「復活されたキリスト」
マタイの福音書 28章1―10節
1. さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
2. すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
3. その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。4. その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。5. 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。6. ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
7. そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
8. 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。9. すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
10. イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
イースター礼拝メッセージ
2024年3月31日
マタイの福音書 28章1―10節
「復活されたキリスト」
こんにちは。午後2時からの礼拝です。
きもだめしや怪談話のたぐいではありませんが、みなさんはお墓で迷子になったことがあるでしょうか? 私は2年前の9月、足羽山霊園で目標としていたお墓にたどり着けずにいました。福井県内のキリスト教会が合同で建立し、維持管理している「聖徒之墓」を下見に行こうと思い立ち、足羽山に入りました。初めての場所でしたが、「行けば何とかなるだろう。白い十字架のあるお墓が見つかるだろう」と安易に考えました。行ってみて、どこにいっても「○○寺墓地」の看板と、「南無阿弥陀仏」と刻まれたたくさんの墓石が目に飛び込むだけでした。
広大な霊園の中を歩き回り、「もう無理」だとあきらめ、福井市内の教会の牧師たちに電話をかけ、最後はちょうど出会えた管理人さんに教えて頂いて、たどり着きました。その年の秋の墓前礼拝で納骨式に参加してから、再び聖徒之墓を訪問していませんので、今行ったらまた迷子になるかもしれません。
そんな私とは違い、イースターの日曜日の朝、イエス様が葬られた墓を目指していた女性たちは迷うはずありませんでした。つい2日前(金曜日)の夕方、葬りの場面に立ち会っていたからです。お墓への道順も、その場所も、色も形もしっかりと頭に入っていました。
マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた。(マタイ27:61)
マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。(マルコ15:47)
イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。(ルカ23:55)
当時、エルサレムには共同墓地がありました 。引き取り手のない死刑囚のなきがらは、そこに葬られることもありました。
彼はまた、アシェラ像を主の宮からエルサレム郊外のキデロンの谷に運び出し、それをキデロンの谷で焼いた。それを粉々に砕いて灰にし、その灰を共同墓地にまき散らした。(Ⅱ列王記 23:6)
彼らはウリヤをエジプトから導き出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、その屍を共同墓地に捨てさせた。(エレミヤ書 26:23)
しかし、十字架で完全に息を引き取られた主イエス様のなきがらを「引き取りたい」と申し出た人がいました。ユダヤの国の有力者、最高法院の議員のひとりで、金持ちであったアリマタヤのヨセフでした。福音書には、彼は善良で正しい人であったが、イエス様の弟子であることは隠していたと、記しています。しかし、イエス様の最期に立ち会った時、彼はいてもたってもいられなくなり、自分のためにと用意しておいた、「私の墓にイエス様を葬らせてください」と、申し出たのです。
彼(アリマタヤのヨセフ)はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。(ルカ23:53)
これらすべてが人間の思い・人間のわざでありながら、実はすべて天の父なる神様のみわざでした。「他の誰かではない、主イエス様があの墓の中から出られた!死から復活された!」ことを弟子たちに、そして私たちに確認させるためでもありました。すべて神様がご計画されたことだったのです。イースターの時から700年も前に、神様はイザヤを通して約束しておられました。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。(イザヤ書53:9)
共同墓地のたくさん並んだ遺体となっていたとしたら、誰がだれだか分からなくなったかもしれません。もうすでにおじいちゃん、おばあちゃんが先に葬られた墓であったなら、そこが空っぽになっていたとしても、イエス様だけがよみがえったんだと断定できなかったかもしれません。アリマタヤのヨセフが自分用に購入し、まだ誰も葬られていないあの立派な墓の中にイエス様は葬られました。まさに主イエス様だけのための場所でした。
そしてイースターの前日(土曜日)、祭司長とパリサイ人は、ピラトに願い出て「イエスの墓の前に3日間、番兵をつけてください」と願い出て、そうしてもらっていました。「生前、あのイエスは死後三日目によみがえると言っていた。弟子たちが墓から遺体を盗難し、復活したととんでもないデマを広めて、騒ぎを拡大させないように」と警戒しました。墓の前には、鍛え上げらローマ兵たちが厳重に見張り、墓石が少しでも動かされたら、すぐに分かるようにと封印が施されました(マタイ27:62-66)。
けれども、イエス様の弟子の誰一人として、イエス様のなきがらを盗難に行けるような勇気も大胆さも、もう持ち合わせていませんでした。イエス様が逮捕され、むごたらしく処刑されたことが余りにもショックで、自分たちにも当局の恐ろしい追及が及ぶことを恐れて、弟子たちは扉を閉めて、ある家の奥深くに息をひそめて閉じこもっていたのです(ヨハネ20:19)。
そんなまったく頼りにならない男たちとは違い、女性の弟子たち:マグダラのマリアやイエス様の母マリアたちは、かたときもイエス様から離れたくないと思っていました。日曜日の朝、
さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。(28:1)
ウォルター・ワンゲリンというアメリカ人の牧師でありクリスチャン作家である方が『十字架の道をたどる40の黙想』という本を書いています。その中で、イエス様の埋葬を見届けた後のマグダラのマリアの思いが、想像なのですが、こんなふうに表現されていました。
石は冷たく、閉じられてしまった。ここからどこへ行けばいいのだろう。行く場所などない。街へ戻ろう。でも今や街とて空っぽ。主がそこにおられない。主はおられない。どこへ行っても空っぽ。
私は何をすればいい? わからない。することなどない。安息日がもう始まっている。でも、だから? たとえ祈っても、それは中身のない。ただのつぶやきの声。意味もない。虚しい繰り返しの言葉で祈ったところで、どうなるというの?
アリマタヤのヨセフが置いた石は、文章に打たれた終止符のよう。すべてが終わって、あたりを覆っているのは虚しさばかり。居場所などない。たましいの帰る場所もない。なぜ私はここにずっと立っているのだろう。辺りは闇。真夜中。みんな家に帰ってしまった。残っているのは私だけ。
なぜ墓場を離れられないの。なぜなら、世界全体が墓場だから。なぜなら、ここにだけは私の主がおられるからです。
イエス様、イエス様、あなたなしでは、どこへ行っても、私は無いも同然です!あなたは死なれた。私の世界は消滅してしまった 。
ウォルター・ワンゲリン著、内山薫訳、『十字架の道をたどる40の黙想』、(いのちのことば社2002年)、210,211ページ。
マグダラのマリアも、いやそれ以上に母マリアは、どれほど心引き裂かれる思いでいたでしょうか。悲しみに打ちひしがれながら、金曜日の夜、土曜日、そして日曜日の朝まで過ごして来ました。尊敬し、慕い、愛してやまないイエス様の死は、墓の前にどっしりと置かれた石のようでした。重い扉のように、外からの光を全部さえぎるものでした。
長野にいた頃、近所の子どもたちが教会に遊びに来ました。そして、「天国への道」というタイトルのトラクトを見つけて、ひそひそ話しをしていました。「欲深いと天国には行けないんだよな。欲深いと地獄へ落とされるらしいぞ」。子どもたちも分かっていました。親やおじいちゃん、おばあちゃんから教えられていたのかもしれません。人は必ず死ぬ。その後で神様のさばきがある。欲深い人間。罪をもったままの人間は天国には行けないと。
いつかは必ず死ななければならないこと。死んだ後、どこに行くのか分からないこと。それは、私たちにとって恐怖です。不安です。考えたくないことです。暗く冷たく重たい全く動かない扉の石のようです。
イエス・キリストの復活は、この暗く冷たく重たい扉が打ち破られた出来事です。いのちが死に打ち勝つこと。神様によっていのちが勝利することを、私たちに見せてくださり、約束してくださった確かな出来事なのです。
すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。(28:2)
当時のお墓は、岩をくり抜いて作った洞窟のようなものでした。そしてお墓の入り口には、丸い大きな石の扉が置かれました。
イエス様のなきがらにもう一度、良い香りをささげたい。そんな思いでマリアたちは、やって来ますが、あの大きな石の扉を動かすことが出来るだろうか・・・? 女の力では無理だ。お墓の管理人さんにでも頼もうか。でも誰もいなかったら、せっかくお墓に行っても無駄足になってしまうかも。それでも良いと、お墓に向かいました。
重たい石の扉。私たちも、そのような現実に直面させられます。どうしていいか分からない問題、先の見えない不安を前に立ちすくんでしまいます。うつむき、下を向いてしまう私たちです。重い扉が私たちの心をふさぎます。
マグダラのマリアたちも、そうでした。しかしお墓に来て、「目を上げて見ると」、現実はまったく違っていたのです。大きな石の扉が、大地震の揺れで動いていたのです。その地震は、天から御使いが降りて来て、石の扉を突き動かした。そしてその石の上に座ったことによる衝撃でした。この地上に大きな衝撃がもたらされたのです。
女性たちは、さらに衝撃的なものを目の当たりにし、衝撃的なニュースを聞きます。
28章3-7節、 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
腰を抜かしそうです。「イエス様は、もうここにはいらっしゃらない。死からよみがられた!」驚きの宣言。勝利宣言。喜びの宣言を語ったのです。女性たちは、気が動転してしまいそうでした。
8節、 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
私たちもその場にいたら、そうなるでしょう。心臓が猛スピードでバクバクバクと鼓動を打ち、息もできないほどになり、あまりの驚きと恐れで我を忘れて、走り出してしまうでしょう。
びっくりの度合いを超えていました。そして徐々に徐々に、「本当なんだ。イエス様がおっしゃっていた通りだ。本当によみがえってくださったんだ」と分かってきて、女性たちの恐怖は大きな喜びに、驚きはこの上も無い喜びに変わっていたのです。
そして本当に復活されたイエス様と女性たちは出会たのです!
9,10節、すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
その目で見ることが許され、その耳で聞くことができ、その手で触れたのです。幽霊なんかではない、幻想でもない。生身の身体をもった復活されたイエス様が確かに目の前に立っておられるのです。
イエス様の復活は、2,000年前のエルサレムで実際に起きた出来事です。神の御子イエス様は死に勝利され、今も生きておられます。イエス様は、今も私たちに語りかけ、働きかけてくださいます。
そして、イエス様が死からよみがえってくださったように、私たちも、やがてこの地上での生を終えて、次の住まいへと行くのです。天国でよみがえり、新しいいのち=永遠のいのちを生きるのです。
地上の死はあまりに不条理です。身近な大切な方との別れは、つらくて悲しくて、耐えられません。死は、巻き戻しが出来ない現実です。もう一度、あそこらやり直したい。そうできたら良いのにできません。
しかしイエス様の死と復活は、死が決して終わりではないことの確かな証拠です。神様は、死を巻き戻にして、やり直しはなさいませんでした。死の先にさらにすばらしいいのちがあること、よみがえりのいのちとよみがえりのからだがあることを はっきりと見せてくださったのです!
主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。(Ⅱコリント 4:14)
イエス・キリストを墓の中からよみがえらせてくださったお方は、私たちをも墓の中から天へと引き上げ、新しいいのち=永遠のいのちによみがえらせてくださいます。悲しいお別れ。さびしくてつらい現実。けれども、その先に大いなる喜びが、再会の確かな希望が、大いなるいのちの主へのあふれんばかりの感謝が待っています。
暗く重く冷たい扉は、もう開かれています。イースターの朝、あの扉は開かれました。暗やみに大いなる光が差し込んでいます。今、新しいいのちがあなたのもとに届けられています。あとは、神様からのこの素晴らしいプレゼントを私たちがちゃんと信じて、受け取っていくことです。
ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。(マルコ16:4)
女性たちはお墓に着いたとき、目を上げました。うつむかないで、下ばかり見ないで、目を上げて見たのです。私たちも、そのことが大事です。自分の悩みや苦しみ、自分の思いばかりにとらわれていると、私たちは、そのことに支配されてしまいます。そこから目を上げる、神様の与えてくださる救いに、ちゃんと心を向けていくことこそ肝心です。その時、私たちは暗く重い扉が、もうすでに開かれていること。そこに光が差し込んでいることを見つけるのです。
詩篇30篇のみことばを交読しました。死が終わりではなく、よみがえりの勝利が与えられること、私たちの嘆きを神様は喜びに変えてくださることが約束されています。たとえよみのような暗闇、絶望の中に置かれても、主は、どんなところからも私たちを引き上げてくださいます。もうすでにイエス様は、よみにまで下り、そこから勝利してくださいました。私たちの嘆きを踊りに変え、悲しみの粗布を脱がせ、喜びの新しい礼服をまとわせてくださる主を見上げ、主イエス様を信頼し、新しいいのちの希望を頂いて、再びここから立ち上がっていきましょう。
祈ります。
天の父なる神様 あなたは何よりも大切な尊(とうと)いひとり子、主イエス様を、この地上に遣わしてくださいました。そして十字架へと進ませられました。それは、私たちのためでした。神様に逆らい、自分勝手に歩み、罪を犯し続けている私たち、そんな私たちを、罪と死とほろびから救い出してくださるために、さらに、私たちに新しいいのち・新しい人生を与えてくださるために、神様は、ひとり子を救い主として遣わしてくださいました。
神様が支払ってくださった余りにも大きな犠牲によって、私たちは今、まことのいのち、新しいいのちを与えられていることを信じ、心から感謝いたします。
イースターのこの朝、主イエス様が、人間にはどうしても乗り越えられなかった死の現実に完全に勝利してくださったことを覚えます。イエス様の復活を心から信じ、受け入れることができますように。そして私たちにも、新しいいのち、朽ちることの無い永遠のいのちが与えられていることを、心から喜ぶことができるようにさせてください。
主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン