木ノ主ノ神」「平家落人ノ神」「山ノ神」
https://p4ts30mssdk2.blog.fc2.com/blog-entry-228.html 【平家落人ノ神ら】より
□三井楽町 0
令和2年10月27日、三井楽をドライブ中面白いものを発見。6年前まで三井楽に3年勤めていたが、今の今まで知りませんでした。
三井楽中学校体育館手前です。
この石祠です。「第59番札所 濱ノ畔里行者堂」と書かれた看板があるが、これは、この坂を400mほど登ったところにある「行者大菩薩」の案内板です。石祠は五島のあらゆるところにありますが、これにはなんと!
石祠には「木ノ主ノ神」「平家落人ノ神」「山ノ神」とあり、きちんと祀られている。五島には平家の落人話があちこちにあり、石祠があるものは大概平家の高官のものとされているんで、多分ここのも平家の高官のものだろう。ここには、どんな物語があるのだろうか?五島歴史資料館や五島市立図書館の郷土コーナーでも今のところ、資料は見つけきれていない。
巨木の切り株が石祠の横にある。先月の歴史的巨大台風で折れたんだろうか?そしてこれが「木ノ主ノ神」なのであろうか。
確かにGoogleのストリートビューでは、立派な巨木が元気に生えています。#三井楽 #石祠 #平家塚 #濱ノ畔 #落人 #高官
file:///C:/Users/minam/Downloads/KJ00004179155.pdf 【山の神信仰の系譜(永松 敦)】
https://blog.goo.ne.jp/kuusounomori/e/6f2826c41cd5985ecef33dc5cb03e3a3 【森の奥から訪れる神/―椎葉・嶽之枝尾神楽の「宿借」― [九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-2>]】より
九州脊梁山地の中央部に位置する椎葉村は、一村が四国の香川県とほぼ同じ面積を持つという広大な面積を有し、村の面積の95%以上が山林である。標高1000メートルから1700メートル級の山々に囲まれた山岳の国といえよう。山脈は耳川、一ツ瀬川、小丸川等の源流域にまたがり、これらの大河川から分かれた幾筋もの支流は、清冽な水と空気を里に向かって送り出している。川沿いや、山の中腹域の緩斜面に点々と集落が存在している。古式の焼畑を伝える集落もある。トンネルが貫通し、国道が整備されて外界と結ばれる一昔前までは「日本の秘境」といわれた。
この重厚な森の国・椎葉に、26座の神楽が伝わっている。平家の落人が伝えたという伝承もある。私は30年ほど前に、初めてこの村の神楽を訪れ、日本列島の古層というべき山と森の文化を伝えるこの村に魅了され、通い続けているのだが、ある年、椎葉村の最奥部、向山の神楽を見た後、帰路を間違え、林道へと迷い込んだことがある。源氏の追討軍が、この奥に平家の残党は居らずと判断し、軍を納めて引き返したという地名をもつ尾手納(おてのう)という村のさらに奥地であった。その頃乗り回していたのはトヨタRAV4という小ぶりだが軽快かつ機動力に富む四輪駆動車で、山道に出ていた猪を追い散らし、鹿とぶつかりそうになったり、落石や倒木を乗り越えたりしながら進んだのであった。
難路が峠にさしかかった頃、山土と道は赤土に変わり、深いブナの森が広がっていた。そこが分水嶺であった。視界の右方彼方に噴煙を上げる阿蘇山が認められ、正面に有明海と不知火の海が光っていた。私は車を停めて、ブナの森を歩き、膝を隠すほどに厚く積もった落ち葉を集めて、その中に寝転んでひとときを過ごした。春になれば、樹下にクロモジの花が香り、林間にコブシの白い花が咲き、山桜が芽吹き始めたブナの森をいろどることだろう。真冬の夜には、嶺を越えて神楽笛の音と太鼓の響きが聞こえてくるだろう。
椎葉に心底惚れ込んだ私はその頃、
――椎葉で死にたい。
と寝言のように唱え続けていたのだったが、
――もしも死ぬ時が来たら、この森へ来よう。
とさえ思ったのだった。そのことを書いたのは、初めて神楽と仮面について紀行文風に綴った「火の神・山の神」(海鳥社/1995)だったが、それを読んだ椎葉の人たちは、
――高見さん、あなたのお仕事がすべて終わったら、どうぞ椎葉に“帰って”きてください。
とやさしく言ってくれたのである。それから30年以上の年月を重ねたが、私は生きて活動を続けており、「神楽と仮面」に関する考察、「現代アート」と「地域再生のプロジェクト」を結ぶ事業等はようやく緒についたばかりである。すなわち私の心象は、いまだ神の座に近づくほどには練れてはいないのである。
椎葉神楽に山から下って来る「山人」の儀礼がある。
椎葉・嶽之枝尾神楽の「宿借」では、森の奥から神楽の場へと下って来た「山人」が宿主に一夜の宿を乞う。
「宿借り神事」である。
神楽宿を訪れた山人は、一夜の宿を乞うのだが、「宿主」は、蓑笠に身を包み、杖を付いて現れた山人のみすぼらしい姿をあげつらい、そのようなみずぼらしいなりをした異形なるものに宿は借すことは出来ぬ、と最初は断る。そこから山人と、宿主との問答が始まる。その問答の過程で、山人とは、じつは諸国を廻ってきた山の神であり、この村に幸と五穀豊穣、狩りの豊猟などを授けに来たものであることが明らかになり、村人が徳利と盃を持って出て仲裁し、
――どうぞお入り下され
と招き入れることになるのである。こうして、一夜の神楽がはじまるのである。ここにも山の神信仰の古形がある。
椎葉神楽を訪れる「山人」は、森の神・山の神である。前回記述の諸塚村・戸下神楽の「山守」と同一の文脈にある儀礼である。椎葉と諸塚は山脈を接しており、このような根本思想は、山の民に受け継がれ、近年まで流続けていたのではないか。
これまでの記述と重複するが、おさらいを兼ねて概観しておこう。
山の神である「山人」が祭りの場を訪れる事例は、椎葉・嶽之枝尾神楽「宿借」、諸塚・戸下神楽の「山守」*以上既述、山ノ神と神主が長い問答を行い神主が山の神に一夜の宿を乞う高原・祓川神楽の「門境」、猿田彦の神面に先導された山人が村を巡る大分県国東半島の「山人回り」、神社と神の柿の木との間を山人が疾風のごとく走る福岡県求菩提山麓の「山人走り」など、九州各地に分布がみられる。
椎葉神楽には、弓の舞、矢の舞、「弓通し」などの儀礼があり、「しょうごん殿」へと続く。しょうごん殿とは、この地の地主神であり、山の神である。しょうごん殿の役は太夫が勤める。太鼓の上に徳利を乗せたしょうごん殿と村人の軽妙な問答が続き、最後はしょうごん殿から「お宝」である徳利が村人に渡され、神楽が再開される。村人は徳利を捧げ持ち、喜びの舞を舞う。
米良山系に分布する「柴荒神」も趣旨を同じくする山の神儀礼である。弓矢の舞、若者たちが榊束を担いで威勢よく神楽宿に舞いこむ「柴入れ」などの儀礼に続いて、神楽の場に怒り出てきた柴荒神と神主の問答がある。問答により、柴荒神は怒りを鎮め、村人の仲介によって和解が成立する。「柴荒神」は山の神儀礼と荒神信仰の混交した神楽である。
椎葉・諸塚の山脈に接して高千穂盆地がある。険しい山岳に囲まれた盆地に20座の高千穂神楽が伝わり、「山森」という演目が分布する。高千穂神楽の山森は、青竜王・白竜王・赤竜王・黒竜王・黄竜王の五神と山神が舞う。山神はオオヤマヅミノミコトである。大幣・鈴・弓・劔・榊を採り物に舞い、所によっては猟銃を担いで舞う神楽もある。その年に獲れた猪が祭壇に供えられたこともある。この間、村の猟師は御神屋正面に正座し、神楽を拝観する。「山森神楽に使われた猟銃は中(あた)る」という。狩猟儀礼と山の神信仰が習合した神楽である。
森の奥にいます「山人=山の神」は幻想の彼方にいる妖怪じみた神ではなく、山と森の象徴たる精霊神であり、長寿を全うした村長や家の主などが変異し、昇華した身近な祖先神なのである。私はこれらの演目を見るたびに、深山のあのブナの森を思い出し、そんな風に考えるのである。