結縁灌頂について
https://www.kechien.net/individual_pages/ishiyama_kanjo/kanjo.html 【《結縁灌頂について》】より
【結縁灌頂入壇のおすすめ】
弘法大師は、はるばる海を越え遠く唐の都長安において、青龍寺の恵果和尚より真言密教を学び、金剛・胎蔵(こんごうたいぞう)の両部灌頂壇に入壇されました。真言密教の秘法を授かる上で最も重要な儀式が「灌頂(かんじょう)」であり、わが国においても弘法大師の帰朝後、幾度となく開かれてきました。
灌頂の中でも、このたび行われる「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」は、出家在家を問わずどなたでも受けることができます。さまざまな儀式によって構成され、中でもそのクライマックスは「投花得仏(とうけとくぶつ)」といって、目を覆われた受者(=灌頂を受ける人)が手に印を結び口に真言を唱えながら曼荼羅(まんだら)に花を投じ、落ちたところの曼荼羅の仏さまと縁を結びます。さらに大日如来の智恵の水が受者の頭頂にそそがれることによって、最もすぐれた仏縁が結ばれ、一切の罪障を滅ぼすことができると経典に説かれています。
まさに数多くの勝縁を得て行われる、この記念すべき結縁灌頂に、皆様も是非ご参加ください。
【灌頂と結縁灌頂について】
真言密教において、師が弟子に対して、その教えと法を伝授することを許し、正しい法の継承者であることを印可するための、最も重要な儀式です。
灌頂というのは、水を頭頂に灌(そそ)ぐことから名付けられています。もともとは仏教のふるさとインドにおいて、帝王の即位や立太子にあたつて、四大海の水をあつめて太子の頂きに灌ぎ、四海領掌の意を表す儀式に由来しています。
密教における灌頂は、如来の五智をあらわす五瓶水を弟子の頂上にそそいで、わたしたちが本来持っている仏としての本質を、未来永劫にわたって決して失わないために行います。
灌頂の儀式はインドにその源を発し、中国に伝わってからも仏教ことに密教において最も重要な儀式として尊ばれました。わが国においては延暦24年(805年)年9月、伝教大師が高雄山寺(のちの神護寺)において行なったのが最初です。ついで弘法大師が弘仁3年(812年)11月、同じく高雄山寺において金剛界灌頂を行い、同年12月に胎蔵界灌頂を行ないました。これがわが国における最初の両部灌頂となりました。このときに灌頂に浴した人々は、伝教大師や和気真継などをはじめ166人に及んだと伝えられています。
この儀式の作法等は極めて複雑で、数多くの儀式によって構成されていますが、すべては密教特有の深い意味を表すものです。
中でも、曼荼羅に花を投じて縁を結ぶ仏を決める、投花得仏(とうけとくぶつ)の儀式は、特に受ける人々に大きな感動を与えます。弘法大師が受けられたときは、すべて大日如来の上に落ちたと伝えられています。
灌頂の種類はきわめて多く、結縁灌頂、受明灌頂、伝法灌頂などに分類され、また事作法の様式などよって、印法灌頂、具支灌頂、以心灌頂などと、さまざまに区別されています。
このたび行われる結縁灌頂は、曼荼羅の諸仏をえらんで縁を結ぶためのもので、そのほかの灌頂と違い、出家の僧侶だけを対象とするものではなく、受ける人をえらびません。
灌頂の儀式は、その盛大さと複雑さゆえに、なかなか開催が困難でありますが、弘法大師が開かれた学舎、種智院大学とその関係者、卒業生らの協力によって、さらに石山寺座主猊下が同窓会長にご就任いただいているという、数多くの素晴らしいご縁が結ばれて、実現のはこびとなっています。
日頃仏教との触れあいの深い皆様も、また少しでも関心をお持ちの皆様も、この千載一遇の機運に乗じて、是非ご入壇いただき、私たちがみ仏の世界とつながっていることを実感していただければ幸いと存じます。
https://todaysseaway.ttcbn.net/archives/8825 【金剛界・胎蔵界 曼荼羅の意味と魅力をわかりやすく考えてみた】より
どうもわからない両界曼荼羅の意味
胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅。
合わせて両界曼荼羅といわれるものが、真言密教にはあります。
私もそれは前から知っていたけど、この2つの意味や違いっていうのが、どうもわかりませんでした。
調べみても、なんか仏様の描き方の違いを説明するに終始していたり素人にとっては「で、結局なんなの?」ってところがわからなくってね。
もちろん、そういうことは密教といわれるくらいですから、秘密の教えであって、そうそう言葉で言えるようなもんじゃないんだ!ってのはわかります。
膨大な経文を勉強した末に何年もかけてやっとわかるものなのじゃ!っていうのもわかります。でもやっぱりわかりたいじゃん?ちょっとでいいから(笑)
そう思いながらなんとなくそのままになってたんですが、今日、すごく腑に落ちちゃったの!
あくまでも素人の思いつきにすぎないんで、専門の方から見たらお話にならないと思うけれど
とりあえず私はすっごい納得しちゃったんで、もし共感してくれる人がいたらちょっとうれしいです。
ここに載せてる画像は胎蔵界しかないのですが、両方見てみたいという方は「両界曼荼羅」と画像検索するといっぱい出てくるので、ググッてみてね。
霊宝館でひらめいた
さて、高野山の霊宝館というところに、大きな両界曼荼羅が対面でかけてあります。
胎蔵界曼荼羅は、中央に大日如来がいらして、そこから同心円上に小さな仏様が広がっていく構図。
金剛界曼荼羅は、9つのマスに分かれていて、最上部に大日如来がいらして、他の仏様が階層状になっている構図。
高野山に来てその前に立ち、ひとこと解説を読んでまた見たところ・・・おーっ!そうか!と思ってしまったのです。
胎蔵界は、受容。あらゆるものをどこまでも無条件に受容する愛。女性性の力。たとえるなら蓮の花。それも悟りへの道。
金剛界は、意思。高みを目指し、貫きそびえゆく強く輝く意思。男性性の力。たとえるならダイヤモンド。それも悟りへの道。
両者あわせて一つの宇宙の姿。2つの表現ではあるけれど一つのことを言っている。
違うけれど矛盾しない。なぜなら「一つ」とは宇宙根源である大日如来であるから。
これが、その場で私が受け取った理解です。
オムマニペメフムというチベット仏教のマントラがあります。蓮の中のダイヤモンド
という意味だそうです。胎蔵界は蓮。金剛界はダイヤモンド。まさに、そのことではないのだろうか?そんなふうに思ったら、私はとても納得するものがありました。
受容の力と意思の力受容と意思はセットです。全肯定・全受容したところに「こうしたい、こうしよう、こうするぞ!」という純粋な意思が立つ。
屹立するような輝くまっすぐな意思そういう「垂直軸」は無限に広がりゆくような無条件の受容そういう「水平軸」があってこそ支えられる。そういうものだと思います。
どちらか片方じゃだめなのです。意思意思・・だけのただの屹立と前進では狭窄と排除と切り捨てになります。
受容受容・・だけのただの広がりと融和では甘さと曖昧と無秩序になります。
意思あっての受容。受容あっての意思。両者は合わせて一つ。違うけれど共にあって矛盾しない。無条件の受容の中にこそ輝く意思が立ち上る輝く意思が立ち上がるほど無条件の受容がそれを支える合わせて一つそれが世界の真実の姿。そこに、いのちの宿る創造(クリエイション)が起こる。
胎蔵界・金剛界曼荼羅とはそういう宇宙の力を表現しているのではないだろうか・・・
私なりの勝手な推論です。女性性・男性性とは
さて、ここでもう少し、女性性・男性性という言葉について説明しましょう。
心理やスピリチュアルになじみのある方なら、よく聞く言葉かもしれませんね。
東洋の考え方では、宇宙は大きく2つの力が働いて成り立っているとされています。それが、女性性・男性性。中国的な言い方だと「陰・陽」というやつ。
それは必ずしも、生物的な分類上の女性・男性ということとは関わりなく、ものごとの性質を言っているだけです。
女性性の特徴は、受容、慈悲、包容、流れ、静けさ、感性、内向、受動、右脳的、やさしさ、やわらかさ、しなやかさ、おだやかさ・・・など。
男性性の特徴は、意思、力、秩序、構造、強さ、動き、理性、外向、積極、左脳的、たくましさ、堅牢さ、貫く、昇る、創造、具現、・・・など。
だいたいわかりますよね?そのかんじ。
これはどちらが良い悪いではなく、それぞれがそういう性質ということですし、どちらも本来あわせ持ってこの世界を構成する性質です。
もちろん人間の中にも、男女問わず一人の人の中に、女性性と男性性がさまざまなバランスで存在するものです。そして、この性質は不健全に偏りすぎると不調和を起こします。
たとえば、男性性が不健全に傾くと、その性質は暴力、攻撃、支配、破壊・・・などにつながっていきます。反対に、女性性が不健全に傾くと、その性質は無力、癒着、服従、依存・・・などにつながっていきます。ですから、いちばん理想的なのは、女性性・男性性が健全な形で共にある状態。それが最高のバランスということです。
これからの時代はまさに、この女性性と男性性の統合がテーマとなってきます。
これまでの時代は、過剰に男性性に偏った社会だと言われています。
壊、パワーゲームの競争社会等、あちこちで現れています。
それだと「いのち」への慈しみというものが、どんどん切り落とされていきます。
その痛みと歪みに気づき始めた人たちが、少しずつ増えてきています。
その先駆けとして、まずは「感性や心を取り戻そう」とか「ありのままの自分を受容しよう、愛そう」「がんばらなくていいよ」みたいなメッセージが、ここ数年言われるようになってきているのです。
まさにこれは女性性の取り戻し。
それはもちろん「女性性100%になろう」という意味ではなくて、「女性性と男性性を統合しよう」という流れのプロセスだと私は思っています。
その流れがここ数年強くなってきていて、ここからどんどん統合へと向かっていこうとしています。女性性は受容と、どこまでも広がりゆく力。花開く蓮のように。
男性性は意思と、高みへ向かいゆく力。輝くダイヤモンドのように。
限りない受容に支えられたピュアな意思を貫徹した末の創造とは?そういう存在。そういう具現。そういう世界。そういう宇宙。それがどんな状態でどんな姿をしているのか今のところ私の実感ではわかりませんが、おそらくそれが大日如来、つまり宇宙根源の姿なのかもしれません。
そしてたぶんだけど空海さんはそんな女性性と男性性をすばらしく統合しためっちゃ素敵な人だったんだと思います。
奥の院の御廟に行くとなんか、そういう気配を感じるような気がするので私は勝手にそう思っています。うーん、素敵な人よね〜。はい、オチが非常に世俗的になりました(笑)
まあ、曼荼羅に関してはあくまでも素人の推測なんで。ちょっと言ってみたかっただけです。
ちゃんとしたことは、専門家に学んでくださいねー。