Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

杉並区 08 (04/04/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 (6) 寺分

2024.04.06 07:27

旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 寺分 [小字 寺分宿/原、井荻一~三丁目、現 善福寺一/二丁目の一部、西荻北四丁目、西荻北三/四丁目の一部]


江戸時代の小名渡戸から、その南の地域の小名寺分 (てらぶ) に移動して散策する。この地期が旧上井草村最後の小名の訪問となる。



旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 寺分 [小字 寺分宿/原、井荻一~三丁目、現 善福寺一/二丁目の一部、西荻北四丁目、西荻北三/四丁目の一部]

江戸時代の小名渡戸の南側は小名寺分 (寺部) だった。古文書では小名寺分を北側を寺分、南側を小名原としているものもある。小名寺分は1889年 (明治22年) に井荻村が誕生した際に小字寺分宿、小字原に分割され、1932年 (昭和7年) に井荻村 (町) が他の地域と共に杉並区になった時に小字寺分宿と小字原は井荻1~3丁目になり、1964年 (昭和39年) の住所変更で善福寺1~2丁目の一部、西荻北4丁目、西荻北3~4目の一部になり現在に至る。

小名寺分は明治時代迄は寺分集落と原集落が主要な集落で民家が建っていたのは限定された地域だった。昭和初期に土地区画整理事業が行われ碁盤目状に区画割が行われた。1936年 (昭和11年) には西荻窪駅が建設された事もあり、現在の女子大通りの南側の小字原を中心に民家が増え始め、戦後にはほぼ全域が住宅街となっている。


小名寺分の寺社仏閣や民間信仰の塔は現在では残っていない。明治時代までの寺分集落や原集落には鎮守より堂宇があったはずなので、昭和初期の土地区画整理事業の際に消滅、又は移設されたと思われる。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: なし
  • 庚申塔、馬頭観音、地蔵菩薩: 地蔵堂 (112 ~ 116番、北向き地蔵、猫供養塔などは観泉寺に移設)
  • その他: 西荻六地蔵、西荻六童子


さくら公園 (はだしのオアシス)

善福寺川の南側が江戸時代の小名寺分で、善福寺川に架かる美濃山橋を南に渡った所に1993年 (平成5年) にさくら公園が造られている。小さな公園だが、桜の木が何本かあり、桜の花がまだ残っていた。この公園は「はだしのオアシス」とも呼ばれて、公園内には足の裏のツボを表した大きな足形のモニュメントが置かれている。

杉並区では区内のおもな名所旧跡や公園、区の施設などが巡れるようにと、1988年 (昭和63年) に「知る区ロード」と呼ばれる東西二つの輪 (全長約36km) になる散策路が設定され、ルート内には散歩の休憩場所として4つのオアシスが置かれている。ここは西の輪ルートに設置された「はだしのオアシス」になる。残りの三つは「みみのオアシス」、「はなのオアシス」、「ときのオアシス」で杉並区巡りで立ち寄る予定。

この地域は関東大震災の直後に内田秀五郎のもと、1925年 (大正14年) から1935年 (昭和10年) まで10年の歳月をかけて行われた区画整理事業で碁盤目状の道路が整備され、住宅地が形成された。ここには当初は8戸の住宅が建ち、その後住宅が拡大して、当時からさくら町会が組織された。所々に昭和時代の民家が残っている。

住宅街の中には桜並木道もあり、さくら町会で維持管理されている。


御成道 (おなりみち)

知る区ロードの西の輪は江戸時代、徳川将軍家が鷹狩の際利用する道と重なっている。戦前までは御成道と呼ばれていた。丁度、善福寺川の内側に沿っての道で、現在では住宅街の中に伸びている。この御成道は現在の善福寺公園に通じている。善福寺公園は江戸時代には将軍家の狩場で、善福寺川に生息している野鳥を狩ったという。寺分橋近くの御成道の西側には戦前迄は薬王院畑 (やくおういんばた) と呼ばれて地域で、江戸時代には薬王院所有の除地 (免税地) だった。


富士見見坂

小名寺分の善福寺川の東側は小高い高台になっており、この周辺には富士山が臨めるスポットが幾つかある。(前述の地図上に🗻マークを付けている) その中でも寺分橋から東への登り坂が関東の富士見百景の「東京富士見坂」 の一つに選ばれて、冬の晴れた日 などには富士山を眺める事が出来るそうだ。今日は残念ながら富士山は見えなかったので、インターネットでアップされていた写真 (写真下) も載せておく。


原寺分 (はらてらぶ) 橋下の湧水

江戸時代の小名寺分は湧水の豊かだった場所で、善福寺池だけで無く、善福寺川沿いでも湧水があった。現在ではわずかに残るだけだが、その一つが善福寺川に架かる原寺分橋の下に残っている。善福寺川より北は寺分、南は原という地名だったので、この橋は原寺分橋と呼ばれている。原寺分橋橋の下、川の中に湧水が出ている。以前に比べて水量は減っているそうだが、今でも水は湧き出している。


地蔵坂、地蔵堂 (観泉寺に移設)

原寺分橋から西に向かう道は地蔵坂と呼ばれている。かつてこの坂の途中に地蔵堂があった事からそう呼ばれている。別名、御立場坂 (おたてばざか)、寺分坂 (てらぶざか) とも呼ばれている。御立場坂は地蔵坂上の旧家が将軍御鷹狩りの際の休息所 (御立場) になったので付いた名で、寺分坂は寺分に行く坂ということでそう呼ばれていた。地蔵坂交差点に近い台地の先端部付近は地蔵坂遺跡と呼ばれ、旧石器時代のナイフ形石器やスクレーパー (掻器) など多数の石器類と礫群、縄文時代早期の土器や石器が多数出土し、住居跡や炉穴も検出されている。

地蔵堂には、地蔵菩薩や庚申塔、馬頭観音などが祀られていたので、江戸時代中期以降には地蔵坂と呼ばれるようになった。この地蔵堂は観泉寺に移設されている。

  • 橋供養庚申塔 (112番) - 1745年 (延享2年) 造立された駒形角柱に上部に月日、その下に合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。江戸時代の半ば頃、福寿庵 (現善福寺) の浄誉善入という坊主が、江戸市中を托鉢して浄財を集め、渡戸橋、地蔵前、新町の切通し、赤鳥居前、元宿、保久屋押出し、地蔵下 (原寺分橋) の七ヵ所に、石橋を架けて永久に壊れないようにと、七基の供養碑を建てて、祈願したといわれており、これは地蔵下 (原寺分橋) にあったものがここ地蔵堂に移設されていた。
  • 供養塔 - 1896年 (明治29年) に58人の連名で造立された角柱に「至心瞻禮 地藏像一切 悪事皆消滅」と刻まれている。
  • 庚申塔 (113番) - 1705年 (宝永2年) 造立の笠付角柱に月日、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。側面にも蓮が浮き彫りされている。
  • 馬頭観音 (114番) - 1824年 (文政7年) 造立の隅丸角柱で、正面上部に三面六臂の馬頭観音坐像が浮き彫りされ、その下に「馬頭観世音菩薩」と刻まれている。側面には「東 江戸」「西 ふちう」と刻まれて道しるべも兼ねていた。近代になってからは東多摩郡井荻村、豊島郡石神井村、北多摩郡吉祥寺村の三郡の境 (東京女子大の南角) に立てられていたので「三郡境の馬頭様」と呼ばれていた。
  • 庚申塔 (115番) - 1685年 (貞享2年) 造立の駒形角柱に月日、合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。もとは荻窪中学校 の校庭の樫の樹の下にあった。昭和初期の区画整理前の寺分坂は、砂利を敷いた急坂で、この樫の木の所で曲がっていました。荷車をひいて下る時、車がつっ走って、この曲がり角がたいへん危険だったが、だれも怪我をしないので、村人達はこの庚申様のご利益だと感謝して、いつもお花が供えてあったという。
  • 庚申塔 (116番) - 1716年 (正徳6年) 造立の笠付角柱に月日、合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。
  • 北向地蔵 - 右側の堂には堂内いっぱい吊るされた千羽鶴の中に置かれた舟型石塔に地蔵菩薩立像 (右下) が浮き彫りされている。1732年 (享保17年) に地蔵坂 (別名 御立場坂 [おたてばざか]、寺分坂 [てらぶざか]) に造立されたものをここに移設している。
  • 猫供養塔 - ある三味線の師匠が建立したといわれている猫供養塔。


六童子 - 縁結び童子像

地蔵坂の中程 (かつての地蔵堂があった辺り) には藪内佐斗司氏作の「縁結び童子像」が置かれている。「今は知らないあなたとあなた ぼくが繋いであげようか ご縁のいとの両端を結べばできる えにしのわ」とメッセージが書かれている。西荻窪の商店街が町おこしとして2009年 (平成21年) に道沿いや駅の周辺に六童子 (花の童子、おすもう童子、龍神童子大朝露童子縁結び童子上向き童子) が設置されている。この後に残りの五つの童子像も見学した。これら残りの五つは、その地域の訪問記に記載することにする。


井荻会館

地蔵坂を登り切った所が地蔵坂交差点でそこには木造2階建ての井荻会館が置かれている。1932年 (昭和7年) に当時の井荻町町長の内田秀五郎が建てた集合施設になる。現在でも骨董市などのいろいろな催しで使われている。


井荻公園、六童子 - 大朝露童子

地蔵坂の南に井荻公園があり、この公園内にも六童子の一つの大朝露童子が置かれ、「不老長寿の仙薬は 早寝、早起き、朝の露 日の出とともに飲み干せば 精気横溢、回春萬歳」とメッセージが添えられている。


坂の上のけやき公園 

井荻公園の南の坂の上にももう一つ公園がある。坂の上のけやき公園という公園で、公園内に樹齢百年の杉並区で一番大きいけやきの木がある。2008年に土地所有者の変更により、この場所が宅地に変更されマンション建設計画でこのけやきは伐採予定だった。このけやきはトトロの樹と呼ばれ地域住民に親しまれ、住民が保存運動を起こし8000人の署名を集めた。この運動により、杉並区が土地ごとこの樹を買い取り、公園として整備保存された経緯がある。


お石様

公園の前にはアトリエ・カノンというカフェがあり、そこには祠が置かれ「お石様」と呼ばれる霊石が祀られている。太古の昔、荻窪〜西荻窪一帯に巨大隕石が落下したとの伝説があり、隕石により窪地ができた事から荻窪と呼ばれるようになったという説もある。この隕石の欠片をここに祀っており、パワースポットになっているという人もいるそうだ。


六地蔵 - 子育て地蔵

地蔵坂の地蔵坂交差点を東西に走る大通りは女子大通りと呼ばれている。女子大通りを西に進んだ東京女子大前交差点のすぐ南側の商店街の中に小さな地蔵像が置かれている。先に見学した西荻窪の商店街が町おこしの六童子に続く町おこし第二弾として地蔵坂にあった地蔵堂にちなんで西荻六地蔵 (子育て地蔵、延命地蔵、釘抜き地蔵、夢見地蔵、縁結び地蔵、幸せ地蔵) が設置され、その一つの子育て地蔵が商店街の蕎麦屋の前に置かれている。


骨董通り 

江戸時代の小名寺分・原の南、現在の西荻窪駅の北側は商店街になっており骨董店やアンティークショップが集まりっている通りがある。この付近は通称「骨董通り」と呼ばれている。


西窪北中央公園、六童子 - 龍神童子

骨董通り沿いに西窪北中央公園があり、その中に三つ目の六童子の龍神童子が置かれ、「我何日踰龍門(我いつの日か龍門を踏む)」のメッセージが添えられている。



この後も、杉並区のスポットの幾つかを訪れている。それぞれはその地域のスポットを見終わった際に別途訪問記を作り、そこに含める予定。今日の杉並区巡りを終えた後、新大久保の韓国料理レストランで以前勤めていた会社の友人と夕食を共にした。自宅への帰宅は11時過ぎとなった。



小名 寺分 訪問ログ



参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)