど人は住んでいない。2020年 (令和2年) に米軍倉庫地域となっていた北谷城周辺が返還されている。この地域が今後どの様に活用されるのかは、計画書も見当たらず不明。
字大村内の米軍基地のキャンプ端慶覧の返還については全く未定で少なくともこの先四半世紀は現状のままだろう。
伝道と玉代勢の拝所は米軍基地内にあるので、御願の為の立ち入りには事前に米軍の許可がいる。幸い北谷城が返還され見ることができるので、今日は北谷城中心に巡る。
字大村 玉代勢 (タメーシ)
玉代勢は北谷グスクの南東側に位置していた北谷三箇の集落で、北西側は伝道 (リンドー)、西側は北谷 (チャタン) に隣接していた。戦前には戸数76軒 (内 カーラヤーは16軒) が居住していた。玉代勢北部の山間部には板原屋取 (イチャバルヤードゥイ)、屋宜屋取 (ヤギヤードゥイ)、 仲山屋取 (ナケーマヤードゥイ) の屋取集落も存在していた。
玉代勢集落の真ん中を走る道で上村渠 (イーンダカリ) と下村渠 (シチャンダカリ) にワラビジナの組に分けられていた。また、砂糖組 (サーターグミ) も血縁関係で上組 (イーグミ) と下組 (シチャグミ) に分かれていた。主業は農業で、芋やサトウキビ、米などを作っていた。共同の砂糖小屋 (サーターヤー) が、村屋 (ムラヤー) の北側に2か所あり、東側が
上組 (イーグミ)、西側が下組 (シチャグミ) のものだった。
玉代勢集落の拝所
- 御嶽: なし
- 殿: なし
- 拝所: 長老山、前城島御風水神、土帝君
- 井泉: チブガー、ヒージャガー、スミムンガ一、根神井 (ニーガンガー)、女井 (イナグガー)
玉代勢集落で行なわれた祭祀行事
- ニングワチャー (クシユクワーシ 旧暦2月2~3日): 上組と下組の2つに分かれて行なわれる。初日は集落の入口5か所に、しめ縄と肉を吊り下げて、フーチゲーシを行ない、アランモーの土帝君 (トゥーティークー) を拝んでいた。
- ワラビジナ (旧暦6月25日): 13~14歳以下の子どもたちが参加する綱引きで、毎年行なわれていた。
- ウーンナ: 寅年にはチャタンサンカ合同で大綱引き (ウーンナ) が行なわれる。
- エイサー (盆 旧暦7月15~16日): 北谷 (チャタン)、伝道 (リンドー)、玉代勢 (タメーシ) の北谷三箇住民が樹昌院 (ジュショーイン) に集まり奉納舞踊を行い、下村渠 (シチャンダカリ) から上村渠 (イーンダカリ) へと各家をまわり、酒を2合ずつもらっていた。
長老山 (チョーローヤマ)、北谷三箇合祀所
キャンプ瑞慶覧の敷地内に長老山という小山がある。キャンプフォスターのフェンス越しに見えるのだが、米軍キャンプ内なので自由には入れない。長老山付近には沖縄にはじめて臨済宗妙心寺を伝えた樹昌院 (ジュショーイン) と呼ばれる寺があった。
樹昌院の南東側の長老山には北谷長老 (南陽紹弘禅師) をはじめ、樹昌院歴代の住職を葬った墓所になっている。初代住職の南陽紹弘禅師は死期が近い事を感知し、人を一切近づけず自ら食を取らず、薬を断り一人寺を出て、この長老山の大木の上で禅定の末に亡くったと伝えられている。
この長老山には米軍用地として集落を接収された旧字北谷のカー神をはじめ、旧字伝道や玉代勢の拝所が各字毎に合間されている。米軍基地内ではあるものの、毎年旧暦9月15日には、この地で長老祭が行なわれている。
この直ぐ東が前城島 (メーグスクジマ) と呼ばれた場所で、龕屋 (ガンヤー) があり、北谷三箇で利用していた。
ここで祀られている拝所は以下の通りだが、インターネットに写真があったので掲載しておく。
- ウスクガー: ハツドーキヤー (発動機屋) の近くにあった湧水でウスクヌイジニングゥーとも呼ばれた。
- カンタヌカー: カンタヌカーグァーとも呼ばれ、ナカイサーラバルの中のユナフィバルとナカイサーラの山がぶつかるところにあった。雨が降らないと枯れるぐらい水量は少なかったそうだ。北谷村の始祖 (ハダカ世) が使用したカーと伝えられる。
- スミムンガ一: 屋号川ヌ端小 (カーヌハタグワー) の屋敷内にあった井戸で泥水が溜まっていたため、普段の飲み水や生活用水としては使われていなかったが、造りは立派な井戸だった。泥染めに使う井戸だとい う言い伝えがあった。
- 根神井 (ニーガンガー): 戦前の北谷集落、屋号大城安里と前城津嘉山の屋敷境界付近、西側に所在した。この井戸は、北谷ノロをはじめ、ムラの女性神役たちの斎戒沐浴に使用され たと伝えられている。
- 女井 (イナグガー): ヌルシンガー (ノロ神のカー) とも呼ばれる。かつては伝道集落の西側に所在した。
- クゥーディーサービジュル (竜宮神): 字北谷と北谷ヌ前屋取) の境のクゥーディーサーグムイのクヮーデイーサーの樹の下にあった拝所でビジュルが置かれていた。
- 前城島御風水神: その性格などについては不明。
チブガー
戦前の玉代勢集落は米軍に接収され、現在でもキャンプ端慶覧内で返還されずにいる。戦前の集落では井戸は各家にあったが、かつての集落に東端に玉代勢集落の村井 (ムラガー) の樋川のチブガーがあった。産井 (ンブガー) でもあり、元旦の若水 (ワカミジ) はこのチブガーから汲んでいた。戦後の一時期にはチブガーに置かれていた香炉 (ウコール) を長老山の合祀所に移し祀られていた (写真左上)。井戸は県道130号線の工事の際に発生した崩落によって埋没してしまったのだが、2004年 (平成16年) に米軍の文化財保護政策の一環としてかつての形のまま復元されている。また、このチブガーの一帯は苗代田 (ナーシルダー) だった。
樹昌院 (ジュショーイン)
南陽禅師 (北谷長老) は、この北谷では現在でも崇敬されており、毎年長老山の歴代住職の墓で長老祭が行われている。地元吉原には北谷長老酒造工場があり、その名酒「北谷長老」は人気の銘柄だ。またエイサーでは真っ先にこの樹昌院に奉納されているほどだ。仏教が広まらない沖縄では、檀家もある特異な寺院の様に思える。また、開祖の北谷長老には幾つもの逸話が伝わっている。首里から北谷まで、蟻や小動物を踏みつけないように気を付けて歩いたという逸話もある。
字大村 伝道 (リンドー、ディンドゥー)
北谷グスク南側の麓には戸数25軒 (内 カーラヤー 5軒) の伝道 (リンドー) 集落があった。
沖縄戦後、伝道集落域は米軍に接収され、キャンプ瑞慶覧内となり人々は他集落へ分較して暮らしている。
伝道集落の拝所
- 御嶽: 東ヌ御嶽、西ヌ御嶽
- 殿: グスクヌ殿
- 拝所: ヤマガモー、グスク火ヌ神、按司墓のお通し (ウトゥーシ)、ミフーダ (御穂田)、北谷御先龍宮神
- 井泉: 塩川 (スーガー)、カガンガー、ヤマガー (未訪問)、ウージガー (ホースガー 未訪問)、チンガー (イーバシガー 基地内)、リンドーガー (未訪問)、ヰナグガー (合祀)
伝道集落で行なわれた祭祀行事
- ニングワチャー (クスックィー 旧暦2月2~3日く): ヤマガマーを拝んだあと、ごちそうを食べ、三味線を弾いたり、踊ったりして遊んだ。
- ワラビジナ (旧暦6月25日): 豊年祝いで、この日の夜には子どもだけの綱引きを開催していた。ワラビジナの際には伝道集落内の南北に走る道の東側を上村渠 (イーンダカリ) と西側を下村渠 (シチャンダカリ) に組分けして綱引きが行われた。
- ウーンナン: 寅の年に北谷三箇合同で昼に大綱引きウーンナが行なわれる。
- エイサー (旧暦7月): この日には忌中の家以外は全部の家を回り、集落外では北谷のノロ殿内と樹昌院の2か所には必ず行って、奉納舞踊をしていた。
- シマクサラシ (旧暦8月): 病気や災害が入ってくるの を防ぐための魔よけの行事で、集落の入口6か所に、竹を2本立て、そこにしめ縄を張り、真ん中に豚肉をつるした。 豚の血はナカミチに置いておき、各自でギキチャーで豚の血を家の四隅につけていた。
白比川 (シルヒージャー)
北谷グスクの北を流れるのが白比川 (シルヒージャー) でケンドーからの下流部分は北谷川 (チャタンガーラ) とも呼ばれている。また新川 (アラカー) と合流する地点をタマタと呼びそこから上流はシガイガーラと呼んでいた。
塩川 (スーガー)
集落の西、北谷グスクの麓に塩川 (スーガー)がある。グスクグサイニーガとも呼ばれていた。現在ではコンクリート造の建物のなかに半円形の井戸が残っている。昔は1mぐらいのつるべがあったそうだ。塩川 (スーガー) は水質が良かったそうで、戦前までは、字北谷の人々が、生活用水や正月の若水 (ワカミジ)、産水 (ウブミジ)、また、お茶用や豆腐作りにも使用されていた。戦前にはニングゥチャーでも拝まれていたが、現在では、正月3日の (初拝み) ハチウビーと、8月11日の (井拝み) カーウビーの際に北谷ノロ殿内によって拝まれている。
塩川の隣には按司墓のお通し (ウトゥーシ) が置かれている。多分、北谷グスクの北側の崖にあった金満按司か大川按司の墓への遥拝所だろう。更にその隣には(遥拝所)、ミフーダ (御穂田) の拝所もある。この塩川の前にはナシールダ (苗代田) があったので、そこの拝所と思う。
塩川の奥は急峻な崖になっており、そこには幾つもの掘り込み墓 (フィンチャーバカ) が並んでいる。どれも今では使われておらず、墓口は開いており、中には骨壷の破片屋や骨の一部が散乱している。
北谷御先龍宮神
更に塩川拝所の後方の崖壁には、北谷御先龍宮神と書かれた拝所がある。北谷には龍宮神を祀った拝所が多くある。その一つかと思っていたが、この地を管理している北谷郷友会から撤去を求められているので昔からあった龍宮神の拝所ではない様だ。沖縄ではシャーマニズムが根強い地域でシャーマンとしてのユタが多くおり、ユタが啓示を受けたとかユタに相談して拝所を設置している事が多い。拝所を巡ると、その傍らに不明の拝所が新しく造られているのを目にする。昔から村の聖域として拝んでいる人達にとってはあまり快い事ではない様だ。また文化財となっている拝所でも同様で、管理者は困っているのだが、強制撤去はしない様だ。
更に奥の崖に中腹に古墓が残っている。これ崖葬墓といって沖縄では最も古い墓の種類で崖の空間を石積みで塞いでいる形になっている。
北谷グスク
城主の金満按司は大川按司に滅ぼされ、その後、大川按司は谷茶大主に滅ぼされたと伝わっている。久手堅親雲上作の演目の大川敵討の舞台にもなっている。
廃城後は聖域として尊崇されていたが、1945年の沖縄戦では、日本軍の秘匿壕が城郭北側の斜面に構築されていた。戦後、米軍基地キャンプ瑞慶覧の敷地として接収され、立ち入りは禁止となっていたが、2013年に返還合意され、2018年に北谷グスク発掘調査が行われ、堅牢な石垣や殿舎跡の他、グスク土器・青磁・白磁・掲和陶器・カムィ焼・ 瓦質土器・鉄製品・鋼製品・古銭などの人工遺物や貝殻などが発掘されている。青磁は中国産のものと韓国の高麗産のものが出土し、日常の食器として使用されていたと考えられる。茶器として天目茶碗も数多く出土しており、 北谷城の按司たちがお茶会を頻繁に催していたのではないかとも考えられる。そして、ようやく、戦後75年目の2020年に返還されている。
四の郭の面積は約9,600m2で、出入口付近には城門跡が発見されている。この地域はまだほとんど調査はおこなわれていない。
米軍基地のフェンス沿いに進むと北谷グスクへの登り口がある。かなりの急斜面になっている。手摺ににつかまって登って行く。所々石畳になっている。ここが昔からの登城口だったのだろうか?
東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ)
坂道を登り切ると広い空間の平地に出る。
殿 (トゥン)
現在は5月・6月ウマチーで北谷ノロ殿内の家人や旧字北谷郷友会による拝みが行われる。
カガンガー
東ヌ御嶽の向こう側にはカガンガーの拝所も置かれている。東ヌ御嶽のグサイガー (鎖、一体の意味) に当たる。
三の曲輪からは道が二本出ている。まずは西への道を行く。北谷グスク内にはもう一つ御嶽があり、西ヌ御嶽というので、この道に先にあると期待して進む。道を少し進んだ一帯は二の曲輪だった様だが、今では樹々に覆われてその形は分からない。
グスク火ヌ神
道の先に拝所が見えてきた。この拝所は火ヌ神を祀っている。この奥に西ヌ御嶽があり、そこに入る前には、先ずここを拝んだそうだ。
西ヌ御嶽 (イリヌウタキ)、十三御香盧 (ジューサンウコール)
西ヌ御嶽には、13個の香炉が安置されている。13個の香炉は十二支とそれを一つに結ぶ火ヌ神だそうだ。これら香炉に因み、この御嶽のことを「十三神」とか「十三御香盧」とも呼ばれている。他の御嶽と同じ様に戦前までは御嶽への出入りはノロだけが許され、一般の女性や男性の立入は固く禁じられており、一般人は殿の場所で御願をしていた。現在では5月ウマチー (稲穂祭)、6月ウマチー (稲収穫祭)、北谷三箇(北谷・伝道・玉代勢)が合同で行う北谷大綱引き(13年マールの寅年6月25日)、メーウガミ(6月23日の綱引き安全祈願) で拝まれている。
西ヌ御嶽の西側、北谷グスクの西端の崖の上にも拝所が置かれている。この拝所の情報は見つからず。
来た道を戻る途中で、二の曲輪があった場所に入って行った。樹々で覆われて縄張りなどは分からないのだが、所々に石垣が残っている。かつて存在していた石垣は軍道1号線の建設時に使われたそうだ。グスクの北の崖からは眼下に白比川が臨める。北の崖には金満按司の墓があり、戦前にはそこへ降りる階段があったそうなので、探してみたが見つからなかった。戦後は崖下からよじ登ったとあるので、階段は消滅したのかも知れない。
三の曲輪に戻り東への道を進む。この道の北側が一の曲輪なのだが、樹々で覆われて中に入る事は断念した。道を進むと石垣が残っている。一の曲輪は二の曲輪から一段高い場所にあり、その一の曲輪の東端に虎口 (写真下) らしき場所があった。
一の曲輪を抜けると道が東へと続いている。一度下り、次に登り道になっている。道を抜けると舗装道路に出る。この舗装道路はキャンプ端慶覧のタンクへの道だった様だ。現在ではタンクは撤去され広場 (右下) になっている。この直ぐ東には元々東ヌ御嶽が置かれていた。
舗装道路を降りるとキャンプ端慶覧のフェンスに出る。キャンプないから石造りの水路が白比川方面に伸びている。水路沿いの道を通り白比川に向かう。
道を降りると広い河原になっている。工事をしている様だ。河原を進み国道58号線に向かったのだが、フェンスは施錠されていた。フェンスの隙間からなんとか国道に出ることが出来た。出口には工事では無く、遺跡発掘調査をしていると表示板が置かれていた。平日はここからは立ち入りができないのだろうが、今日は土曜日で工事は休みだったので、注意されることなく遺跡跡を見ることが出来た。
金満按司墓?
北谷グスクの北の崖面には無数の掘込墓 (フィンチャーバカ) が残っている。樹々の隙間から微かに幾つもの古墓が見える。また、崖の中腹にも洞窟が見られる。多分、これらも古墓なのだろう。この中に三山時代の城主だった金満按司の墓があった。資料には崖の中腹に縦6m横3mの洞窟入口とあるので、多分ここから見える洞窟の中に金満按司の墓があったのだろう。
この後、那覇に戻り、県立図書館で北谷町の情報集めを行う。
参考資料
- 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
- 北谷町の綱引き (2000 北谷町教育委員会)
- 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
- 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
- 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
- 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
- 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
- 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
- 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)