井上秀天 〜長じて尋常の僧にならず〜
はじめに
本稿は佐橋法龍師による史伝を底本とし、いくつかの傍証と対照して書き足したもので、引用もほぼ史伝から引いていて、すでに底本をお読みの方にはほぼ既知の内容となっております。また文中の敬称は原則省略しています。ご了承ください。
今回紹介する井上秀天(一八八〇〜一九四五)の肩書は、東洋思想(研究)家や社会運動家、あるいは「在野の禅学者」などと出典でも様々紹介されていて、実際に亡くなった時点でに僧籍があったかどうか判然としません。その意味では「宗門の禅者」として紹介するのにやや無理がある人物でしょう。井上自身は終生曹洞禅に心を寄せていましたが、結果として、井上は教団の一員として生きることから「遠ざかる」ことになりました。
井上には従軍布教師として従事していた経歴があり、以前紹介した佐々木珍龍老師と、その点では共通しています。しかし明らかな皇国史観に立脚していた佐々木老師とは対照的に、やがて井上は社会主義に「接近」していきます。地位も立場も異なる両者ではありますが、それにしてもなぜかくも正反対(にも映る)の方向に進むことになったのでしょうか。ここでは井上を広義における「宗門の禅者」として位置付けることを念頭に、その経緯を紹介していきます。
従軍による転機
井上は明治十三年、鳥取県東伯郡中北条村国坂(現在の東伯郡北栄町)で生まれました。実は、およそ三十歳ほど年長になる日置黙仙禅師(永平寺六十六世)が近隣の下北条村で生誕しています。両村とも鳥取県中部の中核都市・倉吉の郊外に位置し、現在は北栄町として集合していますが、おそらく当時としても決して人口が多いとは言えなかったと思われ、そんな地域から洞門の内外で、就中海外との関わりにおいて才覚を発揮した傑物がほぼ同時代的に輩出されたのは奇縁とも、またそういう時代背景だったとも言えるかもしれません。
井上は生まれてすぐ、生家の氏神である神主家に養子に出されますが、神主の死去によって、今度は倉吉の曹洞宗寺院に預けられて育ちました。ここで井上は漢学塾に通い、またアメリカ人宣教師から英語を学ぶなど、後年の学識の基礎を養います。明治二十三年には米子中学に入学。
ところで井上の本名は「秀夫」ですが、通名の「秀天」は、誤って乱雑に書いた自身の名前を、中学の担任に「秀天とは、どえらい奴がいる」と半ば冷やかされ、それを聞いた同級生が「秀天、秀天」と呼ぶので、いつの間にか「秀天」になった、と言います。
また一説によると、途中で松江中学に転校してラフカディオ・ハーン(小泉八雲)から英語を学んだとも言われていますが、真偽は定かではありません。しかしこれも、井上なら然もありなん、というその語学力の高さから生じた風評だったかもしれません。
明治二十八年、十六歳で上京して、曹洞宗大学林(現在の駒澤大学)で山田孝道(一八六三〜一九二八)、秦慧昭(一八六二〜一九四四)、陸鉞巌(一八五五〜一九三七)といった、当時の錚々たる学匠から学び、その後哲学館(現在の東洋大学)に入学します。この頃の井上は陸に師事し、明治二十九年には、陸の住職地であった鳥取・景福寺に移って法務を補佐、明治三十年からは陸に随伴して台湾、中国、インド、セイロン、ビルマと遊学。台湾では神科学校で教鞭をとったといいます。
明治三十七年に日露戦争が勃発すると従軍布教師(一説には通訳)をつとめますが、翌年には肺結核に罹患し、療養のため帰国。ここが、井上の半生を分ける転換期になりました。
「平和的回心」を果たす
帰国後の井上は神戸に住んで海外の新聞社の特派員や神戸女学院の講師などをつとめます。そしてこの頃から、井上は『新仏教徒同志会』に入会し、明治三十九年から機関誌『新仏教』に寄稿して、自身の論説を掲げて世に問うようになりました。『新仏教徒同志会』は、哲学館の『仏教清徒同志会』を前身として、境野黄洋(一八七一〜一九三三)、高嶋米峰(一八七五〜一九四九)らが中心となって結成され、禁酒・禁煙・廃娼運動を展開した新仏教運動の団体です。
この時の井上の論説の骨子となったのが「平和論」でした。そしてその根底にはこれまで培った仏教や禅の信仰と知識、遊学先での学究によって影響を受けた非暴力主義への傾倒がありました。また自身が従軍体験を経たことで、「戦時を名誉とし、平時には怯で、且つ不義な性格をもつ日本の国民性の欠点をつき、日露戦争には、日本は殺人行為ではロシヤに優ったが、宗教心では劣った」として、この寄稿を始めた明治三十九年をもって、自身の「平和的回心の年」としました。
さて、冒頭で井上の肩書きを「社会運動家」としましたが、あえて「社会主義者」とは明記しませんでした。しかし井上が社会主義者と多く交流したのは事実のようで、社会主義の運動体である「神戸平民倶楽部」に入会していた、という説もあります。また内山愚童(一八七四〜一九一一)が大阪や神戸で社会主義者たちと面会に訪れた際にも来訪を受けますが、この時井上は居留守を使って会わなかったとされています。その三日後に、内山は自坊・林泉寺への帰路で逮捕されています。
後でも紹介する井上特有の歯に衣着せぬ言動は、ともすれば伝統的・保守的な立場からすると「耳障りで癇に障る」ような類のものだったことは想像に難くありません。
しかし佐橋法龍師は史伝の中で、
「革命をめざす社会主義とはあきらかに一線を画したもので、決して当時の国家・社会の体制そのものを否定するものではない。いうならば、体制を肯定した上での社会改良論である」。
と評しています。
この評が一理あるとしたら、それは井上が一度は従軍した経験があることと、かつて師事していた陸鉞巌の存在によるのかもしれません。
陸は台湾布教師や曹洞宗大学林総監などを歴任しましたが、その事績で特筆すべきは、道元禅師以降の日本での曹洞宗の禅籍を漢訳化して、戦時下の中国や台湾への布教によって、言わば「禅の逆輸入」を図ろうとしたことです。その陸の活動の根底には「四恩説」(国王恩を含むもの)がありました。
そんな陸に師事していた井上の「平和的回心」に、果たして直接行動や「無政府主義」といえるまでのイデオロギーが含まれていたかどうか、判然としないところがあります。
しかし、やがてその言動が官憲の嫌疑を招き、明治四十三年、大逆事件(幸徳事件)に連座して家宅捜査を受けます。井上は「社会主義者ではない」との弁明書を提出するなどして起訴は免れますが、以後は官憲の監視下に置かれるようになります。また内山への処遇などを含めたこの件についての宗門の対応から、井上は自身の曹洞宗侶としての歩みを断念したと言います。
「自分のような平和主義者が危険視されるとは、愚の骨頂」。
とも井上は述べていますが、仮にその思想が「中道寄り」だったとしても、「非国民か、そうでないか」という単純な善悪で割り切られる戦時体制下においては、従軍での挫折や大逆事件での嫌疑によって、井上は世間から白眼視されることとなったのではないでしょうか。
「在野の禅学者」として生きる
大正に入ると、井上は英国・米国領事館に勤務。主な仕事は漢籍や仏典、大使や領事が書いた日本仏教や日本でのキリスト教に関する著述の翻訳でした。
一方この頃から、井上自身が、
「ただ宿縁の結果として、幼少期より古典籍に親しみ、(中略)三十の坂を越えてから、禅を中心とせる東洋の精神文化の研究に没頭するようになり〜」。
と語っているように、勤務の傍で研究活動を続けた結果、大正七年に初めての著書『現代新訳碧眼録詳解』を上梓しました。そしてその後序には次のような一文があります。
「古来長い長い間、法螺と衒気と無智とでねりかためた禅僧や居士連中に、咒文扱いにされてきた『碧眼録』を、理知の上に立って歩みつつある人々の、容易に理解できるように解説〜」。
かつて自らの言動によって官憲の嫌疑を受けたことをすっかり忘れたような、もはや皮肉とすらも言えない辛辣さ、攻撃性で禅者を罵倒しており、「本当に平和主義者?」と思わず疑ってしまいます。
その矛先は、特に当時の臨済宗を代表する禅匠だった釋宗演(一八五九〜一九一九)や南天棒(一八三九〜一九二五)らに向けられますが、より井上と著作の名を売る結果となったのは、鈴木大拙(一八七八〜一九三九)との論争でした。
鈴木が『現代新訳碧眼録詳解』を書評し、さらに井上がそれに反論する形で行われた両者の論争は、鈴木が「禅は文字に依らない。仮に論理や言語学的に難があっても問題ない」とするのに対して、井上は
「仮に第一義はそうでも、第二義門に引き下げられて客観的に文字言句として存在している以上、それは理知的に解釈されるべき」。
だと主張しました。また井上は、
「禅の至難は、禅の実践窮行であって、禅の理解ではありません」。
「僧堂生活にも価値はありますが、如何なる人間も一度軍隊生活をしなければ完全な国
民になれぬとか、如何なる人間も僧堂生活をして三十棒を喫しなければ悟りが開けぬとかいうのは、確かに誇大妄想狂の言であります」。
と喝破しています。
以前筆者は、戦時中の永平寺の修行生活がニュース映画となって、軍隊や国民への国策のプロパガンダとして上映されていた、という話を見聞きしたことがあります。
もちろん今はそういった実態はなく、健全な僧堂教育がなされているはずですが、井上の直言は、もしかしたら、自身のかつての「挫折体験」に依るものだったかもしれませんが、それでも結果的に、あたかも現代の人権意識の高まりの予見、否、人権の普遍的価値を以てして、当時の僧堂教育の問題点を照出しています。
その一方で、井上は自身の「宿縁」である曹洞宗に対しては、
「山田孝道師にしても、忽滑谷快天師にしても、丘宗潭師にしても、原田祖岳師にしても、新井石禅師にしても、現代の智識階級の人々に、合理的に十分納得のゆくように、禅の真諦を提唱し得るだけの豊富なる学識のある人びとではありませんか」。
と言って、苛烈な攻撃を受けた臨済宗側からしたら「依怙贔屓」としか思えない物言いをしています。いわゆる「正信論争」で対立した忽滑谷と原田を同列に持ち上げているあたり、その「偏向(偏愛)ぶり」が伺われます。井上は宗派教団が教相判釈や宗意高揚によって他を劣位に置かんとすることを「職業的」と終始批判しており、特に臨済宗にその傾向があるとして、このような言動に至ったと思われますが、あくまで個人的な経験と所感だとお断りした上で、筆者自身も臨済宗(全体ではなく一面だと思いますが)に対して似たような心象が幾ばくかある、と告白させていただきます。
また、大正十年に井上が上梓した『禅の伝灯』の中では、嗣書・血脈・大事の三物について、達磨大師から六祖慧能禅師まで伝授された事実が、少なくとも文献上は見当たらないとしつつ、次のように述べています。
「(三物を)無価値視して、その廃棄を主張するものでは、決してない。(中略)それが出家であれ、在家であれ、この『三物』の實體と稱すべき、この絶大なる宇宙人生の核心(正法眼蔵、涅槃妙心)を把捉し、それを『わがもの』にすることを目がけて、日夜大に努力し、大に精進すべきであると、確信する物である」。
このことからも、井上が伝統や格式を決して軽んじていたわけではないということが分かります。この理知と偏向、伝統と進歩という二律背反が、井上の人格の複雑な魅力(正直、面倒くさいとも言えなくはない)となっているのかもしれません。
井上はその後も仏教学や禅学についての著作を重ねながら、神戸で正法眼蔵の勉強会の講師を務めるなどして、しばらくは「在野の禅学者」として順調に活動していましたが、やがて世は再び戦争の気配に支配されます。
昭和十六年にスパイ容疑で再び逮捕され、半年間の勾留された際も、井上は専ら『正法眼蔵』を読み耽っていたと言います。そして昭和二十年、米軍機による神戸の空襲によって、井上は命を落としました。平和論者としては痛恨の極みではなかったでしょうか。
本稿の副題「長じて尋常の僧ならず」は、井上の葬儀で読まれた弔辞の一文です。例え「尋常」ではなくても、井上は「宗門の禅者」としての心灯を宿したまま生涯を過ごした。少なくとも筆者はそう感じましたが、みなさんははどのように思われたでしょうか。
【参考文献】
『井上秀天』(佐橋法龍 著 名著普及会 刊)
『「新仏教」を支えた人々』(三浦節夫 著 東洋大学ライフデザイン学研究 編)
『明治期における海外渡航僧の諸相』(石井公成 著 近代仏教/日本近代仏教史研究会 編)
『「正法眼蔵」の漢訳者、陸鉞巌』(石井公成 著 印度学仏教学研究 編)
『井上秀天の思想 その生涯と平和論及び禅思想』(赤松徹真 著 龍谷大学論集 編)
『明治期以降曹洞宗人物誌(五)』(川口高風 著 愛知学院大学教養部紀要 編)
『大本山永平寺諸禅師略伝』