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能の地の 血脈くらき 天の川

2024.04.19 13:18

https://gururinkansai.com/tenkawadaibenzaitensha.html 【天河大辨財天社】より

天河大辨財天社(天河神社)は、奈良県天川村坪内にある。

祭神は、市杵島姫(いちきしまひめ)命、熊野坐(くまのにいます)大神、吉野坐(よしのにいます)大神である。

社伝によると、天武天皇の創立で、役行者が大峯開山の拠点にしたので、大峯本宮天河大弁財天社と称する。

大海人皇子は、壬申の乱に際し、霊験あらたかな辨財天に戦勝を祈願して勝利を収め、即位して天武天皇となった。

その後、天皇は辨財天の加護に報いるため、社殿を造営し、「天之安河之宮」とした。

この名称「天の安河」が天川の地名の由来となったともいわれている。

その後、弘法大師空海が高野山を開く前にここを拠点として大峯山で修行し、天河弁財天を琵琶山妙音院と号して、神仏習合の聖地としたといわれる。

宝厳寺竹生島神社、広島県厳島の大願寺、厳島神社などとともに日本三大弁天の一つと言われている。

南北朝時代、後村上天皇は、吉野から当地天川に逃れ、ついで西吉野の賀名生に御所を設けたが、皇族の多くが天川に住んだといわれる。神社西側には、南朝黒木御所跡がある。

また当社は能楽との関係が深い。世阿弥嫡男の観世十郎元雅(もとまさ)は、室町幕府6代将軍足利義教が音阿弥(観世元重)を重視したことから圧迫を受け、父世阿弥と共に演能を禁じられた。

父子が京都を離れて大和国越智氏領内に住んでいた時、所願成就のため、能面「阿古父尉」を奉納した。

江戸時代初期には、当地を本所とする能楽座が結成されたほか、中央から能楽者の来演も行われた。

7月17日の例大祭には、観世座の奉納が行われる。当社には、能面、能装束が多数奉納されている。

江戸時代放浪の僧円空も大峯の地で修行し、当社には「大黒天」が奉納されている。


https://ameblo.jp/pollymaggoo2002/entry-11935981341.html 【天河神社へ。②】より

さて、少し間が空いてしまいましたが、●天河神社へ。の続きです。

天河神社の拝殿の前にあります、能舞台です。

天河神社はお能との縁が深く、能の関係の品物が多く奉納され保管されているのだそうです。

世阿弥が使ったといわれる「阿古父尉(あこぶじょう)」の面や豊臣秀吉が奉納したといわれる豪華な唐織などの名品を保有しているそうです。

また、●天河神社HP 『天河社と能』 によりますと、辨財天拝殿と能舞台を含めて妙音院と申し上げるそうです。

辨財天を別名「妙音天」と申し上げるのだそうです。

天河神社の境内にある句碑です。

“ 能の地の 血脈くらき 天の川   春樹 ”

角川春樹氏製作で映画化された『天川伝説殺人事件』の記念碑なのでしょうか?

明菜ちゃんのこの曲もヒットしましたね。

私は小学生の頃、明菜ちゃんが大好きで“禁区”とか“十戒”とか口ずさみながら通学してました(笑)“SAND BEIGE -砂漠へ-”はレコードも持ってたし、振付も真似してたし、“DESIRE -情熱-”の頃は、おかっぱヘアにして、スケバン刑事も流行ってた頃なので、スケバンヨーヨーを振り回していましたw 

↑コレですw プッシュするとパカッと開くタイプでした! 懐かしい~。

おっと、毎度おなじみ、話がそれてしまいましたが汗

この頃は、まさか天河の地に自分が訪れる事が出来るなど想像もしていなかったのですが、天河の地に訪れる事が出来て本当にありがたいですhowa*

拝殿の横にある太鼓が娘はとても気になったみたいで、しばらく太鼓の前から離れませんでした。そして、裏手の参集殿の近くに祀られております役行者さんの祠へ参拝させて頂きます。

白鳳時代、修験道開祖の役行者が大峯山の山上ケ岳で祈願した際、最初に出現した辨財天を祀ったのが始まりなのだそうです。

また、天河社社家は、役行者の供に祀られております前鬼、後鬼の子孫と言い伝えられてられているのだそうです。節分祭宵の晩『鬼の宿』として、先祖である鬼(神)をお迎えするご神事もあります。

私は、次の日の『節分祭』に参拝させて頂いた事があるのですが、寒さ厳しいこの頃の天河さんがとても大好きです。 

いつか、『鬼の宿』のご神事にも参加できる日が訪れますようにと願っております。


https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/274859 【10年ぶりメガホンとる角川春樹氏が通った「天河大弁財天」】より

角川春樹氏(78)が10年ぶりにメガホンをとる映画「みをつくし料理帖」は今秋にも公開される。角川氏は父の後継者として「角川書店」に入社。横溝正史ブームをつくり、俳優が朗読するソノシートを作るなど当時から才覚のある人だった。1976年には映画界に進出。「犬神家の一族」を皮切りに「人間の証明」などのヒット作を出し、角川作品から出てきた薬師丸ひろ子・原田知世・渡辺典子を「角川三人娘」と呼ばれるまでにした。

 映画界の「寵児」となった角川氏で思い出されるのが神事だ。

 角川氏は映画の台本ができると、奈良県吉野郡にある「天河大弁財天」に台本を奉納。ヒット祈願したという話を聞き、いかなる神社なのか取材に出かけた。下調べでは、「芸能の神様として知られ芸能関係者の参拝が多い」とあった。アポなしで神社に向かった。京都から近鉄吉野線で下市口駅下車。そこからは1日数本のバスしか交通手段はなく、駅前からはタクシーを使った。

 曲がりくねったデコボコの山道を走る。途中、集落はあるが民家も人もほとんどない。こんな山奥に神社があるのだろうか? 

1時間以上走った。急に林の中が開け広大な敷地に出た。山々に囲まれた神社はあった。特別、派手な神社ではない。周囲を木々に囲まれた広大な敷地のほうが驚きだった。空気は澄み切っている。鳥の鳴き声が聞こえてくるだけの静寂な空間。ここで角川氏はどんなかたちで参拝したのか想像もつかない。当時の神主に聞いた。

「私は特別、なにもしていません。瞑想する人。楽器を弾く人。散策する人。人それぞれ自由に過ごして帰ります」と話す。

 元YMOの細野晴臣は楽曲を作り、俳優の勝新太郎は正装で三味線を弾いていたという。芸能界以外にも政治家からヤクザの親分まで参拝に来ていたというが、やはり卓越していたのが芸能界。長渕剛も来ていた。再婚相手の志穂美悦子と2人だけの結婚式をここで挙げたほどだった。

 地元の人によれば「山中は自由に楽器を弾けますし、奇麗な音色が出る。奈良の学校の吹奏楽部がいつも吉野の山の中で練習するから優れている」と話していた。当時の究極のパワースポットの地だったと思う。音楽を目指す人は一度、参拝する価値はあるように思う。資料等によれば……。「神様に呼ばれた人にしか行けない。縁がない人は数回行っても、たどりつけない。来るべき時期がやってきた人しか行けない」とある。

芸能界と神事は昔から縁は深い

参拝に来ていた面々を見ると妙に納得がいく。芸能界と神事は昔から縁は深い。芸能関係者の話。「芸能界は縁起を担ぐ。改名はそのいい例です。神社仏閣から占いまで事務所それぞれ神事をしていることが少なくない」

 角川氏は再びここを訪れるのだろうか。


https://www.tenkawa-jinja.or.jp/about 【大 峯 本 宮 天 河 大 辨 財 天 社(天河神社)】より​

ご祭神

●市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)   

※市杵島姫命は辨財天様としても信仰されております。

●熊野坐大神 ●吉野坐大神 ●南朝四代天皇の御霊 ●神代天之御中主神より百柱の神

ご神徳

●水の大神 ●弁舌・才智の大神 ●音楽・芸術・芸能の大神 ●財宝の大神  

辨財天は、川の流れの妙なる様を神格化したとされる、古代インドのサラスヴァティー神であり、その本来の神徳は水の神、そして、水せせらぎの如く素直で妙なる弁舌や音楽の神であり、日本の古代より行われてきた水神の信仰とも結びついています。  後に転じて「財を弁ずる」商売の神としても信仰されるようになりました。

略縁起

多門院日記に「天川開山ハ役行者 -マエ立チノ天女ハ 高野 大清層都コレヲ作ラシメ給フ」という一節があります。 これは室町期の傑僧多門院英俊の天河詣での記録です。  

 天河大辨財天社の草創は、この日記のような飛鳥時代の昔に さかのぼります。龍、水分(みくまり)の信仰で代表され古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯の開山が役行者によってなされたことは 周知のことです。その折大峯蔵王権現に先立って勧請され、最高峰弥山の鎮守として祀られたのが天河大辨財天の創まりです。

 その後、うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の御英断によって壺中天の故事にしたがい現在地、坪の内に社宇が建立され、ついで吉野総社(吉野町史)としての社各も確立しました。

 更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話しはすでに明らかですが修行中最大の行場が天河社であったのです。 天河社には大師が唐から持ち帰られた密教法具「五テン鈴」や、さきの多門院日記で紹介された「大師筆小法花経」、又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字観碑」など弘法大師にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳かに我々の心を魅了します。冒頭で多門院英俊の言う「高野大清層都」とは弘法大師のことなのです。

 天河大辨財天社の由緒の中で、天河社が「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)であったことを見おとすことは出来ません。通常准三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための入峯は宗門にとって最も重要大切の行事とされ、江戸期将軍の参内に匹敵する権勢と格式をもっていました。

この門跡入峯にあたっての必修行程に門跡の天河社参籠がありました。

このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、その法脈を受けついだ増誉、聖宝解脱など効験のきこえ高い、大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持堂に参籠されました。そして峯中の大秘法「柱源神法(はしらのもとのかみののり)」にもとづく修法の数々が確立されたのです。まさにその一瞬天河社縁起に言う「日輪天女降臨の太柱が立つ」といわれます。これが門跡参籠修行の謂です。

 文化元年七月十六日三宝院高演によって修せられた「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠修帰依の史実を裏書するものです。

 また琵琶山の底つ磐根に立ちませる神と従神十五の督のことが修験の著名な文献「日本正法伝」天河祭祀のくだりに日本辨財天勧請の創めとして掲載されています。これは天河大辨財天が本邦弁才天の覚母であるということなのです。そしてその加持法力は広大無辺十五の督によってことごとく伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授けられる福寿のこと夢疑うなかれとされています。

天河社と能

天河社には能面・能装束多数が現存します。いづれも桃山文化財の逸品として世に知られ、アメリカメトロポリタン美術館をはじめヨーロッパ重要美術館で催された「日本美術展」と、数点が出品され国際的にも室町文化の芸術作品をはじめ、能のはじまりの文化を紹介しました。

能面三十面(重要文化財)、能装束三十点(県指定文化財)、外に小道具、能楽謡本関係文書多数は室町から桃山、江戸初期にかけ我が国の能楽草創期から成熟期にかけての芸術の作品であり能楽史上稀有のものとして文化的価値のきわめて高いものです。

そのうちの一、二点を紹介しますと、能楽の創始者世阿弥も使用した「阿古父尉」を始め、江戸初期面打ちの第一人者山崎兵衛が打った「猩々面」、「三番隻」・「黒色尉」・「肉色尉」、能装束「紅白格子と白地桐竹唐草文繍唐織」、文禄三年三月豊太閤が奉納した唐織の装束をはじめ狂言装束と多数保存されています。これは、天河社が能楽の発祥の頃より深く関わってきた、芸能の守り本尊であることの証といえましょう。  

辨財天は辨財天女とも称し、水の神、妙音、芸術、財宝の神として崇められています。天河社殿の杜を、磐境、真名井と崇められ、全体が妙音に響きを感応する斎庭であります。

ずっと昔、悪霊を鎮めたり、祖霊を祀ったりするのに猿楽田楽が奉納され、神人合一の聖地とされていました。特に天河社は辨財天の法義司辨を示し、龍神の長を示されている八臂(はっぴ)法弁財天であり、八百万の神々が集う須弥山とも仰がれていました。  

古より、水の神、芸術芸能の神として知られていた天河社に後南朝初期、観世三代の嫡男観世十郎元雅が心中に期することを願って能「唐船」を奉納し尉の面を寄進されたのであります。芸能の神によせられる期待が如何に大きかったかをしのばせます。以後、江戸時代にはいり、神主が能を演じるようになり天河社家座の成立や、喜多六平太による謡曲喜多流の創設など芸能とのかかわりを深め全国各地の祭祀にかかわってきました。  

しかし時代の推移と共に盛衰を繰返し、明治の中頃以降は永く廃絶の憂目にさらされていました。しかし、幸いにも戦後昭和二十三年社家有志によって復興を見るに至り以来能楽や狂言の奉納が行われるようになりました。 特に昭和四十五年観世流京都の人間国宝片山幽雪先生(平成27年帰幽)能「弱法師」が奉納されて以来、毎年例大祭及び春季、秋季大祭には京都観世界を初め五流の名士が奉納されるようになりました。

(略)

この面(おもて)は、永享二年(1430)に、当時将軍義教から仙洞御所での演能を差し止められ、以後次々の将軍に疎んぜられるといった苦境の時代にあった世阿弥の息男十郎元雅により寄進されました。世阿弥そして元雅にとっての面(おもて)の裏に記される「所願成就円満」とは、弁財天が芸能の神であるだけに再起を期してこの尉面(じょうのおもて)を寄進されました。素材は樟で、表面は濃い黄地彩色。尉の面では最古の作品とされています。

天河社と南朝

天河郷は南朝関係史跡や伝承が大へん豊富です。

 「あさからぬ ちぎりもしるき 天の川 はしはもみじの 枝を交わして」 (長慶天皇)

 嘉喜門院集に「天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず」としるされてあります。

 南朝と天河郷の深いかかわりをこれほど明瞭にしるしているものは他にありません。この他天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。その中には天河郷の忠誠を賞でられたものや、その加賞として天河弁財天へ賜った地行地配分のお墨付きなどが含まれています。