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Personal history『思い出のマラソン』vol.2-1

2018.11.20 00:53

「カルロス・ゴーン会長逮捕」、ビックリしましたねえ。日産自動車も、三菱自動車も現在5~6%株価を下げています。ブランドが少なからず毀損されるのは間違いなく、今後ルノー含めて混乱が続きそうです。ゴーン会長の名言集とか読んだこともありますが、まさかこんなことになるとは。人生で輝ける時期というは限られているものなのでしょうか。いえいえ、輝き続けている会員がここにいます。昨日のA木さんの『思い出のマラソン』。僕のつまらない毎日のつぶやきと違い、大反響^^;

ということで、早速、本文を転載させていただきます。初回は、静岡走ろう会が立ち上げた「駿府マラソン」。当時のいろいろなようすが、この文章から伝わってきます。2回に分けてお送りしたいと思いますが、字数の関係上、一部省略して掲載させていただきたいと思います。A木さん、申し訳ありません。(オリジナルを読みたいという方は、A木さんまで^^;)




第10回駿府マラソン

人生初めてのマラソンレースは昭和60年3月3日、地元の第10回駿府マラソン5キロでした。その頃まだ仕事をしていた私たちは、時間を決めて駿府公園まで走り、5キロの練習をしました。制限時間が確か40分で、何とか30分位で走れる練習をしました。あいにく、初レースであったこの5キロの記録証は紛失してしまったのですが、初レースは26分台で走れたことは記憶しています。

この5キロの完走が、マラソンへの自信となり、次のレースに向けて、K川さんと二人で独自メニューをつくり、定期的に早朝5時からの練習、毎週土曜日には20キロ近いLSDの練習を30年以上続けてきました。現在のようにマラソンの情報も少なく、フォームも気にしないで、ただ走ることが楽しかっただけでしたが、これまでほとんど故障もなく走ってこられたことは、とてもラッキーでした。


翌昭和61年3月2日、第11回駿府マラソンではハーフマラソンに挑戦し、1時間44分2秒で完走しました。当時のコースは城北街道折り返しで、風花の舞う寒い日でしたが、初ハーフとしてはまずまずの満足したタイムでした。この頃はまだ静岡走ろう会に入会していなかったので、当時近所の女性4~5人位で、早朝、城北公園を拠点として練習しており、駿府マラソンには「城北公園走ろう会」というチーム名で登録し、レースに臨みました。日刊スポーツ新聞にはハーフ女子総合で17位に載ったこともあります。でも当時はまだ女性ランナーも少なく、ハーフ女子の完走者は32名しかいませんでしたが…。


そして翌昭和62年に静岡走ろう会に入会。翌年からの駿府マラソンは、本通りから用宗を折り返すコースになりました。本通りのメインストリートを通行止めにするということで、ハーフの制限タイムは、市民マラソンとしては厳しい2時間でした。走ろう会としても何度か制限タイムを緩和してほしいと要望したのですが、結局緩和されることはありませんでした。初めてのハーフを1時間40分台で走れたことが自信になり、その後第21回大会まではハーフを走りました。第24回大会からは、制限タイムオーバーで絶対に収容バスには乗りたくないと10キロコースに変更しましたが、第37回までずっと走り続けてきた大会でした。




え~、昔は駿府マラソンって、コースが全然違ったんですね。それにしても、初ハーフ1時間44分ってすごくないですか、びっくり!僕も初レースは駿府マラソンだったんですが、調べてみたら第33回大会でした。その20年以上前からずっとレースに出続けているとは…。明日は、静岡走ろう会と駿府マラソンについて、ほのぼのと語っていただいていています、お楽しみに~!