寺山修司
Facebook辻 信行さん投稿記事
年齢同一性障害
小学生のときに書いた作文は、やたらじじ臭い。若者の言葉の乱れやコギャルの悪態を嘆き、「世も末じゃ」の一言で締めくくられている。
当時のぼくは、同級生から「うちのおじいちゃんにそっくり」とよく言われた。おじいちゃんの年齢を訊ねると、70代であった。あのころ毎日聴いていたのは美空ひばりと藤山一郎だったから無理もないだろう。
約20年が経過した現在、同世代から「うちのお父さんにそっくり」とよく言われる。お父さんの年齢を訊ねると、50代である。
つまりぼくは20年かけ、20歳若返ったことになる。このままいけば、映画『ベンジャミン・バトン』のように、オギャーオギャーと泣きながら死んでゆくに違いない。
しかし、年をとればとるほど若返るというタイプはけっこういるらしく、「私もそうだった」と告白する人に、何人か会ってきた。たぶん本気になって探せば、ゴロゴロ見つかることだろう。
映像作家の萩原朔美さんは、自分のことを「年齢同一性障害」だと語る。萩原さんはどんどん若返るのではなく、ずっと子供のままでいるらしい。腐ってゆくリンゴを一年間観察した映像作品『TIME 時間の痕跡』を制作した20代のときも70代の現在も、ずっと幼児の感覚で生きていると。
昨年多摩美術大学で開催された萩原さんの対談講座での一幕だ。前述の話を受けて文芸評論家の三浦雅士さんは、現代人の実年齢は昔に比べて七掛けで、70歳なら49歳だと指摘。現代は年齢による役割がそこまで重要でなくなったと言う。そして年齢も性も、社会システムをうまく動かすために設けているだけで、個人個人で異なると語った。
これに対し、多摩美術大学学長の建畠哲さんは、萩原さんが「職業同一性障害」でもあるとコメント。映像作家、演出家、エッセイスト、俳優、版画家、写真家、コメンテーター、編集長、大学教授、空手家、ブックオブジェアーティストなどの肩書きを持っていると指摘した。萩原さんは、どれもうまくいくと辞めてしまうと振り返り、若い頃から「どんなことでもやって、全部残さずに死にたい」と思っていると語った。
さらに萩原さんは、多摩美の在職中に4回結婚したと激白。どうやら「結婚同一性障害」でもあるらしい。
しかしながら、年齢や性、職業、結婚など、ありとあらゆる「枠組み」のすべてとピッタリ一致して、生まれてこの方、一度も「違和感」など感じたことがない、という人はいるのだろうか。おそらくそういう人は、深刻な「平凡錯覚症」なのだと思う。ちなみにぼくの周りには、自分のことを本当は宇宙人なのだと認識している「人間同一性障害」の中年女性も数名いる。
そんなことを思い出しながら、萩原さんが立ち上げに参加した演劇実験室「天井桟敷」の主宰者、寺山修司の展覧会に行った。寺山ほど「年齢同一性障害」がぴったりくる人はなかなかいない。
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五歳のときに言葉は遅れてやってきた。 ぼくは憑きもの筋の末裔としてすでに蒼ざめた老児、文字をまさぐる赤頭巾の友だちであった。
かくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭
――寺山修司『地獄篇』(上)、『田園に死す』(下)
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老児であった寺山は、自分だけかくれんぼの鬼のまま取り残されて、他のみんなはあっという間に大人になってしまう。このイメージは、短歌にも映画にも演劇にも登場する。
そして寺山は、「職業同一性障害」でもある。さまざまなジャンルにわたる仕事から寺山を「多面体」と評する指摘はよくみるが、三浦さんは次のように語る。
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だが、多面体だったというのは、多くの顔を持っていたからではない。人間存在はすべて多面体であると見抜いていたからこそ、多面体と言う形容が適切なのだ。寺山は、一貫したアイデンティティの主張こそ近代の妄想にすぎないと考えていたのである。
――三浦雅士『図録 寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに』
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11月17日(土)に同展覧会場で開催される三浦さんの講演会「ベジャール/テラヤマ/ピナ・バウシュ」。このタイトルにはどんな意図があるのだろう。三浦さんの文章を読んでみたい。
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1960年代から70年代にかけての寺山の仕事は世界水準で見なければ理解できない。世界水準などという語は用いたくはないが、事実だから仕方がない。当時の日本には寺山の仕事を計る物差しがなかった。寺山は海外においてこそその評価が圧倒的に高かったのだ。20世紀後半、思想はその探求の場を言語から身体へと、すなわち舞台へと写し、寺山はその最先端にあった。…
寺山の仕事には、挑発的なその流儀にもかかわらず、根源的な「優しさ」「懐かしさ」がつまっていたからである。ベジャールやバウシュもそうなのだが、この「優しさ」「懐かしさ」こそ、言語現象の核心に潜むものなのだ。言語は養育者とりわけ母との役割交換によってしか育まれないからである。「子の身になった母」の身になることが、自分自身になるということなのだ。言語発生のこの演劇的な始原に潜む「優しさ」「懐かしさ」を感じさせない文学など文学ではない。その文学をもっとも強く感じさせたのが、20世紀後半においては舞台芸術だったのであり、それはいまも続いている。…
天井桟敷第一回講演は『青森県のせむし男』。『大山デブコの犯罪』、『毛皮のマリー』と続く。すべて67年。土俗的な見世物の復権は、大学教授をはじめとする知識人に毛嫌いされた。誰もその底に人間存在への問いが潜んでいるとは思わなかった。痛烈な現代批判が潜むとも知らなかった。知っていたのは欧米の観客だったわけだが、欧米に滞在する日本の知識人はその反応を日本に伝えなかった。おそらく嫉妬したのだ。
ベジャールがブリュッセルで『春の祭典』を上演し世界的に注目されたのが1959年、ピナ・バウシュのニューヨーク公演が大成功を収めその名が世界に轟いたのが85年、寺山の死の翌々年である。70年代前半、欧米の実験演劇の世界に旋風を起こした寺山の活躍はちょうどその間に収まる。
ベシャール、テラヤマ、ピナ・バウシュの流儀はむろん異なる。だが、共通しているのは、さまざまな人生のさまざまな破片をコラージュしてゆくその方法であり、接着剤として用いる音楽と舞踊のその使い方である。破片は――しばしば幼年時代を介して――垂直に人々の胸を裂き、音楽と舞踊がそれを優しく懐かしく縫い合わせてゆく。人間存在への根本的な認識において、彼らの手法が通い合うことは疑いない。
だが、誰もそういう文脈で寺山を論じようとはしなかった。
21世紀は寺山を必要とする。本格的に論じられるのはこれからである。
――三浦雅士、同上
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人間は誰しも、鋳型にすっぽりハマり込むような単純なつくりをしていない。誰もが唯一無二の多面体なのだ。そんな「ひとりぼっち」の存在をおもしろがって、コラージュし、つなぎあわせ、優しくて懐かして不思議な世界を取り戻すこと。年齢同一性障害にして職業同一性障害でもある寺山のなしてきた仕事は、平凡錯覚症を奨励する現代への強烈なアンチテーゼであり続けるのだ。
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特別展「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」
神奈川近代文学館にて、11月25日(日)まで開催中
https://www.kanabun.or.jp/exhibition/8506/
https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g661305-d1423660-i416092436-Shuji_Terayama_Museum-Misawa_Aomori_Prefecture_Tohoku.html 【アングラな雰囲気に包まれて寺山を知る】より
東京から二度目の訪問。建物の外観、そして展示室の雰囲気が秀逸。アングラそのものの独特のデザインと雰囲気。見世物小屋のようなわくわく感も感じる。展示室にある机の引き出しの中には、手書きの現行や関連の新聞記事など、貴重な資料が詰まっており、薄暗い中で机を開けて、備え付けの懐中電灯で照らして読む。誰かの目を盗んで行っているような錯覚も覚える。寺山修司の作品は文学作品然としたものにはきちんと触れたことはないが、競馬予想のシリーズはすべて読んでいる。すし屋のまさ、ト〇コのももちゃんなど魅力的なキャラクターが繰り広げるやり取りは実に面白かった。そんな寺山ワールドを体感できる記念館。近くまでお越しの際はぜひ立ち寄ってみることをおすすめしたい。クルマで来館するのが楽だが、三沢駅から三沢航空科学館などが路線上にあるバスがあるので利用すると良いだろう。
流すべき流燈われの胸照らす
寺山修司
作者十代の句。これから水に浮かべようという、その一瞬をとらえていて、非凡な才能を感じさせられる。最初の作品集『われに五月を』(作品社・1957)所収。中城ふみ子の『乳房喪失』などを出した作品社の田中貞夫は、晩年新宿で小さなバーをやっていた。何度か、寺山修司の発見者でもあった中井英夫に連れていってもらったことがある。三人とも、もういない。(清水哲男)
さんま焼くや煙突の影のびる頃
寺山修司
死語という言葉があるが、この光景はもはや「死景」といってよいだろう。ただただ懐しい。そして十代の寺山修司は、この光景が「今」だったころに、既にセピア色に焼き付けている。しゃれている。センスの良さである。七輪で焼いた秋刀魚が、無性に食べたくなった。いや、思い切りジュージュー焼けていく秋刀魚の煙をかぎたくなった。『われに五月を』所収。(清水哲男)
鵞鳥の列は川沿ひがちに冬の旅
寺山修司
寺山修司の句の特徴のひとつは、情景の大胆な位置づけにある。まさか鵞鳥が旅に出るわけはないが、そのよちよち歩きの行列を目にして、ひょいと「冬の旅」と位置づけてみせている。言われてみると、なるほど「冬の旅」に思えてくるから、読者としては嬉しくなってしまう。大胆な位置づけにもかかわらず、イメージの飛躍に無理がないのである。修司十代の作品。彼は、つまりはじめから演劇的な空間づくりの才に秀でていたのだった。『われに五月を』所収。(清水哲男)
葱坊主どこをふり向きても故郷
寺山修司
葱坊主(葱の花)を見て、ロック歌手の白井貴子が「わあ、かわいい」と、昼のNHKテレビで言っていた。途端に私は「ああ、そう言われてみればかわいいな」と、はじめて思った。中学生のころの私には、なんだかとても寂しげな姿に見えていた。それこそ同じ坊主頭だったから、どこかで親近感を覚えていたのかもしれない。どうひいき目に見ても、ちっとも立派じゃないその姿が、このまま田舎で朽ち果てる自分の運命を暗示しているようにも見えたのである。とにかく、わけもわからずに大都会に出ることだけを夢見ていた少年の句だ。こう言っても、あの世の寺山修司は苦笑してうなずいてくれるだろう。『われに五月を』所収。(清水哲男)
他郷にてのびし髭剃る桜桃忌
寺山修司
桜桃忌(おうとうき)は6月19日。作家太宰治の忌日。太宰は青森生まれ。昭和初期一番の人気作家となるが、昭和23年玉川上水で心中。享年39歳。墓は三鷹市下連雀の禅林寺にあり、その墓前で毎年盛大な桜桃忌がとり行なわれる。死ぬ前に伊藤左千夫の「池水は濁りに濁り藤なみの影もうつらず雨ふりしきる」の歌を残した話は名高い。今は梅雨の最中。この句は同じ青森出身の鬼才寺山修司が太宰を詠んでいることで興味を引く。おそらくは十代の句であろう。昭和後期に八面六臂の活躍をした寺山修司は、昭和58年5月4日、杉並阿佐谷の川北病院で死去。享年47歳。墓は八王子高尾霊園にある。桜桃忌はともかく、今度、寺山さんの墓参りにでも行くか。(井川博年)
[編者註]「桜桃忌」の命名は、太宰と同郷で入水当時三鷹に住んでいた直木賞作家・今官一(こん・かんいち)による。
没後出版された『想い出す人々』(津軽書房・1983)に、こうある。
太宰の一周忌を終えて、伊馬春部と出て来ると、禅林寺の山門へ、パラパラとさくらの実が落ちてきた。
伊馬君とぼくは、その実をひろった。マッチ棒ほどの茎のついた、緑色の小さな実だった。
「これだ」とぼくは呟き「桜桃忌」といった。
「いいねえ」と伊馬君が答えた。
「桜桃忌」の由来である。
太宰の三回目の命日から、「桜桃忌」といわれるようになった。(中略)ぼくにしては、あれやこれや、桜桃忌のために骨を折ったつもりだが、なにひとつ報いられていない。近頃では、ぼくのほうが門外漢の感じになってしまった。……
秋暁の戸のすき間なり米研ぐ母
寺山修司
炊飯器のなかった頃の飯炊きは、いま思うと大変だった。たいていの家では夜炊いていたが、子供の遠足などがあると、母親は暗いうちから起きだして炊いたものだ。親心である。そんな母親の姿が台所との戸のすき間から見えている。しらじらと明け初めてきた暁の光のなかで一心に米を研ぐ母に、作者は胸をうたれているのである。しかし、作者はこのことを永遠に母には告げないだろう。すなわち、子供は子供としての美学を抱いて生きていくのだ。ところで『新古今集』に、藤原清輔の「薄霧の籬(まがき)の花の朝じめり秋は夕べと誰かいひけむ」という歌がある。もちろん「秋は夕暮」がよいと言った清少納言へのあてこすりだが、ま、このあたりは好きずきというものだろう。あなたは、どちらが好きですか。(清水哲男)
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹
寺山修司
季節は五月。紺碧の空高く、一羽の鷹が悠々と旋回している。見上げていると、雄々しい鷹の気概が地上の矮小な心の持ち主を叱咤し、律しているように感じられる。そのあまりにも雄渾な鷹の姿が目に焼きついて離れず、床についたいまも自分を支配しつづけてやまない……。「統ぶ」は「すぶ」。句意はこのようなものだろうが、作者十代の作品というから驚く。描きたい世界を描いて、過不足なく完璧である。一般に鷹は冬鳥とされ種類も多いから、五月に舞う鷹といっても、具体的なイメージは湧いてこない。おそらくは作者も、具体的な鷹を指し示したつもりはなかっただろう。「鷹」という言葉から連想される普通の映像であればよく、現実的に鷹が飛んでいたというよりも、寺山修司という個性が理想的な鷹を創造して、大好きだった五月の空に飛翔させたのである。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)
わが夏帽どこまで転べども故郷
寺山修司
観賞ならぬ感傷。中学から高校時代にかけて、偶然の契機から見知った才能を忘れられない二人は、ともに故人となった。一人は漫画の小野寺章太郎(後の石ノ森章太郎)であり、もう一人は俳句の寺山修司であった。小野寺章太郎は「漫画少年」「毎日中学生新聞」で、寺山修司は「螢雪時代」の投稿欄で作品と名前を知った。私も投稿していて、二人には、いつも負けていた。思い返してみると、小野寺も寺山も、才能は秀抜だったとしても、ともに寂しい少年であったような印象がある。田舎の子ゆえの寂しさが、だからこその都会的センスへの渇望が、作品を紡ぎだすバネになっていたのだと思う。戦後間もなくの(純白の)「夏帽」だなんて、映画のなかの誰かがかぶっていたかどうかくらいのもので、句作した当人も目撃したことはなかったろう。そのあたりの田舎者ならではの「憧れのいじらしさ」が、修司の句には散見される。そして、この「いじらしさ」は、我ら全国の投稿少年たちの心情にも共通していた。修司を評して「アンファン・テリブル」と言った人もいるけれど、そうだったろうか。田舎の子が、何事かをなさんと欲するならば、そんなポーズを取るしかなかったということでしかないだろう。私がこの句を好きなのは、そんなポーズが隠しようもなく露われていて、とても「いじらしい」からである。俳誌「麦」(1954年9月号)に初出。(清水哲男)
私生児が畳をかつぐ秋まつり
寺山修司
幼いころに父親を失った作者が、「私生児」に関心を抱いたのは当然だろう。関心の持ち方も、どちらかといえば羨望を覚えるニュアンスのそれであった。彼ほどに父親の不在にこだわり、また母親の存在にこだわった表現者も珍しい。作品のなかで、何度も母を殺している。この句は、二通りの解釈が可能だ。一つは、主人公が畳屋の職人で、秋祭の最中にも仕事に追いまくられているという図。他の若い衆は威勢よく神輿をかついでいるというのに、畳をかつがなければならない身の哀しさ。もう一つは、まさに字義通りに、秋祭でひとり実際に畳をかついでいる男という解釈。外国の実験映画に、波打ち際でひたすらタンスをかついで歩くだけの男たちを撮影した作品があった。日常感覚を逸脱する奇妙なリアリティを感じた覚えがある。句は、その世界に近い。……と、二通りに読んでから、今度は二つの解釈を合体させる。すると、寺山修司の意図した世界が見えてくる。日常的な哀話が下敷きとなって、非日常的な男の行為が目の前に出現すると、句は一つの現実的なオブジェのように起き上がってくるのだ。狂気の具象化と言ってもよいだろう。『花粉航海』(1975)所収。(清水哲男)0
卒業歌遠嶺のみ見ること止めむ
寺山修司
作者の生きた年代からすると、戦後もまだ数年というときの卒業式だ。歌っている卒業歌は、どこの学校でも『仰げば尊し』と決まっていた。その一節には「身を立て名を揚げ、やよ励めや」とあり、卒業生の理想的な未来像が指示されている。で、歌いながら「遠嶺のみ見ること止めむ」というのだから、明らかに寺山少年は、このフレーズに反発している。同じころに「たんぽぽは地の糧詩人は不遇でよし」と書いた少年だもの、なんで、旧弊な出世主義的理想像にうなずくことができようか。その意気や、よしである。昔の少年の反骨精神、純情とは大抵このようなかたちをしていた。ただし、実業の世界ではなかったにせよ、青森から東京に出てきた後の寺山修司の仕事ぶりを思うとき、私は複雑な心で掲句を見つめざるを得ない。彼ほどに「身を立て名を揚げ、やよ励めや」と、詩歌や演劇活動に邁進した男も珍しいからだ。この句を作ったときに、既にして彼は、別の意味での立身出世の「遠嶺」のみは、しっかり見ていたのだろうか。でも、そんな意地悪な味方をするのは止めにしよう。この「純情」こそを味わえばよいのだと、一方で私の心はささやきはじめている。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(清水哲男)
軒燕古書売りし日は海へ行く
寺山修司
寺山修司の命日が、また巡ってきた。四十七歳か、若かったなア。もうカバーも背のところが千切れてしまい、ボロボロの『われに五月を』を本棚から取り出す。東京は千代田区の作品社から出た最初の詩歌集だ。奥付を見ると定価は200円。このとき、寺山さんはネフローゼで明日をも知れぬ命だったという。中井英夫と版元の田中貞夫が、なんとか生きているうちにと作ってあげた本だ。三人とも亡くなってしまったが、私には三人とも面識があるだけに、この本を開くのがつらい。五月という明るい季節だから、余計につらいのか。寺山さんの葬儀の日も、よく晴れていたっけ。寺山さんの在籍した早稲田大学の応援歌さながらに「紺碧の空」が青山斎場の上にまぶしく広がっていた。生活のために本を売ったことのある読者には、この句の悲しみがわかると思う。本など売れば安いものだから、大切な本でもいくらにもならない。そのいくらでもない金を握りしめて、呆然とした気分で海を見に行く。軒の燕のにぎやかな様子が、作者の呆然を際立たせている。しかし、おそらくは寺山流のフィクションだ。でも、それでよい。文字だけで何事かをなさんとした若き田舎者の懸命の、しかし懸命とは悟られぬフィクションの力と美しさが、掲句にはある。この表現の涌いてきた源を、常識では豊かな才能と言う。思えば、寺山さんは懐かしさをでっち上げる名人だった。どのようなジャンルにあろうとも、遂に感性的に一貫していたのは郷愁だけであった。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)
車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて
寺山修司
修司、十代の作。当時の彼の手にかかると、どんなに地味な日常的景観でも、たちどころに素敵なシーンに変貌してしまう。掲句の場合だと、男が馬車か荷車の下にもぐり込んで、ちょっとした車輪の不具合を応急的に繕(つくろ)っているにすぎない。昔の田舎道では、たまに見かけることのあった光景だ。この変哲もないシーンに、作者は「たんぽゝ」を咲かせ、男の「頬」をくっ「つけて」みせた。実際の男は車輪の修繕に懸命になっているわけだが、作者には修繕などは二の次で、その男が「たんぽゝに頬つけて」いることこそが重要なのだ。これで、泥臭い現実が、あっという間に心地よいそれに変換された。作者はよく「現実よりも、あるべき現実を書く」と言っていたが、そのサンプルみたいな句と言ってよい。さらには「あるべき現実」という点からすると、このシーンを丸ごと虚構と受け取っても構わないだろう。むしろ、そう読むほうが正しいのかもしれない。というのも、句の「車輪」は、どうもヘルマン・ヘッセの『車輪の下』から持ってきたような気がしてならないからだ。最近ではヘッセの国・ドイツでも読まれなくなっていると聞くが、作者の少年時代ころまでは、世界的に読まれた作品だった。車輪の下に押しつぶされていくような、青春期の柔らかい心の彷徨と挫折を描いた自伝的青春小説である。この小説を句の背景にうっすらと置いてみると、実景にこだわって読むよりも、切なくも甘酸っぱい青春性が更に深まってくる。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)
燕の巣母の表札風に古り
寺山修司
修司、十代の句。この人にしては、珍しく写生的で、情景のくっきりとした句だ。軒先に燕が巣を作った。子燕たちが鳴き立てているので、見るともなしに見やったというところか。当たり前のことながら、軒下には「表札」がかかっている。両者は、同時に視野の中にある。でも、たいていの感受性ならば、元気な子燕の姿に微笑して、表札などは気にも止めずに立去ってしまうだろう。たとえそこに、父親のいない家庭を示している「母の表札」がかかっていようともだ。平凡な日常にあって、親の名前の書いてある表札をしげしげと眺めるなど、少なくとも私には経験がない。だが、ここでしぶとく一粘りするのが修司少年の詩心なのである。元気な子燕と母親の表札との取りあわせから、何か普遍性のある物語が紡ぎ出せないものかと粘るのだ。この取りあわせ自体が、既に十分に物語性をはらんではいる。しかし、これを下手に読者に突き出すと、単に同情を買いたがっているかのような、ひどくあざとい句になってしまう。その臭みを消すためにはどうすればよいのかと、下五をだいぶ考えたのではなかろうか。で、しごく平凡に見える「風に古り」と置くことにした。故意に、凡庸と思われる言葉を置いたのである。これで取り合わせの臭みは消え、さりげない哀感が滲み出てくる仕掛けが完成したというわけだ。ま、こんなふうに句を分解して考えるのは悪趣味かもしれないが、掲句に限らず、さりげなさを演出する俳句のダンディズムは、おおかたこのような形をしているのだろうと思ったことである。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)
莨火を樹で消し母校よりはなる
寺山修司
無季句としておくが、高校卒業の日を題材にした句だろう。すなわち「母校はなる」は卒業の意だ。しかし下五を「卒業す」としたのでは、あっけらかんとし過ぎてしまい、青春期の屈折した心情が伝わらない。たぶん作者は、高校生活をかなりうとましく感じていたのだろう。しかし、全部が全部うとましかったわけでもない。こんな学校なんて、とは思っていても、いざ卒業ということになると、去り難い気持ちもどこかに湧いてくる。式典が終了しクラスも解散、後は帰宅するだけというところで、校庭の片隅か裏門のようなところでか、クラスメートからひとり離れて「莨(たばこ)」に火をつけた。制服のカラーのホックを外し、第一ボタンを外して、不良を気取った例の格好で……。で、喫い終わった莨火を消すときに、地面で踏み消せばよいものを、わざわざ「樹」になすりつけたのである。この消し方に、母校への愛憎半ばした粘りつくような心情が込められているわけだ。さらっと「あばよ」とは別れにくい心情を、力技でねじ切るようにして樹に莨火をなすりつけている。このセンチメンタリズムは、たしかに青春のものである。今日は、全国の多くの高校で卒業式が行われる。現代の高校生は、どんなふうにして学校への複雑な思いを表現するのだろうか。いや、そもそも寺山修司のころのように、屈折した心情を抱いている生徒が多くいるのだろうか。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)
胸痛きまで鉄棒に凭り鰯雲
寺山修司
校庭の隅で鉄棒を握ったのは、せいぜい中学生くらいまででしょうか。あの冷たい感触は、大人になっても忘れることはありません。胸の高さに水平にさしわたされたものに、腕を伸ばしながら、当時の私は何を考えていたのだろうと、感慨に耽りながら、掲句を読みました。「凭り」は「よれり」と読みます。句に詠われているのも、おそらく中学生でしょう。いちめんの鰯雲の空の下、胸が痛むほど鉄棒に身をもたせたあと、鉄棒をつかんで身を持ち上げ、中空に浮いた高所から、この世界を見渡しています。十五歳、放っておいても身体の奥から、生きる力がとめどもなく湧き出てきます。しかし、その勢いのそばで、かすかな切なさが、時折せりあがってきていることにも気づいています。校庭のずっと先、校舎の前に、ひとりの女生徒がたたずんでいます。胸の痛みはおそらく、鉄棒のせいではないのです。この思いにどのような意味があり、自分をどこへ運んでゆくのかと、甘美な疑問がくりかえし湧き上がってきます。まちがいなくこのことが、自分が生まれてきた理由のひとつであるのだと確信し、その確信を中空に放り出すように、さらに鰯雲のほうへ、身体を持ち上げます。『寺山修司全詩歌句』(1986・思潮社)所収。(松下育男)
アカハタと葱置くベット五月来たる
寺山修司
修司が一九八三年五月四日に亡くなってから、もう二十四年になる。享年四十七歳。十五歳頃から俳句を作りはじめ、やがて短歌へとウエイトを移して行ったことはよく知られている。掲出句は俳誌「暖鳥」に一九五一年から三年余(高校生~大学生)にわたって発表された二百二十一句のなかの一句(「ベット」はそのまま)。当時の修司がアカハタを実際に読んでいたかどうか、私にはわからないし、事実関係はどうでもよろしい。けれども、五〇年代に高校生がいきなり共産党機関紙アカハタをもってくる手つき、彼はすでにして只者ではなかった。いかにも彼らしい。今の時代のアカハタではないのだ。そこへ、葱という日常ありふれた何気ない野菜を添える。ベットの上にさりげなく置かれている他人同士。農業革命でも五月革命でもない。修司流に巧みに計算された取り合わせである。アカハタと葱とはいえ、「生活」とか「くらし」などとこじつけた鬱陶しい解釈なんぞ、修司は最初から拒んでいるだろう。また、アカハタ=修司、葱=母という類推では、あまりにも月並みで陳腐。さわやかな五月にしてはもの悲しい。むしろ、ミシンとコーモリ傘が解剖台の上で偶然出会うという図のパロディではないのか。すでにそういう解釈がなされているのかどうかは知らない。同じ五月の句でも、誰もが引用する「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」も、ほぼ同時期の作である。いろんな意味で、修司には五月がよく似合う。病気をした晩年の修司は、再び俳句をやる意向を周囲にもらしていたが、果してどんな俳句が生まれたであろうか。『寺山修司コレクション1全歌集全句集』(1992)所収。(八木忠栄)
思ひ出すには泉が大き過ぎる
加倉井秋を
先入観というもの。俳句をつくる上でこんなに邪魔になるものはない。泉といえば即座に水底の砂を吹き出して湧き出てくる小さな泉を思ってしまう。先入観、即ち、先人の見出したロマンを自分の作品に用いるのは共通認識を見出すのがた易いからだ。共通認識を書くのは安堵感が得たいため。そうよね、と顔見合わせてうなずくためだ。そこに自己表現はあるのか。共通認識の何処が悪い、むしろそこにこそ俳句の庶民性、俳諧性が存するのだと、居直りとも逆切れとも取れる設定が、季題の本意という言い方。われら人間探求派は季題をテーマからは外したが、人間詠というテーマの背景としてはそれを援用している。寺山修司の「便所から青空見えて啄木忌」のように季題の本意を逆手に取って、古いロマンを嗤う方向もあるが、これも逆手に取ったというあざとさが臭う。中心に据えようと援用しようと逆手に取ろうと、「真実の泉」には届かない。目の前の泉そのものを書き取る。答はすぐそこにありそうなのだが、実は何万光年もの距離かもしれない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)
書物の起源冬のてのひら閉じひらき
寺山修司
意味はそれほどに複雑ではありません。てのひらを閉じたり開いたりしていたら、なんだかこれが、書物のできあがった発想の元だったんじゃないかと、感じたのです。では、てのひらの何が、書物に結びついたのでしょうか。大きさでしょうか、厚さでしょうか、あるいは視線を向けるその角度でしょうか。また、てのひらを開いたり閉じたりするたびに違う思いがわいてくる。そのことが、本のページを繰る動作につながったのでしょうか。それとも、てのひらに刻まれた皺のどこかが、知らない国の不思議な文字として、意味をもって見えたのでしょうか。「冬の」という語が示しているように、このてのひらは、寒さにかじかんで、ゆっくりと開かれたようです。その動きのゆるやかさが、思考の流れに似ていたのかもしれません。ともかく、書物はなぜできたのかという発想自体が、寺山修司らしい素直さと美しさに満ちています。そんな感傷的な思いにならべて、具体的な身体の動きを置くという行為の見事さに、わたしはころりと参ってしまうのです。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)
母校の屋根かの巣燕も育ちおらむ
寺山修司
おらむの「お」は原句のまま。「小学校のオルガンの思い出」の前書がある。破調の独特の言い回しに覚えがあり、どこかで見た文体だと思ったら橋本多佳子の「雀の巣かの紅絲をまじへをらむ」に気づいた。かの、おらむがそのままの上に、雀の代りに燕を用いた。多佳子の句は昭和二十六年刊の『紅絲』所収。修司のこの句は二年後の二十八年。そもそも多佳子が句集の題にしたくらいの句であるから修司が知らないで偶然言い回しが似たということは考えがたい。修司、高校三年生の時の作品である。内容を比べてみると、多佳子の句は、結婚する男女は赤い糸で結ばれているという故事を踏まえ、切れてしまった赤い糸が今雀の巣藁の中に混じっているという発想。巣の中の赤い糸に見る即物の印象から一気に私小説のドラマに跳ぶ。修司の方はきわめて一般的な明解な思い。しかし、母校という言い方にしても、「かの」にしてもこの視点はすでに卒業後何年も経ってのものを演出している。十八歳にしてこの演出力はどうだ。典拠を模倣し、演出し、一般性をにらんで娯楽性を考える。寺山の芝居も映画もこのやり方で多くのファンを掴んだ。「だいだいまったく新しい表現なんてあるのかい」という寺山の声が聞こえてくるようだ。しかし、と僕はいいたいけれど。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(今井 聖)
わが夏帽どこまで転べども故郷
寺山修司
夏帽には、麦わら帽、パナマ帽、登山帽など各種あるけれど、夏の帽子のなかでもこの句にふさわしいのはいったい何だろうか? 故郷へ転がるのはやはり麦わら帽か。夏帽が他でもない故郷へと転がるあたりが、いかにも寺山節であり、寺山の限界でもあったと言っていいかもしれない。中七・下五のイレギュラーな調べが意識的に逆に活かされている。転がれど転がれど、行き着けない故郷。この場合、故郷をあっさり「青森」などと解釈してしまうのは短絡である。寺山は「故郷」という言葉をたくさん用い、多くの人がそれを論じてきたけれど、塚本邦雄がかつて指摘した言葉が忘れがたい。「彼の故郷が田園、あるひは日本もしくは韻文、定型、その呪文性を指すことは自明である」というのだ。もちろん異論もあるだろう。詩歌に限らず演劇、映画、小説……そして競馬さえも、彼にとっては故郷だったと思われる。故郷に向かって夏帽は転がる。仮に行き着けたにしても、もはやそこは彼の安住の地ではない。だから、とどまることなく転がりつづけ、走りつづけたのである。寺山の初期(高校時代)歌篇に、よく知られた「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」という傑作がある。掲出句との類想は言うまでもない。晩年の寺山修司は、俳句への意欲を語ることがあったけれど、さて存命だったらどんな句を作ったか? 没後25年にまとめられた未発表短歌には、期待を裏切られたという声が少なからずあったけれど。『寺山修司コレクション1』(1992)所収。(八木忠栄)
テレビに映る無人飛行機父なき冬
寺山修司
映画「網走番外地」は1965年が第一作。この映画が流行った当時世間では学生運動が真っ盛り。高倉健が悪の巣窟に殴りこむ場面では観客から拍手が沸いた。世をすねたやくざ者が義理と人情のしがらみから命を捨てて殴りこむ姿に全共闘の学生たちは自分たちの姿を重ねて共感し熱狂したのである。この映画はシリーズになり18作も撮られた。数年前、監督の石井輝男さんにお話をうかがう機会があった。監督自身の反権力の思いがこの作品に反映している点はありませんかという問に監督はキョトンとした顔で、まったくありません、映画を面白くしようと思っただけですという答が返ってきた。実は「豚と軍艦」の山内久さんや「復讐するは我にあり」の馬場當さんからも同じ質問に同じ答が返ってきた。文学、芸術、自己投影、自己主張というところから離れての娯楽性(エンターテインメント)。良いも悪いもこれを商業性というのか。寺山修司の俳句にも同じ匂いがする。ここにあるのは「演出」の見事さ。作者の「私」を完全に密閉した場所でそれが成功するのは俳句ジャンルでは珍しい。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(今井 聖)
大揚羽教師ひとりのときは優し
寺山修司
この句の初出は昭和29年の「蛍雪時代」ということですから、高校3年生の時の作者が、初々しく詠んだ句となります。今では、教師が優しいのはあたりまえというか、優しくなければ問題になるわけですが、当時の教師像というのは、人によって差はあっても、今よりもだいぶ厳格な印象を持たれていたものです。とはいうものの、生来の人のあり方が、たかが半世紀ほどで変わるわけもありません。生徒の前ではいかめしい表情を見せていても、一人になったときには、いつもとは違う穏やかなものをたたえていたということのようです。「大揚羽」のおおぶりな書き出しが、生徒にとっての教師の大きさに、自然とつながっています。また、「ひとり」という言葉から連想されるさびしさも、きちんと「優し」には含まれていて、この教師のこれまでの人生が、妙にいとしく感じられてきます。『寺山修司全詩歌句』(1986・思潮社)所収。(松下育男)
そこより闇冬のはえふと止まる
寺山修司
季節はずれ、冬のハエのあゆみはかったるそうでのろい。ハエがそこからはじまる闇を感じたから、あゆみを止めたわけではあるまい。明るい場所ならばうるさく飛びまわるハエも、暗闇を前にして本能的に身構えてあゆみをはたと止めたのかもしれない。修司の眼にはそんなふうに映ったのだろう。止まったのはハエだが、修司の心も闇とハエを見てなぜか一瞬ためらい、足を止めたような状態になっているのだろう。闇には、冬の何ものか厳しいものがぎっしり忍びこんで蠢きながら、侵入してくるものを待ち構えているのかもしれない。「そこより闇」という冬の闇の入口が、何やら不吉なものとして目の前にある。六・五・五の破調がアンバランスな効果を生み出している。飯田龍太は修司の俳句について「未完の俳人として生を了えたが、生得恵まれた詩情詩魂は稀有のものがあったと思う」と書いている。短歌とちがって、俳句のほうはやはり「未完」であったと私も思う。よく知られた冬の句に「かくれんぼ三つかぞえて冬となる」がある。青森の俳誌「暖鳥」(1951~1955)に発表され、未刊句集『続・わが高校時代の犯罪』として、『寺山修司コレクション1』(1992)に収められた。(八木忠栄)
松籟を雪隠で聞く寒さ哉
新美南吉
立春から二週間あまり経ったけれど、今年の春はまだ暦の上だけのこと。松籟は松を吹いてくる風のことだが、それを寒い雪隠でじっと聞いている。「雪隠」という古い呼び方が、「寒さ」と呼応して一層寒さを厳しく感じさせる。寒いから、ゆっくりそこで落着いて松籟に耳傾けているわけにはゆかないし、この場合「風流」などと言ってはいけないかもしれないけれど、童話作家らしい感性がそこに感じられる。今風のトイレはあれこれの暖房が施されているけれども、古い時代の雪隠はもちろん水洗ではなく、松籟が聞こえてくるくらいだから、便器の下が抜けていていかにも寒々しかった。寺山修司の句「便所より青空見えて啄木忌」を想い出した。南吉は代表作「ごんぎつね」で知られている童話作家だが、俳句は四百句以上、短歌は二百首ほど遺している。また宮澤賢治の「雨ニモマケズ」発見の現場に偶然立ち会っている。他に「手を出せば薔薇ほど白しこの月夜」がある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)
おもいきり泣かむここより前は海
寺山修司
1983年5月4日。寺山修司が逝ってから三十年が経ちました。俳句、短歌、詩、脚本、劇団主宰、映画監督、競馬評論、批評。「ぼくの職業は寺山修司です。」このマルチ表現者の出発が俳句であったこと、そして、寺山の句作は十五歳から十九歳の間に限られ、「二十歳になると、憑きものが落ちたように俳句から醒めた」事実はランボーのようです。掲句は無季ですが、昭和27年1月刊の自選句集「べにがに」所収なので、青森の冬の海を情景としているのかもしれません。しかし、俳句は読み手のものでもあるので、それぞれの場所の好きな季節をイメージして読んでいいと思います。私は、波打ち際、砂と海、人と海、といった境界に着眼します。これは、人間と自然という境界でもありながら、人の流す涙が、あたかも川の流れのように海に注いでいく情景です。波打ち際に立って泣くとき、心に流れる泪川は瞳という河口から海へ注いでいく、そこに浄化作用(カタルシス)を感じていく。十七歳の寺山には、そんな思いがあったかもしれません。後年、寺山は、自身の少年時代の句作について、「一連の句に共通しているのは翳りのなさである。それは、私の単独世界であるよりは、『少年の世界』の一般的な表出にすぎなかった」と自己省察しています。つづけて、「それでも、そこにはまさしく私のアリバイがあったような気がするから不思議なものである。青森の田園の片隅にとりのこされた一人の少年は、いまも『次の一句』を思いうかべて瞑想にふけっていることだろう。そして、彼をおいてけぼりにしてきた、もう一人の私だけが年をとり、豚箱入りし、離婚をしたり、賭博や酒に耽溺したりしてきたのである。」これは、映画『田園に死す』で、坊主頭の中学生の私と映画監督になった私とが、田圃の中で将棋を指している一シーンに重なります。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(小笠原高志)
影を出ておどろきやすき蟻となる
寺山修司
日影から日向に出て、おどろきやすい蟻となっている。光と熱の変化に、蟻は驚いているのかもしれない。しかし、蟻に、驚くという感性があるのだろうか。また、蟻の驚きを、作者は見たというのだろうか。中七下五が引っかかります。作者は寺山修司だから、これは写生のふりをした虚構であることは十分に考えられます。寺山は、現実と虚構を反転させることを得意としたからです。例えば、現実には生きている母の死亡広告を出したり、劇画「あしたのジョー」の作中で死んだ力石徹の葬式を現実に取り仕切ったりして、現実と虚構の境界を無化する企てを試み続けました。もし、掲句の「蟻」を「人」に入れ替えたらどうでしょう。「影を出ておどろきやすき人となる」。 家を出て 、町に出て、驚きやすい人になる。これなら、『家出のすすめ』『書を捨てよ、町へ出よう』の作者の句として筋は通ります。『花粉航海』(1975)所収。(小笠原高志)
母とわれがつながり毛糸まかれゆく
寺山修司
母と向き合っての毛糸繰りである。両手にかけた毛糸を母が繰りとって玉にしてゆく。子どものころ、よく手伝わされたものだ。器用に母がまきとってどんどん大きくなる毛玉、その作業はおもしろいが、手持ち無沙汰であるこのお手伝いは必ずしもうれしいものではなかった。母と一本の毛糸で結ばれて、子は逃げることができない! 母を短歌や俳句に多く詠んだ修司らしい句である。何事につけてもまずわが子のことを考える母親と、自分のことをやりたい(遊びに忙しい)子どもの立場のちがい。しかし、一本の毛糸でつながっている母と子、それは意味深長であり、寺山文学には欠くことのできないテーマであったと言える。子の成長とともに、やがてその毛糸は修司の場合にかぎらず、無残なまでに変化してゆく運命にある。それが母と子のさだめ。掲出句は当初「アサヒグラフ」1985年10月10日増刊号に掲載された。他に「母が編む毛糸がはやし寄りがたき」がある。未刊句集『続・わが高校時代の犯罪』として、『寺山修司コレクション1』(1992)収められた。(八木忠栄)
目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
寺山修司
鷹とは、タカ科の比較的小さ目のものを指す通称である。タカ科に分類される種にて比較的大きいものをワシ、小さめのものをタカとざっくりと呼び分けているが、明確な区別ではない。日本の留鳥としてオオタカ、ハイタカ、クマタカなどの種がいて、秋・冬には低地でみられる。冬の晴れ渡る空に見つけることが多いので鷹だけだと季語は「冬」の部である。荒野を目指す青春の空に大きく鷹が舞っている。五月のエネルギーが、羽ばたけ、羽ばたけと青年の心を揺さぶる。飽きずに眺める大空には舞う鷹、目をつむっても残像が舞っている。今この新緑の中に何かに魅せられた様に多くの青年達が旅立ってゆく。青年修司は二十歳で俳句を断ち別の思念へと旅立って行った。他に<恋地獄草矢で胸を狙い打ち><旅に病んで銀河に溺死することも><父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し>など修治の青春性が残されている。「俳句」(2015年5月号)所載。(藤嶋 務)