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杉並区 08 (04/04/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 (5) 渡戸

2024.04.05 03:32

旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 渡戸 [小字 善福寺/北原、善福寺町、現 善福寺一/二/三/四丁目]


4月2日に東京に到着、昨日は終日雨で杉並区の史跡巡りは出来ず、今日から再開し、旧上井草村の残りの小名の渡戸と寺分を巡る。


旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 渡戸 [小字 善福寺/北原、善福寺町、現 善福寺三/四丁目、善福寺一/ニ丁目の一部]

江戸時代の小名渡戸は杉並区の最北西部に位置しており、北部から西部にかけては弧を描くように練馬区関町南に接している。西部は一部練馬区立野町にも接する。南西部は武蔵野市吉祥寺東町に接する。北東部から東部一帯にかけては青梅街道に接し、これを境に北東部は杉並区上井草に、東部は杉並区今川に、南東部は杉並区桃井に接する。

善福寺二丁目と三丁目には、善福寺公園が作られ、善福寺池を中心に、緑も多く憩いの場として知られている。また、この善福寺池を水源に善福寺川が流れて小名の境界線ともなっていた。善福寺という地名の由来とされる善福寺が善福寺池のほとりにあったが、江戸時代に災害により壊滅しそのまま廃寺になり現存しない。この寺については史料が乏しく、麻布の麻布山善福寺の奥の院であるという説や港区の善福寺と関係があるという説もあるが、その実態はよく分かっていない。


小名渡戸は1889年 (明治22年) に北部は小字善福寺、南は小字北原と行政区が変更されている。この二つの小字は1932年 (昭和7年) に善福寺町となり、1964 年 (昭和39年) に住所表示が変更されて、北から善福寺四丁目、三丁目、南西部が善福寺ニ丁目、南東部が善福寺一丁目となり、現在に至っている。

渡戸の民家の分布を時代毎に見ると、明治時代から戦前迄は民家はそれほど増えていないのだが、昭和初期に着手し1935年 (昭和10年)  に完了した土地区画整理事業で道路が建設され、碁盤目状の整然とした町並みが形成されている。戦後は次第に住宅地が広がっていき、現在ではほぼ全域が住宅街となっている。


旧小名渡戸内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: 善福寺
  • 神社:大和市神社、稲荷神社、稲荷社、市杵嶋神社 
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵菩薩: 地蔵菩薩立像、六地蔵、六面地蔵、将軍地蔵
  • その他: 双体道祖神、勢至菩薩立像、橋供養塔、遅の井の滝


善福寺

善福寺公園の北東に曹洞宗の福寿山善福寺がある。鎌倉時代末期の作といわれる阿弥陀如来立像を本尊として祀っている。創建年代は不明であるが、御堂阿闍梨によって浄土系の無量山福寿庵と小庵として開山された。1709年 (宝永6年) に観泉寺の下で月山機法が中興、曹洞宗に転宗したと伝わっている。寺内には、浄土系時代の住職の墓が残っている。1942年 (昭和17年) に地名の由来となった廃寺の善福寺にちなみ、善福寺と改称している。


地蔵菩薩立像 (96番、97番、未登録)

本堂に向かって左側と右側に石仏群がある。左側には丸彫地蔵菩薩立像が4体並んでいる。向かって左側の地蔵菩薩像 (96番) は1727年 (享保12年) に上荻久保村の小張吉兵衛が施主となり念佛之講中村々により造立されたもので、千日念佛供養佛と刻まれている。その隣にも丸彫の地蔵菩薩立像 (97番) があり、1788年 (天明8年) の造立され、「善福寺 新町 向原 念仏講中 遅野井村」「近郷村々 志衆中」と刻まれている。複数の村の地蔵講が共同で作ったものだろう。更にその隣には比較的新しく、1986年 (昭和61年) に造立された錫杖と宝珠を持ち、幼児を抱えた丸彫の地蔵菩薩立像が置かれている。幼児を抱いているので子育て地蔵菩薩だろうか?右端には小さな合掌をした地蔵菩薩立像があるが、詳細は不明。


双体道祖神、六地蔵等

本堂の右手の植え込みの中に、東京では珍しい双体道祖神が置かれている。その他にも六地蔵なども置かれている。

境内には変わった形の燈籠や十三層の石塔などがある。


六面地蔵 (98番)

善福寺の墓地には珍しい灯篭型の六面地蔵もある。これは造立時期は不明だが、新町から移設されたもの。


将軍地蔵 (100番)、勢至菩薩立像 (99番)

善福寺の西側の塀沿いに堂宇があり、将軍地蔵堂と呼ばれている。そこに石仏が二基祀られている。善福寺地蔵とも呼ばれている。 

笠付角柱型の立派な石仏が2基並んでいる。

右側には1740年 (元文5年) 造立の笠付角塔が置かれ、月輪六臂の勢至菩薩立像が浮き彫りされている。浮き彫り像の横には「奉造立廿三夜  浄本地  武刕多摩郡遅野井村  念佛講中  善福寺」と刻まれている。念佛講中の二十三夜待ちの塔と思われる。左には擬宝珠の笠付角塔で、1745年 (延享2年) に造立され、馬に跨った将軍地蔵立像が浮き彫りされ、「奉造立愛宕大権現  武刕多摩郡遅野井村善福寺十二人  念佛講中  新甼十二人」と刻まれている。将軍地蔵とは一説に、坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って作ったことからおこったという。 鎧、兜をつけ、右手に錫杖を、左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがっているのが一般的な形で、戦勝、宿業・飢饉回避などの御利益があるとされる。


大和市神社 (おおわしじんじゃ)

善福寺のすぐ西に大和市神社があると資料にあったのだが、探すと取り壊されていた。建て替えなのか、移設されたのだろうか?インターネットに取り壊される前の写真があったので、それも載せておく。大和市神社は「おおわしじんじゃ」と読み、剥製の大鷲を御神体としていたそうだ。この大鷲は、1925年 (大正14年) に仕留められたもので、あまりの大きさであったことから、剥製として保存されていた。翌年の1926に村で話し合い、この鷲を祀った社を建てて大和市神社としまた。地域や近郷の人々は、大和市神社の講をつくり、現在も、毎年11月の酉の日に、井草八幡宮の神主を招いて祭礼が行われている。昔は祭礼時には屋台が出て、芝居や神楽なども行なわれ賑わっていたそうだ。下井草1丁目にも鷲を祀った大鷲神社があり、訪れている。


稲荷神社、卵塔場

大和市神社の西、善福寺池北側の住宅街の中に稲荷神社がある。善福寺稲荷と呼ばれている。参道となっている階段の両脇には香取社と御嶽社の小祠がある。境内には樹の頭がボタモチを立てたような形で見えたので、ボタモチ杉と呼ばれた大杉があったが、明治初年に近所の住民が伐採し売却してしまった。その後、その家には災いが続き、祟りを鎮めるために御嶽社祀ったそうだ。

稲荷神社は小高い丘を階段を登った所に鎮座している。1709年 (宝永6年) に再建されたとあるので、創建はそれ以前でかなり古くからあるようだ。1937年 (昭和12年) に井草八幡宮に合祀されたが、現在でも善福寺講中で祭祀を行っている。

稲荷神社の左側一帯は、小美濃一族の墓地で、俗に卵塔場 (卵塔婆 らんとうば) と呼ばれていた。区画整理で福寿院 (現善福寺) 裏の共同墓地へ移されている。廃寺となった善福寺 (現在の善福寺とは異なる) の住職墓地があった所とも推測されている。 


善福寺公園

この地域はかつては交通の便にめぐまれなかったので自然の景観が昔のままだったが、住宅地開発や施設建設などで風致が失われつつあった。そこで、1930年 (昭和5年) の都市計画法によって洗足、石神井、江戸川と共に善福寺も風致地区に指定され、建築物や工作物の築造、土地の形質変更、樹木等・土石の採取など風致維持に影響ある行為が制限される事となった。当初は、隣接する石神井関町に跨がる60.4㌶にも及ぶ広範囲だったが、1963年の大規模な見直しによって29.2㌶に半減している。1961年 (昭和36年) には善福寺公園として開園している。善福寺公園には北と南に上池と下池があり、この池を中心に、遊具場や遊歩道が整備され、公園には武蔵野の雑木林を思わせる木々も多くあり、野鳥や草花も豊富で、都内でも数少ない自然豊かな公園になっている。


善福寺城跡

善福寺公園の上池の東側の少し高台になっているところは、中世には善福寺城があったのではと考えられている。善福寺城については記載された古文書はなく、伝承のみが伝わっている。善福寺城が置かれた場所については3ヶ所考えられており、一つは道灌橋公園付近に太田道灌が布陣した幕陣あたり、二つ目は荻窪八幡神社の南側の丘陵地、そして三つ目がこの場所で、善福寺公園の下の池から東側に豊島氏配下の豪族が城を築いていたという。北条氏綱が扇谷上杉氏の拠点である河越城と深大寺城との連携を分断の目的で善福寺城を置いたという説もある。また、1477年 (文明9年) に太田道灌が、豊島泰経の石神井城を攻めるためにこの善福寺城に布陣したという説もある。善福寺城と比定された場所は野草保存地区になっており、遊歩道が整備されている。


善福寺池上池

多摩川が東京湾に流入して形づくられた標高約50mの隆起扇状地の武蔵野台地には湧水が発達し、この善福寺池は練馬区の三宝寺池、武蔵野市の井の頭池と共に武蔵野三大湧水と呼ばれる。まだ農村だった江戸時代には、貴重な水源だった。善福寺池は遅野井池とも呼ばれ付近一帯の上井草村は遅野井村とも言われた。善福寺池の水源の遅の井はかつては地底や水辺からの湧水で豊富な水量だったが、現在は地下水を汲み上げている。善福寺池からは上荻窪、和田を経て神田川に注ぎこみ、流域の水田に利用されていた。昔は池畔の丘の西側に江戸時代に廃寺となった善福寺 (現在の善福寺とは異なる)、万福寺、東福寺の三つの寺があり、その一つが池の名となって残ったともいわれている。この善福寺は善福寺稲荷神社と浄水所の間にあったと伝わり、地震のため池水が溢れて崩壊したとも記述されており、また別の説には善福寺は時宗の寺で、僧兵を養っていたと伝えられ、石神井の豊島氏の菩提寺で豊島氏に味方したと推測され、太田道灌の兵に焼かれたともいわれている。また、別の説では、この善福寺池周辺は江戸時代初期に遅野井御猟場と定められたときに、池に集まる獣や、野鳥を驚かさないために、鐘を掻いたり、 人集まりするお寺は強制的に他へ移転させられたり、他の寺へ合併されたのではないかとも推測されている。この遅野井御猟場への道が御成道で善福寺川に沿って下の池の東縁を通り上の池の南端の渡戸橋まで通じていた。


遅の井の滝

上池の辺りに遅の井の滝がある。これが善福寺池の源流だった。善福寺池の湧水のひとつで、伝承では、1189年 (文治5年) に源頼朝が奥州征伐に向かう途中、この地で飲料水を求めるために土を掘ったが、折からの旱魃でなかなか水が出ず、自ら弓の筈 (はず) で土を七ヶ所掘ると、暫くしてその七ヶ所から水が湧き出たという。水の出を「今や遅し」と待ったところから「遅の井」と命名されたという。また別の説では獺ノ井 (カワウソが住む池) が変化し遅の井になったたともいう。現在は泉が涸れてしまったので、新たに井戸を掘り、ポンプで汲みあげて遅の井の滝として復元している。


市杵嶋 (いちきしま) 神社 

遅の井の前、上池には小島が二つある。大きい島の厳島には市杵嶋 (いちきしま) 神社が置かれている。天照大神の娘の水の神とされる市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) を祀っている。市杵島姫命は仏教の弁財天と同じ信仰体系とされたため、1197年 (建久8年) に江ノ島弁才天より勧請されたと伝わっている。元々はすぐ隣の小さい方の元弁天島 (下の写真) に善福寺弁財天として鎮座していたという。

創始年代は不確かだが、別に伝承では1189年 (文治5年) に源頼朝が奥州征伐の途次に、当地に於て霊験を得て創建したとも言われている。別の説では神田上水確保のため、家康が大久保藤五郎に池をさらわせた時、守護神として弁天を勧請し元弁天島に祀ったとも伝わっている。寛永年間 (1624-1644年)に、現在の小さい方の島に遷祀されている。1645年 (正保2年) には、今川義元の曾孫範英が徳川家康の霊に東照宮の神号を受ける使者として、京都に上った際、後光明天皇よりとぐろを巻いた白蛇のミイラが下賜され、御神体として弁天に祀っていた。1840年 (天保11年) には上下荻窪、成宗、田端、和田、堀ノ内の各村から費用が奉納され、お堂が再建されている。明治初年の神仏分離の際に、御神体の白蛇のミイラは観泉寺に移され、境内の小祠に祀っているそうだ。また、この時に、弁天は市杵島姫命と名を改められて市杵島神社と変わり、元の御神体の女神座像を井草八幡宮に移し管理することになった。

1949年 (昭和24年) まで干魃の際には多くの人々が雨乞い祈願を行っていた。大正の末頃までは干魃の際には近くの農家の人々が井草八幡宮に集り、社叢の竹を伐って小さな手桶を一対つくり、市杵島神社に行き池の水を汲んで社前に供え雨乞の祈願をし、その桶を竹棒でかついで、笠をかぶって、「ホーホイナンボエ」ととなえながら、太鼓を先頭に村中を廻り、終ると井草八幡宮の社前に来て拝殿前に竹四本を二間四角ぐらいに立てて、その根本に四斗樽を壱個づつ置き、これに水を満たし、その水を「ザンゲーザンゲー」ととなえながら四方にまいて降雨を祈願していた。

現在では島には渡れないのだが、橋の基台があり、以前は1889年 (明治22年) に寄進された石の太鼓橋が架かっていた。かつての橋は井草八幡宮に移設保管されているそうだ。


杉並浄水所

遅の井の滝の南側、上池南畔の丘の上には東京都水道局の杉並浄水所が建てられている。1925年 (大正14年) から1935年 (昭和10年) までの区画整理事業では水道事業も行われ、1930年 (昭和5年) に当時の井荻町が善福寺池畔の地下水を利用して井荻町浄水所を建設し水道開設を行ったった。1932年 (昭和7年) に杉並区として東京35区に編入された時に東京市水道局に移管されている。現在でも不定期で使用されており、善福寺、西荻北の一部に給水している。東京23区内では唯一地下水源の浄水施設だそうだ。


内田秀五郎像

上池沿いに南に進むと内田秀五郎の銅像が立てられている。内田秀五郎 (1876-1975) は地元の篤農家出身で1907年 (明治40年) に全国最年少の29歳で井荻村の村長に就任している。

内田のもと、1925年 (大正14年) から1935年 (昭和10年) まで10年の歳月をかけて総面積8.4km2の区画整理事業 (写真右上) をが行われ、碁盤目状の整然とした町並みが形成された。また、内田秀五郎は私財を投じて風致地区の整備に尽力している。この功績を讃えて銅像が立てられた。また、井草八幡宮境内に土地区画整理碑が建てられている。写真左上は内田の生家。


渡戸橋、橋供養塔 (92番)

内田秀五郎像のすぐ南、公園の真ん中に路が東西に走っている。ここから南の下池までは水路になっており、渡戸橋が架かっている。渡戸とは「池又は湿地を渡ることの出来る浅いところ又は通路の意」で、ここに架かっていたのは幅は荷車がやっと通れるぐらいで、御影石の板を二、三枚を並べた小橋だった。

水路は暗渠になっており、この橋跡の脇には、1745年 (延享2年) に蓮台の上に角塔が建てられている。上部には阿弥陀如来像が浮き彫りされ、その下に千日念佛橋供養佛と刻まれているので、この渡戸橋の供養塔と思われる。


稲荷社

瀬戸橋の西側に稲荷社が鎮座している。欅の大木の下に赤鳥居があり、その奥の祠で祀られている。この神社の情報は見つからず。


善福寺下池

上の池の渡戸橋から南は下池までは水路になっている。

善福寺池を中心とした善福寺公園のこの下池は鬱蒼とした樹々に囲まれ、池の半分近くが葦や水蓮に覆われており、湿原の雰囲気が漂っている。


美濃山橋、善福寺川

善福寺公園下池の南端には美濃山橋 (下の写真) が架かり、ここからは善福寺川が流れ出している。この橋の北側には善福寺池の東南に突き出た丘があり、美濃山と呼ばれていた。松林が茂り、景色のいい所だったそうだ。昔、松平美濃守が宿陣した跡とも、美濃守の館があったとも伝わっている。この辺りには小美濃の姓の人達がおり、小美濃一族の末裔という。小美濃が美濃守の一族か家来か不明だが、美濃守と何か関係があったと思われる。美濃守は戦に敗れて没落したが、小美濃

一族は池を隔てていたので、生き残ったとも伝わっている。

善福寺川は荒川水系神田川支流の一級河川で善福寺公園内にある善福寺池に源を発する。善福寺川は杉並区を北西から南東に貫くように流れ、中野区の東京メトロ丸ノ内線中野富士見町駅付近で神田川に合流している。この善福寺川沿いには、区内最大の複合遺跡である松ノ木遺跡のほかに、光明院南遺跡、川南遺跡、谷戸遺跡・大宮遺跡、済美台遺跡等の古代人の集落跡が発掘されている。昔から、水量豊かな善福寺川を人々が利用して、そのほとりに生活していたことが分かる。また、この善福寺川は、田や畑の灌溉用水として利用され、流域の上井草村、上・下荻窪村、成宗村、田端村、和田村、堀之内村を潤し、農作業だけでなく、生活用水としても利用されていた。しかし、低地を流れているので、古くから氾濫を起こしていた。2005年 (平成17年) には集中豪雨で新宿区、中野区、杉並区で浸水家屋3000戸以上が浸水し、善福寺流域は床上浸水1024棟、床下浸水635棟が浸水被害に遭っている。昭和50年代に浸水対策として和田堀公園調節池が設けられ、その後も大幅拡充工事が行われた。

善福寺川の河川沿いには両岸に緑道が整備され、途中には福寺川緑地と和田堀公園も整備されている。善福寺川を下流に向かって善福寺川緑地公園迄走ってみた。まだ桜が咲き誇っている。写真上、左中は関根文化公園辺り、右中、下は善福寺川緑地公園辺りで、お花見スポット。


小名渡戸巡りから南の小名寺分に移動してスポット巡りを続ける。訪問記は別途。



小名 渡戸 訪問ログ



参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)