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うちの親父は、新日鉄化学や、新日本熱学の技術営業でした 断熱材やプラントエンジニアリング業界が得意(NetwingsJ)

2024.04.19 04:00

親父は、そういう意味では(プラントエンジニアリングの営業としては)どちらかというと無能に近い感じでした。どちらかというと、千葉県君津市などのプラントに出向いて、取引先と酒を飲むとか、東京・八丁堀の新日鉄化学(当時)や、新日本熱学(旧スラッグウール工業所)の東京支社などに出向いて、ちょっとだけ仕事をして、給料をもらい、またそこで、同僚と新橋まで出て酒を飲むだとかの付き合いが多い方でした。なので、京成成田や、千葉市浜野まで帰宅して来る夜中には、へべれけに酔っぱらって、顔を真っ赤にして帰って来ることが多かった親父でした。果たして、飲んでいるのか、仕事をしているのか、良く分からない親父でした(笑)

死ぬ直前の親父です(横尾照雄さん)

自称、太てえツラ(笑)でして、それが客先でもニックネームになっていました。「お、あの太てえツラが来たぞ!?」みたいな感じです(笑)しょうもないシャレはよしなシャレ、というシャレを飛ばすので、関西(兵庫県尼崎市)出身の母から、冷たーい視線を浴びている毎日でした。

そんな、バリバリ、北九州市・八幡人の親父(福岡県立八幡高等学校:舛添要一さんも出た学校)が、東京の私立大学(成蹊大学・吉祥寺)に入学して、経営や営業の勉強をしたのか、それとも、モデルさんを貸しスタジオに呼んで、仲間とヌード写真を撮影するカメラ小僧だったのか、良く分かりませんが、ともかく、大学だけは卒業出来た模様です。

すごい負けず嫌いで、誰とでも議論を交わすどころか、誰彼構わず喧嘩を吹っ掛けるだとかの欠点は日常茶飯事でありましたが、この人は、この人なりの先見の明があったことも事実です。

いまを遡ること、1984(昭和59)年には、新聞記事を読んだのか、はたまた、甥が日本ユニバック勤務でしたので、その口伝えに「憲雄! これからの時代はコンピュータじゃー!!」と口癖のように僕に言ってました。まだ、家庭にはアナログ式の黒電話しかなかった時代のことでした。

薄給で、おカネがないので、当時国内でデファクトスタンダードだった、NEC PC-9801とかは、貧乏なので、高くてとてもじゃないけど、買ってくれなかったのですが、SHARP MZ-2000(という8ビットパソコン)などは、よく買い与えてくれました。「トランジスタ技術」や、電波新聞社の「マイコン」という雑誌は、よく手土産に買ってくれたものでした。

そんな親父も、2008(平成20)年には、東京都江戸川区の同愛会病院で、心筋梗塞などの病気を多発して、複合的な死因で亡くなりました。享年77歳。

東京都江戸川区の都営江戸川アパートから、近所の蕎麦屋に通って、果たして、蕎麦が好きなのか、それとも、給仕の姉ちゃんのお尻を触って「いやーん、まいっちんぐ」という反応が好きだったのか、良く分かりません(笑)

親父、地獄で元気でいろよ! というわけで、ああいう反面教師は見習わないことにしました。顔も全然似ていない。

ではでは(・∀・)ノ

パソコンのお医者さん 親父は型破りで破天荒 ネットウイングス 代表 田所憲雄 拝