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富士山の艪綱を解く夕日かな

2024.10.12 08:46

https://www.writing-office.com/blog/archives/3795 【『艫綱(ともづな)を解くとき』】より

「言葉使い」からの伝言

船 シップ

人生という 大海原で 迷う時 疲れ果てた その体と 思考は 誰かに すがりたくなる かもしれない 自分の 船のオール は 自分で 漕ぐもの 自分を なんとかするのは 

自分自身でしかない 他の誰でも ない 判断力が低下した その隙間に 忍び込む者に

自分のオールを 預けてはいけない 舵をとるのは 自分であり 他の誰か ではない

誰かの 意見や経験は 参考になるかもしれない けれど 信じるのは 自分自身の感覚

自分の 感情は 自分の 体は 何を感じ どう反応したか それは 自分自身からの 

メッセージ 自分自身の反応を ほんのわずかな その違和感を 見逃してはいけない

自分の 人生は 誰かに 何とかしてもらうものでは ない 誰かの 言葉や気持ちは 

支えになるかもしれない けれど 何が どうであれ 最後の最後に 自分を助け 支えるのは 自分自身だ 弱った心に 入り込む者に 自分のオールを 預けてはいけない

自分の人生を歩けるのは 自分だけ 他の誰も 自分の人生を 歩くことはできないのだから 自分を 生きるとは 自分の 感覚を信じ 自分の 手で 自分の 足で 歩いて行くもの


https://web-japan.org/niponica/niponica13/ja/feature/feature02.html 【日本のシンボル、富士山  富士山はなぜ祈りの山になったのか】より

富士山が日本人にとって特別な山である理由は、ただ美しいからというだけではない。

この山にとりわけ強い神性を感じ、祈りの対象としてきたからである。ではなぜ、どのようにして富士山は祈りの山になったのだろうか。古来、日本人が富士山に抱いてきた心情を探る。

談話● 山折哲雄 写真● 小野庄一

非常に尊いとされる富士山頂の日の出を拝む登山者たち

頂上の火口まわりに連なる8つの峰それぞれに鳥居が立ち、聖域を示す縄が張られる。登山者が結んだ鈴の音が響く

富士山は日本の「山岳信仰」を象徴する山ですが、そもそも、日本の山岳信仰とはどのようなものなのでしょうか。

日本列島全体を見渡すと、山と森を合わせて国土の75%前後にもなるといいますが、まずはこれだけの山が存在するという環境が、山への信仰を育む素地をつくったといえるでしょう。そして太古の昔には、肉体を離れた死者の魂は山を登っていくと考えられ、頂に至っては神となり、さらには氏神という一族の護り神にまで転化するとされていました。

やがて仏教が伝わると、死者の魂が岩肌や樹木の間をぬって山を登っていく様子を六道(輪廻思想で死後に出会うとされる6つの世界)になぞらえ、最後は山頂で仏になるという信仰が生まれました。その結果、山は、神と仏がいっしょにすむ、この上なく神聖な場所として捉えられるようになったのです。

登るための山ではなく、仰ぎ見るための山

富士山頂の南西約45kmに位置する三保松原。天女が羽衣をかけたという伝説の松を神木に祀る御穂神社がある。その神秘性と富士山を望む眺めの見事さが、和歌や能、絵画などに芸術的着想を与えてきた(写真=アフロ)

山岳信仰が発展していく中で、神がすむ山頂、つまり「あの世」を地上から仰ぎ見て拝む、という日本人の基本的な態度が生まれてきます。富士山頂には、浅間神社と呼ばれる、富士山を代表する神を祀った社がありますが、頂以外にも、山域の至るところに浅間神社が建てられているのは、「神そのものである山」を拝むために必要だからなのです。7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本最古の和歌集『万葉集』の歌の中にも、既にそのことが詠まれています。宮廷歌人だった山部赤人は、富士山を「高く貴い」美しい山であるばかりでなく、「神さびて」いると讃えました。神さびるとは、「神のごとくふるまう」という意味であり、山そのものが神であるという、当時の富士山への信仰心をよく表しています。西欧では、山を含む自然は神の力で征服すべきものだとされます。豊かな自然から神仏の気配を感じ、山が神であると考える日本とは、大きな違いがあります。

富士を愛でる旅

富士山は、日本一高い山ですから、関東から関西、あるいは関西から関東に旅をする時には、必ずといっていいほど目に入ってきます。江戸時代(1603~1867)には箱根八里という幹線道路がつくられ、美しい富士山を眺めるのに絶好のルートとなりました。

以前、私も箱根八里を歩いた経験がありますが、御殿場(静岡県東部)あたりからふり仰ぐ富士山の美しさは、まさに想像を絶するものでした。歩いたのはほんのわずかな距離でしたが、いまだに忘れることができません。道は平坦でも、富士の姿が刻一刻と変わっていくその景色は変化に富んでいて、見飽きるということがない。歩き疲れて海岸に寝転がると、浮世絵に描かれた、波しぶきを手前に画面からはみ出すような富士山が、実に大きく、美しく、実感をもって迫ってきました。

信仰の対象であり、美しい山容で旅心をみたしてくれる富士山を楽しむために、この箱根八里というルートがつくられたといっても過言ではないでしょう。歌川広重や葛飾北斎が描いた富士山の浮世絵が人気を呼び、富士講という民衆の宗教組織で富士山に登拝する「信仰ツアー」が大流行し、富士山信仰はさらに大衆化していきました。

畏怖の念を忘れない

一方、1707年を最後に、ここ300年ほど大噴火は起きていませんが、富士山はれっきとした活火山であり、美しいだけでなく怖い山として恐れられてきた歴史があります。神である富士山は、時として恐ろしい災厄をもたらす存在でもあったわけです。2011年に起きた東日本大震災と同様、美しい自然も噴火や地震を起こす暴力的で破壊的な存在になり得るのだという畏怖と無常の念を、日本人は常に心の奥底に持っているといえるでしょう。富士山域に数多く点在する浅間神社には、恐ろしい災厄を鎮めたいという願いもまた、深く込められているのです。


https://www.mtfuji.or.jp/knowledge/cultural_values 【富士山 ― 芸術と文化の山】より

イントロダクション

富士山は、日本のほぼ中央にそびえる大変美しい山。古くから日本人にとって心のふるさとであり、精神の源泉、文化の母胎でありました。絵画、文学、詩歌、あるいは演劇の舞台となり、現在に至るまで数多くの芸術作品を生み出しています。その歴史は、日本文化の歴史そのものであり、日本人のみならず、海外の芸術家たちにも影響を与えてきました。

また富士山は、神のいます場所――信仰の対象でもあります。元来日本人は、自然の中に人知を超えた崇高なものを見出す感覚を持っています。なかでも富士山は、日本人の心に強く訴えかけ、その生活に深く根づいています。

人間の創り出す“文化”は、多くの人々の記憶となり、次世代に受け継がれ、蓄積され形づくられるものです。日本の文化・芸術に、富士山がいかに大きな影響を与えたのか、ここでは多くの素晴らしい芸術作品を通して紹介していきます。富士山が「世界文化遺産」にふさわしい存在であることを、多くの方々にご理解いただければ、大変うれしく思います。

高階秀爾 Shuji Takashina

大原美術館館長/東京大学名誉教授

1932 年東京生まれ。東京大学教養学部卒、次いでパリ大学美術研究所に学ぶ。専門は西洋近代美術史。2000年紫綬褒章、2001年フランス、レジオン・ドヌール シュヴァリエ勲章、2003年イタリア、グランデ・ウフィチャーレ勲章、2012年文化勲章など多数受賞。『世紀末芸術』、『日本近代美術史論』、『近代絵画史−ゴヤからモンドリアンまで』、『西欧絵画の近代』、『日本絵画の近代』など多数の著書がある

絵画にみる富士山

富士山ほど数多の画家に描かれた山はありません。なかでも有名なのが、葛飾北斎と歌川広重です。「冨嶽三十六景」で知られる北斎は、富士山と人との関わりを豊かな想像力と見事な構図で表現。「三十六景」と銘打ちながらそれだけでは満足せず、「裏不二」十図を加えた計四十六点を世に送り出しました。対する広重は「東海道五拾三次」「名所江戸百景」で、様々な場所から見える富士山を描いています。

絵画に描かれた最古の富士は「聖徳太子絵伝」(平安時代)といわれ、甲斐の国、今の山梨県から贈られた名馬に乗った聖徳太子が、たちまち富士山の頂上まで上っていく様が描かれています。平安時代から鎌倉時代にすでに富士山の形は「三峰型、万年雪」という定型が立していました。

近代で最も富士山を描いた横山大観は、独特の技法と構成で「群青富士」「日出処日本」など多くの富士を残しています。ほかにも江戸時代の司馬江漢、明治以降も月岡芳年、日本画の松岡映丘や洋画の梅原龍三郎など、数えればキリがないほど多くの画家により、富士山は描かれ続けているのです。

ヨーロッパにおける富士山

ヨーロッパで広く知られる北斎の「冨嶽三十六景」。後に北斎の評伝を刊行した作家のエドモン・ド・ゴンクールは、友人と北斎の版画連作を眺めながら「モネの色彩表現のもとはすべてここにある」と語り合ったといいます。そうです、モネは熱烈な浮世絵の愛好家だったのです。

ゴッホは、自ら収集するだけでなく浮世絵の展覧会まで企画しました。それまで暗い色調の絵を描いていた彼は、1886 年にパリに来て、印象派の画家たちとの交流や浮世絵と出会いの後、あの鮮烈な色彩表現へと移行していったのです。

音楽家のドビュッシーが交響詩「海」を作曲しているとき、「神奈川沖浪裏」の複製を部屋にかけて眺めていたこともわかっています。事実、後に出版された「海」の初版楽譜の表紙には、その「浪裏」が描かれています。

「冨嶽三十六景」が、富士山を主題とした連作であることもヨーロッパの画家たちにとっては新鮮な発見でした。これに刺激された版画家のアンリ・リヴィエールは、版画連作「エッフェル塔三十六景」を残しました。

初代英国公使のオールコックは日本滞在中富士山に登り、著書「大君の都」(1863)で挿絵と共に紹介しています

文学の中の富士山

日本で最も古い歌集「万葉集」に、すでに富士山は描かれています。山部赤人が詠んだ「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」は、富士を讃える長歌に対する反歌――最後のまとめとして詠まれたもの。

長歌では、天地の始まりから富士がそびえていたことを歌い上げています。物語のはじまりといわれる「竹取物語」の最後のシーン。かぐや姫は月に戻る際、帝に不老不死の薬を残しました。しかし帝は日本一高い山の上でその薬を焼かせ、その山は「不死(=富士)」の山になったといわれています。

ほかに古典の名作である「源氏物語」「伊勢物語」、江戸期の松尾芭蕉や与謝蕪村の俳句、近代の夏目漱石や太宰治なども、様々な姿の富士山を伝えています。

信仰の対象としての富士山

富士山に登り参詣する動きは、早くからありました。室町時代に描かれた「絹本著色富士曼荼羅図」は、日月の中央に富士山がそびえ、登山道の下には浅間神社、さらにその下には禊のための川が流れています。江戸期の「富士曼荼羅」には、頂上の3 つの峰に阿弥陀三尊が存在しています。富士山頂上には、「古事記」に出てくる木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)も祭られており、まさに神仏混合。日本人の宗教観は非常に寛容で、排他的ではないのです。

西洋では、アルプスに「悪魔の橋」と呼ばれる峠があるように、山には恐ろしいイメージがあります。一方、日本では「菩薩峠」とか「毘沙門岳」というように、仏の名前がついている。日本人にとって山は神や仏のいる場所であり、ここにも自然を敬う日本人の信仰の特色が現れています。

生活と密着した富士山

江戸、現在の東京と富士山は深い結びつきを持っています。江戸に最初に城と街を築いた太田道灌は自らの住まいから富士山を間近に眺めた歌を詠み、徳川家康も江戸城の西側に富士見櫓を造りました。東京には今でも、富士見坂や富士見町といった地名が多く残っています。広重の「名所江戸百景」に描かれた駿河町は、通りがまっすぐに富士山に向かうよう作られました。そこから駿河、今の静岡県の名前がつけられたのです。

日常の道具に描かれた富士山から、当時の庶民の暮らしぶりを知ることができます。「初富士」は、正月三日に日本橋から富士山を眺める慣わし。そこから縁起のよい初夢として「一富士、二鷹、三なすび」の言伝えが広がりました。これなどは、日本人がいかに富士山を愛しているかを端的に表しています。

衣装に描かれた富士山

打掛けなど衣装の模様に富士山が描かれることも、江戸期には多くありました。日常の華やかな衣装のほか、面白いのは具足――鎧や甲冑、陣羽織、刀の鞘やつばといった、武士の戦闘用具にも富士山が描かれているところです。南蛮胴で作られた具足には、背中に大きく富士の山。武将たちは、「富士」を「不死=死なない」にかけたのでしょう。

豊臣秀吉が愛用したと伝えられる黒黄羅紗(くろきのらしゃ)の陣羽織。三峰型の富士の頂上で御神火が燃えています。戦のとき着る陣羽織ですから、富士のご加護があるよう願いがこめられている。下のほうには水玉模様。この山・火・水の三要素を対比させた大変モダンなデザインも、日本人の信仰と自然に対する鋭敏な感覚の現れといえるでしょう。