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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「私は信じます」

2024.04.07 06:59
マタイの福音書16:13―17
13. さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14. 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
15. イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

16. シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」

17. すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。

礼拝メッセージ

使徒信条シリーズ ①

2024年4月7日

マタイの福音書16:13―17

「私は信じます」


私たちは毎週の礼拝の中で「主の祈り」をともに心合わせて祈り、隔週で「使徒信条」と「十戒」を交互に告白しています。今、一度ゆっくり立ち止まり、一つひとつの祈りや告白の意味を味わい、その豊かさに感動しながら、礼拝に臨めたらと願っています。まず今日の礼拝から「使徒信条」の信仰告白を一つずつ掘り下げて学んでいきます。その信仰告白の根拠となっている聖書の箇所を取り上げていきます。

まず「使徒信条」とは何なのでしょうか? これは紀元8世紀頃(今から1,300年程前)にまとめられました。しかしその原型となる「古ローマ信条」というものが、2世紀の後半(今から1,850年程前)には教会で用いられていたことが分かっています。「古ローマ信条」は、洗礼志願者に対してなされた質問で、3つのことを「信じますか?」と問いかけました。

  1. あなたは全能の父なる神を信じますか。
  2. あなたは、聖霊によって処女マリアから生まれ、ポンティウス・ピラトゥスのもとで十字架につけられ、死んで、三日目に復活し、死者の中からよみがえり、天に昇り、父なる神の右に座り、そこから来て、生きている者と死んでいる者を裁く神の子であるイエス・キリストを信じますか。
  3. あなたは聖霊と、聖なる教会と、体の復活を信じますか。

当時、異教からの改宗者が増大し、様々な異端的教えが教会に流入する中で、教会は正統な信仰の基本・真髄(キリスト教信仰とは何か)をコンパクトにまとめました。クリスチャンたちが、聖書の示す正しい教えの内を歩めるように、代々の教会は使徒信条を告白し続けています。

今日の週報2ページに「主の祈り」と「使徒信条」を並べて記しています。二つを比べて見た時、何か気付くことがあるでしょうか?

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その理由は、先ほど触れた「使徒信条」がもとは洗礼を受けたいと教会に申し出た人に対して、その人を試問するために用いられたものだったからです。「全能の父なる神を信じますか?」と質問されて「はい、私は信じます」と答えるものでした。クリスチャンとして生きていきたいと願う個人の信仰を尋ねるのが、使徒信条の始まりだったからです。「あなたは信じますか?」、「はい、私は信じます」と。

今日は、みことばから、「あなたはどう信じますか?」と問われた弟子たち、そして「私は信じます」と告白した弟子の姿を見ていきます。マタイの福音書16章13節

さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。

     

ピリポ・カイサリアは、ガリラヤ湖から北に直線距離で40キロほど行ったところの町です。ヘロデ・ピリポという支配者が、この町を整備し、ローマ帝国への忠誠を表すためにカイサリヤ(ローマ皇帝の称号)の名を付けました。町には自然崇拝の神々をまつった沢山の偶像と皇帝礼拝のための神殿が築かれていたそうです。

今の日本で言えば、東京の靖国神社の大鳥居前とか、本殿前のような場所に例えられるでしょうか。宗教的緊張、政治的緊張を覚える場所に、イエス様は弟子たちをあえて連れて行かれ、「私を何者だと思いますか?」と質問されたのです。

「まず人々は、人の子(イエス様がご自分のことを表すのによく使われた表現):わたしをだれだと言っていますか?」と聞かれます。 人々は好き勝手な評価をしていました。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」と答えます。

イエス様の周りには、大勢の人々が群がっていました。人々はイエス様のうわさを聞きました。「あの人は力強いメッセージをするらしいよ」とか、「あの人は信じられないような奇跡を行うことができるらしいよ」と。うわさを耳にした群集は、実物を見るためにやって来ました。彼らは聞いたうわさが本当かどうか確かめに来たのです。「この男は何者なのだろう? 本物かな? 偽者かな?」興味津津(きょうみしんしん)でした。そしてイエス様を目の前にした時、彼らはイエス様の評論家、イエス様の批評家になったのです。

ある人は、「バプテスマのヨハネの再来だ」と言いました。バプテスマのヨハネは、人々に自らの罪を認めさせ、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を授けていました。荒野で力強く語り、キリストが来られる道備えをした人でした。イエス様が語るメッセージの力強さと行っていることの素晴らしさに感動し、あのバプテスマのヨハネがよみがえったのではないかと考えました。

別の人たちは、「イエスは、エリヤの再来ではないか」とうわさしました。エリヤは、紀元前9世紀頃の預言者で、偽りの神々で満ちていたイスラエルの地でまことの神の言葉を大胆に語った人物でした。イエス様は、エリヤと似たような雰囲気があったのでしょうか。さらに「エレミヤだとか、他の預言者のひとりが生き返ったのだ」と言う人たちもいたようです。

今の日本でも、二刀流のすごい野球選手が現れれば「福井の大谷翔平」とか、「大谷翔平2世」などと騒ぎ立てられるでしょう。すごい人が先人として活躍している場合、次に出て来た存在を「誰々の再来!」ともてはやすのです。

イエス様を見た時、「あのバプテスマのヨハネの再来だ、エリヤの再来だ」と、人々は騒いだのです。人々は思いつくまま自分勝手にイエス様を評価し、判定を下しました。評論家である限り何とでも言えるのです。

現代、私たちの社会には、ありとあらゆる分野の評論家がいますね。経済評論家、ファッション評論家、映画評論家などです。評論家の特徴は何でしょうか? それは、評価するものとは直接、関わり合いを持たない。評価する人とは直接、関係が無いということではないでしょうか。世界のどこかで戦争が起きてしまうと「軍事評論家」と呼ばれる専門家が出ます。その軍事評論家は直接、戦場へおもむいて、自分が戦うことはしないでしょう。その出来事、その人と離れた場所にいるからこそ、客観的な批評ができるのかもしれません。

イエス様を取り巻いていた多くの人たちも、評論家のような考え方だったのではないかと思います。「どんな人物か見極めてやろう」という傲慢な態度・上から目線で、イエス様に接していたのではないか。そして自分の目で主観的にイエス様を評価していたのではないでしょうか。

評論家でいる限り、イエス様と距離を置いておくことができます。評論家でいる限り、都合に合わせて評価をころころ変えることだってできます。評論家でいる限り、キリストを見捨てて、逃げ出そうと思えばいつだってできるのです。

次に、イエス様はそんな人々の評価ではなく、「弟子たちよ、あなたがたはわたしをだれだと言いますか?」と問いかけます。それが聞きたいのだと。イエス様はともに暮らしている弟子たちの告白を聞きたいと願われたのです。    しばし沈黙がその場を支配したかもしれません。

その時、弟子を代表してペテロがはっきりと「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えます。イエス様、あなたはバプテスマのヨハネの生まれ変わりなどではありません。預言者の一人でもありません。あなたこそ神であり、私たちイスラエル人がずっと待ち焦がれてきた救い主キリストです。ペテロは立派な信仰告白をしたのです。

至る所に偶像の神々が、またローマ皇帝をまつった祠(ほこら)があるピリポ・カイサリアの町で、ペテロは「主イエス様あなたこそ、とこしえに生きておられる真(まこと)の神の御子、救い主です」と告白できたのです。

なぜペテロはこのような信仰告白ができたのでしょう。ペテロがいつもイエス様と一緒にいたからでしょうか? 弟子としてイエス様に懸命に仕え、イエス様に献身していたからでしょうか?

マタイ16: 17すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。

人間の内側からは、「イエス様は救い主」と告白できる信仰はわいて来ないのです。神様が私たちの心に示してくださらなければ、聖霊が心に示してくださらなければ、知ることのできない真理なのです。Ⅰコリント12:3には、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません、とあります。

私たちは礼拝の中で「使徒信条」を告白しています。ある朝、私は「使徒信条 わたしは、天地の造り主、全能(の父である神を信じます。」と告白しながら、何とも言えない感動に包まれたことがありました。ここに示された神様の真理は、私自身から出てきたものではない。人間が考え出したことでもない。神様が聖書を通して私たちに教えてくださった真理だ。そう強く実感したのです。

私たちは神様から「信仰の告白」を与えられています。この信仰告白をただ口で言って終わり、心で実感して終わりとでは足りないでしょう。この信仰の告白に従って生きていくことが求められています。ペテロはこの時、立派な信仰の告白をしました。

しかしこの後すぐイエス様が、十字架刑に架かって苦しんで死ななければならない受難の予告をされた時(16:21)、ペテロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」とイエス様をいさめる物言いをしてしまい(16:22)、その結果イエス様から、「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」ときつく叱られてしまいます。- 神の子キリストが、私たちの身代わりに死んで、よみがえってくださることが、まだペテロには理解できなかったのです。

そして実際にイエス様が苦しみをお受けになる場面、ペテロも他の弟子たちもイエス様を見捨てて一目散に逃げ出してしまったのです。イエス様が壮絶な苦しみの中に置かれた時、ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と言った告白通りに生きることができなかったのです。

私たちはペテロの歩み:失敗し、イエス様を裏切ってしまった歩みから、自らを見つめ直していく必要があります。信仰告白に従って生きていくということをたやすいものと考えてはいけないのでしょう。

自分の力・人間の力では、できないことです。主なる神様の御力・聖霊に導かれなければ、なしえないことです。

イエス様の弟子となって、イエス様とともに生きていく。それは、

信仰告白に従って生きるとは、そういうことではないでしょうか。 

 

これから聖餐式にあずかります。「イエス様、あなただけが、生ける神の子、救い主キリストです」と心から実感し信じ、聖餐式にあずかりましょう。

 もしもそうは思えないなら、まだ分からないなら、最近その確信が揺らいできているとしたら、日常生活ではイエス様に無関心になっているならば、神様に祈りましょう。「父なる神様お示しください。あなたの大きな愛と御救いを。あなたがこの地に送ってくださった御子イエス様が生ける神の御子キリスト、私のただ一人の神、救い主であることを確信させてください。御霊なる神様、この確信を私の内に与えてください」そう祈りつつ聖餐式にあずかってまいりましょう。

祈ります。