銀座と今井杏太郎・鎌倉と星野立子
https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12834754174.html 【俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第36回】銀座と今井杏太郎】より
慶長17(1612)年、徳川家康が駿府から銀貨鋳造所を移した地・銀座は、明治期は赤煉瓦、ガス灯の欧米風の街並みとなり、関東大震災、戦災で崩壊後も復興した日本を代表する繁華街である。銀座通りの四丁目にシンボルの「和光」の時計塔、その周辺に三越・松屋百貨店や複合商業施設、有名ブランド店、画廊、高級飲食店が軒を連ね、歌舞伎座新橋演舞場もある。嘗て一丁目の幸稲荷小路には、鈴木真砂女の小料理屋「卯波」があり俳人で賑った。
★足のむくままに歩きて銀座なり 今井杏太郎
〜昭和55年作。第一句集『麥稈帽子』収録。「春の夜の銀座あたりをいつぱい機嫌でふらついた時の句。こういうことはそう何回も出来ることではない」と自註に記す。
銀座を愛した作者には〈マリオンの時計が鳴つて日短〉〈信号は赤の銀座の蝉しぐれ〉〈蛍売の来てゐる銀座七丁目〉〈ひとを見て歩けば冬もあたたかし〉等の句がある。「四丁目の「グラナータ」(レストラン)のポルチーニのグリルを味わい、八丁目の「ニューアスコ」のバーで「知床旅情」「テネシーワルツ」を歌うのが好きだった」と仁平勝は回想する。「同じ店に通い詰めるため、どの店でも常連扱いだった」(石井隆司)とその拘りも記す。
★柳散る銀座に行けば逢へる顔 五所平之助 ★歌舞伎座に橋々かゝり蚊喰鳥 山口青邨
★並木座を出てみる虹のうすれ際 能村登四郎
★降る雪やここに酒売る灯をかかげ 鈴木真砂女★バーを出て霧の底なる吾が影よ 草間時彦
★雪赤く降り青く解け銀座の灯 鷹羽狩行 ★先生のゐない銀座の夏柳 仁平 勝
【今井杏太郎】昭和3(1928)年千葉県船橋市に生まれ、本名昭正。同15年大原テルカズに勧められて俳句を始めた。同25(1950)年、千葉医科大学を卒業し、精神科医として東京少年鑑別所勤務を経て船医となり、船上俳句にも励んだ。その後病院勤務を経て、千葉で「下総病院」を開院した。
同44(1969)年、「鶴」に入会、石塚友二に師事。岸田稚魚、清水基吉等の「御家人句会」に参加し、「鶴」賞受賞後、昭和61年、第一句集『麥稈帽子』を上梓した。
平成7年「鶴」退会後、同9(1997)年、『魚座』を創刊主宰。仁平勝、鳥居三太、飯田晴、鴇田智哉、茅根知子等を育てつつ「塔の会」「きさらぎ句会」「件の会」にも所属した。同12年、一か月半に渡る世界一周クルーズの作品からなる第三句集『海鳴り星』で、第44回俳人協会賞を受賞した。
同18年「魚座」終刊し、同22(2012)年6月27日逝去。享年85歳。句集は他に『通草葛』、自註句集『今井杏太郎集』『海の岬』『風の吹くころ』『今井杏太郎全句集』がある。
「駄句らしい句を多産する作家は杏太郎を措いてなく、そういうことを全て心得た上で作句している」(岸田稚魚)
「師系石田波郷の《俳句は一人称の文学》という俳句観を自身の心情として系譜しつつも、その「一人称」から自我を取り除いた」(仁平勝)
「杏太郎俳句は、平明であることに終わらず、何ということもないところが真骨頂。自分の思うがままに俳句を作り続けたことがその凄さである」(加藤哲也)
「晩年の作品には、芭蕉の《軽み》の気息が漂い、しかも老境の衰退や哀感を老人や生き物に象徴させて、直叙しないところが新しい」(角谷昌子)
「静かに己を見つめながら、呟くように俳句を作る極めて淡白な世界だが、人間性を反映して、物に執着することを潔しとしない生き方と俳句が見事に一致している」(片山由美子)
「杏太郎の《呟き》は俳句から様々なものを消し去り、最後に残るのは気配だけ。恐るべき《却来》の行方である」(井上弘美)
「《老人俳句》の杏太郎と呼ばれるが、《老い》と呼べば衰弱が進行するが、《老人》はその位格の中に安住する。杏太郎の老人は、あっけなく成立する《日常即桃源郷》というべき一つの場」(関悦史)
「師のへそ曲りが俳句の信条である」(飯田晴)
「一貫してさびしさと優しさがテーマの俳人である」(小川美知子)
「空間的には同一のカメラに収まらない二物を、《ころ》を使い、共時性に於いて同居させて見せる」(岩田奎)
「《麻薬》ともいうべき強烈な魅力を持つ杏太郎俳句は、禁じ手を駆使し、多くの俳人の俳句観を根底から覆す。その読後に、安堵感を齎す脱力俳句、時間を最大限に引き延ばす俳句(仁平の言う―句の中に時間が流れるー)は、今後とも、現代俳句のアンチテーゼとして輝き続けるだろう。(「たかんな」令和3年11月号より)
★春の川おもしろさうに流れけり ★涼しさや竹山を買ふ話など
★八月のをはりの山に登りけり ★老人が被つて麥稈帽子かな
★生きてゐてつくつくほふし鳴きにけり ★盆僧のひとの話をして帰る
★馬の仔の風に揺れたりしてをりぬ ★連翹の咲くころひとは船に乗り
★石塚友二先生の墓あたたかき ★なにをすることもなくゐて夜の長き
★ラ・マンチャの男に吹いて秋の風(スペイン行) ★北窓をひらく誰かに会ふやうに
★菜の花の沖に海鳴り星の見ゆ ★九つはさびしい数よ鳥雲に
★まんばうにつめたい夏の海があり ★すずかけの花の咲くころ東京に
★老人と老人のゐる寒さかな ★人間と暮してゐたる羽抜鶏
★美しき蟹の売らるる港かな ★放哉の墓のうしろの春の暮
★雪が降り石は仏になりにけり ★いちにちは長し海月を見てをれば
★海亀の旅のをはりは遠い国 ★かなしめばけふ雁の帰るなり
★梟は夜のあそびをしてをりぬ
https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12833625383.html 【俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第34回】鎌倉と星野立子】より
鎌倉は、南に相模湾が広がる三浦半島の付け根にあたり、他の三方は山に囲まれ(七つの切通し)、貴族的な王朝文化の京都に対し、鎌倉幕府以来の武家文化の遺香の鎌倉五山(建長寺、円覚寺等)、鶴岡八幡宮、鎌倉大仏他史跡、文化財がある。昭和41年古都保存法にて京都・奈良と共に指定された、わが国を代表する観光・文化都市である。
横須賀線(明治22年)、江ノ島電鉄(同43年)の開通以来、別荘地として発展し、文学者の移住も増え、高浜虚子、大佛次郎、川端康成、小林秀雄、久米三汀、吉屋信子等の「鎌倉文士」や多くの知識人が居住している。
★大佛の冬日は山に移りけり 星野立子
〜昭和2年の作。句集『立子句集』収録。大佛は長谷・高徳院の像高11.3mの国宝・銅造の阿弥陀如来坐像(露座仏)。昭和48年に、玉藻会により句碑も建立され、与謝野晶子の「鎌倉やみ仏なれど釈迦牟尼は美男に在はす夏木立かな」の歌碑もある。「立子の代表句。「の」「は」「に」の助詞の巧みな斡旋による静やかな調べと冬の季感により空々寂々とした別世界を描出した、実相観入の句」(鷹羽狩行)
「瞬時に大景を捉えて迫力がある」(片山由美子)
「時間の流れを詠みながら、この句には、停滞感の欠片もない。「大仏」「冬日」「山」の三つは、お互いに溶けるように鮮やかな調和を遂げている」(高柳克弘)
「気負いのない詠みぶりながら句柄が大きくまさしく虚子譲り」(国光六四三)等々の鑑賞がある。
★鎌倉を驚かしたる余寒あり 高濱虚子 ★虚子留守の鎌倉に来て春惜む 杉田久女
★鎌倉や松の手入を谷戸の音 草間時彦 ★零余子散るいざ鎌倉の切通し 川崎展宏
★大仏の空やカイトに眼のありて 鍵和田秞子 ★杉の秀に炎天澄めり円覚寺 川端茅舎
★空かけて公暁の銀杏芽吹きたり 石塚友二【星野立子】明治36(1903)年、虚子30歳の時の二女として東京麹町生まれた。論語の「而立」に因み、立子と命名され、小学生時代からその生涯の大半を鎌倉ですごした。東京女子大学高等部卒業後、星野吉人と結婚、長女早子(前「玉藻」主宰・椿)を出産直後の昭和5(1930)年、26歳で虚子の後押しにより「玉藻」創刊。「俳句初心者の誘導と婦人俳句の飛躍」を掲げ、初の女性主宰として29歳でホトトギス同人。同12年、34歳で第一句集『立子句集』上梓。ホトトギスの女流四T(中村汀女、橋本多佳子、三橋鷹女、星野立子)として活躍した。戦後も『続立子句集第一』『同第二』『笹目』『実生』等の句集を刊行すると共に、意欲的に全国、海外(北米、欧州、印度、ブラジル等)にも文化使節や指導で出かける共に、虚子逝去後の同34(1959)年から「朝日俳壇」選者となった。同45(1970)年66歳の時、脳血栓となり、主宰を実妹高木晴子に任せるも、不屈の精神でリハビリに努めて復帰した。昭和59(1984)年3月3日逝去。享年80歳。墓は父虚子と同じ鎌倉・椿寿寺にあり「雛飾りつゝふと命惜しきかな」の句碑がある。
句集は他に『春雷』『露の世』計11冊、俳話集『玉藻俳話』随筆『俳小屋』等がある。
鎌倉・二階堂の星野椿の居宅の隣に「鎌倉虚子立子記念館」があり、「虚子百句屏風」「立子百句屏風」が展示されており、一見に値する。平成24(2012)年には、星野立子賞も創設され、「玉藻」も、星野椿、星野高士と三代で創刊92年目を迎える。
「虚子の即興詩的面を継承、屈託なく素直な情感に溢れてはいるが、あまりに他愛なく物足りないとの面も歪めない」(山本健吉)
「寛恕と華やかさが立子の真情だが、俳句一筋の生涯は必ずしも女として幸せだったか。だが、それが芸術」(星野椿)
「わかりやすい言葉で語られてはいるが、心深く読み取る者には、秘かに湛えられた悲しみが句の向う側から伝わってくる」(西村和子)
「虚子は立子俳句を世に多い「景七情三」でなく「情七景三」であるとし、一番の信奉者として立子を支えた」(星野高士)
「虚子と立子の繰り広げる無限の世界、二人の影が一体となって伝統俳句を引っ張り、日本女性に俳句の門戸を開いた功績は大きい。父虚子の大きな愛情に包まれ、天性の才能の花を咲かせた立子は、虚子に忌避され不遇な晩年を送った不出の才媛杉田久女に比して幸せな俳句人生と言えるであろう。」(「青垣」16号より)
★まゝ事の飯もおさいも土筆かな ★水仙の花のうしろの蕾かな
★水飯のごろごろあたる箸の先 ★連翹の一枚づつの花ざかり
★昃れば春水の心あともどり ★女郎花少しはなれて男郎花
★いつの間にがらりと涼しチョコレート ★蕨飯出来るといふを待つことに
★父がつけしわが名立子や月を仰ぐ ★暁は宵より淋し鉦
★囀をこぼさじと抱く大樹かな ★午後からは頭が悪く芥子の花
★薄氷の上を流るゝ水少し ★吾も春の野に下り立てば紫に
★美しき緑走れり夏料理 ★思ひきや今年の月を姨捨に
★鉄線はわが好きの花五月来る ★人目には涼しさうにも見られつつ
★秋灯を明うせよ秋灯を明うせよ ★障子しめて四方の紅葉を感じをり
★端居してすぐに馴染むやおないどし ★たんぽゝと小声で言ひてみて一人
★皆が見る私の和服パリ薄暑 ★虚子忌とは斯く墨すりて紙切りて
★大景となりゆく霧の山容チ ★ばら剪りてざぶりと桶に浸けておく