己の職分を知らぬ国会議員 <追記>
社民党副党首の大椿裕子参院議員が「日本国籍の人のためだけに政治があると思っているところが間違いです」と述べたそうだ。
「学がない連中はこのポストが正しいことなのが理解できないですよ」と賛同する意見(日本語が不得手のようだ。)もあるそうだ。
大椿氏の賛同者によれば、大椿氏の意見の正しさを理解できない私は学がないそうなので、私の代わりに、文部省の『あたらしい憲法のはなし』の一部を引用して大椿氏への批判としよう。
「民主主義は、國民が、みんなでみんなのために國を治めてゆくことです。しかし、國民の数はたいへん多いのですから、だれかが、國民ぜんたいに代わって國の仕事をするよりほかはありません。この國民に代わるものが「國会」です。」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html
なお、この点に関連して思い出されるのが、1863年にリンカーン大統領がゲティスバーグ国立戦没者墓地で行った演説の有名な一節だ。
It is for us, the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us … that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion; that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain; that this nation, under God, shall have a new birth of freedom; and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.(下線:久保)
「ここで戦った人々が、これまでかくも立派にすすめて来た未完の事業に、ここで身を捧げるべきは、むしろ生きているわれわれ自身であります。われわれの前に残されている大事業に、ここで身を捧げるべきは、むしろわれわれ自身でありますーそれは、これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽くして身命を捧げた、偉大な主義に対して、彼らの後をうけ継いで、われわれが一層の献身を決意するため、これら戦死者の死をむだに終わらしめないように、われらがここで堅く決心をするため、またこの国家をして、神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため、そして人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させないため、であります。」(高木・斉藤訳『リンカーン演説集』岩波文庫、149頁。下線:久保)
ご存知のように、government of the people, by the people, for the peopleの「of」をどう訳すべきかという有名な論点がある。
訳者解説(179頁)が述べているように、「(目的格である)人民の上に行われる政治」と訳すべきか、それとも「(主体である)人民の行う政治」と訳すべきかという問題だ。
岩波文庫の訳者は、「人民の行う政治」と解して、「人民の、人民による、人民のための、政治」と訳しているわけだ。
しかし、これでは「人民の行う政治」と「人民による政治」が重複してしまう。
文法上、前置詞「of」の後ろに、修飾されるものの「目的語」がくるという用法があるし、また、訳者解説(179頁)が述べているように、リンカーンが愛読したシオドア・パーカーの句に“Democracy is self-government,over all the people,for all the people,by the people”とあることや、リンカーンの手になる「戦争教書」には“…whether a constitutional republic or democracy ーa government of the people by the same peopleーcan or cannot maintain …integrity…”とあることから、この演説の「of」の使い方は目的格であると考えて、「人民の上に行われる政治」と解すべきだろう。
とすれば、荒このみ編『史料で読むアメリカ文化史2 独立から南北戦争まで 一七七〇 年代―一八五〇年代』(東京大学出版会、101頁〜102 頁)の「人民を、人民によって、人民のために統治すること」という訳の方が良いと思う。
しかし、the peopleを「人民」と訳すのは妥当でない。※1
ルソーやシェイエスの人民(peupleプープル)主権論の悪影響恐るべし。
the peopleの「the」は、一般的な「人々」・「民衆」を指すのではなく、特定のグループに所属する「人々」・「民衆」を意味する。
リンカーン大統領は、アメリカ合衆国の「国民」に向かって演説しているのだから、the peopleは、ここではアメリカ合衆国の「国民」を指すことになる。※2
そして、governmentは、通常、政府と訳されるが、<国、国民を>統治する、治めるという動詞governが名詞化されたものだから、「統治すること」、「治めること」という意味になる。
とすれば、「国民のために、国民が、国民を治めること」、又は原文の語順とは異なるが、「国民が、国民のために、国民を治めること」の方が日本語訳としてはこなれているので、ベターかな?、と学がない私は思う。※3
※1人民
people「人民」は、nation「国民」と似て非なるものだ。「国民」から支配者層を除いた被支配者層を「人民」と呼ぶ。
フランス革命は、人民主権の名の下に、ルイ十六世などの支配者層をギロチンにかけて大量虐殺した。同様に、ロシア革命も、王侯貴族や資本家を大量虐殺した。「人民」は、テロリズム(英語terrorism)・テロル(ドイツ語terror)の主体であって、人民主権は、テロリストによる恐怖政治を正当化する根拠なのだ(これに言及しない憲法学者は、信用に値しない。)。そのため、テロリストは、好んで「◯◯人民解放戦線」というような「人民」を冠した組織名や国名を名乗るのだ。
それ故、良識ある人々は、この血塗られた「人民」という言葉を嫌悪し、決して使わない。
イギリスから独立したアメリカ合衆国には、支配者層がいなくなったことから、そもそも「人民」という概念が成り立たなくなったと言っても過言ではない。そのため、アメリカ合衆国憲法には、people「人民」は用いられておらず、憲法前文にWe the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.(われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。)とあるように、the People「国民」を用いている。人権保障を定めた修正条項も同様であって、people「人民」ではなく、the people「国民」を用いている。
なお、アメリカ合衆国憲法がnation「国民」を用いずにthe people「国民」を用いているのは、アメリカ合衆国が様々な国からの移民によって成立した多民族国家であるため、歴史や文化を共有する「民族」(単一民族)を意味するnationを「国民」の意味で使いづらかったからだと考える。
余談だが、アメリカから君主がいなくなったので、アメリカ合衆国においては、君主主権か国民主権かという議論自体が意味をなさなくなったため、アメリカ合衆国憲法には「国民主権」が明記されていない。
ところが、我が国の左翼学者は、厚顔無恥にもgovernment of the people, by the people, for the peopleの「the people」を「国民」と訳さずに、「人民」と訳して憚(はばか)らない。彼らの頭の中では、国家を前提とした「国民」は、支配者層とともに抹殺されるべきものであって、「人民」ないし「世界市民」が理想だからだ。他にも例えば、岩波文庫の『人権宣言集』の「合衆国憲法修正一〇ヶ条(一七九一年)」(120頁〜122頁)も、the peopleを「国民」と訳さずに、「人民」と訳している。
翻訳は解釈を避けて通れないとはいえ、己のイデオロギーによって翻訳を歪めることは、学者として不誠実であり、許されるべきことではない。
しかも、教育現場で、今や人民主権論のスローガンと化した「人民の、人民による、人民のための、政治」を教えて、無垢(むく)な子供たちに狂った人民主権論を刷り込み、来るべきプロレタリア革命の尖兵たるテロリストに育成しようとする悪質かつ陰湿な手口には、怒りを禁じ得ない。
なお、通常、英米人は、共産主義・社会主義における「人民」を「people's」と表記して、「国民」を表す「the people」と区別している。例えば、中華人民共和国の英語表記は、People's Republic of Chinaだ。
老婆心ながら、「諸国民」と呼ぶ場合には、「the peoples」又は「nations」と複数形で表記すべきであって、くれぐれも「people's」と表記してはならない。
※2アメリカ合衆国の「国民」
“the term ‘national of the United States’ means (A) a citizen of the United States, or (B) a person who, though not a citizen of the United States, owes permanent allegiance to the United States.”
「『アメリカ合衆国の国民』という用語」は、(A)アメリカ合衆国の市民権を有しているか、(B)アメリカ合衆国の市民権は有していないが、アメリカ合衆国に対して”permanent allegiance” (永久的な忠誠義務)を負っている人を意味する。
Non-citizen nationality status refers only individuals who were born either in American Samoa or on Swains Island to parents who are not citizens of the United States.
(B)のアメリカ合衆国の市民権を有していないが、アメリカ合衆国の国民である人というのは、アメリカ領サモアまたはスウェインズ島のいずれかで、アメリカ合衆国の市民権を有しない両親のもとに生まれた個人のみを指す。
※3治者と被治者の自同性
清宮四郎『憲法Ⅰ』(有斐閣)57頁より一部引用する。
「民主制(democracy)か、専主制(autocracy)かは、国家の統治形体を決定するにあたって、もっとも根本的な原理となる。民主制とは、法律、命令、裁判判決、行政処分など、いろいろな形式であらわれる国家の統治意志と、それらによって統治される国民各自の意志とを一致せしめ、統治する者と統治される者との間に自同性(identity)の関係を持たせようとする原理、いいかえれば、国民の政治的自治または自律を認める原理をいう。これに対して、専主制とは、統治される者が統治する者の側に立つことを認めないで、治者と被治者との間に超越的な関係をもたせようとする原理、いいかえれば、もっぱら他律主義による統治原理をいう。絶対制(absolutism)または独裁制(dictatorship)という言葉も、ここにいう専主制と同義に使われることもある。」(下線:久保)
「国民のために、国民が、国民を治めること」というリンカーン大統領の言葉は、まさに治者と被治者の自同性(identity「同一性」と訳した方が分かりやすい。)を確保するという民主制(democracy)の本質を言い表しているわけだ。
ひょっとしたら大椿氏は、在留外国人も被治者なのだから、治者と被治者の自同性を確保するために、在留外国人にも参政権を認めるべきだし、在留外国人のためにも政治が行われるべきだと考えているのかも知れない。
しかし、政治には責任が伴う。「国民のために、国民が、国民を治める」ことによって生じた結果については、それが良い結果であろうと悪い結果であろうと、最終的に国民自らが責任を負わねばならない。これが国民の政治的自治または自律であって、民主制における国民の自己責任なのだ。
在留外国人は、いざ有事となれば母国に逃げ帰ることができるし、そもそも日本国の政治が気に入らなければ帰国すればよいし、日本国の政治の結果に対してなんら責任を負わない無責任な立場だから、そもそも治者と被治者の自同性を確保することができないし、確保する必要もない。在留外国人は、日本国という運命共同体の一員ではないのだ。したがって、在留外国人には参政権が認められないし、また、政治は、あくまでも国民のために行われなければならないのだ。これが世界の民主国家の常識だ。
このように国会は、国民のために政治を行わなければならないので、国民のために必要な限りにおいて在留外国人の利益を考慮に入れることがあり得るとしても、決して在留外国人のために政治を行ってはならない。
もし国会議員が在留外国人のために政治を行えば、それは、国政を信託した日本国民に対する背信・裏切りであって、国賊、売国奴との誹(そし)りを免れない。