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石を積む月の光となりにけり

2024.09.27 06:41

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/040700169/ 【人はなぜ石を積むのか、世界中にある「石積み」】より

道しるべから墓標まで用途は違えど、石を積みたいという心理は共通かもしれない

 米メーン州にあるアーカディア国立公園を歩いていると、巨大な花崗岩(かこうがん)に交じって、明らかに人の手によって積み重ねられた石に目が留まるだろう。石を積んだ2本の支柱の上に長方形の石板が置かれ、さらにその真ん中に、先端が尖った小さな石が載っている。子どもが遊びで作ったのかと思われそうだが、きちんとした目的があり、アーカディアが誇る大切な遺産の一つして保護されている。

 この石積みは「ベイツ・ケルン」と呼ばれている。「ベイツという名は、アーカディア国立公園があるマウント・デザート島の開拓者ワルドロン・ベイツにちなんでつけられました。現在使われているハイキングコースのいくつかは、1900年代にベイツが作ったものです」と、園内のハイキングコースを管理するボランティアグループのコーディネーター、ステフ・レイ氏は教えてくれた。

 レイ氏のグループ「アーカディア・サミット・スチュワード」は、ケルンの修復や崩れた石の積み直しも担当している。なおケルンとはゲール語で「積み上げられた石」の意味で、公園ではハイキング客への道しるべ(先端のとがった石が方向を指し示している)になっているほか、見る人の目を楽しませるオブジェとしての役割もある。

 こうした石積みは、世界中のいたるところにあるようだ。公園だけでなく、墓石の上に置かれたり、宗教的な像の足元に積み上げられたりすることもある。

 旅先で積まれた石を見ると、自分も同じように積みたくなってしまうが、やらないほうがいいことも多い。勝手に石を積んだために、ほかのハイキング客が道しるべと勘違いして、道に迷ってしまうかもしれない。また、高山植物などの繊細な生態系に害を与えたることもある。石積みをはがしたりすれば、その下の土はむき出しになり、雨に流されて浸食が起こることもあるだろう。

 実用的にも精神的にも、また見た目にもきれいな石を積みたくなる気持ちは理解できないでもない。人間の本能にも近いと言えるかもしれない。

「私たち人間は、岩のある風景のなかで進化しました」と話すのは、『Cairns: Messengers in Stone(ケルン:石のメッセンジャー)』の著者デビッド・B・ウィリアムズ氏だ。「人は数千年前から石を積んできました。私はここにいた、生きていたのだ、と伝えるために」

 とはいえ、石積みには道しるべ、墓、芸術作品など様々なものがあり、人々が石を積む理由も複雑だ。ここでは世界各地の石積みの例を紹介しつつ、その背景にあるものをひもといてみたい。


https://true-buddhism.com/teachings/sainokawara/ 【賽の河原の石積みとは?三途の川の手前で塔を作る理由】より

「賽さいの河原かわら」というと、小さい子供が親に先立つと行き、石積みをする所だと思われています。そこで子供たちは鬼にいじめられながら石を積み続けるのです。

一体なぜ、罪もない子供が賽の河原に行って苦しまなければならないのでしょうか?

そしてそれは何を意味しているのでしょうか?

賽の河原とは

賽の河原とは、人が死んで冥土の旅に出ると、三途の川の手前にある河原です。

親よりも先に死ぬと、賽の河原に行き、石積みをしなければなりません。これはお経に根拠はなく、俗信です。ただ、『法華経ほけきょう』にはこうあります。

童子の戯れに沙すなを聚あつ めて仏塔を為す。(漢文:童子戲聚沙爲佛塔)(引用:『法華経ほけきょう』)それで、ここからきたのだろうと言われています。

しかしながら賽の河原のありさまは、鎌倉時代の法相宗ほっそうしゅうの僧侶、貞慶じょうけいが作ったといわれる『賽の河原和讃』に描かれています。それはこのようなありさまです。

賽の河原のありさま(賽の河原和讃)

帰命頂礼世の中の 定め難きは無常なり。親に先立つ有様に 諸事のあわれをとどめたり。

一つや二つや三つや四つ 十よりうちの幼子おさなごが 母の乳房を放れては 賽の河原に集まりて 昼の三時の間には 大石運びて塚につく。 夜の三時の間には 小石を拾いて塔を積む。一重ひとえ積んでは父の為 二重ふたえ積んでは母の為 三重みえ積んでは西を向き

しきみほどなる手を合わせ 郷里の兄弟わがためと あらいたわしや幼子は 泣く泣く石を運ぶなり。 手足は石に擦れただれ 指より出づる血の滴 身うちを朱あけに染めなして 父上恋し母恋しと ただ父母の事ばかり いうてはそのまま打ち伏して さも苦しげに歎くなり。

あら怖しや獄卒が 鏡照る日のまなこにて 幼き者をにらみつけ 汝らみなが積む塔は

ゆがみがちにて見苦しし かくては功徳になり難し とくとくこれを積直し 成仏願えと叱りつつ 鉄のしもとを振りあげて 塔を残らず打散らす。

あらいたわしや幼子は また打ち伏して泣き叫び 呵責にひまぞなかりける。

罪は我人あるなれど ことに子供の罪科つみとがは 母の胎内十月とつきのうち 苦痛さまざま生まれ出で 三年みとせ五年七年を わずか一朝先立ちて、父母に歎きをかくる事 第一重き罪ぞかし。

母の乳房に取りつきて 乳の出でざるその時は せまりて胸を打ち叩く 母はこれを忍べども などて報いのなかるべき。

胸を叩くその音は 奈落ならくの底に鳴り響き 修羅しゅらの鼓と聞こゆなり。

父の涙は火の雨と なりてその身に降りかかり、母の涙は氷となりて その身を閉づる歎きこそ 子故の闇の呵責なれ。

かかる罪科あるゆえに 賽の河原に迷い来て 長き苦患くげんを受くるとよ。

河原の中に流れあり 娑婆にて嘆く父母の 一念とどきて影うつれば なう懐しの父母や

飢を救ひてたび給えと 乳房慕うて這い寄れば 影はたちまち消え失せて 水は炎と燃えあがり その身を焦して倒れつつ 絶え入る事は数知らず。

(賽の河原和讃)

これが『賽の河原和讃』に描かれた 賽の河原の様子ですが、一体どんな意味なのでしょうか?

賽の河原和讃の意味

この世は無常の世界です。親が先に死んで子供が後に死ぬとは決まっていません。

死の縁無量ですから、子供が先に死ぬこともあります。親よりも子供が先に死んでしまうと、

その子供は、三途の川のほとりの賽の河原に行くことになります。

賽の河原では、「一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為」と石を積んで、仏塔を作ります。朝6時間、夜6時間、泣きながら石を運び続けねばならず、石にすれた手足がただれ、指から血がしたたり、体が鮮血に染まります。

その苦しさに、「お父さーん、お母さーん、助けてーどうして助けてくれないのー」とその場に崩れ、突っ伏して「えーん、えーん」と泣いてしまいます。

すると、獄卒の鬼がにらみつけ、「なんだお前のその塔は。ゆがんでいて汚いな。そんなもので功徳になると思うのか。早く積み直して成仏を願え」と怒鳴りつけ、せっかく作った塔を鉄の杖やムチで壊してしまいます。

このように毎日12時間、石を積んでは崩され、石を積んでは崩され、これをいつ果てるともなく繰り返すのです。

親に先立った幼い子が賽の河原に行く理由

なぜ純粋無垢なはずの小さい子供がこんな苦しみを受けるはめになったでしょうか?

それは、親を苦しめるという大変恐ろしい、五逆罪ごぎゃくざいの罪を造ったからです。

母親のお腹に宿ってから10カ月、両親に様々な心配をかけ、大変な苦しみに耐えて血肉を分けてこの世に産んでくださったのに、親孝行もせずに先立ち、両親を悲しみ苦しませたのは、

恐ろしい五逆罪なのです。大変な苦しみを受けて産んだのに、その苦しみを忘れて喜んで、

お乳を飲ませてくれたのに、貧しさのあまり栄養不足で母乳が出なければ「お腹がすいたー、どうしてもっと出ないのー」と胸を叩いたのは、お母さんは忍耐してくださっるかもしれませんが、自業自得の因果の道理は峻厳な宇宙の真理、そのような逆恩の報いは必ず自ら受けねばなりません。

子供はまだ仏教を聞いていないので、そんなこととは知るよしもありませんでしたが、母の胸を叩くその音は、修羅の叩く太鼓のように地獄の底にとどろいていたのです。

知っているかどうかに関わらず、因果応報に狂いはありません。悲しみ苦しませた父親の涙は火の雨となり、母親の涙は氷のつぶてとなって、やがて自らにふり注いでくるのです。

賽の河原では、心配する両親の思いが届いて、三途の川の流れにお父さん、お母さんの姿がうつると、子供は「お腹すいたよー、何かちょうだいー」と這い寄ろうとしますが、近づくと両親の姿はたちまち消え失せて、河の水は炎となって燃え上がり、身を焼いて火傷で息絶えることは数知れません。

しかしそれで楽になることはありません。死ねばすぐに息を吹き返し、また毎日同じことの繰り返すのです。石を積んでは鬼に崩され、石を積んでは鬼に崩されがいつ終わるともなく続くのです。

この世の賽の河原賽の河原の石積みは、親に先立った子供のことばかりではありません。

この世でも同じことが起きています。私たちは毎日朝から晩まで汗水たらして働いて、

何かを作っています。ところが新商品作ったり、毎月の売り上げ目標を達成したりすると、

それは終わってゼロになってしまい、また次の目標に向かって頑張らなければなりません。

このことを昔からこう言われています。越えなばと 思いし峰に 来てみれば   なお行く先は 山路なりけり

目標地点にたどりつくと、すぐに次の目標が出てきます。それは、果てしなく続いて、これで終わったということはないのです。

そうしてお金を稼いで、車を買っても、事故に遭えば壊れてしまいます。

事故に遭わなくても、しばらくすると古くなって乗り換えなければなりません。

何十年もローンを組んで家を建てても、大震災や津波が来れば一瞬で崩れてしまいます。

そうでなくても、やがて古くなって、リフォームをしなければなりません。

どこまで行っても、心からの安心も満足もなく、汗と涙で築いたものが色あせ崩れる悲劇を繰り返し、人生を終わって行くのです。

このように、果てしなく繰り返す賽の河原の石積みは、私たちの人生の姿なのです。

では何が原因で、このような同じことを繰り返して苦しみ続けなければならないのでしょうか?仏教には、この果てしない苦しみの根本原因と、本当の幸せになる方法が教えられているのですが、それは仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。

一度見てみてください。