「見捨てられたキリスト」
マタイの福音書 27章 45-56節
45. さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
46. 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47. そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」
48. そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。49. ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。
50. しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。
51. すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、
52. 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。
53. 彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。
54. 百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」
55. また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。
56. その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。
受難週礼拝メッセージ
2024年3月24日
マタイの福音書 27章 45-56節
「見捨てられたキリスト」
先週日曜日、礼拝後のお茶会である方が「私は兄弟が多かった。だから親から好かれたいと一生懸命だった。良い子であろうと努めて来た」と、お話しされていたことが心に留まりました。子どもにとって、親は一対一できちんと向き合ってほしい存在です。「お父さん、私の話をちゃんと聞いてよね。お母さん、私だけを見ていてね」と願うものです。3人兄弟であっても、ぴったり三分の一に取り分けられたケーキが平等ではなくて、自分だけ少し大きめで得していることが、その子にとっては「平等だ」と満足することがあります。3分の1の愛情ではなくて、100%・120%を求めるものです。
しかし、不完全な人間同士で築く親子関係は、ときにうまくいかず、失敗や反発や対立を生んでしまいます。大切な子どもの心に傷を負わせてしまうこともあり、また親を深く悲しませることもあります。そして人間の親子関係は、子どもの成長段階に応じて、子離れ・親離れをしていかなければならないでしょう。
さらに悲しいことですが、親に見捨てられてしまう子どもや、逆に子どもに見放されてしまう親もいるでしょう。関係が断絶してしまう親子もあるでしょう。
それに対して、いつも完全な善いお方であられる父なる神様と御子イエス様は、何があっても切れることのない完全な愛と調和で永遠につながっておられます。父なる神様はイエス様に「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)と語りかけ、イエス様も「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ 10:30)と言われます。信頼し合い、思い合い、愛のきずなでつながれている父なる神様と御子イエス様です。「無視され見放される。見捨てられ罰せられる。恐ろしい怒りの矛先が自分に向けられる」そんなこと絶対に起こりえないように思えた父と子のきずなが、あのゴルゴタの丘の上で、ひきちぎられてしまったように思われました。
朝9時に十字架にはりつけにされ、6時間、苦しみ・痛み・悲しみに耐えてくださった主イエス・キリストは、午後3時ごろ、死を前にして大声で叫ばれました。
「エリ、 エリ、 レマ、 サバクタニ。」
我が神 我が神 なぜ(どうして) あなたは私を見捨てたのですか!?
3時間前、昼の12時から辺りは真っ暗闇でした。45節「さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。」 特別な気象現象だったと思います。
暗闇、暗黒・・・それは十字架にかけられたイエス様の状況を表していました。天から光が全く届かない。助かる可能性ゼロの絶望的状況でした。ひとり子イエス様は、永遠にともにおられるはずの天の父をはるか遠くにしか感じられなくなり、父の愛が全く見えなくなりました。恐ろしい天涯孤独な状況でした。
それは、私たちの全ての罪を代わりに背負い、罪の全くない聖いお方が、全世界・全人類の罪そのものとして、父なる神から罰せられている恐ろしさでした。
本来は、私が受けなければならない全てのさばき・刑罰を、イエス様が代わりに引き受けて、打たれてくださったのです。私の身代わりに、父なる神様から呪われた者とされ、痛めつけられたイエス様が、実体験された極限の暗闇・極限の絶望でした。
私たちの日々、自由に身動きができ、やりたいことができる数時間は、あっという間に感じます。しかし、肉体的・精神的に拘束されている数時間、まったく身動きが許されない数時間は、本当に長く長く感じます
十字架上にはりつけにされ、完全に拘束されたイエス様は、そこで父なる神の怒りを一身に引き受けてくださり、耐え忍ばれたのです。天の父から見捨てられ、見放されたのです
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
イエス様は、ご自分が選ばれた弟子たちに見捨てられました。裏切られ、逃げられました(マタイ26:56)。また十字架の周りに集まった多くの見物人・また指導者たちからバカにされました。27章39-43節、
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
人間の裏切りや誹謗中傷に対しては、イエス様は嘆いたり、言い返したり、怒ったりせずに、沈黙を保たれました。けれども、天の父から見放される、罰せられることだけは耐えられなかったのです。永遠に一体である父と子の関係が断絶しようとしていたのです。
この時、イエス様が発した「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、先ほど交読しました旧約聖書・詩篇22篇の冒頭のみことばでした。極限状況に置かれたイエス様が叫ばれた言葉は、子どもの頃から暗唱し、いつも心に留めておられた詩篇のみことばだったのです。
十字架上でイエス様は、父なる神様が遠くに離れてしまったように感じました。父なる神様が、自分のうめき声に耳を傾けてくれない。完全に無視されているように感じました。これまで一度も体験したことのない悲しみ、絶望をイエス様は味わわれたのです。孤独、恐れ、不安、その全てを一身に引き受けてくださったイエス様の極限の苦しみが、詩篇22篇に預言されていたのです。
しかし主の死は、見捨てられ見放された御子の敗北の死ではありませんでした。イエス様処刑の本当の意味を知らない人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」(47節)、「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」(49節)と口にしました。これはイエス様が、彼らが思い描いていたような「メシヤ」として最後の最後、大どんでん返しを見せてくれるのではないか!という期待でした。エリヤのようなスーパースターが突然現れ、イエス様を十字架から助け出し、立て直されたイエス様軍団が敵を一網打尽にやっつけるのではないかと。
それは旧約聖書の最終ページで、預言書マラキによって、こう告げられていたからです。マラキ書4章5,6節、 見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」
イエス様が十字架で死んでしまうことは、そこにいた人たちには「敗北」としか思えませんでした。無残な犬死だと。だからエリヤの登場とイエス様の延命、そこからサヨナラ大逆転満塁ホームランを期待してしまったのです。
しかし、イエス様はマラキが預言した「メシヤ到来前に遣わされるエリヤ」とは、あのバプテスマのヨハネのことなのだ。もうエリヤは来ていたんだと、解き明かされました(マタイ11:7-14、17:10-13)。
イエス・キリストの十字架の死は、負け犬の死ではなく、神様が計画された私たち人間の救うための勝利の死でした。御子の完全なる犠牲により、私たちが赦され、永遠に生かされる救いが完成したのです。ですから、イエス様の十字架と復活は、歴史の一大転換点でした。この日、歴史が変わったのです。
1. 歴史の大転換:大胆に、安心して、神様に近づけるようになった!
恐ろしくて畏れ多くて、決して近付くことなどできないと考えていた神様に対して、我々人間が近づいて良かったんだという事実が示されました。それもユダヤ人だけでなく、世界中の人が神の前に進み行くことが出来るようになったのです。
神様自ら隔ての壁を、人間と神様を隔てていた仕切りの幕を上から裂いてくださいました。51節、すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
神殿の奥の幕、神様の臨在の場所、至聖所と聖所を仕切る幕でした。「この先は、入っちゃいけない!見ちゃいけない」と仕切られていた幕を、父なる神様は上から裂いてくださいました。十字架の御子の死により、救いの道が開かれたのです。ヘブル人への手紙10章19,20節、
こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
イエス様が十字架で救いを完成してくださるまで、人は神様に近づくために神殿で大きな犠牲を支払い続けていかなければなりませんでした。不完全で罪深くて、けがれた者なので、大切な家畜を身代わりにほふり、血を流して、神様の憐れみ・赦しを求めなければなりませんでした。しかし、聖なる神の子羊が歴史上一度だけの完璧な犠牲となってくださったので、もう私たちは自らの犠牲や努力によってではなく、ただただ神様の恵み・憐れみに信頼して「アバ父よ、神様、イエス様」と大胆に、安心して神様のみもとに進んで行けるのです。
2. 歴史の大転換:復活・永遠のいのちの確かな希望を持つことができる!
私たちは肉体の死を乗り越えることが出来るようになりました。全く新しい世界、全く新しいいのちが与えられるという確信が与えられたのです。27章52、53節、
「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らは イエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。」
イエス様の十字架と復活に合わせて、父なる神様は驚くべき奇跡:聖徒たちの復活を見せてくださいました。このことは、私たちにとって本当に大きな希望です。確かな希望です。肉体の死後、復活が待っていること。地上の墓から私たちは、よみがえられた主イエス様とともに、聖なる都:天国へ確実に引き上げて頂くのです。
3. 歴史の大転換:「イエスこそ我が主」、「イエスこそ我が神」、「イエスこそ我が救い主」という信仰告白が生まれた
私の罪の身代わりに死んでくださり、よみがえってくださったイエス様こそ「私の主」です。 27章54節 百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」
私たちもイエス様の十字架の下で、自らの罪を告白し、「主よ憐れんでください、主よ赦してください」と告白し、信じて、赦されて立ち上がっていくのです。
空っぽになった主の墓を見て、そこから立ち上がって、よみがえりの確かな希望を頂くのです。生き生きと喜びをもって生きる新しいいのちに生かされていくのです。
主の十字架と復活は歴史上の一大転換点であり、一大分岐点でした。その場にいて、目撃したのは、後に「こんなすごいことがあった」と報告したのは、イエス様に付き従っていた女性たちでした。27章55、56節、また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。
今では想像もできないほど、低く見られていた当時の女性たちです。裁判所で証言できるのは男性のみという世界でした。それなのに神様は当時、見下されていた女性たちを引き上げてくださって、彼女たちの内にある純粋なイエス様への愛や信仰を喜んでくださったのです。男性の弟子たちほとんが、イエス様を見捨てて逃げてしまった中で、女性たちをキリストの死と復活の目撃証言者としてくださったのです。主の勝利を一番近くで体験させて頂きました。
2024年の受難週を進んで行く私たちです。イエス様の十字架の死は、私たちを赦し、救い、生かすための完全勝利の死であったこと。そして勝利の復活につながる死であったことを覚えましょう。十字架の勝利の死を通して、私たちは赦して頂いて、今日も大胆に安心して、神様に近づくことができるのです。復活の確かな保証、新しいいのちが与えられています。この主を「私の主、私の救い主、私の神」と信じて、慕い求めて歩むことが出来るのです。なんという幸いでしょうか。
祈りましょう。