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金峯山寺について

2024.04.21 04:55

https://www.kinpusen.or.jp/about/ 【金峯山寺について】より

国軸山金峯山寺 kinpusen-ji Temple

金峯山寺

吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金の御岳(かねのみたけ)、金峯山(きんぷせん)と称され、古代から世に広く知られた聖域とされました。白鳳時代に役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行された結果、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。役行者は、そのお姿をヤマザクラの木に刻まれて、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創と伝えられています。以来、金峯山寺は、皇族貴族から一般民衆に至るまでの数多の人々から崇敬をうけ、修験道の根本道場として大いに栄えることとなりました。明治初年の神仏分離廃仏毀釈の大法難によって、一時期、廃寺の憂き目を見たこともありましたが、篤い信仰に支えられ、仏寺に復興して、現在では金峯山修験本宗の総本山として全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっています。

蔵王堂(本堂)国宝・世界遺産

金峯山寺の本堂である蔵王堂は、国宝であり、世界遺産の中核資産に登録されています。単層裳階付き入母屋造り檜皮葺きで、高さ34m、裳階の四方36mの豪壮な建造物です。木造古建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇っています。

創建以来、幾たびも焼失と再建を繰り返し、現在の建物は、天正20(1592)年に再建なったものです。その内部には、我が国最大のお厨子があり、秘仏のご本尊金剛蔵王大権現の尊像3体がお祀りされているほか、多くの尊像が安置されています。

仁王門国宝・世界遺産

金峯山寺蔵王堂の北側の正門にあたる仁王門は、国宝であり、世界遺産の中核資産に登録されています。城郭を思わせる巨大な石垣の上に建つ重層入母屋造り本瓦葺きで、高さは20.3mあります。創建年代は不詳ですが、現在の建物の下層は南北朝期、上層は康正年間の建造と推定されており、金峯山寺に残る諸堂の中で最も古い建造物です。

下層の正面両脇に、阿形・吽形の2体の仁王像(重要文化財)を安置しています。両像は、御身丈5.3m程で、奈良東大寺南大門の仁王像に次ぐ巨像です。阿形は延元3(1338)年、吽形は延元4年の造立で、南都仏師の康成の手によるものです。

現在、この門の解体大修理事業が進められており、事業終了までの間、仁王像は奈良国立博物館に寄託されています。

修験道

修験道は、人間誰もが持っている自然に対する畏敬の念、いわゆる自然崇拝に外来の仏教、道教、陰陽道などが融合して成立した我が国独自の宗教です。修験の修とは苦修練行、験とは験得の意味で、苦修練行することによって霊験を得て、衆生を済度する道といえます。修験道の修行者は「修験者」あるいは「山伏」と呼ばれ、役行者をその開祖と仰いでいます。森羅万象悉くを神仏の応化神とする修験者達は、苦修練行の場を山に求め、中でも吉野の山々に分け入り、深山幽谷に身を置いて修行することとを尊び、吉野大峯は修験道の根本道場とされています。

金剛蔵王大権現

金峯山寺の御本尊である金剛蔵王大権現は、およそ1300年前に修験道の御開祖である役行者神變大菩薩によって感得された権現仏です。その感得をされた際の様子を寺伝では次のように伝えています。役行者は、全国の霊山を御開山になった後、熊野から大峯山脈の稜線伝いに吉野に修行されること33度を重ねられ、最後に金峯山(大峯山)山上ヶ岳の頂上で、一千日間の参籠修行をされました。苦しみの中に生きる人々をお救いいただける御本尊を賜りたいとの役行者の祈りに応えて、先ずお釈迦如来、千手千眼観世音菩薩、弥勒菩薩の三仏がお出ましに成られました。役行者は、その三仏の柔和なお姿をご覧になって、このお姿のままでは荒ぶ衆生を済度しがたいと思われて、さらに祈念を続けられました。すると、天地鳴動し、山上の大盤石が割れ裂けて、雷鳴と共に湧き出るが如く忿怒の形相荒々しいお姿の御仏がお出ましに成られたのです。この御仏が金剛蔵王大権現で、役行者はこれぞ末法の世を生きる人々の御本尊なりと、そのお姿を山桜の木にお刻みになってお祀りされたのでした。これが、金峯山寺の始まりであり、修験道の起こりと伝えられています。権現とは、神仏が姿を変じてお出ましになった仮のお姿という意味です。金剛蔵王大権現は、役行者の祈りに応えて最初に現れられた釈迦・観音・弥勒の三仏が、柔和なお姿を捨てて、忿怒の形相荒々しいお姿となってお出ましに成られたものです。大変恐ろしいお姿ですが、慈悲と寛容に満ちあふれたお姿と言われます。全身の青黒い色が、その慈悲と寛容を表しています。まさに怒りの中にも全てを許す「恕(じょ)」のお姿なのです。慈愛に満ちた父母の怒りに似たお姿ともいえるでしょう。

役行者

修験道の開祖と仰がれる役行者は、我が国の正史の一つである続日本紀の文武天皇3(685)年5月24日の条に記される実在の人物です。寺伝では舒明天皇6(634)年正月元旦に、葛城上郡茅原の里(現在の御所市茅原)にお生まれになり、幼少の頃から英邁利発で、当時の世相を慨嘆せられ、葛城山(現在の金剛葛城連山)に入って御修行になり、続いて全国の霊山を御開山になった後、熊野から吉野大峯の山々に入って修行され、最後に大峯山山上ヶ岳で一千日の参籠修行をされました。その結果、金剛蔵王大権現を感得されて、そのお姿をヤマザクラの木に刻んで、山上ヶ岳と山下の吉野山にお祀りされました。それが、修験道と金峯山寺の始まりとされています。大宝元(701)年6月7日に、箕面の天井が岳で昇天されたとも、天竺に渡られたとも伝えられています。その没後一千百年にあたる寛政11(1799)年に時の光格天皇様より神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を賜っています。

金峯山修験本宗

役行者が創始された修験道は、一宗一派に偏ることなく、吉野大峯をはじめ全国の霊山を道場とする実践実行の活宗教でありました。中でも金峯山寺は山上と山下の両蔵王堂を中心に百数十の塔頭寺院が建ち並ぶ、一大聖地でありました。しかし、江戸幕府から、金峯山寺は日光輪王寺宮の支配下とされ、比叡山の影響を強く受けることとなりました。加えて、明治の神仏分離廃仏毀釈の大法難によって、金峯山寺は一時、廃寺の憂き目を見て、その後、天台宗として寺院に復興したのでした。第二次世界大戦後、信仰の自由が保障され、本来の姿に帰すべく、昭和23(1948)年4月10日、現在の金峯山寺を中心に大峯修験宗の立宗を宣言し、更に昭和27年に金峯山修験本宗と改称して、伝統教団としての宗派となりました。以来、蔵王堂の昭和大修理をはじめとする数々の伽藍整備を行い、また、全国の末葉寺院・教会とともに、修験道の広宣と教信徒の教化布教に努めているところです。

世界遺産としての金峯山寺

平成16(2004)年7月7日、紀伊半島南部の3霊場(吉野大峯・高野山・熊野三山)とそれらを結ぶ参詣道が「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。その登録推進にあたっては、金峯山寺が奈良県内の中心的な推進運動を展開して、国や県などの行政機関に働きかけを行ったのです。その結果、我が国で初めての民間運動に端を発する世界遺産登録に繋がりました。金峯山寺の国宝蔵王堂と国宝仁王門、そして境内地は、その中核資産として登録されています。また、この世界遺産の特徴の一つが、我が国初、そして世界で2番目の「道」が登録資産になっていることですが、修験道の最奥の修行道場である大峯奥駈道も中核資産となっています。このようなことから、金峯山寺は、我が国だけではなく、世界に認められた宝であり、世界に誇るべき宝といえるでしょう。