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旅する身体

身体を得る

2018.11.24 03:15

昨日、突如として身体への絶大な信頼が内から湧いてきた。ワークショップ後、普段とは違う環境もあったせいか、自分でも普段言わないような事を言っていたと思う。いつもより変に饒舌だった記憶がある。その後の帰り道に湧いてきた感覚だった。




身体を得た。




普段、身体は故郷であり、自然であり、逃げ場であり、拠り所であり、神殿であり、空間であると言ってきたが、それが実感を伴って突如として湧いてきた。

最近は、身につけるとは?という事を掘り下げていっていたが、体に身について身体となっていったという感じだ。





よく稽古の時に、「内に寄り添う」、「内に馴染む」、「内に溶け込む」と言った表現を使っていたと思うが、これらは身体がバラバラになっていたのを痛切に身体が感じ、その事に気づき始めていたから出た言葉なのだと今になって思う。




内と外の境界線、接点(境界線も人が勝手に決めているだけ)。接点も点で接すると捉われる。面で接すると捉える(ここでも相手に寄り添うという表現を使っている)。捉われるとは執着。執着はガスコンロ付近のこびりついた焦げの様に中々取れない。取れないから気になって仕方がない。つまり、接点もバラバラだったという訳だ。内も外もバラバラですよー、と。そんなバラバラの状態で身体への信頼があるかと言ったらそんなの無いに決まっている。接点を面で捉えると身体に空間、スペースを感じる。つまり抑圧された無理矢理な空間ではなく、伸び伸びとした自由な空間だ。





身体と外との繋がりを考えた時に、自分にとって丁度いい空間がある(来年のテーマにしようと思っています)。外の世界だと、布団の中、室内、広い施設、お風呂、外、海、山、草原、とまぁ色々。そして、その丁度いい空間は、一定ではない。刻々と変化している。今日は家にいたいなーとか、今日は外に遊びに行きたい!とか、風呂長く入りたいわーとか。これは身体の動きにも言える事で、何か押さえられたりしても、どういう状態で押さえられているかで常に違う。そして、その押さえられたり圧力をかけられた状態でも自由でいられるかという事が身体をバラバラにしないための1つの手掛かりとなっているのだと思う。






私にとって身体を得るとは、身体の自由を1つ実感として感じ得たという事だ。そして、身体の自由は1つではない。これもいくつもの層になっていて、まだまだ、まだまだいくつもの自由があるのだと思う。




何はともあれ、1つ身体を得た、あとは気づいていくだけ。