耳底にせせらぐ水よ山桜
https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2017/09/28/%E3%80%8E%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84%E3%80%8F%E3%81%A8%E7%A6%8F%E9%9F%B3-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%9B%9E%E3%80%80%E8%80%B3%E3%81%AE%E5%BA%95%E3%81%AB%E7%95%99%E3%81%BE%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D/ 【『歎異抄』と福音 第三回 耳の底に留まるところを記す】より
大和昌平
一冊の本が書かれる時、どの著者も最初に書くであろう二つのポイントがある。一つは、どんな問いをもって、何のためにこの本を書くのかという問題意識だ。もう一つは、その問いをもって、どんな方法で書くのかの方法論になる。序に書かれるのは、まずこの二点である。
『歎異抄』の序を見ると、唯円にこの本を書かせた問題意識と、どのように書くのかの方法論が書かれている。短い文章なので、二つに分けて序の全文を読んでいきたい。まずは、前半の問題意識のくだりから。
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◇「ひそかに愚案をめぐらして、ほゞ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを嘆き、後学相続の疑惑あることを思う。幸に有縁の知識に依らずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟を以て、他力の宗旨を乱ることなかれ。」(序)|つらつらと愚考を重ねながら、先師生前の昔と亡き後の今を考えてみますと、親鸞聖人が口ずから語られた真の信に異なる教えがはびこるありさまは嘆かわしく、教えを継承してゆく者たちに疑惑が広がらぬかと案ぜられます。幸いにも良き師に導かれる縁を得なければ、どうして念仏易行の一門に入ることができましょうか。自分勝手な理解をもって、他力の教え本来の主旨を決して思い誤ってはなりません。
唯円がこの書を書かねばならなかった問題意識は明確であり、先師親鸞の教えをゆがめる異端がはびこる惨状を嘆き、それを正したい。その一念を『歎異抄』という題名が端的に物語っている。
親鸞は「他力」への「信」にかける「易行」を語ったという。それは、「自力」によって「行」に励む「難行」としての仏教とは、およそ対照的なありかたである。
「信」と「行」、どちらかを捨てて、どちらかだけを取るとは極論であり、様々な異議や異論を生むことになった。唯円は自分勝手な理解で、先師の教えを思い誤ってはならないと慨嘆しているが、これは無理もない展開であったのかもしれない。
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次に、方法論を語る後半部分を見よう。
◇「よつて、故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留まる所いささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。」(序)|それゆえに、故親鸞聖人が語られたご趣旨の、わが耳の底に留まるところを少しばかり記します。ひとえに心を同じくする念仏者たちの不審を晴らすためであります。
唯円は、自分がこの耳で聞いて、しっかりと耳の底に残っている親鸞の言葉をここに記し、後進の抱く疑念を解消したかった。そのために、直弟子による聞き書きを残そうとした。『歎異抄』全十八章の前半、十章までが親鸞の語った言葉がいきいきと綴られる部分だ。後半は、唯円が異端を批判する幾分冗長な議論である。
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話は変わるが、モーツァルトの「レクイエム」を最初に聴いたのは、カール・ベーム指揮のレコードだった。表面がモーツアルト自身の未完曲で、裏面は彼の死後に他の作曲家が完成させたものだ。天才による唯一無二の調べとは明らかに別物の音楽が付け足されていて悲しくなった。そんな比喩を持ち出せば唯円に失礼かもしれないが、『歎異抄』を読む時にある種の落差を感じざるを得ない。
唯円が誰であるかは異説があるけれども、「河和田の唯円」だとする定説に従う。常陸国河和田(現在の茨城県水戸市)に親鸞より五十年後に生まれた、関東の弟子である。唯円に仏教の学識があったわけではない。彼はひたすら親鸞の語る言葉をそばで聞き入り、心に沁み込ませただろう。それはふだんの生活の事どもとは異なる鮮烈な記憶として残った。その耳の底にしっかりと残る親鸞の言葉を彼は記した。鎌倉時代に書き残された親鸞の言葉は、現代の私たちにも生きた言葉として響いてくる。
唯円の書き残した言葉が、もちろん親鸞のすべてではない。唯円の理解した、そして唯円の好んだ親鸞の言葉が記されただろう。しかし、聞き書きの歴史的価値は重い。
現代の聖書学に画期的な転換をもたらした、リチャード・ボウカム著『イエスとその目撃者たち―目撃者証言としての福音書』(原著は二〇〇六年公刊)がある。聖書学者より歴史家のほうが聖書を信用していると言われるほど、批判的な聖書本文批評が近年全盛であった。ボウカム氏は、福音書は決定的な歴史的出来事の目撃者証言であって、数世紀にわたって変容する民俗伝承とは異なり、容易な変更はできない歴史資料として信頼に値すると論じた。
唯円の『歎異抄』が現代人の心を今も打つのは、直接に聞いた言葉を書いた歴史的な証言だからなのだろうか。
注 1 念仏易行=阿弥陀仏の名を称えるだけの易しい修行
注 2 他力=阿弥陀仏の助けのみによって覚りを目指す道
https://www.della.co.jp/blogs/press-release/13395 【「せせらぎの音」ってどんな音?
日本語に多い、水に関する "オノマトペ"】より
「せせらぎの音」ってどんな音?日本語に多い、水に関する "オノマトペ"
「せせらぎの音」といえば、みなさんはどんな音を思い浮かべますか?
想像した「せせらぎの音」を誰かに伝わるように表現するとき、みなさんはきっと "オノマトペ" を使うことでしょう。
今回は、そんな「せせらぎの音」に関する "オノマトペ" について解説していきます。
日本は "オノマトペ" が多い国
"オノマトペ" という言葉は、もともとはフランス語で、「onomatopee」と書きます。その語源は古代ギリシア語の「ὀνοματοποιία(オノマトポイーア)」から来ており、擬音語や擬態語を意味します。
擬音語とは、生き物や物が発する音や声を文字にして表現した言葉のことです。たとえば犬の鳴き声は「ワンワン」、ヤギの鳴き声は「メーメー」などと表します。
また、炭酸飲料の蓋を開けるときは「プシュッ」といったり、電車が走る音を「ガタンゴトン」といったり。
自然界の音についても、雷の音であれば「ゴロゴロ」、風が吹く音は「びゅうびゅう」といったような表現をすることができます。
一方で擬態語とは、実際には音がしない状態や感情などを言葉で表現したものです。たとえば、物や人が散らばっているときは「ばらばら」といったり、太陽の強い光を「ギラギラ」といったり。恋のときめきを「キュンキュン」、期待が高まったときに「ワクワク」などと表現しています。
フランス語以外にも英語や韓国語などさまざまな国が "オノマトペ" を使いますが、日本ではこの擬態語の "オノマトペ" の割合が他の国に比べて多いと言われています。
また、日本では液体の流れる音を「ゴボゴボ」と表したりしますが、フランスでは「Glou Glou(グルグル)」と表したり、国によって "オノマトペ" の表現は大きく変わります。
「せせらぎの音」を表す "オノマトペ"
「せせらぎの音」ってどんな音?日本語に多い、水に関する "オノマトペ"
日本は "オノマトペ" がとても多く、コミックや本で "オノマトペ" を書き表すだけでなく、口語としても頻繁に使われています。
海に囲まれ、雨や雪もたくさん降り、多くの河川がはしる水が豊かな日本は、水の音を表す "オノマトペ" が豊富にあります。
例えば、雨の降り始めは「ぽつぽつ」や「ぱらぱら」、小雨が降り続くときは「しとしと」、大雨だったら「ザーザー」と、同じ雨の "オノマトペ" でも、状態や程度によって表現が大きく異なり、とても多様です。
それでは小川に水が流れることを意味する「せせらぎ」の音はどのような "オノマトペ" で表現できるのでしょうか。その例をいくつかあげてみました。
「さらさら」「ザーザー」「ちょろちょろ」「ぴちゃぴちゃ」「ポチャポチャ」「コポコポ」
「シャラシャラ」「そうそう」
あなたが想像した「せせらぎの音」のイメージはどのようなものでしたか?
せせらぎの音を楽しむならこれ!
せせらぎの音といえば、多くの人が「サラサラ」という "オノマトペ" を思い浮かべるかもしれません。
しかし、実際にせせらぎの音を聴いてみると、小さな水の流れが作る音は意外と複雑だということがわかります。
ヒーリングミュージックやDVDなど、せせらぎをテーマにしたものもありますので、そこから せせらぎの音 を体感してみるのも一つです。
きっと豊かな自然の音の重なり合いに心も癒されることでしょう。
これからご紹介するものは試聴もできるので、ぜひお好みの「せせらぎの音」を見つけてみましょう。
「せせらぎ」
「せせらぎ」は、軽井沢や奥日光、屋久島で収録された、豊かな自然の音を楽しめるアルバムです。
爽やかな小川のせせらぎを聴いているだけで、青々とした樹木の中、小鳥たちの透き通った声を聞きながらせせらぎの近くを散歩しているような気分にさせてくれます。
水が奏でる自然の音楽は清々しく、あなたの疲れた心に安らぎを与え、癒してくれるでしょう。