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房総・鹿野山と渡辺水巴・葛城山と阿波野青

2024.10.08 05:54

https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12835678861.html 【広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第47回】房総・鹿野山と渡辺水巴】より

 鹿野山は、房総半島の中ほど君津市と富津市の境界にあり、千葉県第二の標高397㍍の平坦な高原状の丘陵で、鋸山、清澄山と並ぶ房総三山。山頂の一等三角点と東京・麻布の旧東京天文台跡の一等三角点を結ぶ方向は日本経緯度の基準方位をなす。

鹿野山神野寺本堂

 598年に聖徳太子創建と伝えられる、杉木立の境内に重層入母屋造りの本堂がある神野寺(じんやじ)では、毎年「ホトトギス」の夏季鍛錬会が行われ、境内には虚子の歯塚(「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」供養七月二十日)他虚子、素十、立子等の四十近くの句碑がある。又近くの墓地には高野素十、村松紅花の墓もある。

 鹿野山の西端には、東山魁夷の「残照」の題材となった九十九谷展望台があり、三浦半島、富士山、伊豆の山並、東京湾が見渡せる上、霧が立つと幽玄の世界となる。西斜面の観光牧場・マザー牧場は、休日に賑わう。

かたまつて薄き光の菫かな 渡辺水巴

 〜昭和6年4月の作、『水巴句集』に収録。「鹿野山にて」の前書きがあり、同時作に〈九十九谷春行く径消えにけり〉がある。同9年には、九十九谷展望台に、「曲水」木更津支社の発起により句碑が建立され、その折に〈風の音は山のまぼろしちんちろりん〉〈句碑照りて明らかに死後の月夜かな〉等を詠んだ。

「水巴の代表作の一つ。句碑除幕式には、私も参列したが、何の技巧も感じない可憐な措辞で、一かたまりの菫の姿が見事に浮かび上がって来る」(山本健吉)

「対象に心理の光をすっと当てた様に見せられる俳句的方法で、この菫はいつまでも心に残る」(清水哲男)

「対象をじっと見つめ、そこから感じ取った実感で菫の本意を捉え、玄妙に響き合う。芭蕉の〈山路来て何やらゆかしすみれ草〉も念頭にあったろう」(小島健)

「こんな静謐な世界が短い言葉で詠めることに感動し、薄き光の光と言う言葉に私の全神経が吸い寄せられる」(津髙里永子)

「画家である父の影響もあって、美に鋭く感応し、かたまって咲く菫は,光が透けて、花の色は薄く感じたのだろう」(あらきみほ)

★楓林に落せし鬼の歯なるべし 高浜虚子

★手にとりてしみじみ青し蠅叩 高野素十

★追憶や今出し霧にこの寺に 星野立子

★山寺に月下の涼をほしいまま 高木晴子

★十薬も天に咲く花九十九谷 林 翔

★葛折の谷老鶯の鳴き渡り 石崎和夫

★短夜やスリッパの字の鹿野山 波多野爽波

★蜩のあまりに近し昼寝覚め 大峯あきら

★歯塚守る月日のうちの歯塚菊 山口笙堂(住職)

★森閑と墓碑絢爛と落椿 上谷昌憲

★鰐口にたよりなき網花の雨 広渡敬雄

★蕗の薹供へ先師の墓を辞す 稲田眸子(素十の墓)

【渡辺水巴】明治15(1882)年、近代日本画家渡辺省亭の長男として東京市浅草小島町に生れ、本名は義(よし)。裕福な家庭で妹つゆ女(後年俳人)と共にすごし、18歳で俳句で身を立てることを志し、終生俳句以外に職を求めなかった。同34(1901)年に内藤鳴雪に入門、同39年高浜虚子に師事し、同45年河東碧梧桐に対抗して創設された「ホトトギス」第一回雑詠欄で、飯田蛇笏、村上鬼城、前田普羅を押さえて〈櫛買へば簪がこびる夜寒かな〉が巻頭となり、名をなした。

 大正2(1913)年に曲水吟社(後の曲水社)を創立。同3年には、ホトトギス雑詠欄で虚子の代選を務め、同4年には、水巴選『虚子句集』を刊行した。同5年には、主宰誌「曲水」創刊主宰、「感興の俳句は趣味の俳句であり、生命の俳句は究竟の文学である。愛と感謝と尊敬の念をもって自然に接しよ」と述べ、自身の弟子育成に努める。

 その後虚子に句を見てもらったり、出入りすることもなく、微妙な関係を続けた。『水巴句集』『続水巴句集』『水巴句帖』等意欲的に上梓し、後年には「自分は内藤鳴雪の弟子」と公言した。 

 関東大震災で一時大阪・豊中に住むも、程なく帰京し麹町に居住。長谷川きく(桂子)と再婚し、昭和8(1933)年に生れた次女恭子が、水巴、桂子のあと「曲水」を継承した。戦時中は、日本文学報告会常任理事も務め、全国を網羅した「曲水支社」の伸張にも注力した。終戦直前に疎開した神奈川県藤沢市鵠沼で、昭和21年8月13日に腸閉塞で逝去、享年64歳。墓は浅草今戸潮江院にあり、命日は水巴忌として知られる。尚、「曲水」は、平成23年創立96年を以て終刊し、渡辺恭子は新たに「新月」を創刊し、現在は松田碧霞が主宰である。

上記の句集以外に『隈笹』『白月』『富士』、『新月』、没後編まれた『水巴句集』評論・鑑賞・随筆等を九冊収める文集に『水巴文集(上下)』がある。

「無情のものを有情にみる」が初期の顕著な特色(高浜虚子)

「人一倍潔癖で深く繊く沁み透るような清冽な感じを好み、秋桜子の飽くまでの現実的な唯美主義と対照をなす蕪村的フィクションをより推し進めた独特な唯美主義」(山本健吉)

「同じような境遇で育った松本たかしと共に都会人の洗練された生活感で、季題趣味の旧套を脱し、近代的な『我』『主観』を自覚したが、水巴の方が一貫して主観性が強く耽美的、求道的である」(中村裕)

「松本たかし同様、生粋の江戸っ子で芸術家肌故に、体質的に地方出身の虚子と反りが合わなかったのは否めないが、そこが水巴の本質であろう。大正時代の「ホトトギス」復興の立役者の一人であり、その後独立自尊で多くの門下を育てた。時流に流されない新しさをも有した潔癖な俳人と言える。」(「青垣」38号より)

★天渺々笑ひたくなりし花野かな(震災により豊中に仮寓) ★ひとすぢの秋風なりし蚊遣香

★てのひらに落花とまらぬ月夜かな        ★夏の月蚕は繭にかくれけり

★ざくざくと鳴るかに近し天の川         ★ふるゝものを切る隈笹や冬の山

★縁にしなふ竹はねかへし冷奴          ★産着着てはやも家族や蟬涼し

★大空のしぐれ匂ふや百舌の贄          ★菊人形たましひのなき匂かな

★寂莫と湯婆に足そろへけり           ★箱を出て初雛のまゝ照りたまふ

★一つ籠になきがら照らす蛍かな         ★紫陽花や白よりいでし浅みどり

★庭すこし踏みて元日暮れにけり         ★冬山やどこまで登る郵便夫

★寒菊やつながれあるく鴨一つ          ★白日は我が霊なりし落葉かな

★魂祭るものかや刻む音さやか          ★妻も来よ一つ涼みの露の音

★うすめても花の匂の葛湯かな

※【広渡敬雄さん】1951年福岡県生まれ。俳人協会会員。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。2017年7月より「俳壇」にて「日本の樹木」連載中。「沖」蒼芒集同人。「塔の会」幹事。

※【セクト・ポクリット】 2020年10月から本格スタートした、俳句を「ちょっと深く」知るためのポータルサイト。大黒柱の「ハイクノミカタ」は、読むだけで俳句が楽しくなる、7名の著名俳人による季節の一句+工ッセイ、その他、連載やインタビュー記事、音声配信も続々。


https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12833596098.html 【俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第33回】葛城山と阿波野青畝】より

 奈良県と大阪府の境の葛城山(959メートル)は、かつては修験道の霊場であった。北に悲運の大津皇子の墓がある二上山、南に楠木正成ゆかりの金剛山の両峰を繋ぐ縦走路・ダイヤモンドトレールとして関西のハイカーに親しまれ、五月には一目百万本のつつじ、秋には芒の群生で名高い。

 頂上の展望は雄大で西に大阪湾、六甲山地、東に大和盆地が広がり大和三山が目立つ。西麓には西行ゆかりの弘川寺、東麓一帯は古代の有力豪族葛城氏、鴨氏の本拠地で、山中には名刹不動寺、麓には一言主神社があり、高取町には日本三大山城の高取城址や眼病封じの壺阪寺がある。

★葛城の山懐に寝釈迦かな 阿波野青畝

 〜昭和3年作、第一句集『萬両』収録。「葛城はわが俳枕、朝夕お山を眺めたら丁度山の懐あたりにお釈迦さんが抱かれるように横たわっているお姿が見えた」と顧み、青畝代表句と喧伝され結社名ともなった。「叙情性が最もよく表現された一句」(山本健吉)「俳句表現の見事さをこれほど円満に具えた句はない」(石田波郷)「素晴らしい省略法により、いきなり釈迦が山懐に寝ていると叙して幻想性豊か」(村松友次)「山懐に在す寝釈迦という存在感を深めているのが〈に〉の助詞。〈の〉なら寝釈迦の特定がなされるばかりで存続性がなくなる」(西村和子)等の鑑賞がある。葛城山の全容を一望出来る高取中央公園に句碑があり自身の原風景を具現化したものだろう。

★猶見たし花に明行神の顔(一言主神社) 松尾芭蕉

★葛城の神の鏡の春田かな 松本たかし     ★八方へ葛城山の芒みちち 小島 健

★種蒔いて葛城山の近づける 矢野景一     ★二上山峰をわかちて幟立つ 水原秋櫻子

★芋の露あをき金剛山ちかぢかと 岩井英雅

【阿波野青畝】明治32(1899)年奈良県高取町生まれ、本名橋本敏雄。6歳頃より難聴となるも往復18キロを通学した畝傍中学時代に俳句を始め、18歳の時大和郡山で虚子に対面、2年後の虚子の激励書簡「大成する上に暫く手段として写生錬磨をすべし」を、終生の指針として以来師事。

 進学を諦め、地元八木銀行に勤務しつつ、「倦鳥」「鹿火屋」「山茶花」にも所属。大正12(1923)年、24歳で大阪市京町堀上通の商家阿波野家の貞と結婚し改姓する。

 「ホトトギス」巻頭を重ね、その課題句選者を経て昭和4(1929)年30歳で「かつらぎ」創刊主宰。秋櫻子、誓子、素十と並んで4Sと称され、同6年、虚子の序文の第一句集『萬両』を上梓し、後に「現代俳句の古典」と絶賛された。2年後に妻貞が逝去、分家の阿波野秀と再婚す。同17年には第二句集『國原』を上梓。戦時統制で他誌と合併「朱鳥」となる(同22年復刊)。同20年には空襲で本宅焼失、妻秀も逝去し、同22(1947)年、48歳でカトリックに洗礼、「俳句の道は何れ神を知ることの出来る道」と悟る。「客観・主観は手の甲と手の平の関係」(客観・主観の区別なし)、「言葉」と「省略」を作句の旨とし、森田峠、加藤三七子、小路紫峡、小路智壽子、堀磯路等を育てた。

 同48年、「読売俳壇」選者。『甲子園』で蛇笏賞受賞。長らく俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブ会長として、関西俳壇で重きをなし、平成元(1989)年森田峠に主宰を譲った後の同4年『西湖』で日本詩歌文学館賞受賞。同12月に93歳で逝去。墓は西宮・満池谷のカトリック墓地と故郷高取町長圓寺にある。句集は他に『春の鳶』『紅葉の賀』『あなたこなた』『西湖』等、遺句集『宇宙』計11句集、俳文集『自然譜』『俳句のこころ』等、書画集『わたしの俳画集」がある。

「生来の抒情に練磨の写生力を加えた独歩の句風(虚子)

「四Sでは句風的に一番軽く、物足りなさを感じるが、自由さと愛情とユーモアを湛えた生活感情の陰翳の深さに於いては第一等」(山本健吉)

「四Sの中で本当に新しいのは青畝じゃないのか」(高柳重信)

「近代俳人のなかで最も俳句の定型と言葉の問題を突き詰めた作家である」(宗田安正)

「カトリックに入信してからは、美醜両面を認めて詠い上げるようになった」(大岡信)

「第一句集には人口に膾炙する名句が多く、只事でなく天才と言えよう」(伊藤伊那男)

「キリスト教と日本文化との渾融が青畝俳句の特色である」(角谷昌子)

「比類なき音楽性をもつ独自の文体、言語音楽の魔術師」(恩田侑布子)

「耳疾のコンプレックス、二度も妻女、又長女を亡くし、西宮の新居を漏電で更に大阪京町堀の本宅も空襲で焼失。度重なる苦難も乗り越えて俳句に打ち込み、《長生きは得でっせ》と艶冶の滲む晩年を迎えた。心身ともタフで自在、ユーモアを絶やさぬ天才資質の不出世の俳人である。」(「青垣」17号より)

★虫の灯に読み昂りぬ耳しひ児(生家に句碑)

 ※「幼い頃よりの耳疾でよく耳が聞こえない。秋虫の音を聞きながら本を読みふけっている「耳しひ児」それは私なのだ。」(青畝)

★けふの月長いすすきを活けにけり          ★案山子翁あち見こち見や芋嵐

★さみだれのあまだればかり浮御堂          ★蟻地獄みな生きてゐる伽藍かな

★いりあひの千鳥なるべき光かな           ★目つむれば蔵王権現後の月

★水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首              ★端居して濁世なかなかおもしろや

★ルノアルの女に毛糸編ませたし           ★月の山大国主命かな(三輪山)

★牡丹百二百三百門一つ     ★紅葉の賀わたしら火鉢あつても無くても(虚子文化勲章)

★山又山山桜又山桜              ★一軒家より色が出て春着の子 

★登山道なかなか高くなつて来ず        ★土不踏なければ雛倒れけり

★威銃大津皇子は天に在り       ★十字架を象嵌したる天高し(トラピスト修道院)

★白酒をのの字にのの字重ね注ぐ    ★狐火を詠む卒翁でございかな

★蝶多しベルリンの壁無きゆゑか 

★ペストロイカペストロイカ虫滋し(ゴルバショフノーベル賞)