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虐待サバイバー写真展

映画「母さんがどんなに僕を嫌いでも」

2018.11.22 09:57

映画「母さんがどんなに僕を嫌いでも」を観てきました。過去に母親から虐待を受けたたいじ君が、成長する中で色々な人々との出会いを通して、母親の愛を掴み取るまでの、歌川たいじさんの実話を元にした映画です。

ストーリーを細かくいうことはしませんし、虐待サバイバーから見ると、中にはたいじ君とお母さんの「変化」に違和感を感じる人もいるかもしれません。でもこれは実話で、歌川たいじさん親子と仲間の話であってお二人の葛藤とその結果のお話です。これから書く感想も、自分だけのものです。

原作のエッセイマンガを拝見してあらかじめ予習して観ましたが、たいじ君と自分の重なる部分が多すぎて自分を見ているような感じでした。

工場で輝く母、家の中では不安定、ご飯はしっかり作ったかと思えば放り出し、叩き、閉じ込め、学校ではいじめ、大きくなると言葉で徹底的に拒絶。外では作り笑顔でいれば生きていける技の取得、父方の祖母が救いでした。

たいじ少年は素直な子でした。どんなことをされてもお母さんが好きでした。

自分は母が好きでもあり、でも母は自分を嫌いだから自分がちゃんとしなきゃ家が壊れるという怖さだけはありました。

辛いシーンもあります。個人的には虐待のシーンそのものより、一人になって、ようやく開いたロッカーから漏れ出る一筋の光や「痛くない、痛くない」と言い聞かせるシーン。映画の何分の一かは目をつぶってしまいました。

大人になったたいじ君には素敵な友達が現れます。それは偶然現れたわけではなく、たいじ青年の影を見た人、たいじ青年のそれでも光るまっすぐさを見た人が友達になったのだろなと感じました。

半ば強引に自分の中に入り込んでくる迷惑でおせっかいな友人は腹立つと同時に何か溶かしてくれるものがありました。自分にもそんな友人がいます。セクシュアリティの話はほとんど出てこなかったのですが、ほんの僅かな太賀君の表情から表れてたかな。繊細な表現でドキドキしました。

大きく変化したのは友人の前でたいじ君が本当の自分の気持ちを吐露した場面。たいじ君はお母さんの愛が本当は欲しかった。今からでも欲しかった。友達はそれが本当の気持ちだと後押しをする場面。

そこから先は自分とたいじ君の生き方は大きく変わり、たいじ君のストーリーが始まります。お母さんの愛を取り戻すための「戦い」です。自分が変わらなきゃ人も変わらない。何がなんでも、意地でもお母さんに振り向いてもらうんだというたいじ君の真っ直ぐさが凄まじかった。たいじ君にとってはこれがないと逆に生きる道がなかったのではと思うくらい迫るものがありました。

最後は皆さんが予想されるかな?そんな柔らかい、でも自然なたいじ君とお母さんらしい結末でした。切なくも悲しくもあったけど、たいじさん良かったねって思いながらエンドロールのゴスペラーズ「Seven Seas Journey」を聴きながらお母さんとたいじ君が仲良く「まぜごはん」を作ってるシーン浮かびました。叶うことはなかっただろうけど、太賀君と吉田羊さんで画になり楽しそうに作ってる二人を思い浮かべながらグスグスの目と鼻を拭きました。

虐待は物理的に痛いという以上に精神的に自尊心、自分自身の存在を否定されます。そこから生きのびても成人して人と関わるというのはかなりハードなことです。歌川さんと少しやり取りをさせてもらいました。ほんの少しではありますがその少しの容積いっぱいに詰められる限りの愛情を詰め込んで投げてくださる方でした。恐らく今も時々揺れを感じながらそれでも人に触れながら生きてらっしゃるんだろうなぁと感じました。友人や今はいないばあちゃんもいつも近くにいるんだろうなぁと。

御法川修監督は一つのファンタジーとしてこの映画をがあるとの主旨の発言をどこかのインタビューでされていました(ソースがなくてすみません)。

実際、虐待サバイバーの多くは親から離れ、恨むか忘れるように他のことに没頭するか考え続けるか同じ子どもを増やさないように活動するか、などなど様々な生き方をします。精神を病む人も多く社会生活を営めない人もやはり数多くいます。自分も日々フラッシュバックや突然湧いてくる怖さや怒りがコントロールできず苦しむ日々です。

「家族だから最後は結局仲良くなるもの」は幻想です。

「あなたが変われば周りも変わる」も夢物語だと思っています。

それでも、お母さんとたいじ君が仲良くまぜごはんを作ってるイメージが頭から離れません。

二人は笑顔で、たいじ君がしゃもじからお米をつまみ、それをお母さんが笑いながら手を軽くはたくんです。なんて素敵な場面だろうと思うんです。