国家神道と八紘一宇 - naturalright.org
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「日本会議」会長の三好達は、茨城県知事橋本昌らとの鼎談のなかで、茨城県の必修〈道徳〉のテキストに、「〔第一次世界大戦の〕パリ講和会議で日本の代表が国際連盟の盟約に人種平等の原則を入れることを提案した」件を、教材として採録するよう要求した。また、「日本会議」は、在リトアニア日本領事館領事代理杉原千畝によるユダヤ人数千人に対する日本通過ビザ発給は個人としての人道的行為だったのではなく、「八紘一宇」を国是とする大日本帝国の国策に従ったものであると主張している。
「八紘一宇」まで持ち出して、大日本帝国の行為をことさらに賛美する時代錯誤には驚くしかないが、「日本会議」の政治的影響力、とりわけ茨城県の県立高校における必修〈道徳〉が「日本会議」勢力の活動によって導入されたことを考えると、これらの主張をクレージーなものとして無視しているわけにもいかない。地方議会と国会における「日本会議」勢力の動向を一瞥してみよう。
「日本会議地方議員連盟」は、「加盟議員1000名」のうち正会員の名簿を公表している(http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-537.html)。20人以上の正会員がいる地方議会は、東京都議会(51人)、岐阜県議会(34人)、滋賀県議会(22人)、大阪市議会(33人)、兵庫県議会(46人)、鹿児島県議会(23人)である。茨城県議会は38人で、議員定数の過半数である。「日本会議国会議員懇談会」には、100人以上の会員がいるようだ。名簿は公表されていないので、第三者情報によって主な会員・役員を拾ってみる(http://ja.wikipedia.org/wiki/日本会議 、http://kaida.xxxxxxxx.jp/shinmachi/index.html リンク切れ)。発起人は小渕恵三・葉梨信行・森嘉朗他。会長は初代島村宣伸・二代麻生太郎・三代平沼赳夫。主なメンバーには、安倍晋三、石破茂、衛藤晟一、尾辻秀久、小池百合子、鴻池祥肇、古賀誠、塩崎恭久、高市早苗、武部勤、谷垣楨一、中川昭一、中曽根弘文、額賀福志郎、福田康夫、山谷えり子など。茨城県選出議員としては、狩野安、岡田広、小泉俊明。この小泉俊明のように、会員は自由民主党所属議員(離党者を含む)に限らない。奥田敬和、亀井久興、河村たかし(2009年4月から名古屋市長)、藤井裕久、前原誠司らも会員である(以上は、2009年8月30日の衆議院議員選挙以前のデータ)。
「日本会議」は、一部の特異なメンバーが日本社会の一般的動向から乖離して活動する閉鎖的な「右翼団体」なのではない。日本国の立法・行政・司法、ならびに地方政治の中枢部分に幾多の会員・支持者を擁する団体である。この「日本会議」が国粋主義的再編のターゲットのひとつにしているのが学校教育分野、とりわけ「歴史」と「道徳」である。
大日本帝国の人種差別撤廃提案
「日本会議」の主張するところによれば、「パリ講和会議で日本の代表が国際連盟の盟約に人種平等の原則を入れることを提案した」ことに現れているとおり、大日本帝国は「人種平等を主張した先駆者」であるという。
白人による非白人差別に反対し、非白人の解放のために戦った大日本帝国は、侵略的な国家ではないどころか、人類解放をめざした正義の国家だというのだ。したがって、ユダヤ人を差別しただけでなくその絶滅をめざして数百万人の虐殺を実行したドイツ第三帝国と大日本帝国とは、全く性格を異にするという。この文脈上で、大日本帝国外交官杉原千畝は個人的信念によってではなく、人種差別を撤廃し人類の平等を実現するという国是(「八紘一宇」)にしたがってユダヤ人数千人の命を救った、というストーリーが構成されるのである。
大日本帝国は、第一次世界大戦のパリ講和会議に、戦勝国の一員しかも五大国のひとつとして参加した。そして、アメリカ大統領ウィルソンが議長を務める「国際連盟委員会」において、いわゆる「人種差別撤廃案」を提案した。まず、1919(大正8)年2月13日、アメリカ提出の規約草案の第21条(宗教の自由)に次の字句を挿入するよう提案した。これが第一次修正案である。
「諸国家Nationsの平等性は国際連盟League of Nationsの基本的原則であるので、締約国はできるだけ早期に、連盟の一員である諸国statesにおける外国人alien nationals 〔=移民〕が、彼らの人種raceないし国籍 nationality のために、法律上ないし事実上のあらゆる点において、いかなる区別 distinction〔=差別〕も受けることなく平等 equalかつ公平justに取り扱われることに同意する。」
案文から明らかなように、大日本帝国の「人種差別撤廃案」とは、当時の「人種差別」すなわち、「白色人」による「黄色人」「黒色人」に対する差別それじたいを否定しその廃絶を主張する、というものではない。また、「白人」の帝国主義諸国によるアジア・アフリカの非「白人」に対する植民地支配に反対する、というものでもない。
この提案で問題にされているのは、alien nationals(直訳すると、「移住した国民」。つまり「外国人」ないし「移民」)の待遇に限られる。20世紀初頭、アメリカ、カナダ(当時イギリス領自治植民地)、オーストラリア(1901年イギリスから独立)で日本人移民の排斥が深刻化し、その解決が大日本帝国外務省にとって重要課題となっていた。提案は、イギリスの白人植民地に起源をもつこれらの地域における、日系移民排斥問題の解決を目指すものであり、人種差別一般、とりわけ帝国主義的支配にともなう人種差別の廃絶を主張するものではなかった。
特命全権委員5人のうち、国際連盟委員会で交渉にあたった副団長牧野伸顕と駐英大使珍田捨巳は、1913年の帰化不能外国人の土地所有と3年以上の借地を禁止するカリフォルニア州土地法案成立の際、それぞれ外務大臣と駐米大使であった。彼らは、日系移民排斥の解決に大日本帝国の「威信」がかかっていると認識していた。提案は、「威信」が傷つけられたことへの反応という意味合いが強い。しかも文言上あきらかなように、この提案は、すでに移住した移民の待遇についてのものであり、以後の移住の制限については言及していないのである。
パリ講和会議には、日本を除く五大国すなわち米英仏伊はいずれも大統領ないし総理大臣が参加していたのに対し、大日本帝国は総理大臣も現職の外務大臣も参加しなかった。情勢把握も不十分で、「人種差別」問題に関しては、日本出発時点では提案内容すら決定していなかった。交渉段階での本国政府からの「訓令」もなかった。国際情勢や大日本帝国の国益を踏まえて十分な準備のもとに提案したのではなく、外務官僚が外務省にとっての課題たる移民排斥問題の解決を最優先に行動したのである(島津直子「人種差別撤廃案」〔坂野潤治他編『憲政の政治学』2006年、東京大学出版会〕225-29頁)。
「杉原ビザ」はしばしば外務省批判の観点から取り上げられる。「日本会議」の上杉千年の説では、杉原千畝はユダヤ人保護という国策に忠実であろうとして、敢えて外務大臣訓令に反した行動をとったことになっている。国策に忠実だった大日本帝国軍隊と対照して、外務省を批判しているのである。また、戦後すぐには帰国できず、やっと1947(昭和22)年に帰国した杉原千畝を免職したうえ、ユダヤ人らによる探索に対して「センポ・スギハラ」などという外交官は在職したことがないと回答したうえ、戦後長いこと杉原の名誉回復を怠ったとして外務省批判が繰り広げられる。このように外務省批判の文脈において杉原千畝をとらえようとする「日本会議」のいつもの主張と、パリ講和会議での外務官僚主導の「人種差別撤廃案」について、具体的交渉過程どころか提案文の文面もふまえず、大げさに賞賛する態度とは、おおいに矛盾している。「日本会議」の対応はご都合主義的なものと言うほかない。
第一次修正案は多数決で否決されたため、大日本帝国全権団は4月11日、「国際連盟委員会」に第二次修正案を提案した。すなわち、連盟規約の序言に「諸国家nationsの平等性と、諸国民nationalsの公平なjust取り扱いの原則を是認し」との一句を挿入するというものである。
具体性に欠けるきわめて曖昧な表現である。中国・山東半島における戦敗国ドイツの利権の継承という、より優先されるべき課題の実現に悪影響が及ぶことを避けるため、米英などを刺激しないよう配慮し、内容的に一層後退したのである。これでは、「人種差別撤廃案」というほどのものではない。この第二次修正案には、委員会の17国中11か国が賛成したが、議長のアメリカ大統領ウィルソンが突然「全会一致の原則」を宣言して、否決してしまった。
ウィルソンの対応はもちろん不当なものである。しかし、それと対照させて大日本帝国を「人種平等を主張した先駆者」として手放しで賞賛するのはいささか身贔屓が過ぎるだろう。歴史家島津直子の評価はたいへんきびしい。
「人種案は積極的に国際社会のルールを改善するために提案されたものではなかった(……)。それどころか、日本の国際地位の向上、西洋列強と日本の間に漠然とあった形式的平等をもう一歩具体化した『人種平等』を導入しようとした利己主義的な案であったのである。」(同書、233–34頁)。
かりに「日本会議」会長三好達の要望通り、この第一次修正案や第二次修正案を、必修〈道徳〉のテキストに収録したりすれば、キング牧師のI Have A Dream.と比べられて、おおいに見劣りするのが関の山だろう。
「人種差別撤廃提案」の裏面
第一次世界大戦パリ講和会議における大日本帝国の「人種差別撤廃提案」は、日系移民排斥を告発し日本人の平等取り扱いを求めたという限りでは、「人種差別」に反対したものである。しかし、大日本帝国は、「白人」の帝国主義諸国による植民地支配と、そこでの「白人」による非「白人」差別に反対しているわけではない。それどころか、「白人」による植民地支配に便乗することさえ厭わない。たとえば、パリ講和会議から20年後の太平洋戦争直前、1941(昭和16)年11月5日の御前会議決定では、対米交渉においては、オランダ領東インド植民地(現在のインドネシア)からの物資獲得のために「相互に協力する」ことを提案する旨、決定しているのである(「乙案」)。
大日本帝国は、みずからが、「白人」による「人種差別」とは異なる、新たな「人種差別」の主体であった。大日本帝国は、1919年当時、すでに台湾と朝鮮を大日本帝国に併合していた。そして、中国東北部に形は独立国だが実質的には大日本帝国の植民地である「満州国」を建国した。つづいて中国全域の征服に着手し、さらに東南アジア全域、太平洋地域の征服に乗り出していく。この過程で大日本帝国は、朝鮮人差別、中国人差別、そのほか各地域での「人種差別」の主体として行動した。
大日本帝国がおこなった、「白人」による「人種差別」の批判とはいっても、自国の限られた利益追求のための皮相なものにとどまり、利己的、表面的かつ不徹底であった。そして大日本帝国それ自体が植民地支配の主体となり、新たな「人種差別」の主体として急速に台頭する途上にあった。このような大日本帝国による「人種差別撤廃提案」といっても、まったく説得力がない。こうしたものを「道徳」の教材にすべきだなどという要求が出てくること自体、きわめて異様というほかない。
「昭和天皇独白録」
それにしても、どうして「日本会議」は、パリ講和会議での「人種差別撤廃提案」という非常にマイナーな事象に目をつけたのか、不思議である。藤岡信勝らの「あたらしい歴史教科書」は別として、中学・高校の歴史教科書でも触れられることはなく、一般的な歴史の概説書でもたまに言及される程度の小エピソードが、どうして「日本会議」の重点項目になったのだろうか。昭和天皇裕仁は「大東亜戦争の遠因」についてこう語った。
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州〔カリフォルニア州〕移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。(……)かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に、之を抑へることは容易な技ではない。」(寺崎英成他編著『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』1991年、文藝春秋、20−21頁)
この「昭和天皇独白録」は、極東国際軍事裁判(「東京裁判」)における天皇の訴追を免れるための政治工作の一環であり、周到に編集された作為的な発言記録である。とりわけ太平洋戦争の開戦責任を免れるため、「立憲君主」としての限界ゆえに、大日本帝国陸軍と陸軍出身の政治家とりわけ東条英機の開戦方針を阻止することは不可能だったとする主張を中心的内容とし、あらゆる責任を陸軍とそのメンバーに帰している。「独白録」は、1946(昭和21)年3月18日から4月8日にかけ、皇居の「御文庫」(空襲に耐えるよう建造された鉄筋コンクリートの建物)において、体調不良のためベッドに横たわった状態で、宮内大臣松平慶民、侍従次長木下道雄らの重臣に対しておこなった口述をもとに作成された。さらに英訳版も編集された(ハーバート・ビックス『昭和天皇(上)』2002年、講談社、19頁)。このうち日本語版の「独白録」は、1990年、作成者の一人寺崎英成の遺族によってはじめて公表された。英訳版の発見はさらに後の1997年である(東野真『昭和天皇の二つの「独白録」』1998年、日本放送出版協会)。
「独白録」の開口一番、昭和天皇裕仁は、「人種差別撤廃提案」否決が太平洋戦争の「遠因」だと断言する。戦争の原因は、米英による「人種差別撤廃提案」の拒絶にあるのだから、大日本帝国には開戦の責任はないというのである。戦争責任回避のための都合の良い言い訳としての「人種差別撤廃提案」の位置づけが見てとれるだろう。現代の国粋主義団体の天皇崇拝者たちが、「人種差別撤廃提案」にこだわる理由と動機はここにある。ことさらに「人種差別撤廃提案」問題を取り上げる人たちは、大日本帝国と昭和天皇裕仁の戦争責任問題について特定の解釈を提起し、大日本帝国と昭和天皇裕仁の戦争責任を全面的に否認することを目論んでいる。「日本会議」会長の三好達が、この「人種差別撤廃提案」を茨城県の必修〈道徳〉のテキストに掲載せよとせまっている理由は、これで明らかだろう。
閣議決定における「八紘一宇」
ナチス・ドイツの迫害を逃れたユダヤ人6000人に対して、外交官杉原千畝が日本通過ビザを発給したのは、大日本帝国の「国是」たる「八紘一宇」精神に基づくものだというのが、「日本会議」の主張である。しかも、「八紘一宇」は大日本帝国によるアジア太平洋地域侵略のスローガンだったのではなく、欧米の白人国家による植民地支配からアジア太平洋地域を解放しようとする、「人種平等」の崇高な理念だったという。この驚くべき主張について検討しよう。
次は、1940(昭和15)年7月26日、第2次近衛内閣の閣議決定「基本国策要綱」冒頭の「根本方針」である。大日本帝国の方針として「八紘一宇」の語が登場する最初の例である。
「皇国の国是は、八紘を一宇とする肇国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り。」
「八紘一宇」という建国の精神に基づいて世界平和を確立することを「根本」とし、この「根本」の上に、最初に大日本帝国を「核心」として、日本・満州・中国を強固に「結合」し、次にこれを「根幹」とする東アジアの新しい「秩序」をたてる。これが大日本帝国の国家としての方針(「国是」)だというのだ。
「基本国策要綱」における「八紘一宇」は、近衛文麿ら閣議出席者のオリジナルではない。宗教団体「国柱会」の創始者田中智學(1861–1939)が、日蓮を中心とするひとつの家(「宇」)として世界(「八紘」)を統一するという意味の標語「八紘一宇」を作って使用していたのを、借用したとされる。日蓮宗においては、末法段階にある現世においては、穏やかに相手を導く「摂受(せつじゅ)」ではなく、相手を徹底的に論破して教化する「折伏(しゃくぶく)」をおこなうべきとされる。田中智學は「折伏」の対象に他宗派の信者だけでなく、天皇に対して不忠である者をも含める。田中智學は、大日本帝国憲法第28条(「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」)を改正して日蓮仏教を国教にし、「国立戒壇」を設置することをめざす。さらに「折伏」は、人間だけでなく国家もその対象とされ、他国をその宗教とともに否定することが宗教的義務とされる。田中智學は、『日本書紀』における「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや」との神武天皇のことばから四字熟語「八紘一宇」をつくった。これは法華経における「一天四海回帰妙法」と同じ意味をあらわすのだという。
田中智學の「国柱会」の信者として、高山樗牛、石原莞爾、宮沢賢治らがいた。石原莞爾(1889-1949)は、「満州事変」の発端となった満鉄爆破事件(柳条湖事件)の中心人物である(当時、陸軍中佐で関東軍参謀)。宮沢賢治(1896-1933)については、「国柱会」会員であったことはあまり言及されない。『銀河鉄道の夜』などから受ける表面的な印象のせいで、なんとなくキリスト教的な思想をもっていたと思われたりもするが、24歳で入信し熱心に活動した「国柱会」信者だった。(以上、田中智學と国柱会については、伊勢弘志「大正期の思想潮流についての一考察」〔https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6104/1/sundaishigaku_131_1.pdf 現在アクセス不可〕、大谷栄一「戦前期日本の日蓮仏教にみる戦争観」〔http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/otani31.pdf〕
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「八紘一宇(はっこういちう)」の典拠とされる『日本書紀』によると、現在の宮崎県あたりにいた彦火火出見(ひこほほでみ、後の神武〔じんむ〕天皇、当時45歳)が、「東の方によい土地がある。それがきっとこの国の中心だろう」と言って、東方遠征に乗り出した。それから6年め、東方遠征の困難な事業をひととおり済ました彦火火出見は言った(『日本古典文学大系67 日本書紀 上』1967年、岩波書店、212頁)。
「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」
(りくごうをかねてみやこをひらき、はっこうをおおいていえにせんこと、またよからずや)
現代語に翻訳すると(宇治谷孟訳『日本書紀(上)全現代語訳』1988年、講談社学術文庫、107-08頁)、
「国中を一つにして都を開き、天の下を掩いて一つの家にすることは、また良いことではないか。」
その翌々年、彦火火出見は現在の奈良県橿原(かしわら)市で即位した。これが万世一系の皇統の初代に位置する神武天皇であり、この年が皇紀(こうき)元年である。大日本帝国は皇紀元年は西暦紀元前660年に当たると算定した。そして、1940(昭和15)年には、「紀元二千六百年」の祝賀式典が全国で挙行され、全国民が祝った。
彦火火出見(神武天皇)がひとつの家のように統合しようと宣言した「八紘(はっこう)」は、意味上は地上世界のかなり広い範囲を意味するが、せいぜい日本列島の一部地域に限られる。いっぽう、1940(昭和15)年の閣議決定「基本国策要綱」における「八紘」は、意味上は地上世界のかなり広い範囲を意味するが、地球上の全人類世界を想定しているわけではない。直後に「世界平和」とあり、その「世界」は地球上の全人類世界を指すのだろうが、その「世界」についてはせいぜい「平和」な状態にしようという程度である。まさかそれを「一宇」として今上天皇(昭和天皇)のもとに統一してしまおうと想定しているわけではない。範囲を明確化するとしたら、「八紘」は、「大東亜」すなわち東アジア・東南アジア地域を指すのだろう。
このように、神武天皇時代の皇紀紀元前2年(西暦紀元前662年)と、昭和天皇時代の皇紀2600年(西暦1940年、昭和15年)とでは、「八紘」という語が想定する空間的限界に関して、大きな不一致がある。ひとつの「家」にすると言っているその「家」の規模からして全く違うのだ。当然、「八紘」の中身、さらに「八紘一宇」の意味するところは同一ではありえず、大きく異ならざるをえない。大日本帝国は、皇紀紀元前2年の時点で神武天皇が「八紘をひとつの家のように統一しよう!」と言ったその言葉を、皇紀2600年になって何かのスローガンに使おうというのだが、中身が違いすぎる。四字熟語「八紘一宇」の意味するものは、皇紀紀元前2年と皇紀2600年とではまったくことなる。したがって、「八紘一宇」というスローガンそれ自体に、ひとつの明確な理念が表現されているとは到底言えない。
「八紘一宇」の内実
「日本会議」の上杉千年(ちとし)は「八紘一宇」の意味を次のように説明する(上杉千年『猶太難民と八紘一宇』2002年、展転社、22-23頁)。
(1)「一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合するということ」を意味する。
(2)「世界をひとつの家族とするということを意味」する。
(3)「八紘一宇」を翻訳すると「世界同胞主義ユニバーサル・ブラザフッド」である。
このうち、(2)「世界をひとつの家族とするということ」は、まさに字義通りであるが、説明としては十分ではない。「家族」といってもそれがどういう家族を意味するのか明らかでないからだ。家族の意味内容の差異に応じて、「一宇」の意味するものも当然異ならざるをえないだろう。このように「家族」の意味が曖昧なままでは、「八紘一宇」の具体的意味内容をとらえることはできない。
しかし、「世界」全部がひとつの「家族」になるというのであるから、そこに何らかの思想が前提されているといえる。どのような思想か? ヒンドゥー教や仏教には「世界」がひとつの「家族」だという発想はない。ユダヤ教・キリスト教・イスラムにも、そのような発想はない。プラトンにも、ホッブズにも、ヘーゲルにも、そのような発想はない。「世界」全部がひとつの「家族」になるという発想は、儒教思想のものだろう。しかし、1940(昭和15)年当時の大日本帝国におけるこのような発想は、もちろん中国における儒教それ自体ではなく、国家神道と結びついた日本独特の儒教的道徳である。その意味では、「八紘一宇」は特定の思想体系を前提にしており、その思想を指し示していると言ってよい。
「ひとつの家族」といっても、もちろん現代社会における勤労者の家族のようなものを指し示しているわけではない。「一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合するということ」(上杉の説明(1))というように、この「家族」には「家長」が支配者として君臨している。法社会学者の川島武宜(1909-92)は、大日本帝国における儒教的忠孝の教説の特徴を、つぎのように説明している(川島武宜『イデオロギーとしての家族制度』1957年、岩波書店、42-43頁)。
「親の『身分』が尊貴なものであり(身分の隔絶)、したがって子は親に対し、最大の敬意(恭順)を払い、また親の命令に絶対服従すべき義務をおう、という教説。」
「親子の関係を天皇と国民との関係に類推して天皇の『親心』を強調すること。」
「天皇と人民との関係を本家分家の同族集団の関係だとする擬制をとおして、『国民の宗家』たる天皇への忠誠義務を強調する論理。」
この「家族」には、「一人の統治者のもとに」「隅々までも統合」されている「世界」の姿があらかじめ組み込まれているのであり、だからこそ、その形姿を「世界」に投影し、「一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合」された、「家族」のような「世界」をイメージすることができるのである。しかし、「一人の統治者のもとに」「統合」されている「家族」のような「世界」を、四字熟語「八紘一宇」が、単独で一義的に意味するわけではない。四字熟語「八紘一宇」それ自体は、思想そのもの、あるいは思想の要約などではなく、特定の思想を指し示すタグ(tag、つけ札)のようなものである。「世界同胞主義ユニバーサル・ブラザフッド」(上杉の説明(3))は、「八紘一宇」の説明とみなすことはできない。「同胞」には「一人の統治者のもとに」「統合」された状態という意味はない。「八紘一宇」の訳としてはとんでもない誤訳であり、大日本帝国の行為を免罪するために戦後になってから考えだした見え透いたすり替えにすぎない。
「日本会議」は、「八紘一宇」は侵略のスローガンではなく、人種差別廃止の崇高な理念だと強弁する。国粋主義者の主張は威勢が良く、人を驚かせるような内容だが、その立証がきわめて弱体である。肝心のところで決め手に欠け、論旨が支離滅裂になる。議論をたどっていっても、なるほどそうだと思わせる説得力がない。結局、どうがんばってみても、「八紘一宇」という四字熟語からひとつの思想体系を読み取るのは無理である。
「八紘一宇」は、「昭和」だとか、「平成」だとかと同様に漢籍を典拠とする造語である。たしかに漢字はたんに音を表すだけではなく意味をも表す。漢字一文字だけでも何らかの意味は表わすから、それが2つなり4つなり結合すれば、それ相応の意味を指し示しもする。しかし、四字熟語ひとつに、ひとまとまりの精神的諸原理を内包させるのは不可能だろう。2バイト文字わずか4個から思想体系を抽出しようとしたり、読解したりしようとしても、いかんせん情報量が少なすぎるのだ。あらかじめなんらかの思想を含有させておいて、しかるのちにそこから都合良く何らかの「思想」を読解してみせる「日本会議」の論理は、我田引水、牽強付会にすぎない。
大東亜の「新秩序」
「八紘一宇」が大日本帝国の国是として初めて登場した1940(昭和15)年7月26日の閣議決定「基本国策要綱」について、ひきつづき検討しよう。
「先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する。」
「日満支」の「満」とは、中国東北部に大日本帝国が樹立した「満州国」である。形の上では独立国だが実質的には大日本帝国の植民地である。「支」は、大日本帝国により首都南京(なんきん)を占領され重慶に移った中華民国政府ではなく、汪兆銘(おう・ちょうめい)の「南京国民政府」を指す。大日本帝国は中国全土の征服をめざして軍事行動を開始したが、宣戦布告もしていないため、それを「戦争」と呼ぶことすらできず、当初は「北支事変」(1937〔昭和12〕年7月11日)、ついで「支那事変」(同9月2日)と呼んだ。
さらに「国民政府を対手とせず」と宣言し(1938〔昭和13〕年1月16日)、相手国政府とのいかなる交渉もできない状態をみずから作った。実質的な政府といえない汪兆銘の「国民政府」を中国国家とみなし、重慶政府を「対手(あいて)」としないと宣言してしまった以上、いくら戦闘を続けたところで休戦交渉をおこなうことすらできない。これでは休戦も、したがって戦争の終結もありえない。当然「泥沼」へと進むことになる。「日満支の強固なる結合」とは、「世界同胞主義」ではなく、大日本帝国による中国支配を、ただし到底達成できない中国支配の完成を表現している。これを「根幹」とする「大東亜の新秩序」を建設するという。「大東亜」は字義上は東アジアだが、実際にはそれを大きく上回る地域を指すことになる。「仏印(ふついん)進駐」(北部:1940〔昭和15〕年9月。南部:1941〔昭和16〕年7月)により占領したフランス領インドシナ植民地、太平洋戦争に際して占領した東南アジア全域、西太平洋地域、そしてそれらの隣接地域が「大東亜」の範囲となった。
大日本帝国は、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスによる植民地体制の解消をめざした。その限りにおいて、大日本帝国は表面的には、欧米帝国主義諸国による植民地体制からのアジアの「解放」をめざしたことになる。しかし、自らを「核心」とする植民地支配体制へと「大東亜」全域を再編しようとしたのであり、けっして帝国主義による植民地支配を終わらせようとしたのではない。大日本帝国は、「白色人」による「黄色人」に対する差別にかえて、日本人によるアジア諸民族に対する差別を樹立しようとしたのである。
「八紘一宇」と『淮南子』
戦後数十年が経過した今、「八紘一宇」の一語にこだわることは、異様に思われる。しかし、国粋主義者にはそれ以外に方法がないのである。現実におこなわれたことではなく、四字熟語「八紘一宇」の無理な字義解釈や「世界同胞主義」などという誤訳へのすり替えによって、大日本帝国の政治的行動や軍事的行為を積極的に正当化しようとするにすぎない。窮余の一策というところなのだが、このような空疎な字義解釈に頼るのは、歴史修正主義者にとっては自殺行為である。
『日本書紀』巻第三における神武天皇の台詞の中の「六合(りくごう)」と「八紘」はオリジナルではない。その典拠は、『淮南子(えなんじ)』などの漢籍であるとされる(『日本古典文学大系 67』、213頁)。『淮南子』は、「宇宙」の生成と構造から、人類社会のありかたまで万般が話題となる道教思想の古典的文書である。「六合」や「八紘」は、宇宙の構造の説明において用いられる語である。「六合」とは、天地と東南西北、すなわち上下と四方のあわせて6方向に広がる空間を言う。地上世界の中心には、東西に3つ、南北に3つ配列される「九州」(3×3=9。それぞれ千里四方)がある。これが「中国」である。「九州」の外側、東西南北(四方)と、東南・南西・北西・北東の四隅、あわせて8方向にあるのが「八殥(はちいん)」(それぞれ千里四方)である。
「八殥」の外側の8方向にあるのが「八紘(はっこう)」(それぞれ千里四方)である。これで終わりではない。「八紘」の外側にあるのが「八極」(8方向にある極地)である。「八紘」の「紘」とは、「維」すなわち天地を繋いでいる綱のことであり、天と地とはこの綱により、8箇所(4つの隅と東西南北4方向)でつながっている(楠山春樹『新釈漢文大系 54 淮南子 上』1979年、明治書院、210-13頁)。「八紘」は、それ自体は「八殥」の外側の8箇所のことであるが、「八紘」とその内側の領域全体をも指す。通例は後者の意味で用いられる。
ところで、『淮南子』は、前漢時代の西暦紀元前2世紀に成立した。ところが、『日本書紀』巻第三で神武天皇が「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」と述べたのは、皇紀4年(西暦紀元前656年)だということになっている。神武天皇は西暦紀元前656年に、約500年後に編纂されるであろう文書から引用して、お言葉を述べたことになっている。時間的に前の者が、時間的に後の書物を読んでいたというのである。これは絶対にありえない話であり、『日本書紀』の記述内容の虚構性を物語っている。
神武天皇が紀元前656年に「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」と言ったという『日本書紀』の記述はフィクションである。したがって、西暦紀元前656年に神武天皇が「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」と発言したという『日本書紀』の記述を前提とする国粋主義者の様々の主張は、成り立たない。
「日本会議」の上杉千年は、本国からの禁止的訓令と日々膨れ上がるユダヤ人群衆との板挟みになって苦悩する杉原千畝が、四字熟語「八紘一宇」に依拠して解決策を見いだしたのだと主張する。これでは杉原千畝が、フィクションとしての日本神話にもとづく空疎な虚偽である「八紘一宇」の理念に基づいて、1940(昭和15)年の東ヨーロッパでの「ユダヤ人問題」に対処したことになる。このような暴論は到底成り立たない。
小林よしのり『戦争論』
上杉千年の謬論は、他の国粋主義者らによってあちこちで引用され、間接的に少なからぬ社会的影響を及ぼしている。漫画家小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言special 戦争論』(1998年、幻冬社)も、上杉の主張に依拠した漫画である。
齣1(ページ末尾)で小林は、「八紘一宇というのは『天皇の下ですべての民族は平等』ということだがこの政治的主張は単なるフィクションではなかった! じつはかなり本気の主張であることが証明されてきているのだ」としている(同書、35頁)。四字熟語「八紘一宇」に、来歴や文脈などすべてを無視して「天皇の下ですべての民族は平等」という内容を含意させている。「単なるフィクション」ではなく「かなり本気である」というのは、何を言っているのかわからない文章ではあるが、小林はどうやら「八紘一宇」が「フィクション」であることを自認しているようである。語るに落ちるとはこのことだろう。
齣2(ページ末尾)で小林は、杉原千畝について「もともと彼の行動は日本の八紘一宇の政治的主張のもとにやっていたわけだ」としている(同書、36頁)。ぞんざいな叙述であり、これもまた趣旨が明確ではないが、小林よしのりが上杉千年の主張に沿って書いていることは間違いないだろう。
「満州国」と杉原千畝
上杉千年は、極東国際軍事裁判(「東京裁判」)において、容疑者の弁護団は、杉原千畝を証人として召喚してビザ発給は人種平等の「八紘一宇」精神の発露としての国策に従ったものだったと証言させるべきだったという。そうすれば、大日本帝国が「八紘一宇」精神に基づきユダヤ人を保護した事実があきらかになり、ユダヤ人を差別するどころかそれを保護した大日本帝国が、「南京事件」のような虐殺事件を起こすはずがないことを立証でき、裁判の結果は大きく異なっていたのに、杉原千畝に証言させなかったのはまことに残念だったという(上杉千年『猶太難民と八紘一宇』227−28頁)。
だが、杉原千畝は晩年に書いた手記において次のとおり述べている(渡辺勝正『決断・命のビザ』〔1996年、大正出版〕所収、291頁)。
「一九三六年(昭和一一)に満州国ができると、その外交部へ派遣され、満州国には三か年在籍しました〔……〕。そしてその間に私は、この国の内幕が分ってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになったので、本家の外務省へのカムバックを希望して東京に帰りました。」
杉原千畝がすでに死去しているのをいいことに、「日本会議」の藤原宣夫や上杉千年らは、あきらかな事実を無視し、根拠のない主張を積み重ねて、大日本帝国擁護の主張を展開してきた。しかし、「八紘一宇」は人種平等のスローガンであり、杉原千畝はその精神にしたがってビザを発給したとの主張は、いかにしても成り立たない。杉原千畝に、大日本帝国のおこなった戦争についての弁護活動を期待するのは間違いだろう。
自由社版「つくる会」教科書
国粋主義的歴史観の普及をめざして中学校用歴史教科書を編集する「新しい歴史教科書をつくる会」は、1997(平成9)年1月に設立されたが、事務局長大月隆寛の解任(1999〔平成11〕年9月)、小林よしのりと西部邁の退会(2002〔平成14〕年2月)など、設立当初から中心メンバー間での内紛が絶えなかった。2006(平成18)年4月に元会長の八木秀次(高崎経済大学教授、憲法学)らが脱退して別組織(「日本教育再生機構」)をつくった。
これを受けて、「つくる会」教科書の出版元であったフジサンケイグループの扶桑社は、藤岡信勝らの「つくる会」とは絶縁したうえで、子会社として育鵬社を設立して八木らの別組織が今後編集する教科書を発行することにした(俵義文『〈つくる会〉分裂と歴史偽造の深層』2008年、花伝社)。(なお、八木が理事長となった「日本教育再生機構」は、小学校・中学校用の道徳の「教科書」〔副読本ではない!〕発行もめざしており、「教科書に載せたい話」を一般から募集した。〔www.kyoiku-saisei.jp/dotoku/dt-kobo.html〕)
発行元をうしなった藤岡信勝(拓殖大学教授)らの「つくる会」は、別の出版社を探さねばならないことになった。理事らの奔走により、かつて雑誌『自由』などを発行していた自由社が新たな発行元になった。従来の扶桑社版教科書をもとに、改めて中学校用の歴史教科書が編集され、2008(平成20)年度に文部科学省に検定申請された。当初、136箇所について、「誤りである」・「不正確な表現である」・「誤解するおそれのある表現である」等の指摘を受けいったん不合格となったが、同年度内に該当箇所を全部修正して再申請し合格にこぎつけた(www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/kentei/1261386.htm)。
自由社版の「つくる会」教科書は、横浜市教育委員会によって市内の全13学区中8学区(対象生徒数約13,000人)用に採択されたほか、私立中学校数校で採択され、2010(平成22)年度から使用されることになった。
なお、扶桑社は「つくる会」と絶縁したにもかかわらず、「つくる会」の藤岡らが以前編集した従来の「新しい歴史教科書」を継続して供給することとした。このため著者である「つくる会」の藤岡らは発行差し止めの訴訟を起こしたが、敗訴した(2009年8月。控訴断念し判決確定。www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/news_264.htm リンク切れ)扶桑社版の教科書は、東京都の中等教育学校や愛媛県今治市立中学校用などに採択され(http://kyoukashokaizen.blog114.fc2.com/blog-entry-54.html)、2010年度に5000部以上が使用された。
樋口少将の「オトポール事件」
「つくる会」が新たに編集した自由社版中学校歴史教科書に、「迫害されたユダヤ人を助けた日本人」として、杉原千畝と樋口季一郎が取り上げられている(203頁の囲み記事「歴史のこの人」)。まず、樋口季一郎(1888–1970)に関する記述を検討しよう。
「1938〔昭和13〕年3月、ソ連と満州の国境にあるシベリア鉄道のオトポール駅に、ナチス・ドイツに迫害されビザを持たずに逃れてきた、ユダヤ人の難民の一団が到着した。当時、日本はドイツと友好関係にあったが、知らせを受けたハルビン特務機関長の樋口季一郎少将は、満州国建国の『五族協和』の理念からこれを人道問題として扱い、満鉄に依頼して救援列車を次々と出し、上海などに逃げる手助けをした。〔……〕このルートで1万1千人のユダヤ人が逃げたと伝えられている。」
リトアニアで杉原千畝がビザを発給した1940(昭和15)年8月の、2年以上前のことである。この件は、「日本会議」等で活動してきた「教科書問題研究家」で、「つくる会」の理事でもあった上杉千年(1927–2009)が普及につとめてきた(上杉千年『猶太難民と八紘一宇』2002年、展転社、49–69頁)。
この「オトポール事件」については、樋口季一郎の回想録が1970(昭和45)年の死去の翌年に出版され(『アッツキスカ軍司令官の回想録』1971年、芙蓉書房出版。1999年に同社から『陸軍中将樋口季一郎回想録』として再刊)、そこで樋口がみずから言及しているほか、作家相良俊輔が樋口の伝記『流氷の海』(1973年、光人社)において取り上げた。
これらを根拠にして「日本会議」の上杉千年や藤原宣夫らは、「オトポール事件」を「八紘一宇」と「五族協和」精神に基づいて大日本帝国軍人がおこなった偉業だと絶賛している。助けた人数は、「つくる会」教科書では「1万1千人」だが、樋口自身や相良の記述では「2万人」である。文官の杉原千畝が6000人なら、軍人の樋口季一郎が助けたのはその3倍以上の「2万人」である。しかも、樋口の場合、杉原千畝のように「訓令違反」の個人的行為である心配はなく、軍人による正真正銘の職務上の行為なのだ。
「オトポール事件」はあれこれの雑誌や書籍で紹介され、大日本帝国軍隊の偉業として宣伝された。樋口季一郎を賞賛したのは「日本会議」の上杉千年や藤原宣夫だけではない。杉原千畝についての児童向けの伝記の中にまで登場した(篠輝久『約束の国への長い旅』1988年、リブリオ出版、72–75頁。この篠輝久は、「日本会議」の藤原宣夫と関係の深いヒルレ・レヴィンの問題作『千畝』の訳者である)。
「数の問題ではない」
ところが、「オトポール事件」を誇らしげに紹介した上杉千年は、「2万人」は「幻」だとする或る人物からの書簡を受け取って慌てることになる(上杉前掲書、64頁)。すなわち、樋口と同時期に「満州国」に駐在していた大日本帝国陸軍大佐安江仙弘の長男、安江弘夫が外交史料館で調べたところ、「満州国」側の満州里駅に到着したユダヤ人は、1938(昭和13)年10月から翌年4月にかけての100人ほどだったというのである。
「2万人説」には鉄道の輸送力の点からも疑義が出された。『流氷の海』によると、樋口は、3月8日に「2万人」がオトポール駅で立ち往生している件を聞き、3月10日に救援列車の手配を命じた。これにより3月12日に「第一陣の救援列車」がハルピン駅に到着し、その「数刻後」には「オトポールの難民全部がハルピンに収容された」ことになっている(56–58頁)。この点について在日本イスラエル大使館広報室の滝川義人は、オトポール駅に最も近い満州里駅からハルビン駅までは1000kmもあるうえ、大興安嶺山脈の難所をこえるために一編成に機関車3両を連結しなければならず、往復するのに最低でも2日間かかることから、数万人のユダヤ人難民を短期間で輸送するなど到底不可能だと批判する(滝川義人『ユダヤ解説のキーワード』1998年、新潮選書、248–53頁)。
さらに、杉原幸子の『六千人の命のビザ・新版』(1993年)の出版元である大正出版社長渡辺勝正は、1938(昭和13)年当時のユダヤ人人口は「満州国」全体でも5400人で、しかも2年後には5070人に減少していることなどからしても、「2万人」が一挙に「満州国」に入国したとは考えにくく、この数字は当時ソ連のビロビジャン自治州にいたユダヤ人の人数(1万5000人ないし2万人)と混同したものだろうと推測している(渡辺勝正『真相・杉原ビザ』2000年、大正出版、198–220頁)。
「2万人」説を安易に受け売りしたのを聞きとがめられた上杉千年は、新証拠探しに奔走したが結局目的は果たせなかった。「2万人」は滝川義人や渡辺勝正のいうように、思い違いのようである。
ただし、ゼロではなかった。1938年3月に、18人のユダヤ人が樋口の尽力により「満州国」に受け入れられたのは事実らしい。写真も残っているこの18人を含め、安江弘夫の言うように樋口は合計で100人ほどのユダヤ人を保護したようである。上杉は言う(上杉前掲書、68頁)。
「『オトポール事件』で評価されるべきは、救出人数の問題ではなく、樋口・下村・松岡のユダヤ人を救出した『善意』『善行』である。この『善意』『善行』を樋口少将に決意せしめた動機については、ロシア旅行中のユダヤ老人が〈日本天皇こそ、我らの待望するメッシアではないかと思う〉といったことを想起したことにあるという。」
人数の問題ではない! 南京虐殺事件の人数は水増しだと主張する「歴史修正主義者」らしくもない言い草である。本人の「回想録」での2万人が、自由社版「つくる会」教科書で「1万1千人」になった理由も不明である。
しかし、人数について議論はここまでにしておこう。「オトポール事件」の説明には、それ以上にいろいろおかしな点があるのだ。
天皇は救世主だというユダヤ人
樋口季一郎は、戦後出版された回想録で次のように言う。
「かつて私が〔……〕南ロシア、コーカサスを旅行して、チフリスに到った時、ある玩具店の老主人(ユダヤ人)が、私共の日本人たることを知るや襟を正して、『私は日本天皇こそ、我らの待望するメッシアでないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見のない民族はなく、日本天皇はまたその国内において階級的に何らの偏見を持たぬと聞いているいるから』というのであった。」(『アッツキスカ軍司令官の回想録』〔以下、『回想録』〕1971年、芙蓉書房出版、357頁。)
チフリスとは現在のグルジアの首都トビリシのことであり、樋口はソ連領内を視察した時の経験を語っているのである。「日本天皇」を世界終末に出現するはずの救世主(ヘブライ語で「メシア」 )だと言ってのけるなど、この「老主人」は相当におかしなことを語っている。もちろんユダヤ教の教義からは完全に逸脱している。「老主人」が本当にユダヤ教徒であったかどうか、たいへん疑わしい。さらに天皇が「階級的に何らの偏見を持たぬ」などと趣旨不明のことを言うなど、この「老主人」は例のマーヴィン・トケイヤー以上に、天皇制についても無知のようだ。日本の軍人相手に自称ユダヤ人が口から出まかせに適当なお世辞を言った、という程度のことだろう。
いっぽうで樋口自身は、「マルクスが、シオニストであったとの文献的確証がない」(『回想録』、356頁 )と意味不明のことを言ったり、ユダヤ陰謀論の古典的文書である偽書「シオン賢者のプロトコル」を真正のものと考えているなど、ユダヤ教やユダヤ人に関する認識はかなり混乱している。ところが、張作霖爆殺事件(1928年)の首謀者河本大佐を英雄視する戦記読物作家相良俊輔の手にかかると(『赤い夕陽の満州野が原に 鬼才河本大作の生涯』1978年、光人社)、樋口季一郎は「ユダヤ問題の権威」に祭り上げられる(相良俊輔『流氷の海』1973年、光人社、1頁)。樋口がオトポール駅で「2万人」(「つくる会」教科書では1万1千人)のユダヤ人が救援を待っていると聞かされた時のことを、作家相良俊輔は叙述する。
「ぐっと胸をついてきたのは、あのときの老人のことばであった。
『―東方の国の救世主が、いまにきっと悲運の民族を助けてくれる……』
そのことばが、早鐘のように樋口の耳朶をうち、心をゆりうごかした。
(よし、おれがやろう。おれがやらずにだれがやるというのだ。軍を放逐されたっていい。正しいことをするのだ。恐れることはない、あの老人のために、いまこそ、ほんとうの勇気がいるのだ)」(相良前掲書、54-55頁)
天皇制について無知な「ユダヤ人」が発した言葉に、ユダヤ人とユダヤ教について無知な帝国軍人が感銘を受けたことが機縁となって「オトポール事件」が起きた、という展開である。これを「日本会議」の上杉千年が無批判に受け売りし、そして「つくる会」教科書における「ユダヤ人を助けた日本人」の美談ができあがる。「2万人」という非現実的な人数だけでなく、樋口季一郎の「オトポール事件」の動機自体が、ユダヤ教の教義に関するありえない誤解とひどい時代錯誤が前提になっている。このような架空の事柄が動機として広言される場合、当事者は実際の動機を隠していると見るべきだろう。大日本帝国軍人樋口の行動の真の動機は、抽象的な「八紘一宇」精神や、「五族協和」のスローガン、あるいは行き摺りの「ユダヤ人」の支離滅裂な言葉などではありえない。何らかの具体的目的があるはずだ。樋口は言う。
「いつか必ずユダヤ人との交渉のあるべきを予察し、いささかその道をつけ置くを必要と考えたものであり、これを極東において対ユダヤ関係の緊密化を希望したのであった。〔……〕私は、この〔オトボールに到達した〕流民中、日本化学の推進のため利用しうる人物の探索を部下に要望した。フランクフルト人造ゴム製造技師、その他数人の有望科学者を発見したのであるが、内地業界当事者と給料の点で折り合わず、何れもアメリカに去ったのであった。」(『回想録』、352-54頁 )
これがハルビン特務機関長樋口季一郎少将のもとでのユダヤ人「優遇策」の動機の、すべてではないにせよ、その一端であったと見るべきだろう。
なお、ユダヤ人やユダヤ教についてさほどの認識をもっていなかった樋口のもとで、実際にユダヤ人「優遇策」を推進したのは、陸軍大佐安江仙弘のようである。上杉千年に「2万人」に根拠がないことを指摘した安江弘夫の父である。陸軍大佐安江仙弘は、偽書「シオン賢者のプロトコル」を和訳するなど相当の「ユダヤ通」であったようで、彼が中心となり「満州国」に駐屯する大日本帝国陸軍は、「満州国」経営上ユダヤ人の協力を取り付ける必要から、一時的にユダヤ人「優遇策」を策定したようである(1938〔昭和13〕年12月8日策定、1942〔昭和17〕年3月31日廃止の「猶太人対策要綱」)。樋口季一郎の行動はその延長線上にあるものだろう。
東条英機を礼賛
「つくる会」の歴史教科書は、樋口季一郎によるユダヤ人救援に関して、さらに次のとおり記述している(203頁)。
「まもなく事情を知ったドイツは、外務省を通じて抗議してきたが、関東軍参謀長の東条英機は『日本はドイツの属国ではない』として部下の処置を認め、ドイツからの抗議もうやむやになった。」
この部分も、「つくる会」理事の上杉千年が、樋口の『回想録』や相良の『流氷の海』から受け売りして出来上がった記述であるが、もとの樋口の『回想録』とはかなりニュアンスが違う。以下は『回想録』の記述である(353–54頁 )。「オトポール事件」の半月後、ハルビンのユダヤ人らが「私〔樋口〕に対する謝恩の大会」を開催した際、その場で樋口は次のように演説したという。
「ある一国〔ドイツ〕は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々〔ユダヤ人〕を追放するという。〔……〕私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」
これに対して、在日本ドイツ大使を通じて日本の外務省に抗議があったという。すなわち、
「聞くところによれば、ハルピンにおいて日本陸軍の某少将が、ドイツの国策を批判し誹謗しつつありと。〔……〕請う速かに善処ありたし」
この件で樋口は関東軍参謀長東条英機に面会し、次のとおり訴えたという。
「日本はドイツの属国ではなく、満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私〔樋口季一郎〕の私的忠告による満州国外交の正当なる働きに関連し、私を追及するドイツ、日本外務省、日本陸軍省の態度に大なる疑問を持つものである」
ところが、これらのドイツによる抗議文、樋口の弁明文などについて、典拠は一切示されていない。本人の『回想録』だけが根拠という状態である。もしドイツによる「抗議」の詳細だけでも現物が示されれば、救済したユダヤ人の人数を含め、「オトポール事件」の実態が明らかになるかも知れないのに、上杉千年らは史料の存在を確認していない。ドイツ政府、外務省、関東軍参謀長東条英機を巻き込んだとされる一連のやりとりの真偽は不明である。
しかし、ここでは一応事実であると仮定して検討しよう。樋口の『回想録』と「つくる会」教科書とを比較してみると、「つくる会」教科書には歪曲がほどこされているのがわかる。樋口の『回想録』によれば「日本はドイツの属国ではない」と言ったのは東条英機ではなく樋口季一郎本人であり、東条英機は「同意」(354頁)したにとどまる。ところが「つくる会」教科書では東条英機が言ったことになっている。東条英機を美化するように書き換えられたのである。
「つくる会」が、樋口季一郎によるユダヤ人救済の件を持ち出すのは、つまるところそれにかこつけて戦争犯罪人東条英機を礼賛するのが目的のようだ。東条を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判 )に対する「歴史修正主義」的な対抗措置なのである。根拠の不十分な記述、さらに意図的に歪曲された記述は、教科書の記述としては到底許されるものではない。文部科学省の教科書検定が、根拠のない東条弁護論を見逃しその流布を手助けしているのは見過ごせない。
https://www.naturalright.org/fake/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9/%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%A8%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D/ 【6 シオニズムと杉原千畝】より
鈴木宗男と杉原千畝
刑事訴訟の被告人として起訴され分限休職中の外務省職員佐藤優が執筆した『国家の罠』(2005年、新潮社)に、政治家鈴木宗男は、杉原千畝の名誉回復や顕彰に尽力したことで「イスラエル、ユダヤ人社会における高い評価」をかちとった、との記述がある(284–86頁)。のちに佐藤優はこの件について雑誌記事で詳述している(「インテリジェンス交渉術 最終回 鈴木宗男氏、その失敗の本質」、『文藝春秋』2008年12月号)。
佐藤優の言うところによれば、1991(平成3)年10月3日、外務省は杉原千畝の未亡人杉原幸子と長男杉原弘樹を外務省飯倉公館に招いた。前年に出版された杉原幸子の『六千人の命のビザ』(朝日ソノラマ)を読んだ外務政務次官鈴木宗男による杉原の「名誉回復」の第一歩だった。この件は、杉原千畝が帰国直後の1947(昭和22)年6月に外務省を免官されて以来の外務省と杉原の遺族の「和解」として報道された。
その2日後の10月5日、鈴木宗男は、ソ連から独立したばかりのバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)との外交関係樹立のため、政府代表として現地訪問に出発した。随行員として通訳をつとめたのが佐藤優である。これが鈴木と佐藤の親密な関係のはじまりであった。佐藤の説明によると、佐藤は外務省からの事務連絡電により、鈴木宗男がリトアニア側との会談の際に、杉原千畝の件とくにその退職理由について触れることのないようにせよとの指示を受けていた。また、佐藤自身も、国家元首のリトアニア最高会議議長ランズベルギスは反ユダヤ的傾向をもっているから、ユダヤ人を助けた杉原千畝の件に言及することは適当でない、と鈴木に「進言」したという。
それに対して鈴木宗男は、「ランズベルギスさんは、ソ連の共産主義体制と文字通り命を賭けて戦って、リトアニアの独立を獲得したひとだ。ほんものの政治家だ。それならば外交官生命を賭けてビザを発給した杉原さんの気持ちも理解できるよ」として、翌日の会談で杉原の件を持ち出したという。ランズベルギスはその場で、首都ビリニュス市の通りのひとつを「杉原通り」と命名することを約束したうえ、カウナス市にある1940(昭和15)年当時の日本領事館の建物への案内を手配したという。
佐藤はこのやりとりについて、「一流の政治家が大所高所の原理で動く姿を目の当たりにし、少し興奮した」(『国家の罠』、286頁)と記している。しかし、鈴木の理屈には無理があってまったく説得力がない。それを「大所高所」だと持ち上げて感動してみせる佐藤の説明は何やらうさん臭い。本音はこうである。
「〔鈴木は〕外務官僚と多少衝突しても、杉原氏の名誉回復のために汗をかくことが、鈴木氏がイスラエルとユダヤ・ロビーの関係を強化する上で有益であるという判断をしたのだ。事実、鈴木宗男の名前は、イスラエルとユダヤ・ロビーにおいて『杉原千畝氏の名誉回復をした人物』として認知され」た。(前掲『文藝春秋』、345頁。)
鈴木宗男は、杉原千畝問題は対イスラエル接近のために利用価値があると判断し、まず遺族を外務省に呼び出して「和解」を演出して味方につけたうえで、ビザ発給の地であるリトアニアに赴いた。かの地でいささか強引に杉原千畝を話題にとりあげて、杉原千畝の名誉回復に尽力した政治家、という実績をつくりあげ、イスラエル政府とユダヤ人有力者らにアピールした、ということである。杉原の遺族同様、リトアニアの国家元首もまんまと利用されたことになる。
鈴木が杉原幸子の『六千人の命のビザ』(1990年)を読んで感動し、なんとかその名誉を回復したいと思ったというのもあやしい。フジテレビが「運命を分けた1枚のビザ」を放映したのが1983(昭和58)年、篠輝久の『約束の国への長い旅』の出版が1988(昭和63)年で、未亡人の著書以前にも杉原千畝の件はある程度は知られていた。鈴木は、リトアニア訪問が決定した時点で、1940年のリトアニアでの杉原千畝の一件が使えることに思い至り、大急ぎで出発の2日前に遺族を外務省に招待して「和解」を演出したのだ。
イスラエルとインテリジェンス
その8年後の2000(平成12)年8月、鈴木宗男は衆議院外務委員会で質問をおこなった。ちょうど杉原千畝生誕百年にあたるので、鈴木自身が政府代表として携わったリトアニアとの国交樹立の日である10月10日までに「何がしかの位置づけをした方がいい」と持ちかけた。
これに対して、外務大臣河野洋平は、「たとえば顕彰のためのプレートを掲げるとか、何か少なくとも後に残るものをいたしたい」と即座に答弁した(http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000514920000804001.htm?OpenDocument リンク切れ)。
そして質問で鈴木が指定したとおりの10月10日、外務省外交史料館で、杉原幸子、鈴木宗男、リトアニアとイスラエルの臨時代理大使らが臨席して杉原千畝を顕彰するプレートの除幕式がおこなわれ、外務大臣河野洋平が顕彰演説をおこなった(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/12/ekn_1010.html)。
その後、自民党衆議院議員鈴木宗男は、2002(平成14)年6月に斡旋収賄罪で逮捕・収監されることになるが、保釈後の2005(平成17)年に新党大地から立候補してふたたび衆議院議員となった。鈴木は、2006(平成18)年に、政府に「質問主意書」を提出したが、それに対する「政府回答」によると国家元首ランズベルギスとの会談の記録文書には、杉原千畝をめぐるやりとりの記載はなく、カウナス市長との会談記録に杉原千畝への言及があるのみだという(http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164212.htm リンク切れ)。「大所高所」だとか「一流の政治家」などと言っているが実情は不明である。
佐藤優は、鈴木宗男と自分の逮捕は、斡旋収賄だとか背任だとかの名目をつけてはいるが、外交方針上の対立を背景とする不当な「国策捜査」だと批判している。そして、自分は「インテリジェンス」すなわち高度の国家機密に関係する職務に携わったのだと自慢げに語っている。佐藤は、イスラエルとユダヤ・ロビーにおける鈴木の好評が「後に筆者〔佐藤〕がインテリジェンス面でイスラエルとの関係を強化する過程で役に立った」(『文藝春秋』、同)と、外交官気取りである。ところが実際には、取り調べにあたった担当検事に「外に出さない」ことになっている「特殊情報」まで喋ってしまったようである(『国家の罠』、229-31頁)。「インテリジェンス」に携わると称する者が、検事相手に「国家機密」を解説したうえ、保釈中にそれをネタにして文筆業に精励し得意になっている。このような佐藤優の話をどこまで真に受けるべきなのだろうか?
いずれにせよ鈴木宗男は、杉原復権の手柄話を自作自演し、イスラエルとユダヤ・ロビーへの接近に利用したのである。杉原千畝を顕彰するふりをして、鈴木宗男は自分で自分を顕彰したのだ。