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西原天気の句

2024.09.26 11:42

鯖缶の天地かがやく九月かな  西原天気

空腹をかたちにすれば昼の月  同

図体をもてあましたる穴惑ひ  同


https://note.com/dzv00444/n/nab6dfb9275a1 【西原天気『けむり』】より

西原天気『けむり』(西田書店)

 西原天気さんの句集。氏は『人名句集 チャーリーさん』を私家版で出版しているが、これが実質の第1句集とのこと。1955年兵庫県生まれ。1997年に「月天」句会に参加し俳句と出会う。98年から2007年まで「麦の会」に参加、11年春までは「豆の木」に参加。何より2007年に氏が中心として立ち上げた俳句Webマガジンの「週刊俳句」は、インターネットでの俳句の情報発信の中心的役割を担っている。

本句集の特徴として非常に装丁が面白く、色違いの紙を綴り一集をなしている。ポップで手造り感のある素敵な句集である。集中の句の印象としては「自由自在」、主義主張、お題目を唱えるのではなくパイプを吹かしながら(実際に氏はパイプを吸われる)肩の力を抜いて俳句を楽しまれている印象がある。

勿論。言葉の斡旋については十分注意が払われている。私が印を付けた句は「とーんと」出来たような俳句のほうが多かった。ふわふわしたような読後感を持ち、まさに句集のタイトルの「けむり」の印象である。敢て言うと、リズムがよい俳句が多いのだと思う。それが句の「軽み」とマッチしている。

 決して「季題」を中心に俳句を詠んでいるわけではないので、私の信条と一致しない句も多い。ただ楽しい俳句が多いのも確か。是非、このような句の楽しみ方も、味わって頂きたい。

これもあのデュシャンの泉かじかめり 天気

季題は「悴む」で冬。「デュシャンの泉」とは便器のことである。「20世紀でもっとも最もインパクトのあった現代芸術作品」に選ばれている。

 寒い寒い一日、小便器の前に立って用をたすときの感慨。実にさらりとしているが、「デュシャンの泉」が持つ現代を象徴する或る歪みが伝わってくるのではないか。

噴水と職業欄に書いて消す 天気

季題は「噴水」で夏。こちらも不思議な一句。履歴書の職業欄に間違えて噴水と書いてしまい、慌てて消した。噴水を履歴書のどこに書いたのだろうか。もしかして名前が噴水だったのかもしれないし、噴水に関する著作があったのかもしれない。

 全く写生ではないし、そういう季題「噴水」の使い方について疑念を呈される方もいらっしゃると思うが、私は結局「噴水」が持つ、淡淡としたイメージが伝わってくれば勝ちだと思う。清涼感を感じ、「夏」の俳句であると思う。


西原天気の句

 十月の雨のぱらつく外野席

                           西原天気

野球観戦だ。他の月の野球ではなくて、「十月」のそれである。つまり、ペナントレースの順位争いもおおかた決着がつき、作者はいわゆる消化試合を観ている。ゲームは盛り上がりに欠け、観客席の人もまばら。おまけに雨までがぱらぱらと降ってきた。なんともしょんぼりとした光景だが、野球ファンにとってはこの寂しさにもまた、捨て難い味がある。1975年10月、熱狂的な巨人ファンだった私は、後楽園球場で最終戦を観た。長嶋新監督率いるジャイアンツは首位の広島に30ゲーム近くも離されて、既に球団初の最下位が決まっていた。ウイークデーにして小雨のデーゲーム、観客は3000人もいなかったと思う。いっしょに行った友人と「きょう来ているのが本当の巨人ファンだよな」と言いながらも、やはりやる気の無い選手たちの試合ぶりはつまらなかった。集まった観客の期待はみな、試合後に長嶋がなんと挨拶するのかに集まっていて、試合後のグラウンドに監督コーチ以下選手たちが一列に並んだときに、その日はじめて拍手がわいたのだった。だが期待は見事に裏切られ、長嶋は一言も発せずにぺこりとお辞儀をしただけでさっさと引き揚げてしまったのである。雨の中に取り残されたファンは一瞬ぽかんとし、次には口々に怒号をあげていた。「長嶋、出て来い、何とか言え」。あれほどに空しい観戦はなかった。この句の作者は、具体的にはどんな空しさを覚えたのだろうか。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)

 二科展へゴムの木運びこまれをり

                           西原天気

展覧会への絵の搬入搬出は多く詠まれるところ。この句は違う。どこにでもあるような、なんとなく展覧会の空間にも合うようなゴムの木が運び込まれているところが好きだ。二科展という語が秋の季語でなんとなく仕方なく季語を用いているようなところに共感する。だいたい「芸術の秋」というなんだかよくわからない理由で二科展が秋季に催されることになったか、或いは展覧会が結果的に多いから芸術の秋と呼ばれだしたか、どちらかよくわからないが、どちらにしても二科展が秋季にあらねばならない必然性は薄いことだろうにと思うのだ。作者はそんな「季語」を据えた。季節の本意を目的的に書くつもりはまったく無くても一句から季語を排除できないそんな「気弱」なところが好きだ。たとえば楸邨も草田男も誓子もその作風の方法的魅力の中に季語が重要な位置を占めているわけではないのに無季の作品はほとんどない。季語を捨てられない理由は三者三様だろうが、現実空間を描写することを是としているという点では共通しているからその点で季語が有効だという認識を持っていたことは間違いないだろう。ものを凝視するという素朴な「写生」から離れて、機智だのユーモアだの見立てだののインテリジェンスをふんだんに盛り込んでもやっぱり歳時記掲載の季節の言葉を用いるという折衷に、過渡期としての現代があるような気がする。『けむり』(2011)所収。(今井 聖)

 ほどけゆく手紙の中の焚火かな

                           西原天気

焚火には炎の色と心地よい火の爆ぜる音が重なり、どこか湧き立つ思いになるものだ。なにもかも燃やしておしまい、という豪快な気持ちも焚火の本意だろう。しかし、掲句は焚火のなかの手紙に注目している。手紙だけをまとめて焼いているのか、その他のものと同時に焼いているなかで手紙をクローズアップしているのか。どちらにしても木片と違い、紙が燃えるときに音は出ない。しずしずと縮まりながら炭化していく。掲句は「ほどけゆく」としたことで、封筒から手紙へと火が移り、ひもといていくような時間があらわれている。炎は束になった紙をほどき、文章はばらばらの文字の集まりとなり、そしてひと文字ひと文字をしずかに浸食していく。ついさっきまで文字だった煙が、冬の空へと吸い込まれていく。『けむり』(2011)所収。(土肥あき子)

 短日のどの折鶴もよく燃える

                           西原天気

それにしてもよく燃えるな、という感じだろうか。千羽鶴を火にくべる背景はいずれにしても哀しいものと思われるが、目の前の火の勢いという現実に、一瞬気をとられたような印象を持った。燃えさかる炎をじっと見ていると、心が昂ぶることも、逆に心が鎮まってくることもあるように思う。そんな作者に、短日の夕日があかあかとさしている。あと一週間足らずで冬至、日の短さをいよいよ実感する頃合となり、なにかと気ぜわしくもある。冬の日差しは遠くて弱いが、日の短さも冬至が底、と思えば少し励まされるような気もする。『けむり』(2011)所収。(今井肖子)

 秋燈のひたひた満ちてゐる畳

                           西原天気

現在の我が家のリビングの床は六十センチ四方のタイルが敷き詰められていて、汚れたら思いきり水拭きできて楽だけれど、照明が床に反射していつも明るい。思えば畳は、四季折々の光がしみこんだり流れたり明暗の表情を持ち、夜の灯はゆっくり部屋を包んでいった。ことに秋も深まってくると色濃い秋日に濡れ、やがてうすうす寒くなりつつ暮れた部屋が灯されると、そのあかりは静かに夜長の時を満たしてゆく。数えてみると、三年前に建て替えた現在の家が、仮住まいも含めるとちょうど十軒目の住まいとなるが、畳の部屋が無いのは初めてだったなと、今さらながらやや淋しい。『けむり』(2011)所収。(今井肖子)

 県道に俺のふとんが捨ててある

                           西原天気

わあ、えらいこっちゃ。だれや、こんな広い路のど真ん中に、俺のふとんをほかしよったんは。なんでや。どないしてくれるんや……。むろん情景は夢の中のそれだろう。しかし夢だからといって、事態に反応する心は覚醒時と変わりはない。むらむらと腹が立ってくる。しかし、こういう事態に立ち至ると、「どないしてくれるんや」と怒鳴りたくなる一方で、気持ちは一挙にみじめさに転落しがちである。立腹の心はすぐに萎えて、恥辱の念に身が縮みそうになる。この場から逃げだしたくなる。ふとんに限らず、ふだん自分が使用している生活用具などがこういう目にあうと、つまり公衆の面前に晒されると、勝手に恥ずかしくなってしまうということが起きる。手袋やマフラーくらいなら、経験者は多数いるだろう。人に見られて恥ずかしいものではないのに、当人だけがひとりで恥に落ち込んでいく。何故だろうか。この句を読んで、そんな人心の不思議な揺れのメカニズムに、思いが至ったのだった。それにしても「ふとん」とはねえ。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)

 さくらさくら坂田利夫のやうな鯉

                           西原天気

はっはっは、いるいる。水面にぼおーと丸い口を開けてなにやら愛嬌のある目玉がどこに焦点があっているかわからない感じで餌を待っている鯉の顔、「アホの坂田」と舞台に登場する坂田利夫の顔が二重写しになってクローズアップされる。確かに坂田利夫の底抜けの陽気さはさくら満開の春の雰囲気にぴったり。むかし吉本が今のように東京でもメジャーになる前、関西の深夜の番組で暴れまわっていたのが、坂田利夫と間寛平だった。当時は吉本興業がテレビの中心を席巻するとは夢にも思わなかった。それでも坂田利夫は昔と相変わらずのポジジョンで、池の中から時折浮かび上がってくる風情があっていい感じだ。今年の桜はいつごろが見ごろかな?『はがきハイク』(2013年5月号)所載。(三宅やよい)

 東京ははたらくところ蒸し暑し

                           西原天気

毎日都心に通勤しているが、「はたらくところ」というのは実感だ。東京の都心は生活の匂いがしない。窓のあかない高層ビルの只中に緑はまばら、夏の日の照り返しを受けた舗道を歩くとあまりの暑さに息が詰まる。冷房のきいたオフィスと戸外の気温の落差に一瞬目がくらむほどだ。「はたらく」という忍耐の代償としてお給料がある。と、新聞の人生相談に書いてあったけど、憂鬱な表情で通勤している人たちはどうやって自分をなだめているのだろう。今朝もまた人身事故で電車が遅れるという告知が電光掲示板に流れる。やってられないなぁ、と思いつつ掲句を呟いてみる。『はがきハイク』(2010年7月・創刊号)所載。(三宅やよい)

 人知れず秋めくものに切手帳

                           西原天気

頭の回転のはやい人なら、「秋」を「飽き」にかけて読んでしまうかもしれない。それでも誤読とまでは言えないが、なんだか味気ない読みになってしまう。どこにも「飽き」なんて書いてない。「秋」はあくまでも「秋」である。中学時代、私もいっぱしの(つもり)の切手コレクターであった。半世紀以上経たいまでも、切手専用のピンセットのことや貼り付けるためのヒンジ、ストックブック(切手帳)ならドイツ・ライトハウス社製の重厚な感触など、いろいろと思い出すことができる。なけなしの小遣いをはたいて切手の通信販売につぎ込み、カタログを睨んで一点ずつ集めていたころが懐かしい。そうした熱気の頃を夏とすれば、やがて訪れてくるのは「秋」である。この時季にさしかかると、さながら充実した木の実が木を離れてゆくように、切手への興味が薄れていく。飽きるからではなく、実りが過剰になるからなのだ。つまり「人知れず秋めく」わけだが、この感覚はコレクターを体験しないとわからないかもしれないな。「はがきハイク」(第10号・2014年9月)所載。(清水哲男)

 ひだりより狐の出でし障子かな

                           西原天気

季語は「障子」。これを冬の季語とするのは、まだ冷暖房設備が整わなかったころ、夏は風通しをよくするために外し、寒くなってきてから障子を入れる習慣があったため。こうして整えられるのが「冬座敷」というわけだ。その冬座敷の障子に、いきなり狐が現れた。びっくりするような光景だが、この狐は影絵遊びのそれだろう。貼り替えた真新しい障子は、それでなくとも想像力を刺激してくる。影絵の主もちょっと遊んでみたかったのだろう。私も子供のころに、狐や犬を写しては弟に見せて楽しんだものだった。ただし電気の来ない家に住んでいたので、光源はランプだった。大人であればランプの光源はゆらめいたりするので魅力的と思うかもしれないが、子供にははっきりしない映像がもどかしかった、狐や犬以外にも多くのキャラクターを作ることができたけれど、いまでは狐と犬くらいしか覚えていない。そして現在の我が家には、もはや肝心の障子がないのである。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)