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杉並区 05 (30/01/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 (5) 神戸

2024.01.31 04:24

杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村

下井草

小名 神戸 (ごうど)

神戸町 [小字 神戸、現 下井草五丁目、上井草一丁目の一部、清水三丁目の一部、今川一丁目]

中瀬町 [小字 中瀬、現 下井草四丁目、清水三丁目の一部]

四宮町 [小字 四宮、現 上井草二丁目の一部、今川二丁目の一部]


一昨日は旧杉並村まで足を延ばしたが、今日は旧下井草村に戻り、その中にあった神戸の地域を巡る。


小名 神戸 (ごうど)

江戸時代の小名 神戸の地名は由来は明確ではないのだが、神戸は神領という意味で、往昔、諸国に国造 (国守) が置かれた頃に、宮社へ神領として奉納された土地を神戸と呼んでいた事や隣地に四ノ宮というがあることから、 往古、府中に武蔵国の国府があった頃に、国造が武蔵国総社の六所宮へ、この地を奉納したので神戸の地名が起こったとの説がある。また、資料では別の説が記載されている。この神戸の中心がじゅだつ様の祠で井草川を挟んだ川北組と川南組が、この祠に寄り合って集会を開いたため、合同の場所といわれ、のちに略して「ごうど」になり、「ごうど」は神社を祀ってある所なので、神戸と書き表わされるようになったという。

明治時代に入り、1889年 (明治22年) に小名 神戸は大字 神戸となり、その下に小字 神戸、小字 中瀬、小字 四宮に分割されている。1963年 (昭和38年) から1969年 (昭和44年) にかけて行われた住居表示変更で現在の行政区となっている。資料では下図の様に江戸時代からの行政区の変遷が記されているが、これは大雑把なもので、実際は最も複雑で、詳しくは後述。

この小名 神戸は明治時代から昭和初期までは民家の少なく、地域のほとんどが農地だった。昭和の戦前にかけて四宮町と神戸町は民家が広がっていた。中瀬町は依然として明治時代の民家分布のままだった。戦後は民家が広がり、現在では全域が住宅街となっている。

この地域でも、寺社仏閣は中瀬天祖神社以外は見られない。練馬区では旧各村には鎮守の神社が残っており、寺も多くみられた。土地整理事業で住宅地となった際に、取り壊されてしまったのだろうか?いずれ、郷土資料館に行くだろうからその際に聞いてみよう。



神戸町 [小字 神戸、現 下井草五丁目、上井草一丁目の一部、清水三丁目の一部、今川一丁目]

1889年 (明治22年) に小名 神戸が分割され発足した小字 神戸は1932年 (昭和7年) に神戸町となり、現在の下井草五丁目となっている。


神戸町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。古い史跡は見当たらない。井口稲荷が唯一の寺社なのだが、これは井口家の屋敷神と思われるので村の鎮守などは存在していなかったのか、消滅してしまったのかもしれない。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 井口稲荷 (不明)
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし


西山橋跡 (下井草4丁目)

井草川遊歩道に戻り、井荻駅の南から下井草5丁目内のかつての川筋を進み、下井草4丁目に入ると石碑は置かれていないが西山橋が架かっていた場所になる。この辺りは戦前までは西山と呼ばれていた地域。


科学と自然の遊歩道

井草川遊歩道を進むと道が二股に分かれている。左に進むと井草川遊歩道、右は科学と自然の遊歩道と分岐している。科学と自然の遊歩道とはちょっと変わった名だ。その名の由来が気になったが、まずは右側の道を進む。どこかで、この名になった理由がわかるスポットがあるだろう。


下井草の畑、竹林

科学と自然の遊歩道を進むと、畑と竹林が見えてきた。昔はこの様な光景が杉並区の至る所で見られたのだろうが、現在では殆どが住宅街になって希少な場所となっている。杉並区ではこの様な場所を保護地区として残す努力をしている。井草川がここで屈曲して中州があった事から、この辺りは戦前までは中州と呼ばれていた。

更に遊歩道を進むと早稲田通りの手前で遊歩道が終わっていた。


井草湯、井口稲荷 (不明) とさいかちの木 (不明)

科学と自然の遊歩道が行き止まりとなり、遊歩道から外れた南、笹目道路近くに銭湯がある。井口湯という。井草の草分けの井口半兵衛家の屋敷があった場所といわれている。井口家は、代々半兵衛を名のり、元禄から寛政までの約百年間は名主役を勤め、幕末まで年寄役を勤めた旧家だそうだ。井口家の祖先は北条早雲との戦いに敗れ逃れた相州三浦郡走水井口ノ郷の三浦氏の一族と伝わり、天正年間 (1573-1592) に当地に移り住み、三浦姓をはばかり井口姓を名乗ったのが井口長左衛門といわれ、その一族の多くは名主・年寄役などを勤めていた。井草の地名は口姓を名乗った長佐衛門が「分け長佐衛門」と呼ばれたことからおこったという説もある。

この井口家の裏庭に生息していた銀杏の木の下に屋敷神の稲荷祠があり、中には石造り厨子の中に珍しい御神像が祀られていたそうだ。木彫りの御神像は電の上を飛ぶ狐の背に冠をつけた翁がまたがったものだった。また、現在私道になっている旧屋敷地にはさいかちの古木があり、戦前までは空洞に蛇がたくさん住みつき、穴から蛇が鎌首を出し、きれいな女の人が通ると落ちてくるといわれ、女の人は絶対に木の下を通らなかったという。この稲荷社とさいかちの古木は見つからなかった。


換気塔

旧小字 神戸の西境が環八通り (笹目通り) になり、そこには井荻トンネルの南換気塔が建っている。この下には1,263mの井荻トンネルが通っている。トンネルができる前は鉄道踏切を通り西武新宿線井荻駅を越えていたのだが、1時間当たり平均で約32分、ラッシュ時には約46分遮断される開かずの踏切で、交通量が増大するにつれて渋滞が激しくなり、東京都内で有数の渋滞箇所でもあった。この解消の為に、1997年 (平成9年) に井荻トンネルが開通している。



中瀬町 [小字 中瀬、現 下井草四丁目、清水三丁目の一部]

神戸町 (小字 神戸、現 下井草5丁目) の東隣が小字 中瀬で、古文書には中洲と書かれている。中瀬の地勢は、井草川が大きく湾曲した突出部で、三方が低湿地になり、対岸から眺めると島のように見えたところから、中島 (中洲) と呼ばれ、後に中瀬に変化したと言われている。1889年 (明治22年) に小名 神戸が三つに分割された際に、その一つが小字 中瀬となり、1932年 (昭和7年) に中瀬町となり、現在の下井草四丁目と清水三丁目の一部に相当する。


中瀬町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。この地域でも史跡は紹介されちない。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: なし
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし


島畑道 (しまっぱたけみち)

西武新宿線に沿って、その南側に道が東西に通っている。戦前迄は島畑道 (しまっぱたけみち) と呼ばれ、島畑 (しまっぱたけ) と呼ばれた低湿地の畑に沿っての道だった。現在は、下井草、上井草駅の近くで商店街となっている。


井草川遊歩道

先ほど通った井草川遊歩道と科学と自然の遊歩道の分岐点まで戻り、今度は井草川遊歩道を進む。写真は2024年4月5日に井草川遊歩道を再訪した際のもの。


学校西橋跡 (2024年4月5日 訪問)

井草川遊歩道と自動車道路が交差している。ここには学校西橋が架かっていた。いつ頃架けられたのかは不明だが、学校が出来てからの命名なので、明治期以降だろう。


あかっちゃり (2024年4月5日 訪問)

学校西橋跡付近一帯は戦前まではあかっちゃりと呼ばれた地域になる。ここには用水堰があって大山代参講の人が垢離とりをした場所だそうだ。地名の由来は不詳だが、堰の下の河底に赤砂利があったかとも思われるが、垢離取場だったので身の垢を去るという垢去りが訛ったとも思われる。ここに不動尊があったが区画整理後、井草八幡の民俗資料館に移されている。(民族資料館の開館時期は不定期で次は5月で、その時期の東京に来るかは未定)


井草川支流用水路 (2024年4月5日 訪問)

あかっちゃりから北へ井草川の支流用水路が伸びている。用水路跡は暗渠化され細い路地になっている。


夢の卵

道沿いのここにも卵のモニュメントが置かれている。夢の卵と刻まれている。何なのだろう?


井草川支流用水路 (2024年4月5日 訪問)

ここにも井草川の支流になる用水路跡がある。細い路地が東に伸びているが、途中で途切れていた。


学校前橋跡

井草川遊歩道を更に進むと学校前橋跡がある。この西に桃井第五小学校がある。1934年 (昭和9年) に開校しているので90年の歴史ある小学校だ。ここにも先ほど見た卵のモニュメントが置かれている。夢と刻まれている。


峡田 (はけた) (2024年4月5日 訪問)

学校前橋跡を南に過ぎると、遊歩道は西側へ大きくカーブしている。井草川は通常は田圃の中央を流れていたが、この部分だけ左岸にあった山を回り込む様にその下を流れていた。この山の崖地の下を大正時代迄は崖(はけ)という事で峡田 (はけた) と呼んでいた


中瀬北橋跡

遊歩道を進むと中瀬北橋の跡の碑がある。


中瀬児童遊園、岩石園

中瀬北橋跡の先には1958年 (昭和33年) に開園した中瀬児童遊園になる。この中瀬児童遊園の一画、遊歩道沿いには岩石園が造られている。これは小柴昌俊博士のノーベル賞受賞を記念して、通ってきた科学と自然の散歩道とともに造られたもの。ここにも卵のモニュメントが置かれている。これは「夢のタマゴ」で、子どもたちに夢を与えたいとの小柴博士の思いを込めて散歩道にいくつか設置されたもの。それぞれに小柴博士の手形と言葉が刻まれている。ここに置かれている卵には「やればできる」という小柴博士の言葉が刻まれている。小柴博士は小学校から東京大学まで、学業の成績は良くなかったのだが、ノーベル賞受賞という大偉業を成している。杉並区の小学校ではこの様な小柴博士の逸話が語られ、子供達に夢を与えている。夢の卵の先には幾つもの大きな岩石が置かれていた。卵の隣には小柴博士が岐阜県飛騨市の飛騨片麻岩というとても固い岩盤を1000mも掘ったところに設置したニュートリノ実験装置のカミオカンデに因んで、飛騨から持ってきた飛騨片麻岩が置かれている。その隣には順番に緑泥片岩 (三波石)、蛇紋岩、砂岩 (多胡石)、礫岩 (さざれ石)、玄武岩 (六方石)、安山岩 (小松石)、花崗岩 (真壁御影) が並べられている。この公園から井草川遊歩道は妙正寺公園に向かって伸びている。

小柴博士は1987年に自らが設計を指導・監督したカミオカンデによって史上初めて太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功し、この業績により、2002年にはノーベル物理学賞を受賞している。2003年にこのすぐ近くの桃井第五小学校の名誉校長の称号を贈呈されている。科学と自然の散歩道の由来がやっと分かった。現在は技術が更に進化して飛騨の実験場はスーパーカミオカンデが造られて、ニュートリノの性質の全容を解明にチャレンジしている。

 2024年4月5日に井草川遊歩道を走った際に公園に桜が綺麗に咲いていた。


中瀬小橋跡 (2024年4月5日 訪問)

遊歩道はまた自動車道に交差し、ここにはかつては中瀬小橋が架かっていた場所で、石碑が置かれている。


中瀬橋跡

遊歩道を進むともう一つの橋跡の碑が置かれている。かつてはここに中瀬橋が架かっていたのだ。


神戸山 (こうどやま)  (2024年4月5日 訪問)

中瀬橋の東の中瀬中学校はかつては台地で、大正時代までは神戸山と呼ばれていた。井草川はこの神戸山の西の崖下を流れていた。


妙正寺公園、妙正寺池 (清水三丁目)

中瀬橋跡から井草川遊歩道の先は妙正寺公園で、公園にある池に井草川が流れ込んでいる。中瀬橋跡から妙正寺公園の間、井草川の西側は大正時代までは塚下と呼ばれた地域で、井草川の東側の神戸山に塚があり、その崖下のこのように呼んでいた。塚は区画整理で消滅している。ここの井草川の東側は荒井在家と呼ばれていた。在家は仏教用語で出家せずに世俗・在俗の生活を営みながら仏道に帰依する者を言い、この近くには在家となった一般人が住んでいた場所をこの様に呼んでいたと思われる。

妙正寺公園は妙正寺池を中心とした公園で1963年に開園した際に、この近くにある日蓮宗の妙正寺に因んでこのように名付けられた。公園内では、まだ紅葉した樹々を見る事ができる。

妙正寺池の中島には中島には木橋が架けられ弁財天も置かれていたが、明治初年の神仏分離で本尊の弁財天は妙正寺に移され、市杵島姫命を祀り市杵島神社と改称し、後に天祖神社に合祀されている。

井草川はこの公園にある妙正寺池に流れ込み、妙正寺川に合流している。池の畔に流水口があった。多分これが暗渠となった井草川からの流入口なのだろう。

2024年4月7日に桜を見るために再訪。満開の時期は過ぎ、後数日で散ってしまいそうだ。


妙正寺川、夢の黒卵

妙正寺池を源泉として東へ妙正寺川が流れている。川沿いには遊歩道が設けられている。

公園から妙正寺川が始まる所にも夢の卵のモニュメントが置かれていた。ここの卵は真っ黒。

妙正寺川は流路延長9.7kmの荒川水系支流で、かつては、神田川の滝沢橋 - 落合橋間の地点で神田川と合流していたが、大雨の度にこの合流地点は川の水が氾濫したため、高田馬場分水路の建設に合わせて流路を変更し、辰巳橋で神田川高田馬場分水路に合流するよう流路改築が行われた。写真は2024年4月10日に新宿区の落合辺りの妙正寺川を走った。桜がまだ咲いている。


乞食橋

妙正寺の瘡守神社に備えられた団子を失敬していた乞食が住んでいた場所がこの妙正寺川の北側だった。妙正寺川の北の高台崖下の土取り場に何人かの乞食が小屋掛けして住んでいたという。この事から高台は小屋上、崖下は小屋下と呼ばれていた。この近く妙正寺川には丸太の一本橋があったそうだ。乞食が毎朝仕事 (おもらい) に行く際に、迂回しない様にと妙正寺の僧侶が乞食に為に架けた掛けた橋で村人はこの橋を渡る者は殆どなく、乞食専用の橋であったので「こじき橋」と呼ばれていた。この乞食橋が架かっていた場所には現在では妙正寺橋 (右下) が架かっている。


神戸坂 (こうどざか)  (2024年4月5日 訪問)

妙正寺川を渡り、中瀬天祖神社へ向かい道は緩やかな登り道となり、神戸坂と呼ばれている。昔、この地域は府中明神 (大国魂神か?) の四の宮の神領だったので神戸とつけられたという。


中瀬天祖神社 (清水三丁目)

妙正寺公園の北西、神戸坂を登った所に中瀬天祖神社がある。中瀬橋跡から、神社境内沿いの西の坂道 (神戸坂) を登り境内に入る。境内には三つの祠が置かれている。江戸時代の新編武蔵風土記稿では「十羅刹堂 (じゅうらせつめどう) 」と記載されている。村民は「ジユウラッさま」と呼んでいた。十羅刹とは、鬼子母神の500人産んだとする子供達の代表で、もともとは人を食う悪鬼だったが、後に法華経を守る守護神となった十人の羅刹女 (藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皇諦、奪一切衆生精気) といわれている。このことから、南にある日蓮宗の妙正寺がここに十羅剎を祀ったものと考えられている。奉納された手水盤には十羅刹と刻まれている。明治以前は十羅剎様、神明様などと呼ばれていたが、維新後の神仏分離令 (明治元年) によって三十番神堂から十日の守護神の天照皇大神 (大日孁貴神) を移祀して神明宮となり、1924年 (大正13年) に天祖神社と改称し神戸村の鎮守として井草八幡宮の境外末社となっている。

一番大きい祠がが天祖神社で大日要貴神 (天照大神の別の尊称)、市杵嶋姫命 (天照大神 うけもちのかみの姫神)、保食神 (穀物や食物の神) の三神を祀っている。神体は男根状の黒い自然石で、現在では井草八幡宮に納められいる。この神体については伝承がある。

昔、所沢か田無周辺の人が江戸から帰る途中、急に腹痛を起こし妙正寺に担ぎ込まれた。僧侶の祈祷で腹痛は治ったが、その人が持っていた男根状の自然石を見て「この石は霊石で、この地で祀られたいから腹痛を起こしたのだ」ということで、この石を十羅刹堂に安置した。数十年後、納めたはずの石が坂道で見つかり、馬で運ぼうとしたが馬が動けなくなった。石をもとに戻すと馬はたちまち元気になり歩きだした。
村人の1人が、「石が以前よりも大きくなっていきいきとしている。この石と十羅刹様とを拝めば陰陽がかね備って子宝が授かる。」と言い、再び堂に戻した。

1945年 (昭和20年) 頃までは白米講と言われた例祭が行われ、その日には講中がお金の代わりに現物の白米を持ち寄り、社前で餅をつき「下ベロ餅」という丸餅を参拝者に配っていた。神社がU字型の舌状台地の上にあるのでこのように呼ばれたそうだ。この餅を食べると子宝が授かるといわれ、遠方からも多数の参拝者があり 「神戸の鎮守様」として昔から親しまれていた。 天祖・稲荷それぞれに講中があり、百余名の氏子を抱えている。

境内には境内社とし朱塗の祠の稲荷神社 (保食神) が置かれ、市杵嶋神社 (市杵嶋姫命) と合殿となっている。また、妙正寺池の中島にあった弁財天も合祀されているそうだ。祠の脇に神社の由来が刻まれている。

境内のもう一つの小さな祠は三峯神社になる。



四宮町 [小字 四宮、現 上井草二丁目の一部、今川二丁目の一部]

旧小字 中瀬 (下井草四丁目) から西に旧小字 柿ノ木 (上井草一丁目) を越えたところが小字 四宮になる。四宮は1889年 (明治22年) に小名 神戸が三つに分割された際に、その小字の一つとして正式に行政区になっている。1932年 (昭和7年) に四宮町となり、現在の上井草2丁目にあたっている。この地も旧小名の神戸なのだが、東の神戸町との間に小名の柿ノ木があり、神戸が分断されている。何故、この様な地域割になっているのかについては資料でも説明がされていなかった。四宮という地名は武蔵国の総社だった府中六社明神社 (大国魂神社) に関係している。大国魂神社では、毎年五月五日の例大祭 (くらやみ祭と呼ばれている) で、本社、御霊、一ノ宮より六ノ宮までの御神輿渡御がおこなわれ、近在の各村々の講中が神輿を担ぎに行く習慣があった。昔の井草村は四ノ宮 (秩父大神) の御神輿を担ぐ担当だったことから、この四宮の地名が生まれたという。だだし、その後は五ノ宮 (金階大神) の御神輿の担当にに変わったが、地名は以前の四ノ宮神輿担当のままで残っていた。


四宮町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。ここにも寺社仏閣も見当たらない。四宮稲荷神社があるが、見たところ屋敷神の様に思え、村人の鎮守社ではない様だ。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 四宮稲荷神社
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし


八丁通り

旧柿木町と旧四宮町の境界が現在の八丁通りになる。

この八丁通りを南に進むと青梅街道と交わり、現在では八丁交差点となっている。昔はこのあたりに今川氏の屋敷があったという。今川屋敷は青梅街道から早稲田通りまで、長さが八丁 (約872m) もあった事から八丁通りと呼ばれている。今川家の当主は江戸城の近く、現在の神田神保町 (旧今川小路) に屋敷を構え、ここの八丁屋敷は、領地を把握するための家臣らの屋敷だった。現在の八丁通りは本来の八丁通りとは異なっている。元々は大正末期に八丁通りができ、現在の青梅街道沿いの四面堂交差点から荻窪警察署・荻窪消防署付近までだった。この青梅街道の元々の八丁通りには「八丁通り商店会」の名称が残っている。


井草川遊歩道

八丁通りを越えて井草川遊歩道に戻る。先に訪れた旧矢頭町の井草川の矢頭下橋から矢頭中橋、矢頭橋、矢頭上橋と続き、現在の西武池袋線で分断されているが、線路を越えた所から遊歩道が再開している。


第6妙正寺川橋梁

線路が敷設された際には鉄道を通すため、井草川に鉄橋が架けられた。井草川なのだが、何故か第6妙正寺川橋梁という。その理由は第5妙正寺川橋梁が架けられている柿ノ木のレポートで記載している。


四宮森公園

井草川遊歩道を上流側南に進むと四宮森公園がある。線路側には井草川を思い起こさせる人工川も造られている。


四の宮中橋跡

四宮森公園から井草川遊歩道を進むと四の宮中橋跡があった。ここにも四の宮の名が残っている。


四ノ宮下橋跡

更に井草川遊歩道を進むと四ノ宮下橋跡になる。石碑は建っていなかった。


四宮公園

四ノ宮下橋跡のすぐ南側には四宮公園が造られて、四ノ宮の名が残されている。


四宮南公園

井草遊歩道から大きく外れ、旧四宮町の南の端、現在の早稲田通りの北側にも四宮の名のついた四宮南公園があった。


四宮稲荷神社

四宮南公園のすぐ西側に四宮稲荷神社がある。駐車場らしき敷地の中にあり、施錠されており中には入れない。舗装される前は民家だった様だ。この祠はどうもその民家の屋敷神の様に思える。練馬や杉並には民家の敷地内に朱塗の鳥居の稲荷社を見かける事が多い。この地域では屋敷神としては稲荷社を祀っている事が多い。


これで旧下井草村にあった五つの小名をすべてめぐり終えた。今日はまだ時間があるので、下井草村の西隣にあった上井草村の小名 谷頭と小名瀬戸原に移動する。


参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪(1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪(1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)