英彦山と杉田久女・青森・五所川原と成田千
https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12834652378.html 【俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第35回】英彦山と杉田久女】より
英彦山は、大分県と接する福岡県の最高峰で1200メートル、大峰山、羽黒山と並び日本三大修験道場(山岳信仰の霊山)。
明治2年の神仏分離令で、僧坊三千超の宿坊も激減し隆盛を失った。入口の銅鳥居と奉幣殿は国の重要文化財である。遠賀川の源流で、山頂付近は、山毛欅、大杉が繁茂し、裏手の豊前坊(高住神社)を経て、名勝耶馬渓へ行ける。
★谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女
〜「英彦山」の前書きがあり、昭和6(1931)年40歳の折の作。『杉田久女句集』収録。久女の代表句として名高く奉幣殿に句碑がある。
大阪毎日新聞等主催の「日本新名勝俳句」で十万余句から選ばれた最優秀20句帝国風景院賞(金賞※)の作品。同時作「橡の実のつぶて颪や豊前坊」も銀賞に輝いた。
「ほととぎすは、谷から谷へと鳴き、実に自由に高らかにこだましていた。ほしいまゝが見つかるまで五六度足を運んだ」(自解)
「女性らしからぬ雄渾な句で、作品に掛けた久女の生命、作家魂である」(山本健吉)
「ア音・オ音が主律のしらべと下五が霊山たる深山幽谷の新緑の大景を活写し艶麗にして雄渾な句である」(鷹羽狩行)
「やって来るまで辛抱強く待つこと(苦吟)の果てに「ほしいまゝ」の五文字を感得した久女の喜びはいかばかりか」(清水哲男)
「英彦山の精の様なほととぎすが、あたかも自分だけに鳴いてくれる至福の時間」(小島健)
★英彦山の夕立棒の如くなり 野見山朱鳥
★霧厚し土の鈴より土の音 沢木欣一(英彦山ひこさん土がら鈴がら)
★砥のごとく厚く畦塗り比古の田は 向野楠葉
★雪沓に替へ上宮へ英彦の禰宜 江口竹亭
★鬼杉のうしろの真闇夜鷹鳴く 豊長みのる
★秋扇をひらけば水の豊前坊 黒田杏子
【杉田久女】明治23(1890)年、鹿児島市生まれ。官吏の父の勤務に伴い、沖縄、台湾を経て東京女子高師付属高等女学校卒。愛知県東部の小原村松名(現豊田市)の代々の素封家の跡取りで、東京美術学校西洋画科卒の杉田宇内と19歳で結婚。将来著名な画家夫人を夢見るも、夫は、福岡県小倉中学校の美術教師となり、悶々としたなかで、大正5(1916)年26歳から次兄赤堀月蟾に俳句の手解きを受け、「ホトトギス」に投句し始め、虚子に師事。万葉調で自我の強い作品で頭角を現し、長谷川かな女、阿部みどり女を知り中村汀女、橋本多佳子を指導した。昭和6年には、「日本新名勝俳句」金賞、翌年(36歳)には、「花衣」創刊主宰(5号で廃刊)し、九州で二番目の「ホトトギス」同人として、同7、8年には、雑詠巻頭を得て、常に鬼城、蛇笏、石鼎等と競いあい名声を博した。
生来の情熱家に加え一途で、一田舎教師の妻たるに安んぜず、夫との離婚問題も起きた。「隆盛し始めた厨俳句とは次元を異なる作品を生み出す作家魂」(山本健吉)が却って誤解を深め、同11年、吉岡禅寺洞、日野草城とともに、突然「ホトトギス」同人を除名され、作品発表も出来ず、失意のまま精神の安定性を失い、昭和21(1946)年1月21日、大宰府の病院で逝去。享年55歳。逝去6年後、長女石昌子の熱意により、「清艶高華」の虚子序文の『杉田久女句集』が刊行された。
坂本宮尾は、謎とされる「ホトトギス」同人除名の経緯を、ホトトギスの他の女性俳人(星野立子、中村汀女等)と異質な芸術家傾向で自己顕示欲が強い久女を虚子が忌諱し、虚子一途に必死に句集上梓を熱望するものの煮え切らぬ虚子の対応に、常軌を逸した行動や秋桜子等アンチ虚子や徳富蘇峰らの助力での句集刊行の企てが、その逆鱗に触れたからとする。そして、久女は厨俳句から脱却し俳句作家の道を意識的に歩んだ先駆者。美しいものを捉える直感力、天性の感性で、「久遠の芸術の神」から愛された幸福な俳人と結論付け、俳句への一途さ、真摯な努力に胸が詰まると述べる。
「妖艶でアカデミックな凛とした句風、男性を凌ぐ偉才は額田王にも肖る」(竹下しづの女」
「〈ノラともならず〉の様な作品が人口に膾炙したのは、久女には、むしろ不幸だった」(飯田龍太)
「作品の底に久女の芸術性と文学性、人間性の美しさが潜んでいる」(石昌子)
「俳句で可能な限りの広大な空間と時間とを正面から鎮めている」(飯島晴子)
「濃密で格の大きい芸術美の世界、何物も冒せぬ言語空間の完璧な世界」(宗田安正)
「虚子に忌避されて不遇な晩年を送り、不当な風聞に近年まで付き纏わされたが、天才的な資質の格調高い作品そのものから屈指の女性俳人と客観的に評価され、泉下の久女もほっとしていることだろう。」(「青垣」15号より)
★朝顔や濁り初めたる市の空(小倉旦過市場)
★紫陽花に秋冷いたる信濃かな(父の故郷松本城山公園に句碑)
★防人の妻恋ふ歌や磯菜摘む ★栴檀の花散る那覇に入学す
★足袋つぐやノラともならず教師妻 ★東風吹くや耳現はるゝうなゐ髪
★燕来る軒の深さに棲みなれし ★鶴舞ふや日は金色の雲を得て
★ぬかづけば我も善女や仏生会(ホトトギス初巻頭) ★風に落つ楊貴妃桜房のまま(同)
★無憂華(むゆうげ)の木陰はいづこ仏生会(同)
★灌沐(かんもく)の浄法身を拝しける(同、杉田宇内邸跡に句碑)
★丹の欄にさへづる鳥も惜春譜(宇佐神宮・ホトトギス巻頭)
★花衣ぬぐや纏る紐いろいろ ★張りとほす女の意地や藍ゆたか
★白妙の菊の枕をぬひ上げし(虚子に菊枕贈る) ★虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯
★虚子留守の鎌倉に来て春惜しむ ★夜光虫古鏡の如く漂へる
★夕顔やひらきかゝりて襞深く
※因みにこの時の金賞は他に、「啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々(水原秋櫻子)」「滝の上に水現れて落ちにけり(後藤夜半)」「さみだれのあまだればかり浮御堂 (阿波野青畝)」だった。
https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12834998923.html 【広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第39回】青森・五所川原と成田千空】より
白神山地を水源とする岩木川流域は、昔から氾濫に悩まされる湿地帯だったが、治水工事で改修が進み農地が拡大した。五所川原市は、その西北津軽農村地帯の交通・商業の中心地。五能線、津軽鉄道(冬はストーブ列車)が通じ、沿線には林檎畑が続き、県内最高峰の秀麗な岩木山が望める。平成10年に統合した金木町には、太宰治の生家「斜陽館」があり、全国屈指の港だった蜆漁の十三湖も近い。
★大粒の雨降る青田母の故郷(くに) 成田千空
〜昭和22年作。第一句集『地霊』収録。平成2年、五所川原市菊ヶ丘運動公園に句碑が建立された。自註に「三番除草の後、俄に雨が降り青田の騒めきが広がって、生き生きとした大地の息吹を感じ何の作為もなく生まれた句。青森空襲で地獄を見てしまった心が、一転母郷の生気に触発された句」とある。
隣にはその後、師中村草田男の「炎熱や勝利の如き地の明るさ」の句碑も建立された。
★面つゝむ津軽をとめや花林檎 高浜虚子 ★津軽なり星の匂ひの凍豆腐 小野寿子
★空席ひとつ十一月の五能線(悼成田千空) 黒田杏子
★大平原白しストーブ列車行く 吉田千嘉子
★蝉時雨太宰の手紙縷々哀訴(斜陽館) 榑沼けい一★赤光の雪降らしめよ津軽富士 木附沢麦青
★岩木川いよいよ痩せて冬ざくら 中村鎮雄 ★バリバリと氷る十三湖何もなし 新谷ひろし
【成田千空】は、大正10(1921)年、青森市に生まれ、本名力、8歳で父を失い、青森県立青森工業学校卒業後、東京の富士航空計器(株)に入社するも、肺結核で帰郷し、4年の療養生活中に俳句と出会う。松濤社を経て青森俳句会に参加し、大野林火『現代の秀句』で中村草田男に注目する。
終戦直前の青森市空襲で、姉の嫁ぎ先五所川原に移住し、帰農生活に入る。姉の亡夫の蔵書を耽読、青森俳句会から「暖鳥」を創刊、草田男創刊の「萬緑」にも参加。昭和25(1950)年従兄と書店「暖鳥文庫」を開業し、翌年結婚、東奥日報の文化講演会の為に来青の草田男を案内して一週間行動を共にする。
同28年、歴史に残る第一回萬緑賞を受賞。東大俳句会・成層圏俳句会等の並み居る俊英を斥けての受賞で「東北に千空あり」と名声を高め、当時青森高校在学中の寺山修司等に強いインパクトを与えた。
同35(1960)年、津軽と南部、八戸の有志(村上しゅら、加藤憲曠、新谷ひろし、米田一穂等)と「森の会」を結成。その後、この会から共著『修羅落し』『風祭』『氷塔』を刊行後、同51(1976)年、55歳で待望の第一句集『地霊』を上梓した。師草田男を亡くすも、青森県文化賞を受賞し、同63年、第二句集『人日』で第28回俳人協会賞を受賞した。
平成9(1977)年には、青森県立図書館に〈玫瑰や今も沖には未来あり〉の草田男句碑を建立し、第四句集『白光』で俳壇最高峰の第32回蛇笏賞、更に第五句集『忘年』で第16回日本詩歌文学館賞も受賞した。『萬緑』代表、読売新聞俳壇選者を務め、第一回「みなづき賞」も受賞したが、同19(2007)年、前立腺癌が進行し、11月17日、逝去。享年86歳。
句集は、他に『天門』『十方吟』、エッセイ集『俳句は歓びの文学』がある。
「外連味などなく、風土俳句でもなく、むしろ地味で誠実な人間の実感そのものの生活詠。その人間味の厚さに感銘した」(森澄雄)
「風土は素材でなくエスプリ。ここまで風土の言葉を特殊から普遍へと完成に導いた作家は稀有である」(横澤放川)
「句風の印象はなるほど重いが暗くはない。確かに根が深いのだ。津軽の野づらをしっかり足で踏んで立っている」(藤田湘子)
「千空という俳号も宇宙的で、太宰・志功・寺山といった津軽のグローバルなアーティストの系譜に連なる逞しい俳人である。語りの名人で、津軽弁の語り口は床しい」(黒田杏子)
「俳句一筋に生き抜き、男として醜い野望の類には一瞥もくれず、ひたすら草田男の指し示す所に真摯に従ってその生涯を全うした津軽の大人うしの風格を備えた人物」(森かつみ)
「蛇笏賞受賞式挨拶の冒頭の言葉『中村草田男門の成田千空です』は師弟関係の有り様の一つの理想であろう。昨年、生誕百年を迎えた千空の『かえりみてなつかしいと思うことはすべて恩だ』との言葉が、千空俳句の底辺に流れ、その人間愛と懐の深さを端的に表している。」「たかんな」令和4年1月号より転載)
★空蝉の脚のつめたきこのさみしさ(「萬緑」初巻頭) ★妻の眉目春の竈は火を得たり
★野は北へ牛ほどの藁焼き焦がし ★仰向けに冬川流れ無一物
★病む母のひらがなことば露の音 ★混沌の夜の底ぢから佞武多引く
★風三日銀一身の鮭届く ★白鳥の花の身又の日はありや
★ひかり降り雨ふる墾の赤かぶら ★鯉ほどの唐黍をもぎ故郷なり
★海やまの夜をたつぷりときりたんぽ ★早苗饗のあいやあいやと津軽唄
★大空にちからをもらひ雪卸す ★風と来て声よき十三とさの蜆売(十三湖)
★ししうどや金剛不壊の嶺のかず ★寒中の紫蜆寸志とす
★雄の馬のかぐろき股間わらび萌ゆ ★横顔は十に七つや花林檎
★鬱蒼と東北は雨草田男忌 ★昨日今日明日赤々と実玫瑰
★草に水に紅涙まざと落林檎(平成3年9月台風19号) ★虫送る生身の潤び女たち
★成人の日をくろがねのラッセル車 ★兄よりも兄嫁大事盆の家
★雪よりも白き骨これおばあさん(義母逝去) ★寒夕焼に焼き亡ぼさん癌の身は(絶筆)