慰霊巡拝
慰霊巡拝① 旅の始まり
私が慰霊巡拝の仕事に携わるようになったのは、偶然ではありません。
【家族】の話でも触れましたが、国で両親と暮らしていたとき、よく日本各地の慰霊巡拝団の方々を自宅にお招きしていました。彼らと親しくなると、自然と彼らが住んでいる日本という国に興味を持つようになりました。その中でも特に宮城県の慰霊巡拝団の方々とお会いしたとき、深く感激したのを覚えています。彼らの誠実さ、優しさ、責任感の強さを知り、「この方たちは信頼できる」と感じました。
ある日、彼らが我が家にやってきて、
「元日本兵が住んでいる山奥のブラック地区にどうしても行きたいんです。どうか力を貸してくれませんか」
と父に頭を下げました。
彼ら慰霊巡拝団がビルマ(ミャンマー)に来た目的の一つに、戦後現地から日本に帰れなくなった元日本兵を探し出す、ということがありました。
けれど、新聞記者であった父は、「それはできません」と断りました。というのも、ブラック地区は危険な場所で、その2、3日前にもその地区を訪れたフランス人が誘拐されるという事件があったからです。
しかし、若かった私は「せっかく日本から来たのに……」と思い、父に内緒で車と通訳を手配し、明日帰国するのだから夕方までにはホテルに戻るように約束を交わし、彼らをブラック地区に行かせてしまいました。
ところが、その夜、私と父が帰りの挨拶をしにホテルへ行くと、ブラック地区へ出かけた彼らはまだ帰って来ていませんでした。私たちはおろおろしながら遅い時間まで待っていました。けれど、いくら待っても帰って来ないので、仕方なく家路につきました。
翌朝、「夜中に彼らが帰ってきました」と連絡がありました。結局探していた日本兵は見つからなかったとがっかりしていたそうですが、無事に帰ってきてよかったと父と私はほっと胸をなでおろしました。そして、予定通り5時に巡拝団を乗せたバスは空港へ向けて出発しました。
昨晩はほとんど眠れず、ソファーでうたた寝をしていると、チャイムが鳴りました。悪い予感がして、恐る恐るドアを開けると、そこに昨日彼らをブラック地区まで案内したガイドが立っていました。さらにその後ろには見知らぬ男性の姿が……
「昨日、ブラック地区で探していた日本人が見つけましたので連れてきました」
「えっ!?」と驚く私たちを尻目に、
「じゃ、後はお願いします」とガイドは一人でそそくさと帰って行きました。
山奥から連れて来られた日本人を前に、私と父は呆然としました。しかし、人の良い父は、彼を山奥へ追い返すことはできませんでした。日本大使に相談して、いずれ日本に帰国させる約束を取り付け、当面は父が彼の生活の面倒を見てあげることにしました。
私が日本へ来たのは、そのすぐ後でした。私が首を突っ込んだばかりに父に迷惑をかけ、しかも、何も手伝うことができずに家を離れることになったのです。申し訳ない気持ちを抱えたまま、予定通り、一人日本へ旅立ちました。1984年の夏のことでした。
日本に来て宮城県に到着すると、ひとまず鹿島台の三古寺に一週間滞在することになりました。三古寺の住職である岸さんは、かつて歩兵第四連隊でガダルガナル、ラバウル、インパール、コヒマなど戦地を駆け巡った少年兵でした。ビルマ(ミャンマー)は仏教国ということもあって、和尚さんに対して信頼が厚いので、私は何の違和感も持たずに岸さん宅にお盆中お世話になりました。
後になって聞いた話ですが、当時の私の様子を見ていた岸さんと奥様は、「彼女はもっとにぎやかなところに住ませないと、国へ帰りたがるだろうなあ」と話していたそうです。
お盆が終わり、いよいよ旅行会社で働くため、仙台市内に引っ越しました。八軒小路の【千寿和裁】という和裁学校と会社を経営する千坂家にお世話になることになりました。千坂家のお父さんは、三古寺の岸さんと戦友で、親戚のように親しいお付き合いをされていました。それもあって、岸さんに私のことを頼まれると、千坂家は快く引き受けてくれたそうです。
ここで、なぜ私が仙台の旅行会社に勤めることになったか説明すると、実は宮城県の慰霊巡拝団第二師団をミャンマーに案内していたのが、その仙台の旅行会社だったのです。その縁で慰霊巡拝団が我が家を訪問するうちに、私は旅行会社の方とも仲良くなり、まんまと研修生として雇ってもらう約束を取り付けたというわけです。
このようにして、慰霊巡拝の因縁の渦に飲み込まれるべくして飲み込まれた私は、入社して一年後には、宮城県ビルマ慰霊巡拝団ツアーの担当となったのでした。
慰霊巡拝② ソロモン諸島その1
私が企画・営業・添乗の仕事を選んだのは、あるお客様に
「ビルマから来たあなたが事務所の中でお客様の接客やお茶汲みをするだけではもったいない」とアドバイスされたからです。
私は、その忠告を重く受け止め、慣れない環境で我慢して働くより、(当時ほとんどの女性が好まない)営業と添乗の仕事をやったほうが自分の力が発揮できるのではと思いました。そして、実際にやってみると、この仕事こそやり甲斐を感じる、夢中になれる仕事だということに気づきました。
それで、宮城県のビルマ慰霊巡拝の仕事を始めたのですが、すぐにそれだけでは飽き足らず、他の地域のビルマ慰霊巡拝団のお仕事をいただくために、日本全国を飛び回るようになりました。
現地の旅行会社との手配も全部自分一人で行っていたため、まさに365日働いているような状況が続きました。けれど、この仕事は自分にしかできないという自負もあり、心は常に満たされていました。
結果的にこのビルマ慰霊巡拝の仕事を何十年と続けてきたわけですが、この仕事は単にお客様を現地に案内すればいいというものではありませんでした。ここからは、数多くの慰霊巡拝の仕事をした中でも、特に記憶に残るエピソードをいくつか紹介したいと思います。
日本に来て2回目の海外ツアーは、ガダルカナル島への慰霊巡拝団のコーディネートでした。慰霊巡拝団の参加者は年々少なくなっていきましたが、当時は80名規模の団体で、かなりの人数でした。
打ち合わせのとき、歩兵第四連隊の会長さんがみんなに向かってこのように言ったのを覚えています。
「この慰霊巡拝ツアーを通して、おらいたちの娘を育てよう!」
まずは企画を立てて、お客様を募集します。書類作成や現地滞在の手配やお客様の思い出の場所などを確認しつつ、出発に向かって仕事を進めました。当時、ガダルカナル島のあるソロモン諸島へ行くルートは、成田発グアム経由ナウル経由ホニアラ(ソロモン諸島)でした。
おおぜいのお客様と大量の荷物を飛行機に乗せる前に一仕事あります。慰霊団はお供え用の品々と現地の人々へのお土産などを持っていくので、荷物はいつも重量オーバーになります。そうすると、航空会社に慰霊巡拝の目的なので、なんとか大目に見てくれるよう交渉しなければならないのです。
まずはグアムに到着したのですが、接続便がないので、一度降りて荷物も降ろし、入国して一泊しました。次の日、またお客様と荷物を空港へ運んで、ナウル共和国に向かいました。ナウルでもまた入国してホテルで一泊する予定だったのですが、入国手続きが非常に遅く、40度以上の暑さに耐えながら一時間以上待つことになりました。それで、やっと入国できて、ホテルに到着すると、今度はフロントで「部屋がない」と言われました。出発前に予約したはずの部屋が、行ってから「ない」と言われたら、お客様は当然怒ります。
事情を聞くと、その前に宿泊したお客様が乗るはずだった飛行機が飛ばなかったため、そのまま宿泊を延長することになり、部屋が空いていないというのです。しかも、当時のソロモン諸島には、ほかにホテルはなく、ホテルと言えば、その国営ホテルしかありませんでした。
しかし、部屋が空いていないというのは嘘かもしれないと疑った私は、お客様の中で協力的な男性にあるお願いをしました。私がホテルのフロントの女性たちと話をしている間に、フロントの裏側に入り込み、部屋のスペアキーをこっそり取って来てもらったのです。そうして、その部屋を開けてみると、たしかにだれかの荷物があって空いていないことがわかりました。それで仕方なく、何人かのお客様と私は部屋がないので、ロビーの広いところで夜遅くまでおしゃべりをして一夜を明かしました。
そのとき、喉が渇いたけど飲み物がなくて困りました。そこで、フロントの女性たちにちょっと大げさに
「この島は本当に素晴らしいですね。飛行機が着陸した時、島の美しさと女性たちの美しさがぴったりとマッチしていることに感激しました!」
と言うと、彼女たちは喜んで、大量のジュースを持ってきてくれたのでした。
翌朝、空港で出発直前になって荷物が届きました。通常、出国カードは日本を出発する前に用意しますが、ナウルやソロモン諸島などの出入国カードは日本では手に入りません。出発時間が迫っていたため、代表者として一人分の出入国カードを書き、そのままソロモン諸島のホニアラへ出発しました。
ソロモン諸島は、空から見ても非常に美しい島でした。しかし、そこは第二次世界大戦のとき、日本軍とアメリカ軍が激戦を繰り広げ、多くの日本兵が命を落とした場所でもあります。
空港に到着すると、南国特有のゆっくりとしたペースの入国手続きで、もてなされました。それが済むと、私はどきどきしながら税関に向かいました。島内では、伝染病を防ぐため、生ものやお米、木材などの持ち込みは禁止されていました。しかし、慰霊祭を行うために、お供え物として生ものや食品、そしてお米も持ち込んでいたのです。さらに、和尚様からいただいた塔婆など外国の人から見れば何かわからない奇妙なものまで持ってきていました。それらを空港の検査官に説明しなければならないのです。このとき特に大変だったのが、漬物でした。あるお客様のトランクに入っていた漬物を摘まみ上げると、検査官は匂いを嗅いで、「これは何だ!?」と顔色を変えました。没収されては困るので、私は必死に
「これは、このお客様にとって薬のようなものです。もしこれを食べなければ、ここでの滞在中に体調が悪化してしまうかもしれません」と言いました。
その説明を彼らはしぶしぶ受け入れてくれ、何とか税関を通ることができました。
空港には国営の旅行会社の責任者が迎えに来てくれていました。一同バスに乗って、島唯一の国営メンダナホテルに向かいました。
到着してお客様を部屋に案内すると、すぐにこれからの予定を確認しました。
「滞在中、メンダナホテルに宿泊するが、第二師団の慰霊碑の落成式を行う三日目だけはタンビアビーチホテルに泊まる予定。タンビアビーチホテルは、ここからバスで移動して約1時間30分離れた場所にある。バンガロー式でゆっくりできる。メンダナホテルの宿泊や食事などは手配済み。バスの手配は国営旅行会社に任せ、確認済み」
よし、準備は万全、と思いましたが、そこは日本と違います。海外でそんなに簡単に事が運ぶわけがありません。
タンビアビーチでは、ホテルの敷地内にある慰霊碑に日本から持ってきた「第二師団」と刻まれたブロンズのプレートをはめこみ、落成式を執り行う予定でした。
その式の前にお供えのおにぎりを用意するので、ご飯をその日の午前中まで炊いてほしいと日本を出発する前からホテルに頼んでいました。ところが、当日厨房に行くと、何もできていません。その上、その日のお昼メニューは刺身になっていましたが、台所に入って「お刺身は?」と聞くと、スタッフはただ笑っているだけでした。
目の前が真っ白になりました。けれど、みんなが慰霊祭の準備をしている間に、なんとかしなければなりません。大急ぎで米を研いで、ご飯を炊き、おかずになるようなものを探していたら、茄子とダチョウの卵を見つけました。それを炒めて一品仕上げると、ちょうどご飯が炊き上がりました。冷ましている時間はありません。熱々のまま、素手でおにぎりを握り、一時間ちょっとで70人分のおにぎりを用意しました。
なんとか祭壇にお供えする時間に間に合い、ほっとしました。けれど、やけどで手は真っ赤。その後も、こんなことがしょっちゅうありました。
夜になると、タンビアビーチホテルのオーナーのオーストラリア人のご夫妻と酋長さんたちが豚の丸焼きなどでお客様をもてなしてくれました。その後、この酋長さんをお客様が日本へ連れて来て日本を案内したこともありました。慰霊巡拝の目的で行きましたが、日本大使館や日本人会の皆様には毎度、夕食会に招待したり、大使館からの招待を受けたりして、長きにわたってよい関係を築いてきました。
慰霊巡拝団がタンビアで一泊して慰霊祭を行いたいというのには、戦友の方々の深い悲しみと自分たちだけが生き残って申し訳ないという想いがあります。当時、タンビアの海岸から船でラバウルに向かおうとしたとき、船が重量オーバーで動かなかったそうです。そのとき、少年兵の人たちが船を動かすために浜に降りて船を押し、そして、そのまま船には戻らなかったというのです。団長さんは「あのときは申し訳ないことをした……」と、ずっと心の中に引っかかるものがあって、ゆっくり時間をかけてタンビアで過ごしたいと思っていたようです。
夜、みんなの体調を確認するために懐中電灯を手にバンガローを回っていたら、「まるでナイチンゲールようだね」と言われました。その方も、きっと南十字星を見上げながら、戦時中のことを思い出していたのだと思います。
ソロモン諸島滞在中、6名の団員を連れ、ラバウルへも二泊の予定で行きました。非常に治安が悪いと言われているパプアニューギニアですが、現地の航空会社、宿泊ホテル、大使館の方々の親身な協力のおかげで、無事予定通り過ごすことができました。
こうして初めての慰霊巡拝ツアーを終え、その後も多くの経験を重ね、おらいたちの娘はナイチンゲールのような立派な人物に成長しました。これも皆様に育ててもらったおかげです。
慰霊巡拝③ ソロモン諸島その2
ソロモン諸島も長年訪れている間に様々な変化がありました。20数年前には民族紛争があり、そのときは普段よりもさらに治安が悪くなりました。
第二師団の慰霊碑があるタンビア海岸まで以前はバスで行けたのが、途中の橋が壊されてしまい、船をチャーターして行ったこともありました。団員の数が多かったときなどは、船で途中まで行って、そこから小さなゴムボートに乗り換えて移動したこともありました。ホテルにお皿もお箸もコップもないような状態のときも、こちらで細かい品々まですべて用意して、現地に行ったこともありました。空港職員のストライキや飛行機の故障で飛行機が飛ばなかったことも何度かありました。そのような中でも、私たちはなんとか慰霊祭を継続してきました。
そして民族紛争の後、ソロモン諸島のために何かできないかと考え、有志と日本政府に働きかけ、青少年センターを設立しました。その開校式にお客様と一緒に出席したのも思い出深い出来事の一つです。
それから、ソロモン諸島にまつわる、わりと最近の出来事でいえば、こんなことがありました。
毎年8月15日にソロモン諸島やビルマで戦死した方々のために全国で慰霊祭が行われます。仙台では護国神社で行われ、私もコロナ禍の前までは毎年参拝していました。
2015年、慰霊祭の後、親しくしていた大使から電話がありました。
「日本政府の方針でソロモン諸島に残されているお遺骨を船4艘でお迎えに行きます。つきましては、現地で行われる儀式に出席していただけませんでしょうか」
早速、福島の遺族の方々と連絡を取り、チケットをおさえました。しかし、出発日まで一か月もなかったので、[成田発、香港経由、ケアンズ経由、ブリスベン経由、ホニアラ行き]という恐ろしいほど長いフライトチケットになりました。
しかも、当日は台風で成田からの出発が遅れたため、その後の経由地である香港、ケアンズ、ブリスベン、すべての到着が遅れてしまいました。
ブリスベンを出発するとき、ソロモン航空の機内では他のお客様たちが私たちのことを1時間30分も待ってくれていました。信じられない気持ちでいましたが、後で聞いた話では、私たちを待つようにメンダナホテルの支配人から頼まれたということでした。結局、荷物は間に合いませんでしたが、そのおかげで無事にソロモン諸島に辿り着くことができました。
ホテルに到着し、支配人にお礼を言い、荷物は間に合わなかったことを伝えると、すぐに全員分のTシャツをそろえてくれました。荷物がなくて不便ではありましたが、私たちはそのおそろいの黄色いTシャツを着て、慰霊祭に臨み、結果的に良い思い出をつくることができました。それから、もう一人の女性のお客様と私の手荷物に入っていた洋服を交互に着回したのも今となっては良い思い出です。
日本にお帰りになるお遺骨には船の特別室で我々が先に手を合わせることができました。出港する前夜には、船の上で立派な船上パーティーも開かれ、お客様にとっても私にとっても忘れがたい時間を過ごしました。
まさか政府がこのような公的な役割を旅行会社の一社員に与えてくださるとは思いませんでしたし、かけがえのない貴重な体験ができました。
この文章を読まれている皆様、ここに書いたように戦争で命を捧げた日本人を弔うために現地まで足を運ぶ人々がいること、そして、そのお墓や慰霊碑は現地の大使館をはじめ、ホテルのスタッフや現地在住の日本人などおおぜいの方の手によって守られていることを、どうか、心の片隅にでも留めておいてくだされば幸いです。
慰霊巡拝④ アキアップ
ある慰霊団のご遺族の方をアキアップという場所に案内したときのことです。そこに行きたいと頼まれてから実現するまでに10年もかかりました。
団員全員で大きな都市に行き、公の場所で慰霊巡拝を行うのが一般的なやり方です。しかし、中にはご遺族の方がどうしても本人が戦死した場所まで行きたいと要望されることがあります。ところが、そこがなかなか許可が取れない場所だったり、治安が悪いところだったり、交通の便が悪いところだったりすると、非常に神経を使います。
団長にも「そんなところまでは連れて行くことはできない」と厳しく言われているはずですが、遺族にとっては、まさにそこに行きたいからこそ外国まで行くのであって、他では手配ができないから私に頼んでくるのです。そうなると、私の中のスイッチが入って、なんとかしてそれを達成させなければと思ってしまうのです。
このときもそうでした。
「どうかアキアップに連れて行ってください! 自分たちで全責任を取ります。あなたに何の責任も取らせません。もうみんな高齢で体力的にも限界です。頼みます」
と団長さんから言われて、後に引けなくなりました。
正直に言えば、私も子どもを日本に置いて、アキアップのような危険な場所に行くのは、できれば避けたかったです。しかし、他に任せられる人などいません。私は腹をくくって引き受けることにしました。
アキアップという島は、現地に入る許可を取るのが困難な上、治安も悪く、島内に宿泊できるホテルやレストランもありません。交通の便も悪く、飛行機をチャーターして行かなければいけないような場所でした。
しかも、今回は「戦時中に歩いた道をもう一度通ってみたい」という希望があり、行きは車と船で、帰りのみチャーターした飛行機で戻って来ることになりました。アキアップには以前にも行ったことがありましたが、陸路を通るのも船に乗るのも初めてでした。一体どうなるものかと当日まで心配していました。
ついに、その日が来ました。
ラングンから車に乗り込み、いざアキアップへ。宿泊施設やレストランなどもないので、料理人や蚊帳などを組み立てるお手伝いさんも同行させました。
途中の町で二泊して、港町までやって来ました。目的地のアキアップはこの港から船で6時間かけてようやく辿り着ける場所でした。
出港すると最初は順調でしたが、海の深い方に向かっていくうちに、進路があちこち変わり、おかしいなと思いました。それで心配になって船長に声をかけると、実はその船長はまだ新米だということがわかり、愕然としました。方角を見失い、私たちを乗せた船は遭難してしまったのです。
夜中になっても、島は見つからず、海と空の境界線もわからないような真っ暗な状態で、私たちは途方に暮れました。そのとき、ふと暗闇の中から何かが近づいてくる音が聞こえました。国境の警備船でした。助けに来てくれたと思い、みんなで手を振りました。しかし、現実は非情なものです。私たちの船は国境を無許可で入って来たと思われ、拳銃を向けられたのです。誤解を解こうにも、その警備員も船長も少数民族で言葉が通じません。仕方なく、船はもと来た方向に舵を切るしかありませんでした。
船は再び暗闇に包まれました。全責任は自分たちで取ると言ったにもかかわらず、このような状況におかれると、みんな不平不満を口にします。そして、その矛先は添乗員である私と船長に向けられます。
私は思わず立ち上がって、みんなに向かって叫びました。
「目の前に死が見える恐怖は、私も同じです。ただ、ここで私や船長に不満をぶつけても何も解決しません。みなさんを助けられるのは、私たち2人だけなのですから。無事到着することは約束します。今は、私たちがきちんと仕事ができるように静かに祈ってください」
私は船長のそばに行き、
「神様、仏様。私を無事に家に帰らせてください。子どもが待っています。世の中のためになる仕事をこれからもします。私を生かしてくれるのであれば、どうか船着場まで運んでください」
と心を込めてお祈りしました。
すると、その直後、遠くに針のように小さな灯りが見えたのです。すぐに船長にその灯りに向かって船を進めるように指示しました。
高い波を乗り越え、前へ前へ進んで行くと、次第に灯りが大きくなって、一つではなく、たくさんの灯りが見えてきました。そこが目指していたアキアップだったのです。
船着場に船をつけ、陸に降り立つと、みな安堵の表情を浮かべました。荷物を降ろしていると、島の警備員が険しい顔をして近寄ってきました。国境の町だったので外国人が島に入ることを嫌がったのです。しかし、さっきまで生死をかけた船旅をしていた私たちからすれば、そんな揉め事はささいなことにすぎませんでした。
警備員がぶつぶつ言いながら船着場から去っていくと、私たちは宿泊する場所へ向かいました。壁もない屋根だけがあるような古い木の建物に到着すると、待ってましたとばかりに料理人は調理を始め、お手伝いさんたちはせっせと蚊帳を張り、お客様たちは各々荷物を広げてくつろぎました。腹を満たした私たちはようやく床に就くことができました。蚊帳の向こうには満天の星が輝いていました。
次の日、無事に慰霊祭を終えることができました。しかし、団長さんと料理人はお腹をこわして、病院に運ばれ、そのまま入院となりました。
翌朝、飛行機の音が響き、みなはっと空を見上げました。ラングンからチャーターした飛行機が迎えに来たのです。あちこちから、やっと帰れると歓声が上がりました。
みんなの荷物とパスポートを確認し、トラックの荷台に乗り込むと、すぐに出発しました。途中、病院に寄って団長と料理人を拾い、空港へと急ぎました。
飛行機に全員乗り込み、人数を確認して、ドアを閉めたとき、やっと緊張感から解放され、大きく息を吐きました。それは、それまでの人生で最大の困難を乗り越えた瞬間でした。
ラングンに無事着陸すると、全責任は自分たちが取ると言っていた団長さんがそばまで来て、少し恥ずかしそうに、
「あなたがいなければ、命はなかった。本当に助かりました。ありがとう。心身ともに疲れただろうから、実家に帰ってのんびり休んできてください」
と言いました。
その言葉だけで十分でした。私はお礼を言うと、また次の仕事に向かって駆け出しました。
慰霊巡拝⑤ インパール・コヒマ
慰霊巡拝ツアーで何年かビルマやガダルカナル島への案内を続けていると、気仙沼のお客様から
「元気なうちに、戦時中の思い出がつまったインパールとコヒマに行ってみたい」と頼まれました。
最初は「コヒマ」という地名を聞いても、どこにあるのかわかりませんでした。そして調べてみて、ようやくコヒマはインドの特別地区で、インパールからバスで6時間の距離にあるということがわかりました。しかし、特別地区には外国人が自由に入ることができないだけでなく、インド人でも州政府からの特別許可がないと入れないという情報で、ある旅行会社のツアーでは、州政府からの許可が下りず、カルカッタまで行ったけど何もせずに日本へ戻ってきたという話も耳にしました。
やはりこの話は断ろうかと思いました。けれど、当時の私はチャレンジ精神とやる気に満ちあふれていました。どんな場所であってもお客様が望むなら案内してあげたい。
「やります!」と返事をすると、早速仕事に取りかかりました。
まず、インド大使館とインド政府観光局に連絡したところ、ごちゃごちゃよくわからない返答をしてきました。要するに「行ってほしくない」ということだったのでしょう。しかし、そうなると、かえってやる気に火がつくのが私の性分なのです。どんどん準備を進め、そのツアーに行きたいというお客様を集め、手続きを開始しました。
インド大使館への入国ビザの申請の手続きのほかに、特別地区に入るために州政府に直接申請手続きをしました。ところが、インドへの入国ビザはすんなり下りたのに、特別地区に入る許可は出発前日まで待っても下りませんでした。
当日、はたして現地で許可がもらえるのか不安なまま、成田へ向かいました。上野駅で新幹線からスカイライナーに乗り換えるとき、なんとホームに東京本社の人が特別許可の書類を手に走ってきたのです。それを受け取ったとき、「よかったぁー。私はなんて強運なんだ」と思いました。
成田からデリーへ。翌日にはデリーからカルカッタへ飛んで、特別許可の確認を受け、ゴッハテ経由でデマプール空港に到着しました。
その飛行機の中で、ビルマ人のような肌のきれいな若い女性と仲良くなりました。飛行機が着陸するまでおしゃべりは続き、もう少しいっしょにいたいと思ったので、彼女に私たちの滞在するホテルと日程を知らせました。すると、彼女は同じ飛行機に乗っていた両親と話をして、
「明日の夜、皆さんを我が家に招待します。夕方6時に迎えに行きますね」
と言って、にこっと微笑んで去っていきました。
次の日、ホテルからインパールの慰霊巡拝に出かけました。午後、慰霊祭の最中に、サングラスをかけた若い男性がバイクでやってきて、インド人のガイドとなにやら話し始めました。私は、どうせ地元の人同士の他愛もない会話だろうとあまり気にとめませんでした。
ところが、慰霊祭が終わると、そのガイドが近づいてきて、さっきの男性を話してほしいと言うのです。「知らない人だから……」と警戒するように言うと、ガイドさんは笑いながら
「大丈夫ですよ。彼は現地にいるNHKの人です。何かあなたがたに聞きたいことがあるそうだから、直接話してください」と言われました。
そのNHKの人は流暢な日本語で
「失礼ですが、今晩、州議会議員のお宅に招待されていますね?」と尋ねてきました。
あの飛行機で出会った彼女の父親は地元の政治家だったのです。
「実は、議員から伝言を頼まれまして。先ほど放送局から緊急のアナウンスがありました。今晩、夕方5時以降は外出禁止になるそうです。それでも、来られますか。来られるなら、こちらで警備を用意する必要があるので、できるだけ早く決めてほしいということでした」
私はお客様たちに「外出禁止の時間帯に行って、もし撃たれでもしたら困るので、やっぱり止しましょう」と言いました。けれども、お客様たちは
「私たちは戦争中に何度も鉄砲を抱えて、命の危険を感じながら戦場にいたんだ。外出禁止だからと言っても、撃たれるかどうかはわからないだろ? せっかく招待されたんだから行こう」と言うのです。
仕方なく、そのことをNHKの方に伝えると、黙ってうなずいて、バイクで走り去っていきました。
私たちは一度ホテルに戻り、シャワーを浴びたりして、迎えが来るのを待ちました。
やって来たバスには、前後に警備の車がついていました。その状態で我々は議員の自宅へ向けて出発しました。
すると、途中で、バンという大きな音が聞こえ、窓ガラスが割れました。
銃声! 私はバスが急ブレーキをかけて止まるだろうと思い、前の座席にしがみつきました。しかし、バスは止まるどころか加速して、そのまま猛スピードで走り続けました。
議員のお宅に到着し、急いでお客様が怪我をしていないか確認しました。みな無事だったようですが、一人のお客様が「一瞬太ももが熱くなった感覚があった」と言いました。よく見ると、その方のズボンの折り目に弾が通った穴が開いていました。まさに間一髪というところだったのです。きっと何かが遠い異国から来た私たちを守ってくださったのだと感じました。
しばらくすると、家の前に議員が出てきました。警備の方が途中で起きた出来事について報告し終えると、私は議員に、なぜ撃たれたときバスを止めなかったのかと聞きました。すると彼は、
「そこで止まらなかったのは、正しい判断です。止まっていたら、きっと茂みからおおぜいのゲリラが出てきて、本格的な戦闘になっていたでしょう。被害を最小限で抑えるには、止まらずに走り抜けるしかないのです」と説明されました。
なるほど、と納得しましたが、すぐに帰りはどうしようと不安になりました。人数が多いので泊めてもらうわけにもいかないし……などと心配していると、議員に
「大丈夫です。帰りは倍の警備をつけるので、心配しないでください」
と言われ、複雑な気持ちになりました。
翌日、インパールからバスで6時間かけて、ついに気仙沼のお客様が一番行きたいと言っていたコヒマに到着しました。
コヒマという町は、スイスのような綺麗な町でした。そこで出会った方々も自宅に招待してくれました。すてきな女性たちと仲良くなって、夕方にはホテルでいっしょに食事をして交流を楽しみました。また、そこで知り合ったガバナーご夫妻は、本当に気さくで良い方でした。その後も交流が続き、お会いするたびに、家族と再会したように、とても温かい心で迎えてくれました。
このように書くと、コヒマは平和な町のように思えるかもしれません。しかし、夕方になると、ホテルのドアは全部閉まり、そのドアの前ではライフルを抱えた兵隊が警備にあたるのです。やはり治安は良くありませんでした。
しかし、何はともあれ、コヒマに行きたいというお客様の願いを叶えることができ、皆無事に日本へ戻ることができました。
このように苦難を乗り越え、慰霊巡拝を実現できたとき、現地で散った英霊たちがうまくいくよう導いてくれたと感じることがよくありました。