笠井亞子の句
書店員きびきび動く秋の暮 笠井亞子
ちと積んで月見団子を売りにけり 同
鳥渡る文体という体幹へ 同
https://longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20101118,20130718&tit=%8A%7D%88%E4%98%B1%8Eq&tit2=%8A%7D%88%E4%98%B1%8Eq%82%CC 【笠井亞子の句】より
熊穴に入る頃か朱肉の真っ赤なり
笠井亞子
熊も穴籠りする季節になったが、その前の餌を求めて人の住むところまで降りてくるニュース後を絶たない。猛暑でどんぐりが少ないことが原因と言うが、山の近くに住んでいる人達は気が気でないだろう。東京でも奥多摩や秩父では熊と鉢合わせするかもしれず、リュックに熊よけの鈴をつけて歩いている登山者を多く見かけた。印鑑を押す時に使う朱肉は「朱と油を練り合わせ艾(もぐさ)やその他の繊維質のものに混ぜ合わせて作る。」と広辞苑にある。考えてみれば「朱肉」とは不思議な言葉だ。黒のプラスチックケースの蓋をあけるとパカッと真っ赤な朱肉が収まっている。その色の組み合わせにふっと冬籠りする熊に思いが及んだのか。ツキノワグマがくわっと開けた口の赤さは朱肉の赤さ以上に際立つことだろう。人と熊の不幸な接近を思えば「真っ赤なり」の言葉が暗示的でもある。『東京猫柳』(2008)所収。(三宅やよい)
真夏日の名画座冷えてゆくばかり
笠井亞子
炎天下を避けてふらりと入った名画座。話題の新作でもなく、もとより観客の数は少ない。外は焼けるような暑さなのに人気のない映画館の冷房はしんしんと冷えてゆくばかり。ホームビデオの普及で上映された新作を数か月遅れでビデオ屋に並んでいるのを借りてきて、ソファーに寝転がって見ることが多い。日々雑用に追われてなかなか映画館へ行けないが、他の観客とともに暗闇の中で大画面を見上げる映画館の雰囲気は捨てがたい。昔の映画は前編と後編に分かれていて、フィルム交換の時間にロビーに出てコーラを飲んだりトイレに並んだりと悠長なものだった。フィルムが切れたら映写技師が修復をして再開していたっけ。(こんな話をすると年がわかる!)いまやタブレット端末で、電車の中でも映画を見ることができる。銀座の名画座も閉館してしまった。やがて映画館そのものが消えてしまうかもしれない。掲句の「名画座」の響きに冷房の効きすぎた映画館へ一昔前の映画を見に行きたくなった。『東京猫柳』(2008)所収。(三宅やよい)
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-382.html 【【感想】せせらぎがきらきら曼珠沙華になる 笠井亞子】より
せせらぎがきらきら曼珠沙華になる 笠井亞子
【キラキラ・スタディーズ】
西原天気さんと笠井亞子さんの『はがきハイク第10号』(2014年9月)からの一句です。
短詩における〈きらきらの系譜〉というものをときどき考えていて、〈きらきら〉っていうのは短詩のなかでどういう役割や流れをかたちづくってきたんだろうということをかんがえたりするんです。
たとえば〈きらきら〉のモチーフを好んで使う歌人に穂村弘さんがいるんですが、
窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった 穂村弘
というふうに〈きらきら〉をとても効果的に使っています。
この歌では、〈きらきら〉が「すべてをゆるさない手紙」から「すべてをゆるす手紙」へ〈変身〉する触媒となっていることがわかります。
触媒とは、それ自身は変化しないけれど、他の物の化学反応をひきおこし、反応速度をあげたり遅らせたりするものです。
ここでは「きらきら」が触媒となり、手紙の反応速度を加速させたわけです。
笠井さんの句における「きらきら」もまた触媒として機能しているようにおもいます。
語り手が、「せせらぎ」を視たその後に「きらきら」を触媒とすることによって「せせらぎ」は「曼珠沙華」になったのです。
どちらの歌/句も結語に「になった」「になる」と〈変身〉としてまとめられるているのが象徴的だとおもいます。
ただ、どちらの歌/句も、なんとなく「きらきら」があらわれるわけでなく、穂村さんの「きらきら」も、笠井さんの「きらきら」も、きらきらの根拠が提示されていることが大事なのではないかとおもいます。
穂村さんの歌では、「窓のひとつにまたがれば」と越境行為(窓)を身体的に直覚する(またがる)ような行為によって、つまり境界を身体的に越境することによって「きらきら」が出現します。げすな言い方をすると、そうした思想的越境を下腹部で〈性器〉から感じることがこの歌の〈きらきら〉の具体性のレベルをあげているとわたしはおもいます。
一方、笠井さんの句の「きらきら」も上五で「せせらぎが」と小川の流れが陽にさらされることで視覚的まばゆさを語り手が体験しつつ〈きらきら〉が出現することになります。
ここで語り手はおそらく俳句に特権的な視覚をなかば〈きらきら〉に奪われつつも、その視覚の剥奪によって、〈きらきら〉を触媒にふだんは経験しないような新たな〈視覚=直覚〉の世界へと入っているようにおもいます。
〈きらきら〉とは習性化された視覚を無化し、あらたに組織しなおすものでもあるのではないかとおもいます。
きらきらは短詩だけでなく、おそらく文化全体にゆるく共有しているのではないかとも、おもっています。
きらきらは変身としての触媒だといいましたが、たとえば、『美少女戦士セーラームーン』や『少女革命ウテナ』においても〈変身〉シーンや、体内から剣が抜かれる〈変身〉シーン(身体→剣)においては〈きらきら〉していました。
ゆふさりを流るる糸のやうなもの 西原天気
はがきハイクでよく話題にのぼっているレトロな切手。
わたしの切手は、キラキラした笑顔のもしもしでした。
もしもし☆* ☆.。.:*・゜ ゚+*:;;:* *:;;:*+゚
ありがとうございました!
https://tenki00.exblog.jp/4587503/ 【俳句漫遊記107 笠井亞子】より
春今宵オペラかすてら仮住ひ 亞子
こういう句をつくるには、港区に住んでないとダメ。新宿区、渋谷区あたりじゃ、この句の「春今宵」で入って「仮住ひ」で締める、このなんといえない空気は醸せない。多摩地方は論外。
表記のことをとやかく言うのはきらいだけれど、この「かすてら」ほど「かすてら」なものはないというほど、ぴしっと決まっている。
しゃれてます。そして、ちょっと哀しいです。
『月天』第9号(06-12-2)所収。