Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

高千穂と種田山頭火・大森海岸と大牧広

2024.10.08 05:58

https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12738888329.html 【俳人・種田山頭火 広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第12回】高千穂と種田山頭火】より

 高千穂は宮崎県(旧日向国)の延岡市から五ヶ瀬川沿いの上流の大分・熊本県境にあり、北に祖母山、傾山を有する天孫降臨伝説の神話の地である。高天原、天の岩戸、雲海の眺めが素晴らしい国見が丘やⅤ字型の高千穂渓谷が名高く、高千穂夜神楽でも知られる。

 隣接する五ヶ瀬高原には日本最南端スキー場があり、南には山を隔てて歌人若山牧水の故郷である東郷町の尾鈴山も近い。

★分け入つても分け入つても青い山 種田山頭火

 〜種田山頭火の代表句として殊に有名。「解くすべもない惑ひを背負つて行乞流転の旅に出た」の前書がある大正15年4月22日の作。前年出家した熊本市近郊植木の味取観音堂守を捨てて行乞を始め、肥後街道・馬見原から五ヶ瀬を経て高千穂の滝下での作とされる。高千穂神社裏手には、昭和47年に山口保明等が建立した句碑があり、防府市生家跡地にもある。

 「いつも見える青い山は近づくと又次の青い山が向こうにある。いつもあるのに到達できない淋しさ、もどかしさ、どうにもならない気分」(金子兜太)

 「句跨りとリフレインが眼目で旅が永久に続くかの様な安心立命の旅を象徴させる」(鷹羽狩行)

 「〈原郷〉を得ない者のこのもどかしさは何だろう」(石寒太)

 「禅でいう〈遠山無限碧層々〉と同様に心の惑いも無限に続き解くすべもない。そんな心象風景と実景が二重写しとなっている」(村上護)

 「牧水の〈幾山河越え去り行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく〉と同様に旅=遍歴の気持ちに徹している」(山口保明)

 「人間の存在の微小と樹海の持つスケールの大きさ、深さが直截に感じられる」(富田拓也)

★降臨の日向すがしき月夜かな 阿波野青畝     ★鶯や天岩戸の上あたり 五十嵐播水

★火を焚いて雲海を待つ国見かな 角川春樹    ★埋火の珠となるまで神楽宿 神尾久美子

★荒縄のあらはに見ゆる里神楽 伊藤通明     ★秋風の果て牧水の尾鈴山 服部たか子

【種田山頭火】

 明治15(1882)年、山口県佐波郡(現防府市)生れ、本名は正一。地元有数の富豪であったが、父の遊蕩で十歳の折、母が井戸に投身自殺したことが終生のトラウマとなった。旧制山口中学を経て早稲田大学に入学するも神経衰弱で退学、家業が傾く中、同42年に27歳で結婚。定型俳句の地元俳壇で活躍しつつ、荻原井泉水に師事し、その主宰誌「層雲」で自由律俳句を始めた。俳号「山頭火」は、燃え上がる火山、新しい文学への意欲を託したと言われている。

 大正5(1916)年、種田家は破産し一家離散。妻子を伴って熊本に落ち延び、市内の下通りで古書店(後額縁屋)「雅楽多」を開業した。家業を顧みず、文学立身の夢もあり、離婚後単身上京するものの芽は出ず、関東大震災後の混沌もあり帰熊した。同13(1924)年には泥酔して市電をストップさせたことから禅門に入り、味取観音堂の堂守となった。しかし、一年も満たず山堂独住の淋しさに倦み、堂を捨て一鉢一笠の旅に出た。「層雲」同門の尾崎放哉が小豆島で亡くなった直後の、同15年4月10日であった。

 全国にわたり行乞放浪の旅を続け、昭和7(1932)年、第一句集『鉢の子』を上梓し、以後第七句集まで刊行。

 旅の合間には山口・小郡の「其中庵」、その後山口・湯田温泉「風来居」の仮寓に住み、念願とした伊那の井上井月の墓に詣でた後の同14(1939)年、松山市城北の御幸山麓の「一草庵」に入った。翌15年、前記七句集を集成した一代句集『草木塔』を上梓。10月10日、本人の希望通りコロリ往生(心臓麻痺)で逝去した。享年57歳。

 句集『鉢の子』『草木塔』『山行水行』『雑草風景』『柿の葉』『孤寒』『鴉』他膨大な日記、書簡があり、自身で「悪筆の達筆」と称した身心脱落の書も見事である。

 「酒豪」ぶりもハンパでなく、本人曰く泥酔への過程は、「まず、ほろほろ、それからふらふら、そしてぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であり、最初の「ほろほろ」の時点で既に三合に達する。酒と俳句については、「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒」と語り、また「芭蕉や一茶のことはあまり考へない、いつも考へるのは、路通や井月のことである。彼らの酒好きや最期のことである」と両人への思慕を吐く。

 「出家して悟りを開くために歩き始めたが、だんだん歩くことが目的になった行動的な人間である。頭でなく、体を使って考え書くことから明るさが生まれて来る」(佐々木幸綱)

 「行乞したゆえに俳句が出来、作句するために行乞した。その表裏一体が山頭火の世界であり、その放浪性は命がけで貫こうとの大いなる矜持による」(村上護)

 「放哉より格別に心安らぐのは何故であろうか」(広渡敬雄)

✦炎天をいただいて乞ひ歩く

✦鴉啼いてわたしも一人(放哉墓前)

✦わかれきてつくつくぼうし

✦まつたく雲がない笠をぬぐ

✦酔うてこほろぎと寝てゐたよ

✦どうしようもないわたくしが歩いてゐる

✦うしろ姿のしぐれてゆくか

✦笠へぽつとり椿だつた

✦ひとりの湯がこぼれる

✦ゆふ空から柚子の一つをもらふ

✦鉄鉢の中へも霰

✦雪へ雪ふるしづけさにをる

✦あるけばかつこういそげばかつこう

✦水のうまさを蛙鳴く

✦うどん供へて、母よ、わたしもいただきまする

✦お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました(井月墓前)

✦いちにち物言はず波音

✦ひとりで焼く餅ひとりでにふくれる

✦もりもりもりあがる雲へ歩む

 句碑の数は五百基を超え、個人文学碑として最多を誇る代表的な国民的俳人である。人々を強く魅了し、憧れさせる不思議な何かがあるからだろう。(「青垣」29号加筆再編成)


https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12738723484.html 【俳人・大牧広 広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第7回】大森海岸と大牧広】より

俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第7回】大森海岸と大牧広(2020-12-4。サイト「セクト・ポクリット」(※2)より抄出)。

 大森は、蒲田と共に城南・大田区に属し、商業住宅地域の他、京浜工業地帯を支える町工場・中小企業が蝟集している。江戸時代は、東海道街道筋の品川宿と川崎宿の間で、海苔養殖(浅草海苔)や農業が盛んで江戸二大刑場・鈴ヶ森刑場があった。

 明治10年、東大に招聘されたモース博士が横浜から新橋への汽車から発見した、大森の崖の貝殻群が大森貝塚遺跡である。大森海岸は、戦前迄は東京湾が深く入り込み、森ヶ崎等は、潮干狩、海水浴、海苔養殖が盛んであったが、次々に平和島等の埋立てが進み、羽田空港も年々拡張されている。

★春の海まつすぐ行けば見える筈 大牧 広

 〜大牧広の代表句の一つ。「港」創刊号の掲載句で第三句集『午後』に収録。後年には〈虹立ちし大森海岸逝く地なり〉(句集『大森海岸』)の句もある。

 「港を創刊したときの思い。『何年続くか』との陰口もあったようで、ただひたすら真っ直ぐ行けば……との想いで、三十年を過ごしてきた」(自註)

 「まつすぐに作者の強靭な精神、一貫した行動力を垣間見る」(島村正)

 「中七以降のフレーズは松下幸之助『道』の一節一道を開くためにはまず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩くと必ず新たな道、深い喜びも生まれてくるーを彷彿させるが、港への並々ならぬ覚悟が読み取れる」(野館真佐志)

 「平成元年の春、師の能村登四郎のもとを離れて港から船出したときの決意が見える。ひたすら『まつすぐ行けば』見えるものがあると俳人は思った」(酒井佐忠)

 「戦前は間近かだった大森海岸も、相次ぐ埋め立てですっかり海が遠くなったとの思いもあろう」(広渡敬雄)

★水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼

 〜「昭和十年の作、海に近い大森の家、肺浸潤の熱にうなされていた。家人や友達の憂色によって、病軽からぬことを知ると死の影が寒々とした海となって迫った」(西東三鬼自註)

★家土産に海苔買ふことも森ヶ崎 池内たかし   ★松風や羽田の子供海苔を乾す 細谷源二

★どくだみの暴れはじむる鈴ヶ森 柏原眠雨    ★貝塚にきて陽炎のつよく立つ 津根元 潮

★去年今年なき空港の灯の羽田 鷹羽狩行     ★空港は灯の矢を放ち星今宵 牛田修嗣

★初糶や手締めの音に乱れなし 大山高正(大田市場)

【大牧広さん】

 昭和6(1931)年、都内荏原区生れ。岐阜県から上京した父が、日本橋で開業したメリヤス問屋の店が関東大震災で全壊、荏原区に移転して始めた八百屋も空襲による延焼防止のため、強制転居させられた。その品川区豊町の家も空襲で焼け出され、その跡に建てた掘立小屋で終戦を迎え、加えて十代で両親を亡くす等々の幾つもの不幸と苦労した体験が人生観に深く影響した。

 信用金庫に勤務しながら、昭和40(1965)年、「馬酔木」「鶴」で俳句を始め、同45年「沖」に入り能村登四郎に師事。沖新人賞、第一句集『父寂び』上梓、沖賞受賞後、平成元(1989)年、58歳で「港」を創刊した。

 意欲的に後進の指導に当たり、衣川次郎、櫂未知子、仲寒蝉、小泉瀬衣子等の俊英を育てた。殊に70歳を過ぎてからの活躍は目を見張らせるものがあり、現代俳句協会賞(平成21年)、句集『正眼』にて詩歌文学館賞、与謝蕪村賞、俳句四季特別賞(同27年)、山本健吉賞を受賞。更に句集『朝の森』で俳壇の最高の栄誉・蛇笏賞を受賞するも、授賞式の前、4月20日、88歳で逝去。

 句集には他に『某日』『午後』『昭和一桁』『風の突堤』『冬の駅』、評論には『能村登四郎の世界』、エッセイ集には『いのちうれしき』等々がある。

「大牧広は、市井の路地こそが大道に通じるとの志を貫き、隅っこを生き切った俳人。平凡に徹する清すがしい志を持ったゆえ、七十歳後半から大成した」(恩田侑布子)

「映画監督への夢を果たせず、黙々とこなす信用金庫の仕事、その歪みから生じるペーソスを句として表現し得た」(櫂未知子)

「名もなき一庶民として反戦反骨を徹頭徹尾貫き、巍巍たる一世界を創造した」(高野ムツオ)

「俳諧味溢れる作風、昭和一桁生れの市井人の哀愁が漂う」(遠藤若狭男)

✦遠い日の雲呼ぶための夏帽子         ✦おのれには冬の灯妻には一家の灯

✦こんなにもさびしいと知る立泳ぎ       ✦ラストシーンならこの町のこの枯木

✦帰るとき野に目礼す土筆摘          ✦夏景色とはB29を仰ぎし景

✦海見ゆるほどに開けておく柿簾        ✦進駐軍の尻の大きさ雁渡る

✦正眼の父の遺影に雪が降る          ✦熱燗やこの世の隅といふ一隅

✦松過ぎてはや偏屈のもどりけり        ✦お迎へが来るまで書くぞ雪しんしん

✦世の中を正しく怒れ捨て案山子        ✦としよりを演じてゐぬか花筵

✦この先に崖ありてこそ大花野 

 銃後の庶民(少年)としての戦争体験を、戦争を知らない世代に語り続けることこそ、その悲劇を体験した者の務めだとの強い信念のもと、ペーソスある反骨精神を貫いた。「港」を一代限りとしたのも、作者のゆるぎない美学でもあった。(「たかんな」令和元年十一月号より転載)