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維新の殿様・五島(福江)藩五島家編

2024.04.19 08:12

【五島盛德上洛【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊳】】より

前回みたように、坂本竜馬が来島したころは、五島藩は全島あげての防衛体制を作り上げました。ここまでの体制を組むには莫大な資金が必要なのは言うまでもありません。

ですので藩主盛德は、海岸防備体制の保持と、この体制を維持する資金問題という二つの大きな問題に直面することになったのです。この難題に、若き藩主盛德はどう立ち向かったのでしょうか。

藩札発行

前回みた島をあげての防衛体制は、海岸防備に不可欠とはいえ、破綻直前の藩財政がそれを許すはずもありません。そこでまずは、安政3年(1856)に藩札3万両を発行するとともに、地元の商人たちに献銀を求めました。すると、有川村江口惣平が一千両の冥加金を献じたのをはじめ、多くの特権商人らが献銀します。

もちろん商人たちはただ献納したわけではなくて、これと引き換えに全納郷士の地位を獲得したり、わずかに残っていた網代、つまり漁業権と引き換えるというものだったのです。

こうしてようやく藩は石田城の軍用金三千両を用意することができました。

しかし、このような最終手段ともいえる方法をとったことからわかるように、藩財政は限界を超えてしまったのは当然といえるでしょう。

【大政奉還(Wikipediaより) このとき、五島藩主五島盛德は領国で様子見していましたので、この歴史的場面には参加していません。】

盛德上洛

慶応4年(1868)4月23日に上洛の勅命を受けて、藩主盛德は銃隊を率いて京へ向かいました。じつは、勅命が出されたのは前年の慶応3年(1867)10月でしたが、盛徳は病気を理由に上洛を遅らせていたのです。これはおそらく、盛德は五島から情勢を眺めていたのでしょう。

その間に、薩長に討幕の密勅が下り、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったうえに江戸城が無血開城されて、ほぼ体制が固まっていたのでした。

合藩騒動

そして盛德は、この状況をチャンスととらえるしたたかさを持ち合わせていました。

前に見たように、この時すでに藩財政が破綻を呈していましたので、盛德は今後の海岸警備と攘夷体制強化を行う費用として、富江領3,000石を合併してその費用に充てる要望書を弁事役所に提出したのです。

もちろん新政府も海防の重要性は痛感していましたので、五島藩の戊辰戦争出兵を免除しました。これに加えて、五島藩による全五島支配を認め、富江には蔵米3,000石を与える沙汰書が示されたのです。平たく言うと、盛徳は明治維新のどさくさに紛れて、積年の財政問題を一気に解決しようという魂胆だったといえるかもしれません。

富江領の猛反発

当然、この措置に富江領は激しく抵抗するとともに、嘆願運動を粘り強く繰り返しました。

流血の惨事にまで至る気配に、ついには事態解決のために長崎府の井上聞多、のちの井上馨を五島に派遣するなどして事態の収束に努めたのです。

最終的に、富江領主銑之丞は北海道後志国磯谷郡後志川、のちの寿都1,000石への移封となって、ようやく富江領も納得するところになります。

そして明治3年(1870)1月には富江領が福江藩と合併して、福江藩の全島支配が完成しました。

今回みたように、藩主盛德は明治維新の混乱を利用して、富江領を合併し藩の財政問題を解決するという離れ業を成し遂げました。

あるいは、このことが明治政府への「忠誠」を示す必要を生んでしまったのかもしれません。

次回は、五島でのキリシタン大弾圧「五島崩れ」をみてみましょう。

(今回の記事は、『物語藩史』『地名大辞典』『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』に依拠して作成しました。)


【五島崩れ【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊴】】より

前回は、明治維新の混乱を巧みに利用した五島藩主・五島盛德の姿をみてきました。

今回は、五島でまたも繰り返されたキリシタン弾圧「五島崩れ」をみてみましょう。

信徒発見

元治元年(1864)、日仏修好通商条約に基づいて、長崎に居留するフランス人のために南山手居留地に大浦天主堂が建てられました。

この大浦天主堂を元治2年(1865)4月12日、浦上村の住人数名が訪れたのですが、そのうちの一人、「ゆり」という女性がベルナール・プティジャン神父に歩み寄り、自分の信仰を告白して「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいたのです。

これが名高き「信徒発見」で、村人たちは聖母マリア像をみて歓喜、祈りをささげました。

その後、この話が伝わって、浦上村のみならず、外海、五島、天草などに住む信徒たちが続々とプティジャン神父のもとを訪れて神父の指導を受けたのです。

明治のキリシタン大弾圧

しかし、慶応3年(1867)に日本人信徒の存在が明るみに出ると、長崎奉行所は調査の上信徒を捕縛し、厳しい拷問を加えたのです。

これが「浦上四番崩れ」とよばれるキリシタン大弾圧のはじまりでした。

事件の知らせを受けたヨーロッパ諸国の公使たちは、すぐさま長崎奉行所に抗議しますが、幕府は弾圧を続けます。

しかし、翌慶応4年(明治元年・1868)に幕府が大政奉還して弾圧は終わるかと思わました。

ところが、明治政府も同年4月7日に示した「五榜の掲示」でキリスト教の禁止を継続することを表明すると、信徒の拷問を行ったうえ、流刑まで行ったのです。

「五島崩れ」

この明治元年(1868)に長崎浦上のキリシタン処分決定に始まった弾圧が五島にも波及しました。

その口火となったのが、久賀島の松が浦における迫害で、最も残忍を極めたものとなります。

長崎浦上天主堂でのキリシタン発見以来、久賀島のキリシタンも長崎の宣教師と交流をもち、寺請制度への服従を拒んで自分の信仰を公言しようとしたのです。

これが発端となって、松が浦にあるわずか6坪(20㎡)の仮牢に、老若男女およそ200名がぎっしり収監されるという過酷な状況に。

そのうえ、一日わずか一切れの芋しか与えられず、飢えと苦痛のため死者が続出しました。

座ることもできず、人の体にせり上げられて、宙に浮いたまま眠らざるを得なかったといいますから、その過酷な状況は想像を絶するものといえるでしょう。

人の谷間に落ちた我が子を引き上げることもままならない悲劇的状況で、収監者はみな足が腫れ上がるという惨状でした。

こうして、入牢8か月後には42名の殉教者を出したのです。

このような弾圧は五島全域に広がって、およそ3年にわたって繰り広げられました。

海外にまで知られた「五島崩れ」

この五島におけるキリシタン大弾圧は「五島崩れ」とよばれ、明治の弾圧の中でももっとも過酷なものの一つとして広く知れ渡ることになります。

それは、五島での弾圧をプティジャン神父が詳細に調査してフランスをはじめ各国公使に報告されたことから、各国に広く知られるようになったのです。

これに対して明治政府は、拷問などの事実はなく、神父の虚構流言であるとして取り合いませんでした。ところが、この対応がかえってその悪名を欧米諸国に広めることになったのです。

欧米各国の非難

明治政府が行ったキリシタン大弾圧は、欧米諸国からの猛烈な抗議を受けることになったのは当然の帰結でしょう。

各国公使は弾圧の状況を詳細に本国に報告するとともに、明治政府へ繰り返し講義を行ったのです。

このような中で、明治4年(1871)欧米各国に派遣された岩倉使節団は、訪問先のアメリカ合衆国のグラント大統領や、イギリスのヴィクトリア女王、デンマーク王のクリスチャン9世などから禁教政策を厳しく非難されました。

大弾圧の終わり

岩倉使節団の最大の目的は、欧米各国との友好親善をはかりつつ欧米先進国の文物視察でした。これに加えて、不平等条約を改正するための予備交渉をもう一つの目的としていたのです。ここで日本にとってもっとも大きな問題となったのが、この明治政府によるキリシタン弾圧が不平等条約改正の大きな障壁となっている事実だったのです。

また、欧米各国の新聞もこぞってキリシタン弾圧を糾弾したことで、日本に対しての世論も悪化する事態となっていました。こうした「外圧」により、ついに明治6年(1873)2月24日に禁教政策を放棄し、信徒たちを釈放せざるをえなかったのです。

弾圧からの解放

これによって、五島における弾圧も終わりを告げて、ようやく信徒たちは自分たちの家へと帰ることができました。そして信徒たちは村々に教会を建てて祈りをささげる生活を送ることができたのです。

現在、「五島崩れ」の口火を切った仮牢は、「牢屋の窄」として記念碑が建てられています。

【グーグルストリートビューは、牢屋の窄記念碑と教会です。】

今回は苛烈を極めた明治のキリシタン弾圧「五島崩れ」をみてきました。

いわば明治政府に「忠誠」を尽くした藩ですが、次回はあえなくこれが消滅するところをみてみましょう。

《今回の記事は、『切支丹の復活』『日本地名大辞典』に依拠して作成しました。》


藩消滅【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊵】より

前回は苛烈を極めた明治のキリシタン弾圧「五島崩れ」をみてきました。

そこで今回は、明治時代に、あっけなく藩が消滅してしまう前後をみてみましょう。

廃藩置県と盛徳の死

藩主・五島盛德は、藩名を五島藩から福江藩に改称するとともに、明治2年(1869)2月21日藩治改正によって藩庁を廃止し、代わって治政所をおきました。

また同年3月には版籍奉還を願い出て、5月に藩主盛德は福江藩知事に任ぜられています。

さらに明治4年(1871)7月には廃藩置県が断行されて、福江藩は7月14日に福江県となったことで藩が消滅し、盛徳は藩知事を解職されたのです。

この福江県も明治4年(1871)11月14日の府県統合により、島原県・大村県・平戸県とともに長崎県に統合されて消滅。

しかし、藩が財政破綻にまで追い込まれていたことを考えると、いたし方ないところなのかもしれません。

盛徳は9月に命を受けて上京し、もとの五島藩上屋敷である東京麻布鳥居坂町22番地を下賜されて、ここに邸宅を構えます。(『華族銘鑑:鼇頭』長谷川竹葉編(青山堂、1875))

しかしそのわずか4年後の明治8年(1875)11月11日、病にかかり東京の邸宅で死去しました。

新政府の決定に振り回される五島ですが、この後どうなってしまうのでしょうか。

明治の五島盛成

じつは、先代盛成が自らの藩政改革を継続し、五島で大活躍を見せていたのです。

五島盛成(Wikipediaより20210904ダウンロード)

【五島盛成(Wikipediaより) 歴代藩主の中でも屈指の教養人として知られていました。明治になってからは、隠殿屋敷に住んで五島の発展に尽くしています。】

前にみたように、安政5年(1858)1月21日に隠居して嫡男盛德に家督を譲った盛成でしたが、隠居後も藩の実権は握ったままで、その活動は衰えることを知りません。(第35回「五島盛繁・盛成の藩政改革と有川物産会所」参照)

慶応3年(1867)4月には三井楽の原野を開墾する計画を立てて、池を包むことを企画して鍬立てなどを行いました。

明治維新後はいったん上京するものの、すぐに五島に戻り、明治10年(1877)には石田城の城郭や土地・竹木を自分の金で購入して旧藩時代の体制の保持を願います。

そして、石田城内にあった藩校跡地に屋敷を構えて隠居所としました。

盛成が築いた屋敷内には藩校時代から残る遺構「心」字形の池を中心に、深い森に包まれて「隠殿屋敷」「五島屋敷」と呼ばれて、現在も地域の人たちが大切に守っています。

されに、盛徳の急死に伴っては嫡子・盛主を五島の屋敷に引き取って自ら養育したのです。

屋敷跡は小さなスーパー付近です。

屋敷跡地の道向かいは現在、東京家政学院になっています。ここはまた、「明星」誕生の地でもあります。

【麹町三番町の屋敷跡地】

五島盛主(もりぬし・1868~1893)

明治元年(1868)5月14日に盛徳の子として生まれ、名は源二郎です。

父・盛德が急逝した時、盛主はまだ8歳でしたので、東京麻布東鳥居坂町の邸宅を残して五島に住む祖父・盛成の下で養育されました。(『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883)

ちなみに、東鳥居坂町の邸宅は、その南半分を明治14年(1881)に区役所建設用地として麻布区に売却していることから、このころ手放したとみられます。(『麻布区史』、第44・45回「五島藩六本木上屋敷と五島子爵家鳥居坂邸を歩く」参照)

そして盛主は成人すると、東京府麴町区三番町十番地に邸宅を移して(『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887))佐貫藩阿部正恒二女の興(おき)(明治3年8月11日生まれ)と結婚、さらに明治17年(1884)に子爵に叙されました。

その後、東京府麴町区中六番町八番地へと邸宅を移しています。(『華族名鑑 明治22年版』彦根正三(博行書院、1892))

写真中央の植栽付近が屋敷跡です。

道向かいは女学院高・中学校

【麹町中六番町の屋敷跡】

そして、盛主が立派に成人したのを見届けるように、盛主の祖父で先々代当主の盛成が明治22年(1889)4月16日に五島で没しました。

盛主はその後さらに、東京府牛込区牛込若松町43番地(『華族名鑑 明治23年版』彦根正三(博行書院、1892))へ邸宅を移したのは、東京専門学校(のちの早稲田大学)政治科に入学したからでしょう。

そして、健康に恵まれなかったからなのでしょうか、越後国新発田藩溝口直溥六男・歡十郎(明治6年7月23日生まれ)を養嗣子に迎えました。

明治25年(1892)に東京専門学校政治科を卒業しますが、その翌年の明治26年(1893)11月28日に腸チフスにかかって25歳の若さでで没しています。(『通俗五島紀要』)

駐車場付近が屋敷跡です。

屋敷は下戸塚坂の上にありました。

【五島盛主子爵終焉の地である牛込区若松町の屋敷跡。】

今回は、明治時代に藩が消滅してからの五島家をみてきました。

そこで次回は、五島子爵家を継いだ五島盛光についてみていきましょう。

(今回の文章は、文中に記載した文献と、『日本地名大辞典』『三百藩藩主人名事典』『物語藩史』『平成新修旧華族家系大成』に基づいて作成しました。)


五島盛光登場【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊶】 より

前回は、明治時代に藩が消滅してからの五島家をみてきました。

そこで今回は、五島子爵家を継いだ五島盛光についてみていきましょう。

五島盛光(もりみつ・1873~1923)

五島盛主の養嗣子となった溝口直溥六男・歡十郎は、名を五島盛光と改めて、盛主が急逝したことにより、明治27年(1894)1月22日継承しました。(『平成新修旧華族家系大成』)

このとき、盛光は近江国宮川藩堀田宗家の当主・堀田正養子爵の三女・善(明治11年(1878)7月26日生まれ)を迎えています。

この善の母は、堀田正誠の継室となった五島盛成の娘・清です。

つまり、妻の祖父が五島盛成となるのですが、これは五島家の血統を残そうと考えたのでしょう。

また、盛光は東京麻布区我善坊町32を住所としています。

じつは、この南隣が紀伊和歌山藩徳川侯爵家邸。

この時の侯爵家当主・徳川茂承の継室の広子は、盛光の実父である越後国新発田藩溝口直溥の養女であることに注目したいと思います。

盛光の実父である溝口直溥は、16男15女の子だくさん、さらに養女が二人いるなかで、盛光はその末弟でした。

平たく言うと、盛光は叔母さんの家に厄介になった、というわけです。

跡地付近は大規模再開発中。

屋敷跡地の南にある行合坂上から。

【麻布我善坊町の五島子爵家麻布邸跡】

盛光の兄弟姉妹たちのうち、『人事興信録』の各版と『平成新修旧華族家系大成』で成人したものの顔ぶれをみると、

四男が溝口子爵家の家督を継いだ溝口直正、

八男は伊勢国長島藩増山子爵家を継いだ増山正治、

十四男は信濃国高島藩諏訪子爵家を継いだ諏訪忠元、

二女鋹は備後国福山藩阿部正教の正室、

四女の文は伊予国大洲藩加藤泰址の正室、

七女の幾は陸奥国盛岡藩南部利恭の継室、

十五女の銀は近江国大溝藩分部光謙の正室、

養女は有栖川宮熾仁親王妃董子と、先にみた徳川広子となっています。

また、妻の父である近江国宮川藩堀田宗家の堀田正養子爵も広い人脈を持っていることで知られた人物でした。

このように、五島盛光は、皇室まで広がる大名華族のネットワークのただなかにいることがわかりますね。

このネットワークに支えられて、明治18年(1885)11月から明治22年(1889)までドイツに留学し、明治33年(1900)家督を相続し襲爵しています。(『人事興信録初版』)

五島育英館設立

また、このころに郷土人材の育成を目的とした五島育英館を東京に開設し、旧領民の子弟に対して東京遊学がしやすい環境をつくりました。(五島盛光像の添書)

長崎県立五島中学校(『長崎県会事績 上巻』長崎県-編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。

【長崎県立五島中学校『長崎県会事績 上巻』長崎県-編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション】

五島中学設立を支援

さらに、明治31年(1898)7月、南松浦郡五島中学校の設立が許可されると、五島中学校建設のため土地と多額の建築費を寄付しています。(五島盛光像の添書)

盛光の援助がおおいに役立って、明治33年(1900)4月に長崎県立五島中学校が旧石田城本丸に開校しました。

これは、明治17年(1884)開校の長崎中学校、明治33年(1900)開校の島原中学に続く三校目の県立中学校です。

長崎県立五島高等学校校門(撮影者:Norio NAKAYAMA、Wikipediaより20210905ダウンロード)の画像。

【長崎県立五島高等学校校門(撮影者:Norio NAKAYAMA、Wikipediaより)】

ちなみに、資産家華族として知られた大村伯爵家が明治17年(1884)設立した私立大村中学校、同じく平戸には松浦伯爵家が明治13年(1880)に設立した私立尋常中学猶興館があり、長崎県全体で高等教育に力を入れていたのがわかります。

この盛光による郷土振興策、じつは親戚関係にあった紀州徳川侯爵家をお手本にしたものでしたが、詳しくは第 回「五島子爵家麻布邸跡を歩く」でみることにしましょう。

野依秀市

また、明治36年(1903)には、上京した野依秀一(のちの秀市)を東京屋敷の門番に採用しています。

野依は五島家からの給料で、慶應義塾商業学校に夜学生として入学したのを手始めに、「右翼ジャーナリスト」「言論ギャング」の異名を持つ人物となるのですが、それは第51回「野依秀一の謎」でみることにしましょう。

東京帝国大学卒業

五島盛光に話を戻しまして。

明治30年(1897)4月には長女の知子、明治32年(1899)10月には三女の欽子、明治37年(1904)11月には長男の盛輝、明治38年(1905)12月には四女の和子と、東京帝国大学在学中に子供たちにも恵まれました。 

さらに、明治42年(1909)東京帝国大学法科大学を卒業して法学士の称号を得ています。(『人事興信録3版』)

内務省嘱託になる

大学を出た盛光は、内務省嘱託となって、「専ら、感化救済事業の調査に従事」していました。(『読売新聞』明治43年(1910)12月9日付朝刊)

そして、調査の結果を「特殊部落改善と宗教」(雑誌『救濟』)、「細民部落改善事業」(雑誌『慈善』)、「救濟事業に就て」(雑誌『救濟』)と次々と発表しています。

またこのとき、邸宅を東京府豊多摩郡代々幡村代々木283に移していました。

そしてこのころには、明治42年(1909)7月に五女の経子、明治45年(1912)4月に二男の盛寛が生まれて、充実した暮らしを送っていたようです。(『人事興信録 4版』)

こうしたなか、盛光は思い切った行動に出ます。

なんと、東京から五島へと移り住んだのです。

福江市街地、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M415-2-83〔部分〕) の画像。

【福江市街地、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M415-2-83〔部分〕) 】

おそらく内務省嘱託として日本各地を回る中で、発展から取り残されていく地方の現実をみたことがきっかけとなった可能性があります。

あるいは、さきほどみた旧領国の五島において教育振興に取り組んだことが成果を上げていたのかもしれません。

次回は、盛光の新たな挑戦についてみてみましょう。


五島盛光の挑戦【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊷】 より

前回みたように、大正4年(1915)ころまで、内務省嘱託として特殊部落改善に取り組んだ盛光は、思わぬ行動に出るのです。

それは、東京から五島へ引っ越すというものでした。(『華族名簿 大正5年3月31日調』)

今回は、五島盛光の新たな挑戦をみてみましょう。

五島への帰還

長崎県南松浦郡福江村福江郷15番地にあった、盛光の義祖父・五島盛成が作った隠殿屋敷は、盛成が死去した後は空き家になっていました。

ひょっとすると、これまで盛光は五島へ行ったことがなかったのかもしれません。

五島に入った盛光は、長崎県立長崎中学校で教職に就きました。(『議会制度七十年史』)

あるいは、自身が設立に寄与した五島中学校への赴任を望んだのかもしれません。

長崎県立長崎中学校仮校舎(『長崎県会事績 上巻』長崎県 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。

【盛光が在職したころの長崎県立長崎中学校仮校舎『長崎県会事績 上巻』長崎県 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション 】

貴族院議員へ

こうして長崎県立長崎中学で教職について5年間たった大正10年(1921)再び盛光は大きく進路を変更して、貴族議員に互選されたのです。(『人事興信録 6版』)

盛光の貴族院議員当選を伝える『読売新聞』大正10年(1921)5月9日付朝刊によると、この選挙は美作国津山藩松平子爵家松平康民が在任中に死去したことに伴う補欠選挙でした。

こうして貴族院議員となった盛光は、貴族院で最大会派だった研究会に属して議員活動を行っています。

ところがその矢先の大正12年(1923)5月30日、盛光は東京で急逝してしまったのです。(『議会制度七十年史』)

貴族院議員になってわずか2年とまだ任期の半ば、51歳の働き盛りでのあまりにも突然の死去でした。

そして、盛光は五島家の菩提寺である福江の大円寺に葬られています。

五島市大円寺正門(撮影者:Nami-ja Wikipediaより20210905ダウンロード)の画像。

【五島市大円寺正門(撮影者:Nami-ja Wikipediaより)】

盛光の遺志

盛光のあまりにも若すぎる死は、彼の持つ志の高さを知っただけに、あまりにも残念に思いませんか?

しかし、盛光が五島発展への功績を、地域の人たちは決して忘れていないようです。

長崎県立五島中学校(『長崎県会事績 上巻』長崎県 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。

【明治時代末ころの長崎県立五島中学校『長崎県会事績 上巻』長崎県 編集・発行、1912、国立国会図書館デジタルコレクション 城門をそのまま学校の門に使っているのがわかります。 】

旧石田城内のある長崎県立五島高校に五島盛光の銅像を建てて顕彰しているだけではありません。

長崎県立五島高校設立100周年にあたる2000年には、五島高校在校生が「盛光公とバラモン」というねぶたを作って二日にわたり「福江まつり」で町中を引き回しました。(『朝日新聞』2009年9月23日朝刊(長崎版))

「バラモン」は五島で男子が生まれた際にあげる凧のことで、島を象徴する存在です。

これと五島盛光の像を合わせて盛光の功績を顕彰するとともに、心からの感謝を表しました。

こうしてみると、盛光の遺志を五島高校の卒業生たちはしっかりと受け継いでいるのです。

長崎県立五島高校(撮影者:

Norio NAKAYAMA Wikipediaより20210905ダウンロード)の画像。

【長崎県立五島高校(2012年、撮影者:

Norio NAKAYAMA Wikipediaより) かつての石田城の石垣がそのまま使われています。】

ここまで子爵五島盛光の生涯をみてきました。

次回は、五島子爵家の終焉をみてみましょう。