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杉並区 09 (07/04/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧上荻窪村 (1) 団子山 / 関根 / 出山

2024.04.08 09:48

旧上荻窪村

小名 団子山 (だんごやま) [→小字丸山の一部→西荻窪2~3丁目の一部→現在の西荻北三丁目 (東半分)]

小名 出山 (でやま) [→小字出山/小字丸山→上荻窪一丁目の一部/西荻窪2~3丁目の一部→西荻北1~3丁目]

小名 関根 (せきね) [→小字関根→関根町→上荻一丁目の一部]



旧上荻窪村

光明院の縁起書によれば、708年 (和銅元年)に、観音像を背負い布教のため、諸国を行脚していた行者が、この地に来た時、突然観音像が大石のように重くなって歩くことができなくなった。行者は観音様がこの地に駐まる ことを望んでいるに違いないと思い、付近に生い茂っている荻を刈り取って、荻の草堂を作り、観音様を祀り布教に努めた。この堂が荻堂と呼ばれ、これが荻窪の地名となったと記されている。善福寺川沿いの窪地に荻が群生していたので、荻窪の地名が生まれたと思われる。

中世には上荻窪村と下荻窪村は一つの村だった。鎌倉室町時代は、北条氏、上杉氏、又はその家臣の領地、更に豊島氏領地となり、その後、江戸氏、小田原北条氏の家臣の支配を受けていた。

1590年 (天正18年) に徳川氏が江戸に入府してから江戸時代初期には後の下荻窪村は服部半蔵の知行地、後の上荻窪村は鵜飼長政等8人の伊賀同心の知行地 (八人様方御領所) となっていた。荻窪村は慶長年間 (1596~1615年) 頃に二ヵ村に分けられ、京都に近い地域を上荻窪村、遠い地域を下荻窪村と名付けられた。善福寺川の北岸は川北、南岸は川南と呼ばれ、川北には本村、中田、堂ノ前、関根の小名があり、川南には柿ノ木、伊勢前、三ッ塚、出山、丸山、団子山の小名があった。

1664年 (寛文4年) に開墾された新田検地が行われ、上荻窪村石高の75%にあたる新田は幕府直轄の天領となっている。

1869年 (明治2年) に上井草村、下井草村、上荻窪村、下荻窪村の4ヶ村は品川県に編成された後、1871年 (明治4年) に東京府に置かれた。1889年 (明治22年) の前述の四ヶ村を合併し井草と荻窪の字を一字ずつ取り井荻村が誕生している。その後、1926年 (大正15年) に町制施行に伴い井荻町となり、1933年 (昭和七年) に杉並区の誕生の際に、その一部となった。



小名 団子山 (だんごやま) [→小字丸山の一部→西荻窪2~3丁目の一部→現在の西荻北三丁目 (東半分)]

江戸時代に天領から日枝神社山王領となっていた上荻窪村川南組の西の端が小名 団子山になる。1889年 (明治22年) に小名 出山の一部と共に小字 丸山となっている。1932年 (昭和7年) の町名変更で、旧小名 団子山は西荻窪2~3丁目となり、更に1969年 (昭和44年) の住所変更で西荻北三丁目 (東半分) となっている。団子山と呼ばれた由来については不明だそうだが、神社や御堂へ供える団子や餅の米を得る田を団子田と呼ばれ入費を弁ずるための公共用地で、団子山はこの団子田に該当し、光明院の観音堂か、荻窪八幡神社の維持費を得るための村有林で、団子山の地名が生まれたとも考えられる。当時、杉並地方では「山」は現在の山だけでなく平地の森や林を意味していたそうだ。また、善福寺川の北にあった小名 関根には昭和初期までは団子山と呼ばれた地域があった。この地と何らかの関係があったのだろうか?

明治時代の小名団子山の集落は1ヶ所で小さな集落だった。多分、民家も数軒だけだっただろう。1922年 (大正11年) の西荻窪駅の開通1925年 (大正14年) から1935年 (昭和10年) までに行われた区画整理事業、1923年 (大正12年) の関東大震災後、東京市内より移住者が急増した事で、団子山の地域も駅の北側に民家が増えている。戦後にはほぼ全域が住宅地に変貌している。


旧小名 団子山内には、1951年 (昭和26年) に商店街が創建した伏見神社以外には寺社仏閣や民間信仰の塔など史跡は見当たらない。



西荻窪駅

江戸時代の小名 団子山の南端にはJR東日本中央本線 (明治時代は甲武鉄道) の西荻窪駅がある。1922年 (大正11年) に、当時の井荻村村長の内田秀五郎を中心に地元有志により新駅誘致運動が行われた結果、旧荻窪村ニッ塚の敷地が寄付され、鉄道省の新駅が設置された。開業当時は、畑の中に一軒家の西荻窪駅があるだけだった。1923年 (大正12年) の関東大震災後、東京市内より移住者が急増し、特にサラリーマン、軍人、教員、画家、小説家などの知識階級の人が多く、昭和初年には「西荻の文化村」の愛称で呼ばれた程だった。(写真上は北口、下は南口)


伏見神社、伏見通り

西荻窪駅の北には西荻伏見通りの商店街がある。

西荻窪駅周辺では一番歴史が古い商店街だそうだ。1922年 (大正11年) に西荻窪駅が開業。当時、駅の出入口は北口のみで、その周辺に10数軒の商店が立ち並んでいた。その後、この地域の商店で「振興会」の商店街を創立し、1938年 (昭和13年) には加盟店は約60店舗に増えている。

1951年 (昭和26年) に、商店街の十数店商が、「商売繁盛」「家内安全」を祈願して、京都の伏見稲荷大明神を勧請し、商店街の中心に「伏見稲荷神社」を創建している。現在でも、商店街の守護神的存在で、毎年2月に「初午祭」を行い厚く信仰されている。


北銀座通り

西荻窪駅から北に延びる大通りも商店街になっている。この商店街の歴も古く、大正10年に当時の井荻村村長内田秀五郎が地主の協力で、善福寺川との間に北銀座通りを整備している。その翌年に西荻窪駅が開業している。この西荻窪駅は内田秀五郎が中心となって誘致活動の結果設置されたのだが、この商店街の開発はその活動戦略の一部だったのだろう。



小名 出山 (でやま) [→小字出山/小字丸山→上荻窪一丁目の一部/西荻窪2~3丁目の一部→西荻北1~3丁目]

江戸時代から明治時代にかけて、小名 団子山の東隣には善福寺川を北の境として小名 出山になっていた。この小名出山は、善福寺川流域の水田へ出張っていた台地だったので、出山と呼ばれたと伝わっている。

この出山も幕府直轄天領の川南組の一部だった。1889年 (明治22年) に分割されて小字出山と小名団子山を含めて井荻村大字上荻窪小字丸山となっている。1932年 (昭和7年) の町名変更で、旧小字 丸山は西荻窪2~3丁目の一部、出山は上荻窪一丁目の一部となり、更に1969年 (昭和44年) の住所変更で出山と丸山の一部が合併し、旧小名出山は西荻北1~3丁目にまたがっている。

江戸時代から明治時代にかけての小名出山の集落は出山の南境界線だった街道沿いにと丸山地域に見られるが、何も小規模なものだった。1922年 (大正11年) の西荻窪駅の開通1925年 (大正14年) から1935年 (昭和10年) までに行われた区画整理事業、1923年 (大正12年) の関東大震災後、東京市内より移住者が急増した事で、出山の地域も西荻窪駅の北側、特に丸山地域に民家が増えている。戦後は旧小名出山の南半分は民家で覆われ、1960年代にはほぼ全域に住宅街が拡大している。


旧小名 出山内にも江戸時代/明治時代の寺社仏閣や民間信仰の塔など史跡は見当たらず、1963年 (昭和38年) に創建された佛乗寺のみだった。


城山 (しろやま)、七つ井戸

西荻図書館の前に城山、七つ井戸の案内板が置かれている。西荻図書館から西、善福寺川に沿った西荻北二丁目 34~37番は戦前までは城山と呼ばれていた。城山と呼ばれた由来は諸説ある。荻窪八幡神社によれば、後冷泉天皇の時代、1051年 (永承6年) に、源頼義が奥州下向の際にこの付近に布陣、戦場から凱旋した1062年 (康平5年) に八幡神社で祈願成就のお礼の祭事を行い、部将をとどめて永く祀らせた場所だったとしている。別の説では、八幡神社を祀っていた人物の屋敷があった場所という。善福寺川から暗渠の水路が城山の下を通っていた。城山の南側にはその水路沿いに井戸が七つ一列に等間隔に並んでいた。耕作地の水車を動かすのに必要な落差を得るため、城山下にトンネルを掘った名残で、井戸はその掃除口と考えられている。明治後期頃には放置されて、杉や松等の密生する雑木林になっていたそうだ。この井戸は七ツ井戸と呼ばれ、土地の人々からは近付くことも恐れられていた。1922年 (大正11年) に西荻窪駅の開設され、昭和初期に区画整理が行われて、七ツ井戸は埋められ消滅している。現在では住宅地や公共施設のある地域となっている。


善福寺川、関根橋、丸山橋、城山橋、中田橋、鍜治橋、出山橋、神明橋、置田橋、本村橋

小名 出山の北の小名関根との村境になっていた善福寺川には関根橋、丸山橋 、城山橋、小名本村との境には鍜治橋、出山橋、新明橋、沖田橋、本村橋が架かっている。現在の善福寺川の流れは江戸時代とは異なっており、これらの橋は善福寺川が整備された後に架けられたものだが、橋の名は江戸時代から地名として存在していたものを付けている。

  • 関根は善福寺川の北側の小名だった。荻窪八幡神社の神官だった小俣家の屋号が関根で、その一帯は小俣家の所有地だったことから小名の名となり、橋の名として残っている。(後述)
  • 丸山は丸山橋の南側、城山は丸山を含み善福寺川の南側で東は西荻図書館辺りまでだった。一つの資料ではこの丸山は江戸時代のある時期は独立した小名だったとされている。(1889年 [明治22年] に分割されて小字出山と小名団子山を含めて井荻村大字上荻窪小字丸山となっている。) 別の資料では、明治22年に出山と団子山が一緒になり丸山になったとも書かれている。丸山の地名の由来は不詳だが、この地の台地を城山と呼んでいたので、城の本丸から丸山と呼ばれたのではないかともいう。ここでいう城とは江戸時代に上荻窪の一部を拝領した鵜飼政長の屋敷の事で、それが小名丸山の城山にあったとも推定されている。
  • 鍜治橋はもともとは「かち橋」と呼ばれていた。上荻窪村は伊貿同心の領地で同心や足軽の徒侍 (かちざむらい) が住んでいた。この「かち」が何時しか鍜治と変化してこの橋の名になっている。
  • 出山橋の出山は善福寺川の南側の小名で、現在訪れている場所
  • 神明は神明橋の道を南に進んだ小名伊勢前にある神明天祖神社から神明橋と名付けられている。
  • 置田は昔、線路の西側には水車小屋があり、そこに住んでい た上荻窪村の名主・平井家のお婆さんが、北側にある宇田川家 (後日訪問) のことを「お北さん」と呼んでいたことがいつしか橋名に転じて「おきたはし」となり、置田の字が当てられたといわれている。本村は下荻窪村の名主の宇田川家の屋号が本村 (ほむら) といったことから本村橋 (ほんむらばし) になっている。

関根前 (せきねまえ)、佛乗寺

丸山/城山の南側は昭和初期までは関根前と呼ばれた地域だった。城山を含めこの地一帯を所有していたのが、八幡神社の神官をつとめる小俣家で、その屋号が関根だった事からこのように呼ばれていた。この中に日蓮正宗の本尊 十界互具大曼荼羅板本尊とする向陽山佛乗寺が昭和38年に創建されている。一見民家と思われる寺院だった。



小名 関根 (せきね) [→小字関根→関根町→上荻一丁目の一部]

善福寺川の北側は江戸時代から明治時代にかけては日枝神社山王領の川北組で、西側が小名関根と東側が上荻窪村の本村だった。小名関根は1889年 (明治22年) には小字 関根となり、1932年 (昭和7年) の町名変更で、関根町に、1969年 (昭和44年) の住所変更で上荻一丁目の一部となっている。この小名関根は本村にある荻窪八幡神社神官を代々務めた小俣家の屋号が関根で、その所有地だった事に因んだ地名という。別の説もあり、小名関根には、善福寺川からのあげ堀 (用水路) の堰が二ヵ所 (団子山の堰、関根の大堰) あったので、「堰根」の地名が生まれ、関根に変わったともいう。真偽は疑わしいのだが、昔、城山 (丸山) にあった関所の麓 (根) という事で関根の地名が生まれた説もある。

江戸時代から明治時代にかけての小名関根の集落は地域のほぼ中心地に一つあるだけだった。戦前は団子山や出山は西荻窪駅が開通した事によって民家が増えているのだが、この関根は明治時代と変わっていない。北の青梅街道沿いも民家が増えているのだが、この関根は取り残された地域だった。人口と民家が増えていくのは戦後になる。現在では地域全土が住宅で覆われている。

旧小名 関戸にも江戸時代/明治時代の寺社仏閣や民間信仰の塔など史跡は見当たらない。今まで巡った杉並区の地域でも史跡がかなり少ない。練馬区には各地域に鎮守社や石塔が必ずあった事と大きく異なる。江戸時代の杉並が特殊だったとは考えにくいので、何らかの背景が理由にあると思える。幾つかの推論は浮かぶのだが、それはこれ以降他の地域も巡り、どこかで専門家に確認しようと思う。


関根橋

出山の西の端、旧小名団子山との境は西荻窪駅から北銀座通りが北に伸びて善福寺川には関根橋が架かっている。1922年 (大正11年) に西荻窪駅が開業する前年の1923年 (大正10年) に北銀座通りができ、その時に関根橋もその時に架けられている。小名関根への橋という事でこう呼ばれたのだろう。


団子山

関根橋を北に渡り、道を進むとスーパーのライフがある。この辺りが昭和初期迄は団子山と呼ばれていた。その由来は不明だそうだが、小名団子山と関連があるのだろう。


関根文化公園

善福寺川沿いに関根文化公園がある。以前公園内にあったプールの場所周辺は大正初年までは墟下 (まました) と呼ばれていた。確かでは無いのだが城山を所有していた荻窪八幡神社の神官だった小俣一族の土地とも言われている。墟 (まま) は断崖を意味しているので、ここは崖になっていたとも、丸山の下にあるので丸山下が墟下 (まました) に変化したとか様々な説がある。関根文化公園の「文化」という言葉が気になった。どの様な経緯でこの名が付けられたのだろう? 1950年 (昭和25年) に開園した杉並区では二番目に古い公園 (一番古いのは1937年 昭和12年開園の荻窪公園) で、その頃から地域の子供達の遊び場だったそうで、現在での幾つもの遊具が置かれて行く。当時の荻窪には多くの文化人が移り住み、文化村としてPRしていたことからの中もしれない。結局、名の由来は分からずじまいだが、戦後復興期に、地域の文化振興という意味で、当時ではモダンな名前にしたのかも知れない。

杉並区内の公園は半分以上が善福寺川沿いにある。現在の杉並区の公園面積は2.07m2/人では長期的目標は5m2/人だそうだ。先日訪れた沖縄県北谷町では14.4m2/人 (沖縄平均7.18m2/人) なので桁が違う。やはり東京は土地確保が大変なのだろう。

この様な中、この関根文化公園は、地域住民の悩みだった善福寺川氾濫水害対策計画が実行される事になった。この関根文化公園、原寺分橋付近、都立善福寺川緑地に取水施設や管理棟も建設し、善福寺川沿いに地下トンネルを通し、善福寺川増水時に水をトンネルを通し流す予定になっている。計画の一部は工事が進んでいる。この工事関根文化公園は無くなってしまう様だ。民家の立ち退きも計画にあり、住民は反対運動を行なっているが、どうなるのだろう? 


これで、団子山、出山、関根の三つの小名の史跡を巡り終えた。この三つの小名の地域には殆ど史跡が残っておらず、まだまだ時間が残っているので、他の小名も引き続き巡った。どの小名の史跡も全部は見終わっていないので、見終わった時点で、今回見た史跡も含めて訪問記に記載予定。

残りの時間を史跡巡りを続け、以前勤めていた会社の仲間と会食が神田で予定されているので、そちらに向かう。今日も帰宅は深夜となった。


団子山、出山、関根の訪問ログ



参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)