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Okinawa 沖縄 #2 Day 262 (23/03/24) 旧北谷間切 北谷町 (03) 字吉原 (謝苅屋取・崎門屋取)、字桃原 (桃原屋取)

2024.03.31 02:20

字吉原 謝苅屋取 (ジャーガル)

字吉原 崎門屋取 (サチジョー)

字桃原 桃原屋取 (トーバル)


3月18日に一部を巡った字吉原 (旧謝苅) の続きを今日3月23日に行った。この日は、思いがけず地元の人との出会いがあり、ゆんたくをさせてもらった。結局、この日には予定していたスポットは全ては見れず、3月30日に再度訪問した。その三日間のレポート。



字吉原 謝苅屋取 (ジャーガル)

白比川の北側の斜面が現在の字吉原になっている。北谷町内で最も険しい地形に立地している。

字吉原は1949年 (昭和24年) にそれまで字謝苅に東桃原の一部を吸収して誕生。戦前の字謝苅は1940年 (昭和15年) に字伝道から謝苅屋取集落、崎門屋取集落 (西桃原屋取集落) が分離し独立行政区となった地域になる。

戦前の謝苅集落は戸数49軒で、そのうちカーラヤー (瓦屋) は9軒で、集落は血縁集団で謝苅坂 (ジャーガルビラ) を境に東 (アガリ)、西 (イリ)、中 (ナカ) の3つの組に分かれていた。主業は農業で、芋やサトウキビを作られ、東組と西組にそれぞれ砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。日用雑貨を扱うマチヤが2軒、易者が1軒あったそうだ。

集落内には個人井戸が7か所あったが、ニーブガー (浅い井戸、ニーブ=杓) が多く、旱魃には涸れていたので、共同井戸のイーヌカーとトーヤマヌカーを利用す ることが多かったという。また、集落内には2ヶ所に共同の水タンクが造られ、水道ができるまで利用されていた。水タンクは1979~80年 (昭和54~55年) 頃にとり壊されている。

戦前までは謝苅屋取集落は小さな集落だった。戦後は北谷町全域が米軍に接収されたが、米軍は平地はほぼ全土を米軍基地に変えたが、山間部の謝苅地域は軍基地に適していなかった事で、いち早く帰還居住許可地域となり、この地には謝苅屋取の人たちの帰還だけでなく、帰る場所を失った北谷町の多くの人々が移り住んでいた。その後も長期に渡って米軍基地が返還されることはなく、この地域には次第に人口が増加している。

戦後は唯一居住区として開放されたこの謝苅と桃原地区が北谷町の中心地となり、殆どの公共施設が置かれていた。

下の地図は北谷町内の米軍基地の変遷を表しているが、かなり長い期間、ほぼ全土が米軍基地となり、居住地となっていたのはこの字吉原が中心となっていた。


謝苅集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: 謝苅毛小ビジュル
  • 井泉: トーヤマガー、上ヌ井 (ウィーヌカー  又は東ヌ井)


謝苅屋取集落で行なわれていた主な年中行事

  • ニングワチャー (旧暦2月): アガリ・ナカ・イリの3つの組に分かれて行なっていた。
  • エイサー (旧暦7月): エイサーではまずはビジュルを拝に行われていた。


池グスク、北谷トンネル

国道58号線を北に白比川を渡った所、白比川を挟む形で東西に延びる標高17メートル前後の丘陵には三山時代には池グスクがあった場所と伝わっている。丘陵両側は崖をなし、自然の要害をなしていた北谷城の出城だったという。北谷城と同様に薩摩侵攻の慶長の役には攻防が行われたとも伝わっている。

大川按司の墓もこの丘陵崖下にあったが、移設 (北谷町字吉原東宇地原1006番地) されている。

県道 (国道58号線) が開通するのに伴い、1905年 (明治38年) に丘陵内部をくり抜き北谷トンネルが掘られた。長さは約18メートルで、広さは馬車が1台通れるほどのトンネルだった。沖縄戦で、日本軍により、軍資物移動の妨げになるとの理由で破壊され、現在では宅地造成で丘陵が削られ、その痕跡は留めていない。トンネルができる以前は海側に丘陵部を迂回する坂道があったそうだ。


白比川 (北谷川)、新川 (あらかわ、シリンカー)、タマタ

字吉原の南の境界線はちょうど白比川 (シラヒージャー) になる。白比川 (シラヒージャー) の北側が池グスクがあった丘陵地で険しい崖になっている。

白比川 (シラヒージャー) に沿って東に進むと、白比川には大村橋 (写真上) が架かっている。その直ぐ北側にももう一つ橋がある。玉上橋 (タマガミバシ 写真中) で、この橋は新川 (アラカワガーラ、あらかわ) に架かっており、新川が白比川合流する場所になる。この合流地点はタマタ (写真下) と呼ばれていた。

新川沿いを北に向かって登って行くと、新川橋がある。この橋が架かっている道は南には字玉上の仲山屋取集落へ通じ、北へは謝苅屋取集落へ通じている。


謝苅区公民館

新川橋の道を北に進んだ所に謝苅区公民館がある。この周辺がかつての謝苅屋取集落があった場所になる。戦前までは50戸程の小さな集落だった。ここで地元のおじいと立ち話をした。昔は辺鄙なところで、自動車道もなく、北谷中心地に行くのも大変だったという。山の中の集落だったので、米軍基地にならず、戦後間もなく帰還が許されて、多くの人が移り住んできた。昔と比べ全く様変わりしてしまったと苦笑していた。


北玉小学校

謝苅公民館の西側に北玉小学校がある。小学校は戦前までは字北谷にあったが、戦後はキャンプ端慶覧に土地が接収され、この謝苅に移転してきている。

北玉小学校がこの地に移転してきた当時の写真があった。写真左はまだ木造の教室の前に生徒達が集まっている。向こうには米軍に接収されたアカギヤマに米軍施設が見える。


ここまでは3月18日に訪れ、残りを今日3月23日に再訪して見て行く。


北玉区公民館

北玉小学校の南に北玉区公民館がある。ここから直ぐの場所に先日訪れた謝苅区公民館がある。

同じ地区に二つも公民館があるので変だなと思ったのだが、先に訪れた謝苅区公民館はかつての字謝苅の公民館ではなく、現在の謝苅区の公民館だった。これは沖縄の行政区割による。北谷町には二つの行政区割があり、字単位のものと区単位のものがある。字単位の区割は昔からの集落ベースのもので、区単位のものは新しく作られた行政区になる。北谷町は地域の大部分が米軍基地に接収され、現在でも半分は未返還のままで、殆どの集落は元の集落に戻れていない。集落住民も異なった地域で生活をしており、昔からの集落単位での行政区での運営には無理がある。返還された地域が少しずつ増えて行くにあたり、都市計画も見直され、地域の人口も変わり、公営施設の場所も変化している。昔の集落ベースの字での運営よりは、それに縛られない運営形態が必要だったのだろう。その結果、この字吉原には六つの区地域と重なっている。字吉原内にはその六つの区の内の五つの区公民館がある。沖縄特有の門中を中心とした集落の繋がりは郷友会を組織し、拝所の管理や祭祀行事など伝統文化の継承に努めている。ただ、昔を知る人が少なくなり郷友会の維持も次第に難しくなってきている。

北谷町のサイトに行政区の変遷の紹介があった。戦後7回も見直しが行われている。謝苅は1972年の行政区では謝苅1区に属していたが、1985年の行政区変更時では、最初は桃原区の中に吸収される計画だったが住民の反対で、桃原区、謝苅区、栄口区の三つの区割になり、現在に至っている。

北玉区公民館の東の崖の斜面に古い民家が密集している。ここは戦後、帰郷が接収された人達が住み始めた場所だそうだ。当時の写真が残っていた。


北玉公民館でご婦人二人に声をかけられた。何か探しているのかと気遣ってくれたのだが、年配のご婦人の宮城さんは地元の方なので、謝苅や玉上など北谷町について話をしていただいた。丁度お昼だったので、昼食を誘われ、ご一緒する事にした。自動車で丘陵を登って行き桑江のBulan Baruというレストランでランチをし、色々な話しをした。沖縄でいう「ゆんたく」だった。北谷城城主だった大川按司の話しをしていると、このレストランに働いている大城さんがその末裔だった。祖先の位牌や沖縄独特の珍しい供物などの写真を見せてくれたりして、更に話しが盛り上がった。気がつくと既に4時半になっていた。楽しいひとときが過ごせた。この様に声をかけてくれた事に感謝だ。レストランには須永博士の色紙が飾られていた。須永博士は旅の詩人で日本中を旅をして、そこで出会う人や自然、出来事を感じたままに詩にあらわす。人から感動を受け、そして人に感動を与える。この地にも須永さんが来たのだ。自分も日本全土を旅していたときに、同じ様な経験を幾つものした。今日もその一つだった。


この後、日没まで謝苅集落をめぐる事にした。


旧北谷役場跡

北玉小学校の北西に北玉児童館が置かれている。戦後、ここは北谷町役場があった場所になる。

戦前までは字北谷に北谷間切番所跡に北谷村役場 (北谷損役場小) が置かれていたが、戦後は米軍基地として接収され、役場は何度も移転している。

  • 1945年 (昭和20年) に疎開地に指定された羽地村へ役場分所を設置。
  • 1946年 (昭和21年) に越来村嘉間良に北谷村仮役所を設置。
  • 帰還許可がおりた後には上勢頭の大毛にあった先遣隊事務所を設置し、1947年 (昭和22年) 2月にこの先遣隊事務所に仮役所を移転している。同時に、桃原一区 (吉原520番地) に木造トタン葺庁が建設。
  • 1950年 (昭和25年) 4月に謝苅一区 (崎門屋取集落、平和の塔が置かれている辺り) に木造瓦葺庁舎を建設し移転。
  • 1961年 (昭和36年) に、吉原10番地のこの場所に新たに北谷村役場を建設し移転。
  • 1998年 (平成10年) に桑江226番地に現在の北谷町役場を建設し移転。


トーヤマ井

北玉児童館の入り口にはトーヤマ井 (ガー) の碑が置かれている。石碑には水神と刻まれ拝所になっている。謝苅集落に二つあった共同井戸の一つで、チンガー (つるべ井戸) で2~3m以上の深さがあったが、旱魃の際には涸れていたそうだ。現在は埋められてしまったが、拝所となっている。


謝苅道 (ジャーガルミチ)

北玉児童館の西側の道が謝苅道 (ジャーガルミチ) で現在の県道24号線になっている。県道24号線は国道58号線から沖縄市山里までの4.3kmの自動車道路で1953年 (昭和28年) に越来村 (現沖縄市) 胡屋十字路 - 石川市東恩納 (現うるま市石川東恩納) を軍道24号線、北谷村謝苅 (現北谷町吉原) - 越来村 (現沖縄市) 島袋を琉球政府道24号線として指定され、1972年 (昭和47年) の本土復帰と同時に政府道区間の北谷村吉原 - コザ市島袋と軍道区間のうち美里村コザ十字路 - 石川市東恩納の区間を県道24号線となっている。地元では現在の宇地原区公民館あたりから桃原までを謝苅道と呼んでいた。今は舗装された自動車道だが、かつては道幅は約3mの馬車が一台通るぐらいの幅だったそうだ。


謝苅三叉路、ナポリ座

北玉児童館から下り部分の謝苅道の途中に急カーブの謝苅三叉路 (写真上) がある。この謝苅道は曲がりくねった道になっている。謝苅三叉路から側道に入ると、1953年頃に開館したナポリ座があった場所があり、この映画館は1965年頃まで営業していた。現在は空き地 (写真下) になっている。他の地域と同じようにこの北谷でも沖縄戦後の復興には劇場や映画館が大きな役割を果たしていた。1950年代に沖縄各地で劇場や映画館が次々と造られ、戦後荒廃した沖縄で生活再建をする人達の楽しみだった。1960年代にはほとんどが姿を消してしまうのだが、沖縄戦後史の重要な一部だった。

映画館があった辺りのナポリ座前では、謝苅エイサーが披露されていた。現在でも謝苅エイサーは毎年8月28日のウンケーから8月30日ウークイまでの3日間に行われている。この辺りは最終日のウークイに道ジュネー (練り行列) が謝苅公民館を出発、北玉小学校グラウンドから長老酒造に向かい、そこの急な坂道を下り、北玉小学校正門前を通り、謝名三叉路、ナポリ座跡までのルートで行われている。

戦後、ナポリ座があった場所の西側の谷間には米軍のゴミ捨て場 (写真上) が置かれていた。その西側は平い丘陵地で特飲街 (写真下) になっていた。


謝苅劇場跡

謝苅三叉路の東側も谷間になっている。人が一人通れる路地が何本もあり、その両脇にはぎっしりと古い家屋が建っている。戦後、この地に移住してきた人が無秩序に家を建てて住み始めた地域だろう。

この場所にも露天の太平劇場と呼ばれた劇場があった。1952年に有蓋の謝苅劇場として改築・改称し、1965年頃まで琉映貿系の映画館として運営していた。この一帯に特飲街、映画館、銭湯、マチヤがあったので、戦後街の中心地になっていたのだろう。


北宝館跡 (謝苅琉映館)

戦後、北宝小学校の西側にも北宝館と呼ばれた映画館が営業していた。1952年に開業し、邦画の琉映貿系と洋画のオリオン系の映画を上映していた。その後、琉映貿系の映画館となり、1959年に謝苅琉映館に改称している。


長老酒造、トゥラジミチ

北玉小学校の正門から北にかなり急な登坂が伸びている。先に述べたウンケーのエイサー道ジュネーのルートになっている。この坂の途中には長老酒造がある。先日訪れた字玉代勢の樹昌院の長老に因んで名が付けられたそうだ。この坂道はトゥラジミチと呼ばれ、

生活道や学校道で崎門や桃原からはこの道を通って小学校に通っていたそうだ。今は舗装されているのだが、以前は石畳道だった。トゥラジミチはトゥラジと呼ばれた場所を通っており、この場所には崎門屋取や桃原屋取の人たちの墓があった。


機関銃基地跡

トゥラジミチの東側の山には沖縄戦では日本軍の機関銃基地が置かれていたそうだ。


沖縄戦避難壕、通信部隊基地跡

戦時中には防空壕も多く作られ、トゥラジから現在のうぐいす谷墓地公園の近くまで、多くの壕が現存しているそうだ。 また、うぐいす谷墓地公園の北側の丘陵地の上には沖縄戦では日本軍通信部隊が駐留していたという。


上ヌ井 (ウィーヌカー)

北玉児童館の上方の斜面に謝苅集落のもう一つの共同井戸の上ヌ井 (ウィーヌカー) がある。東ヌ井 (アガリヌカー) とも呼ばれている。個人井戸があるのは数軒だけだったので、集落のほとんどの人たちがこのウィーヌカーを利用していた。チンガー (釣瓶井戸) で 深さは1mぐらいだった。現在でも拝井として井御願 (カーウガミ) が行われている。


謝苅毛小ビジュル

謝苅道の西側の崖の上は謝苅毛 (ジャーガルモー) と呼ばれる広場がある。アザモー、マーチューモーとも呼ばれていた。

この広場 (謝苅毛小 ジャーガルモーグヮ) には山里からウンチケー (移設) してきた3体のビジュルが祠の中に祀られている。旧暦2月2日、旧暦8月15日、旧暦11月15日に拝まれている。ここからは北谷港が一望でき、フナウクイ (船旅の見送り) の場所でもあり、昔は太鼓をたたきながら見送っていたそうだ。

広場の片隅には幾つもの力石が置かれている。沖縄ではチチイシとかサシイシ (差し石) と呼ばれているのが一般的だが、北谷ではマーイーサー (真石) と呼ばれている。別の地域ではカタミイシ、マーイシ (真石) ともいう。ここにあるマーイーサーは元々は児童館の少し下方のマーイーサーモー (真石毛、セーネンモーともいう) に置かれ、夜になると若者が集 まって、力比べをして遊んでいたそうだ。また、マーイーサーモーでは沖縄相撲や、エイサーの練習を行なう場所だったそうだ。


謝苅坂 (ジャーガルビラ)

北玉児童館から謝苅道の県道24号線を登っていくと、謝苅道の一部だった狭い道幅の登坂の謝苅坂 (ジャーガルビラ) に分岐している。かなり急な勾配の坂道で、かつては石畳道だった。謝苅坂にはイニンビー (人玉) が喜友名のアヒラービラグワーから来て、ヤカビヌヒラを上り、この坂に来ると言われていた。米軍上陸前には、日本軍がこの道に地雷を埋めて誰も通さないようにしていたと言う。


謝苅公園、ワイトゥイ跡

謝苅坂はかなり急な坂で自動車は通れない。謝苅道を県道24号線に整備した際には謝苅坂を通らず現在の謝苅公園の西側にあった迂回道が自動車道として通されたのだろう。

謝苅公園の北側は丘陵だったので両方の山を高さ10mも削り取ってワイトゥイ (切り通し) になっていた。道幅は3mぐらいで、荷馬車がやっと通れるぐらいで、昼でも暗くて、怖いところだったという。このワイトゥイも道幅を拡張し1953年 (昭和28年) に琉球政府道24号線 (後の県道24号線) が開通している。


宇地原区公民館、宇地原公園

謝苅道の下りの終点あたりに宇地原区公民館が建てられている。字吉原の中にある三つ目の公民館になる。公民敷地内でヤギを飼っている。子供達に可愛がられているそうだ。公民館の隣は広い宇地原公園が造られている。この地域には多くの公園が見られる。北谷町では公園条例を作り、住民一人当たりの公園面積 (10m2) を決めている。現在では沖縄平均では7.18m2/人に対して北谷町では14.4m2/人となっている。軍用地返還後は20m2/人を目標にしている。


宇地井 (ウージガー、ホースガ-)

宇地原公園を南に下ると、せせらぎ広場という小さな休憩所がある。ここにはかつては井戸があり、それを現在では泉に加工している。戦前までは宇地原の井戸なので「ウージガー」と呼ばれていた。戦後、いち早く居住許可地区になった謝苅に移り住んだ多くの人々がこの湧き水を利用していた。水が豊富で、主に飲料水・生活用水の他に洗濯場としても利用され、ゴムホースを入れて水を引いていたのでホースガーと呼ばれるようになった。



字吉原 崎門屋取 (サチジョー)

謝苅道を登って行くと北谷町域東端、東シナ海を望む標高100mの高台に北中城村比嘉・島袋からの平民が移住してきた崎門屋取 (サチジョー) 集落があった場所になる。屋取集落は首里那覇の帰農士族なので、崎門屋取は平民の移住でできた特殊の屋取集落だった。東側は桃原屋取 (トーバルヤードゥイ) と隣接していた。そのため、この崎門屋取 (サチジョー) は西桃原 (イリトーバル) 屋取とも呼ばれていた。戦前は戸数24軒 (カーラヤー7軒) の小さな集落だった。集落は謝苅道を境に南側の12軒が前村渠 (メーンダカリ)、北側の12軒が後村渠 (クシンダカリ) に分かれていた。主業は農業で、サトウキビ、芋、豆類などを作っていた。砂糖小屋 (サーターヤー) は1か所設けられていた。土地質が良くないので、南洋への出稼ぎも多く出ていたそうだ。


崎門屋取集落で行なわれた主な年中行事

集落内に拝所はなく、山里のハーナームイに拝みに行っていた。 戦後はイーヌモー近くにk神屋 (カミヤー) を作り、そこにハーナーの神を迎えして祀っていた。

  • クスックィー (クシユクワーシー・ニングワ チャー 旧暦2月2日-3日): 大きな家を借り、そこに集まって、三味線を弾き、太鼓を叩いたりして遊んだ。ごちそうは膳に盛り、桃の花を挿して飾った。 
  • エイサー (旧暦7月):2~3週間前から、マーイシモーに集まって練習していた。当日は集落内の各家を回っていた。
  • カーウガミ (旧暦8月): トーバルガーを掃除して拝んでいた。


泉井 (イジュンガー)

謝苅道を登って行き、崎門屋取集落に近づいた所に、泉井 (イジュンガー) がある。昔は集落住民が共同で使用していたそうだ。水はまだあるのだが、現在では使われていない。この井戸についての情報は見つからなかったが、集落内には三つの個人所有の井戸があったそうなので、その内の一つだろう。


桃原井 (トーバルガー)

謝苅道を進むと栄口区中央通りの入口南側の崖下に桃原井 (トーバルガー) がある。作られた時期は不明。水が涸れることはなく水の豊富な井戸だった。崎門 (サチジョー) 門中が水道が普及するまで生活用水として使用し、若水や産水が汲まれていた。かつては崎門屋取集落、桃原屋取集落住民により、2月2日と3日にニングヮチャー(クスックイ、クスユクヮーシー)がおこなわれ、初日には、ウチャヌク・酒・花米・線香を供えて、男性による豊作の祈願を行っていた。現在でも崎門屋取集落では旧暦8月にはこの井戸を掃除して井御願 (カーウガミ) が行われている。


桃原川 (トーバルガーラ)

この桃原井から流れ出した水が桃原川 (トーバルガーラ) となり、その水を利用して田んぼが広がっていた。用水路沿いの細道を進むと県道24号線の下を通る用水路の小さなトンネルがある。身をかがめるてトンネル内を抜けることができる。


平和の塔

謝苅道を更に上がって行くと、鳥居が建っている。鳥居を潜り中に入ると広場の崖上に平和の塔の戦没者慰霊碑が建てられていた。1950年代に当時の遺族会の有志5名によって、謝苅で2日間、桃原で1日間芝居を興行し、資金を作り、また村有志からの寄付金を集め、平和之塔の建立計画を作成し、1954年に村議会に提案され可決、同年には平和之塔が完成し除幕式が挙行された。当初、この平和之塔では町出身の軍人、軍属、準軍属に限られた968名の戦没者を祀っていた。昔からの拝所ではないのだが、鳥居が建てられたのは、戦時中の国家神道の影響が残っていたからだろう。その後、終戦33年目の1978年に戦没者を再確認し、1,294柱に刻名者は増えた。

1995年10月22日 (町民平和の日) に終戦50周年記念事業として平和之塔を再整備し、民間人も含めた町出身者の全戦没者を刻名し慰霊する事になった。塔の正面には2,321柱の戦没者名が刻名されている。


旧北谷役場跡

平和の塔から謝苅道を渡ったあたりには1950年 (昭和25年) 4月に木造瓦葺庁舎の北谷役場が建設され、桃原屋取集落にあった木造トタン葺庁から移転している。ここでは1961年 (昭和36年) まで先に訪れた北玉児童館の場所に移るまで行政業務が行われていた。



桃原屋取集落 (トーバル)

崎門屋取集落の東、北谷町域東端、東シナ海を望む高台に桃原屋取集落 (トーバル) がある。現在の北谷中学校あたりになる。沖縄市の越来村と隣接しており、つきあいが盛んだったことで、桃原屋取と越来桃原 (グィークトーバル) を合わせて東桃原 (アガリトーバル) とも呼ばれていた。戦前、桃原屋取集落には46軒の民家があり、そのうちカーラヤー (瓦屋) は4軒だった。主業は農業で、芋やサトウキビなどを作っていた。マチヤ (商店) が1軒あったが、扱っているのが菓子類ぐらいだったので、崎門屋取 のマチヤを利用することが多かったという。


桃原屋取集落で行なわれた主な年中行事

桃原屋取集落内の拝所はインナーで、クスックィー、ヤイサーの出発時、クングワチクニチー〈9月9日) などに拝んでいた。碑やウコールなどはなく、石垣を目印にして拝んでいた。インナーは何かと集落の人たちの集まり場所として使われていた。その他、山里のヒャーナーで普天間宮を遙拝したり、普天間宮に拝みに行くこともあった。

  • クスックィー (ニングワチャー、旧暦2月2~4日: 1日目は普天間拝みへ行った後、大きな家をヤードゥとして借り集まってごちそうを食べた。2日目はヒャーナーとインナーを拝みに行木、各家庭で豆腐、天ぷら、チンヌク (サトイモの一種)、ゴボウ、野菜などをインナーに持ちより、みんなで食べた。3日目はクスックィージューシーを炊い て、ヤードゥで食べる。男女一緒に行なわれていた。
  • ヤイサー (エイサー 旧暦7月):のみで行なわれ、桃原屋取と越来桃原の青年男子が一緒になって行なわれた。女子や子どもは参加しなかった。練習場所はインナーで、 当日もここを拝んでから出発し、集落内の各家を回った。
  • ジューグヤー (十五夜 旧暦8月15日): アシビナーで明治時代までは芝居が行なわれていた。


インナー

桃原屋取集落の拝所はこのインナーだが、碑やウコールなどはなく、クスックィーやクングワチクニチーでは、屋号上与那原 (ウエユナバル) の石垣に向かって拝んでいた。 (写真右下)  直径10mぐらいの広場になっていて、行事のときなどはインナーに集まっていた。ヤイサー (エイサー) の練習をする場所でもあった。ここには大きさ・重さも色々違うマーイサー (真石、力石 チチイシ、差し石) が4~5個ぐらい置かれ夕方になると、青年が集まって力比べをしていたそうだ。現在では、郷友会によって拝所として整備され、ここにあったマーイサーも保存されている。


アシビナー

インナーから道を少し北に進んだ所には広場があったそうで、ここが村のアシビナーだった。ここでは芝居などが行われて、広場の斜面が観覧席になっていた。現在は観覧席だった斜面下には民家が建っている。


越来桃原井 (グィークトーバルガー)

桃原屋取集落内には井戸が少く、東に隣接している沖縄市の越来桃原にある桃原井 (トーバルガ-) を若水や生活用水として使用していた。北谷町ではないのだが、関連史跡なので、沖縄市に入り、越来桃原井を見学した。

桃原井は、この地に集落が形成されたときから、産井 (ウブガー) として利用され、昭和の中期頃まで飲料水や生活用水として利用され たが上水道の普及により利用者がなくなった。水が豊富で干魃の際でも、渇水することがなく、当時番人を置き、他集落にも飲料水

を分け与えていた。 平成5年に山内第二土地区画整理事業のため埋め立て、かさ上げし、現在の様に建造され、管理されている。


桃原公園、フナウクイモー

桃原集落の北側には大きな公園がある。桃原公園といい。公園高台の斜面を利用してかなり長いすべり台が置かれている。今日も子供達がにぎやかに遊んでいた。

かつてはフナウクイモーと呼ばれていた。フナウクイモーは公園の展望台の場所で、高台になっている。かつては、ここから北谷港から船旅をする人や出生兵士を見送っていた。


桃原区公民館

桃原公園の北側には桃原区公民館が置かれている。ここも字吉原内になる。



栄口団地、栄口区公民館

桃原公園の西側は栄口原 (エグチバル) と呼ばれた場所で、戦前はこの辺りには民家は全くなかった。戦後、米軍基地に土地を接収され元の村に戻ることができなかった人が多く移住してきて、北谷村役場にとって住宅地開発が急務となっていた。この栄口原に民間主導で住宅造成が進められ、1967年に桃原団地が出来上がった。その後も村営団地など住宅地が形成され人口は増加し、1980年に村政から町制への移行した際に、行政区の再編が行われ、旧謝苅一区から人口2,481人、606世帯が分離し、栄口区となっている。現在 (令和4年1月現在) 2,879人、1,190世帯となっている。

団地内には栄口区公民館が置かれている。


これで3日間にわたって、字吉原内の史跡やスポット巡りがようやく終了。3日目はこの後字玉上に移動したが、そのレポートは別途。


参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の綱引き (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)