17:明智が大学来る話
「あっつ…………」
(クソ、あいつ、見つけたら一発殴ってやる……)
九月末、まだまだじっとりした残暑にうなじをぬぐって明智はスマホを見直した。彼が通う私大はこの坂を登った先のようだ。住宅街のあいだをゆるゆると続くなだらかな坂道を見上げ、明智はげんなりとため息をついた。
彼の書類が自宅に忘れられていたのを見つけたのは小一時間前のことだ。久々の平日休みでのんびりトーストをかじろうとしたところで視界に入ってしまった。持ち上げてみれば今日が期限の事務書類で、おまけに彼とは連絡がつかない。
『おい、書類忘れてるぞ。今日提出のやつ』
『返事しろ』
『おいゴミクズ』
『提出しないとまずいやつじゃないの』
『大学持ってく。死ね』
そうして今ようやっと坂道を登り終えたところだ。シルクのハンカチでひたいや頬をぬぐい、明智はふうっと学校の正門を見上げる。重厚なレンガの門とは対照的に、その奥には近未来的な校舎がいくつも並んでいた。百年以上続く有名私大だ。明智も模試で名前を書いたことがあるからその偏差値の高さもよく知っている。
(まあ、大学なんてもう関係ない場所だけど)
明智は早々に普通の人生をドロップアウトした側の人間だ。実刑こそつかなかったが世間に未だ名は知られているから、この先も縁のない施設だろう。
人よけの眼鏡のツルを持ち上げてきょろきょろと辺りを見わたし、案内板を見つけて明智はすぐ右手の背の低い建物に入った。一階が総合事務室のようだ。
「すみません。……えっと、これ提出したいんですけど」
「ああ、選択授業の用紙ですね。……あれ、ここ記入してもらえるかな?」
「えっ」
書きもらしのようだ。明智は内心で舌打ちした。
「すみません、友だちに出してくれって頼まれたもので……」
「そうなの? ……あ、ホントだ。あの心理学部のコよね、背が高くてかっこいい」
「う……えっと……」
はい、とうなずくのはどうにも気が引けた。
(ていうか、こんなとこでまでモテてんのかよあいつ……)
明智の思いをすこしも知らず、受付窓の向こうの女性は合点がいったようすでうなずいた。
「そっか、心理学部、今日は昼過ぎまで特別講演だったわね」
「……特別講演?」
「ええ、聞いてないかな? 第三ホールに卒業生が来て講演してるはず。ちょうどもう終わるとこじゃないかしら」
「なるほど! ありがとうございます!」
「いえいえ、今日のうちに持ってきてくださいね。……あら、よく見たらキミもかっこいいわね……!?」
「し、失礼します!」
明智は来客用のスリッパをパタパタ響かせて事務局を後にした。変なところで身バレしては面倒だ。顔を伏せて足早に並木道をゆき、教えてもらったホールへ向かう。
円形の大きな建物から生徒らがぞろぞろと出てきたところで、その中の一人がはたと明智に目を留めた。
「あれ……? 明智がいる……」
「! お前……ッ!」
目と目が合い、明智はようやく見つけた男の半袖をつかまえて集団から引きずり出した。目玉を三角にとがらせて書類をその胸に押しつける。
「これ、忘れていっただろ!」
彼はきょとんとまるい目をして、それからああ、とうなずいた、
「……ああ、なんだ、べつに遅れても平気だったのに」
「ハア? こっちはわざわざ持ってきてやったんだけど??」
「ッ! ごめん! 助かる、助かります!!」
くせっ毛をブンブンと振って彼が明智に頭を下げていると、むこうの集団からこちらに声がかかる。
「おい、メシいかねーの?」
「あ。……明智、昼食べた? これから?」
「まだ食べてないけど」
「そっか。じゃあ、学食おごるから一緒に食べよう」
友人らしき男子に手を振って事情を告げ、彼は明智に向き直ってニコと笑う。こちらをチラチラ見ていた女子生徒たちがキャアッと声を上げて明智は複雑な気分になる。
(ほんと、あいかわらずどこでもモテてるやつ……)
でもそんな男が彼女たちのバレンタインチョコより明智のチョコがほしいと情けなく嘆いて、今はうれしげに明智の手首をつかんでいるのだから不思議だ。この大学にも特待生で入ったのを知っている。あの中の誰だって選り取りみどりだろうに、学校から帰るとほかの誰にも見せない顔をして自分を抱くのを思い出して明智はあわあわと首を振った。
「明智? どうかした?」
「な、なんでもない!」
「そうか。……あ、学食、あれが入り口だから」
学生食堂は全面ガラス張りの今風なカフェで、軽食からどんぶりものまで幅広く置かれているようだった。とりあえず冷たいコーヒーとBLTサンドをおごらせ、ひと気の少ない窓辺で二人掛けのテーブル席に座る。
「……はあ、まったくいい迷惑だよ。今日は一日休みのはずだったのに」
不満げにストローを噛んで明智が言うと、向かいでパスタを食べていた彼は申し訳なさそうに頭をかいた。
「ごめん、明智のところに忘れたと思わなくて」
「フン、お昼くらいでごまかせると思わないでよね。今日は帰ったらこき使ってやるから」
「え、行っていいのか」
「おい、喜ぶな」
バイトがないのは知っていたから大学が終わったら家の掃除でもさせようとしたのに、彼はそれでも嬉しいという。
「家じゅうピカピカにしてやる。……そうだ、終わったらこないだみたいに風呂で、「殺すぞ」……ゴメンナサイ」
すこし前二人で墓参りに行ってからますます調子に乗るようになった男だ。でも明智も前ほどはっきりとそれを拒めなくなってしまったから困る。食事を終えた彼がテーブルの下で長い脚を絡めてくるのだって、一応は蹴ったけれどそれ以上を叱れなかった。ほのかな頬の熱さが気まずく明智は小さく顔を伏せる。
さっきまでひどく汗をかいていたのを思い出して明智はさりげなく自分のワイシャツを気にかけた。特に匂いはしないようでほっとする。
あの夜海岸で抱き締められてからというもの、明智はどこかがはっきりと変わってしまった。彼が自分を本気で好きなのをすっかりわかってしまっていた。
この前だって恥ずかしいと思いながら浴室でさせてしまったし、彼の手に触れられるとうれしくて声が止まらなかった。
今日だって口では文句を言ったけれど、本当は大学で過ごす彼を見てみたかった気持ちもすこしだけあるのだ。事務の人から同級生までみんなに憧れの視線を向けられる彼のひとみが自分だけにほそめられるのにどうにも安堵と優越を感じていた。
向かいの椅子に座っておだやかにほほ笑む彼を見やり、そういえばと明智は口をひらく。
「心理学部だったんだね、あまり聞いたことなかったけど」
「え? ……ああ、うん」
「なんで心理? 君一応頭いいんだし、就職とか考えたらもっといい学科ありそうなのに」
「あー……その……」
彼はいつになく言いにくそうだ。いつもなら一発殴って吐かせるところだが今日はふとわるい気分になって、明智は丸いテーブルに両肘をついてみた。
「聞かせてほしいな、……だめ?」
「ッ!?!?!?」
タレント業でつちかったあざとさでたずねれば彼は湯を沸かしたみたいに真っ赤になるから気分がよかった。単純な暴力よりこっちのほうが効くのがおもしろい。明智はくくくと笑ってつま先で軽くすねを蹴る。すっかり明智に負けた男はいじいじと前髪をいじってつぶやいた。
「あの……メメントスとか、そういうもの、見たりして、興味が湧いたっていうか……」
「ハッ。嘘つけ。ホントは?」
「ぐっ………………探偵に、なりたいと思ってたから」
「はあ?」
明智は思わず頓狂な声を上げた。まわりの生徒の視線を気にしてハッと顔を伏せる。そうして上目遣いにコソコソと聞いた。
「なんでだよ、探偵って」
「それは……大学にいるあいだに明智が見つからなかったら、……探偵の仕事なら、色々情報も入るかもと思って」
明智はしばらく何を言えばいいのかわからなかった。彼もおなじようだ。ややあって明智はかすれた吐息をもらし、なんだよとつぶやく。
「なんだよ、それ。そんなことに自分の人生使おうとしてたわけ……?」
「……ッッ! そ、『そんなこと』じゃないし!」
大学といえば遊んで暮らす者も多いが、それでも大半は今後の人生や就職を見据えて学科をえらぶのが普通だろう。それを選ぶ基準が自分だなんてどうかしていると明智が頭をかかえていれば、それにと彼は首を振った。
「そ、それに、…………初恋、だったから……」
「は? お前カノジョいただろ、中学とかで」
「わ、別れたし! ……本気で好きになったのは、明智が初めてだったから……」
「……そ、そうなんだ」
こいつにはたいがい色々な初めてを奪われたが、自分もこの男の初めてをすこしは奪ってやったのだと思うと悪くはない気分だ。明智は口元に手を当てて考えた。
「そうだね、……案外、悪くはないかもね」
「え?」
めずらしく赤い顔をおさえていた彼はきょとんと顔を上げる。明智はいつかの吉祥寺の景色を思い出してたずねた。
「ねえ、覚えてる? 高校生のころ、君も『こっち側』に来ないかって誘ったことあっただろ」
「……ああ、」
おなじ風景を思い出した彼もまたうなずいた。怪盗をやめて君も探偵にならないかと誘ったときのことだ。明智は目をほそめる。
「あのときはまさか、君が探偵につくなんて思ってなかったけどさ。でも、……今度は、どっちが事件を先に解決するかを競うのも、……それも、悪くはないのかもね」
彼ははっと目を見ひらいて、それから、くしゃりと笑った。ととのった顔をくしゃくしゃにしてよろこんで、今すぐ明智に抱きつきたいらしいのをなんとか抑えて両手をぎゅうっと握ってくる。明智はふざけていやがってみせたが彼の手は強くて、なんだかうっすら泣きそうになった。
法学の授業も合間にとっているのだと、カフェを出た彼が言った。
「けっこうおもしろくて。……明智も、興味があったら聞きに来たらいい」
「え? 僕は今さら、大学なんて、」
「聴講生ならかんたんになれるし、聞きたい授業があったらもぐりこめるようにするから」
元怪盗の言葉には説得力があっておかしかった。
「そうだね、経営の授業とか、聞きたいかもね」
「経営?」
「探偵だって、事務所ひらくならすこしはちゃんとした知識が必要だろ」
「!」
彼は今度こそ明智に飛びついて、明智はやっぱり笑って、それを蹴った。