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マリア論オンライン講座

灰の水曜日 (教皇フランシスコ 2024年2月14日) [試訳]

2024.03.22 12:19

外的なことから、内的なことへの旅


***

隠れたところで…


施しをするときも、祈るときも、断食するときも、隠れたところで行いなさい。

あなたがたの父は隠れたことをご覧になるからである(マタイ6・6参照)。


隠れたところに入る。

これが、四旬節の歩みの初めに、イエスが私たち一人ひとりに向ける招きである。


***

隠れたところに入る―「心」に戻る

外側から内側への旅


隠れたところに入るとは、預言者ヨエルが警告しているように、

心に戻る(心をこめて立ち返る)ことを意味する(ヨエル2・12参照)。


しかし、今でも――主の言葉――

断食し、嘆き悲しみながら、

心をこめてわたしに立ち返れ(ヨエル2・12)。


それは外側から内側への旅である。


なぜなら、私たちが経験するすべてのこと、神との関係でさえも、

外面性、絵のない額縁、魂の上塗りに減少されるのではなく、

内側から生まれ、心の動き、すなわち、私たちの望み、思い、感情、

私たち自身の核心(nucleo sorgivo della nostra persona)に対応するものだからです。


***

洗いの水―化粧を取り除く


ゆえに、四旬節は、私たちを清めと、余計なものを取り除く(spoliazione)水洗い(bagno)の中に入れる。

私たちがあらゆる「化粧」、

つまり、適切で、より良く見せるためためにつけているものをすべて取り除くのを、助けようとしている。

心に立ち返るとは、真の自分に立ち返り、ありのままの裸の自分を神の前に差し出すことなのだ。


それは、自分自身の内面を見つめ、真の自分を自覚することを意味する。

私たちがしばしば被っている仮面を取り去り、走り回るペースを緩め、

人生と自分自身の真実を受け入れながら。


人生は演技ではない。

四旬節は、見せかけの舞台から降り、

心へ、自分自身の真実へと戻るよう私たちを招く。

心へ、真実へ戻ること。


***

私たち自身の、本質的な真実に戻る


私たちは塵、私たちの命は通り過ぎる風のよう

けれど、主は、私たちの命が消え去るのを望まない

主は、塵である私たちを集め、形作る。

人生の嵐によって知らされないように、死の淵の中に消え失せないように


だからこそ、今夜、祈りと謙遜の精神をもって、私たちは頭に灰を被る。

それは、私たちを自分自身の本質的な現実に引き戻そうとするジェスチャーである。


私たちは塵であり、私たちの命は息のようなものだ(詩篇39・6、144・4参照)。

しかし、主は――他の誰でもなく、主だけが――、それが消え去ることを許さない。

主は、塵である私たちを集め、形造ってくださる。

それが人生の激しい風に飛ばされず、死の淵の中に消えうせないように。


***

私たちの頭に置かれた灰は、人生(命)の秘密を再発見するよう私たちを招いている。

それは、私たちに言っている。

心を覆う鎧を身にまとい続ける限り、見かけの仮面で自分を偽り続ける限り、

無敵であることを誇示するために人工的な光を放ち続ける限り、

あなたは空虚で不毛なままなのだ、と。


そうではなく、頭を下げて内面を見つめる勇気を持つなら、

あなたを愛し、常にあなたを愛しておられる神の存在を見出すことができる。

自分のために築いた鎧がついに砕け散り、

永遠の愛で愛されている自分を感じることができるだろう。


***

姉妹、兄弟、私、あなた、私たち一人ひとりは、永遠の愛で愛されている。

私たちは、神がいのちの息を吹き込まれた灰であり、

神がご自分の手で形造られた土であり(創世記2・7、詩篇119・73参照)、

私たちのために永遠から用意されている、終わりのないいのちへと復活する塵である(イザヤ26・19参照)。


神である主は土の塵で人を形づくり、

命の息をその鼻に吹き入れられた。

そこで人は生きる者となった(創世記2・7)。


あなたの手がわたしを作り、

わたしを固く立ててくださいました(詩編119・73)。


あなたの死者が生き返り

わたしの亡骸が蘇りますように。

目覚めよ、喜べ、塵の中に住む者たちよ、

あなたの露が光の露のようであり、

大地が死者の霊を産み出すが故に(イザヤ26・19)。


そして、もし私たちが、灰である私たちの中で、神の愛の炎を燃やしているなら、

それなら、私たちはこの愛でこねられている(作られている:impastati)こと、

この愛に招かれていることを見出すだろう。

私たちの周りにいる兄弟姉妹を愛すること、他者に気を配ること、

いつくしみに生きること、憐れみを行使すること、

困っている人に、自分の存在と持っているものを分かち合うこと。


それゆえ、施し、祈り、断食は、外面的な実践に縮小され得ない。

そうではなく、私たちを心へと導く道、キリスト教的生活の本質へと導く道である。

それらは、私たちが神に愛されている灰であることを見出させ、

同じ愛を、多くの日常的な状況の「灰」の上に撒く(spargere)ことができるようにする。

それら(「灰」)の中に、希望と信頼と喜びが芽吹くように。


アオスタの聖アンセルモは、私たちに次のような勧告を残している。

今夜、私たちはそれを、私たちの勧告とすることができる。


「短い間、あなたの仕事(用事)から離れ、

あなたの騒々しい思いを少しの間、捨て去りなさい。

この時、深刻な心配事は忘れ、疲れさせる活動は脇に置きなさい。


神に少し近づき(専念し)、神のもとで休みなさい。

魂の深みに入り、神と、神を求める助けとなるもの以外のすべてを排除し、

扉を閉めて、神を探し求めなさい。


私の心よ、今、心を尽くして、神に言いなさい。

神よ、私はあなたの御顔を探し求めます。

主よ、あなたの御顔を求めます」。


***

主の声に耳を傾けよう:隠れたところに入りなさい


ゆえに、この四旬節、

疲れることなく繰り返してくださる主の声に耳を傾けよう。


隠れたところに入りなさい。

隠れたところに入りなさい、心に戻りなさい。


それは、しばしば表面的に生き、注目されることを気に病み、

常に賞賛され、評価されることを必要とする私たちにとって、有益な招きである。


自分でも気づかないうちに、私たちはもはや、立ち止まり、自分自身を守る隠れた場所がない状態にある。

最も親密な感情や感覚でさえも、すべてが「ソーシャル」にならざるを得ない世界に、どっぷりと浸かりながら。


最も悲劇的で苦痛に満ちた経験でさえ、秘密の場所を持たない危険がある。

すべてをさらけ出し、ひけらかし、その場のおしゃべりの種にしなければならない。


だからそこ、主は私たちに言う。

隠れたところに入りなさい、あなた自身の中心に戻りなさい。

まさにそこ、多くの恐れ、過ち、罪の意識があるところに、

主は降りて来てくださった。あなたを癒し、清めるために降りて来てくださった。


私たちの内的な部屋に入ろう。

そこに主が住んでおられ、

私たちの弱さは受け入れられ、私たちは無条件に愛される。


***

アドラチオの祈りに空間を空ける


兄弟姉妹の皆さん、立ち返ろう。

心を尽くして神のもとに立ち返ろう。


この四旬節の数週間、

主の現存に耳を傾けながら留まる、沈黙の礼拝(アドラチオ)の祈りに、空間を空けよう。

モーセのように、エリヤのように、マリアのように、イエスのように。


私たちは礼拝(アドラチオ)の感覚を失っていることに気づいているだろうか。

礼拝に立ち戻ろう。

沈黙のうちに私たちに語り掛ける方に、心の耳を傾けよう。


主が、わたし自身の美しさを明らかにしてくださるに任せる…


「私はあなたの神である。

憐れみといつくしみの神、赦しと愛の神、優しさと配慮の神である。[...]


自分自身を裁くな。自分を責めるな。自分を拒絶するな。

私の愛が、あなたの心の最も深く隠された奥深くに触れ、

あなた自身の美しさを明らかにするに任せなさい。

あなたが見失っていた美しさ。

しかし、私のいつくしみの光の中で再びあなたに見えるようになる美しさ」。


来なさい、来なさい、

私があなたの涙を拭うに任せなさい。

私の口があなたの耳に近づき、こう言うに任せなさい。

私は愛している、私は愛している、私は愛している、と」

(H. Nouwen, In cammino verso l’alba, Brescia 1997, 233)。


私たちは、主が私たちを愛していること、主が私を愛していることを信じているだろうか?


***

兄弟姉妹の皆さん、

世俗的な覆いを剥ぎ取り、心に戻り、本質的なものに戻ることを恐れないでください。

聖フランシスコを思い起こそう。

彼は、自分を裸にした後、全身全霊で、天におられる御父を抱擁した。


私たちがなんであるかを思い起こそう。

私たちは、神に愛された塵であり、

神を愛する塵となるよう招かれている塵である。


神のおかげで、私たちは罪の灰から、

イエス・キリストと聖霊のうちに、新しいいのちに生まれ変わる。