「蜻蛉日記」と「和泉式部日記」を読み比べる
https://toyokeizai.net/articles/-/509916 【「浮気された妻」と「略奪した愛人」日記が語ること
「蜻蛉日記」と「和泉式部日記」を読み比べる】より
藤原道綱母が著した『蜻蛉日記』を読み解いていきましょう
本屋に入って、きちんと並んだ本たちの背表紙を眺めていると、不安に襲われることがある。自分が一生のうちに読める本がごくわずかなのだ、と思うからだ。
「読んでいない本のことを思うと、まだ幸福だと確信する」とフランスの文筆家、ジュール・ルナールが言ったそうだが、そう呑気には考えられない。進まなかった道、落ちなかった恋と同じように、読み損ねた本のせいで、運命が変わってしまうこともあるだろう……そう考えただけで焦燥に駆られて、手当たり次第に読み漁ったりするわけだが、そうした慌ただしい読書は、われながらやや病的だとさえ思う。
今年も『蜻蛉日記』の季節がやってきた
ところが、私のような物語ジャンキーでも、繰り返して読み直したくなる作品がいくつかある。その1つは、本連載でも何度かしつこく取り上げさせていただいている、「みっちゃん」こと、藤原道綱母が著した『蜻蛉日記』だ。
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過去の関連記事がすべて2月ごろに発信されていることもあり、ここ数年は1月の半ばに入ってくると、『蜻蛉日記』を再び読みたいという気持ちが無性に湧き上がってきて落ち着かなくなるのだ。またみっちゃんの季節がめぐってきたんだな、と勝手にワクワクしてしまうもの。
肌を突き刺すような寒さだからこそ、1000年以上もの間にふつふつと煮込んだ嫉妬や怒りに触れて、妙に心が温まる。ということで、今年もお約束の「みっちゃん便り」をお届けする。
『蜻蛉日記』は裏切られてもなお、夫を待ち続ける妻の悲鳴と絶望がどっぷり詰まった作品でありながら、女性の手による最古の日記文学でもある。その後、嘆き喚くみっちゃんに背中を押されるかのように、『紫式部日記』『更級日記』『讃岐典侍日記』といった、女たちの心の中に渦巻く感情を捉えた名作が次々と現れたのだ。
今回は、浮気夫に向けた呪い節の『蜻蛉日記』を読み返すと同時に、不倫略奪婚を勝ち取った記録である『和泉式部日記』を引き合いに出してみたい。妻(正確にいうと二番手だが)と愛人、憎しみと愛、失望と期待……2作を交互に味わえば、妄想がよりいっそう膨らみ、楽しさが倍増する。
『蜻蛉日記』は『和泉式部日記』に比べて4倍以上の長さがあり、たった10カ月の出来事にフォーカスした後者と違って、21年もの月日について書かれている長編なので、2作を完全に重ね合わせることは難しい。
しかし、恋愛市場の落ちこぼれであるみっちゃんと、やや不安が残りつつも恋の喜びに浸る和泉ちゃんは、明らかに対照的な立場にいる。恋する者たちの微かな心の機微を描いた点において通い合うものがあれど、2人がたどった運命はそれぞれの著作にはっきりとした爪痕を残している。
孤独な「私」が主役!『蜻蛉日記』
まず、恋愛の敗者と勝者の違いが最も顕著に現れているのは、各々の語りの主体だ。三人称の「女」でスタートを切る『蜻蛉日記』だが、すぐに「(かわいそうな)私」に切り替わる。
そもそも古典文学において主語はあってないようなもので、かなり曖昧なコンセプトではあるが、『蜻蛉日記』の語りの姿勢は間違いなく「このわたし!」である。つまり、みっちゃんは自己観察の精神から自らの生活体験を振り返り、21年間の出来事を主観的に語り尽くして、他の観点が入り込む余裕は1ミリも残されていない。
例えば、眠れぬ孤独な夜の次のような描写。
かくて絶えたるほど、わが家は内裏よりまゐりまかづる道にしもあれば、夜中あか月とうちしはぶきてうち渡るも、聞かじと思へども、うちとけたる寝もねられず、夜長うして眠ることなければ、さななりと見聞く心ちは何にかは似たる。
【イザ流圧倒的訳】
こうして夜離れがつづいている間、わたしの家はあいつ(夫・兼家)が内裏への行き帰りの途中でもあったものだから、夜中やら、明け方やら、咳ばらいをして通って行くのが聞こえる。絶対気にしないと思っても耳に入ってしまって、すやすやと眠れるわけがない。秋の夜は長く眠ることなしという詩句があるが、あの人が通り過ぎていくのだと察するこの気持ちは、一体何にたとえればいいのだろう。
いく度の浮気が発覚した後、夫の足が次第に遠のいていく。もうきれいさっぱり忘れたいけれど、彼が仕事(それとも別の女がいる屋敷?)にいく気配が気になって仕方なく、一睡もできずに夜が明ける。いかにも『蜻蛉日記』らしい風景だ……。
「わが家」と記されていることから一人称の語りだとすぐ断定できるうえに、「(聞か)じ」という打消意志を表す助動詞などにも、作者の存在感が強く現れている。聞くつもりがさらさらないのに、どうしても感づいてしまう自分、というような具合だ。
私はそんな凄技とは無縁だが、恋人の足音を聞き分けられると言い張る人を何人か知っている。とはいえ、屋敷の外に走っている車の中の咳払いを察知するなんて、とんだ超能力である。
しかも、その優れた聴覚が発揮されるシチュエーションはかなり多い。兼家と愛人が乗り合わせた牛車を音でわかったり、素通りされる瞬間をバッチリ言い当てたりできるみっちゃん。
それぞれのエピソードの信憑性はさておき、「聞くつもりはない」という言葉とは裏腹に、作者がむしろ五感を研ぎ澄まして、一生懸命兼家の気配を感じ取ろうとするのが明らかだ。
そして、幻聴の可能性もあれど、彼女の耳に入ってしまう音は愛する人の不在を強調すると同時に、語り手の存在をよりいっそ誇張する効果をもたらす。行間からみっちゃんの感情が溢れ出し、彼女が置かれている空間がありありと描かれていくが、そこには「わたし」しかいない。その絶望的な孤独は何よりも結婚生活の夢が破れたことを物語る……。なかなか切ない。
『和泉式部日記』三人称の効果
それに対して、(一時的な)勝利を収めている和泉式部は、最初から最後まで三人称に徹している。「女」が好きになってはいけない相手に恋し、「女」が甘い罠に溺れてゆき、「女」が苦しみの末、運命の人と結ばれる……。
『和泉式部日記』は物語に近いタッチであることがよく指摘されており、異質な構造を持っているともいえる。しかし、三人称を用いることで、物語的な演出ができるだけではなく、作者と語られている出来事との間に絶妙な距離が生じて、説得力が増す。ページに収まりきれないみっちゃんの主観に比べたら、はるかに客観的に見えるわけである。
どちらの場合でも事実が大胆に脚色されていると思われる反面、やはり愛を勝ち取った愛人のほうが余裕をぶちかます。
五月五日になりぬ。雨なほやまず。一日の御返りのつねよりももの思ひたるさまなりしを、あはれとおぼし出でて、いたう降り明したるつとめて、
(宮) 「今宵の雨の音はおどろおどろしかりつるを」 などのたまはせたれば、
(女) 「夜もすがらなにごとをかは思いひつる窓うつ雨の音を聞きつつ
かげにゐながらあやしきまでなむ」と聞こえさせたれば、「なほ言ふかひなくはあらずかし」とおぼして……
【イザ流圧倒的訳】
5月5日になった。雨はぜんぜんやまない。先日の返事から察するに、女は落ち込んでいるに違いない。一晩中雨が降った後の朝に、それを思い出した宮は「昨晩の雨の音はすごかったよね!」という文章を寄越してきたので、「わたしは一体何を考えていたのかな……窓を打つ雨の音を聞きながら、頭にはあなたのことしかなかったわ!
家にいるのに、不思議なぐらい袖が濡れている」と彼女から早速返事がきた。宮はやはり彼女はいい女だなぁ、とまんざらでもない気持ちになり……
まさに完璧なキャッチボール!
宮は同じ部屋にいるわけではないけれど、このやり取りの速さといったらない。もはや以心伝心そのもの。それぞれが文を書いている時間以外、召使がてくてく歩いて行き来する手間もあるはずなのに、文中にはその面倒な要素がすべて省かれている。
降り続ける雨の音は1人でいる切なさの象徴でありながらも、すかさず届けられる便りはその孤独を和らげる。
妻への和歌の返答率は約3割という残念さ
一方で、兼家は姿も見せず、便りも来ず、出番は非常に少ない。
ちなみに、真面目な研究者たちが律儀に数えたところ、『蜻蛉日記』に含まれている歌は全部で261首だそうだ。そのうちに、みっちゃんが詠んだものは119首であり、それに対して兼家作は……たったの41首だ。
みっちゃんの歌はすべて返しを求めるものとは限らないと言っても、夫が連絡を寄越してきた回数はその3分の1という勘定になるので、ほとんど返事をいただいていないような状態だ。寂しさを増幅する音に続いて、相手の沈黙がさらに作者の孤立を際立たせている。
和歌が心の窓だと信じられていた平安時代だからこそ、その事実はかなり重要だと思われる。結果的に『蜻蛉日記』は作者の感情を中心とした語りになっているのはもちろんだが、相手の兼家はいっさいみっちゃんを通して描かれておらず、読者の目にはその不在しか印象に残らない。
それに引き換え、『和泉式部日記』の中では宮の心語も所々現れており、彼が性格と意志を持った独立した登場人物として感じられる。「女」目線の語りにおいて、宮の登場は脇役的存在となっているものの、何度も読者の前に現れて、ラブストーリーに積極的に参加されているご様子。そして2人の甘くて切ないやり取りを追いながら、相思相愛だったに違いないと、読み手が信じて疑わない。
過ぎ去った21年間と、胸キュンの10カ月
時間の経過に関する表現もまた、恋愛の敗者と勝者の絶対的な違いを強調している。
日記の体裁上の問題でもあるが、『蜻蛉日記』において、作者は記事として特に取り上げなかった月日の流れを簡単に記している。「さて、九月ばかりになりて」「年かへりて、なでふこともなし」「あき、ふゆ、はかなうすぎぬ」、というような具合に、みっちゃんは空白も含めて過去をよみがえらせている。きっちりと、全部。それはまるで無駄に過ぎ去ってしまった日々、月々を刻んでいるかのようである。
『和泉式部日記』では、恋人たちと関係のない時間、記事に取り上げていない日々のことが言及されている例は見当たらない。とにかく密度がぎゅっと濃くなっている。
そもそも10カ月というわずかな期間なうえに、すべての記述が恋の発展に寄り添っており、圧倒的なスピード感がある。春、夏、秋、冬、季節が目まぐるしく過ぎてゆく。
和泉ちゃんや宮が待ちわびたり、相手から連絡が来るのを願ったり、悩んだりする瞬間はあっても、それはすぐに次の出来事につながるものであって、みっちゃんの場合のように人生が中断されているわけではない。キュンキュンが止まらず、ジェットコースターの如く恋は突き進む。
色々に見えし木の葉も残りなく、空も明かう晴れたるに、やうやう入りはつる日影の心細く見ゆれば、例の聞こゆ。(女)なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮はものぞ悲しき
【現代訳】
紅葉の季節になり、いろいろな色に見えた葉っぱがすっかり落ちて、空も明るく晴れた日に、やがて夕方になって沈んだ光が心細く思った頃合いに、いつものように歌を送る。(女)あなたが慰めてくれるとはわかるけど、やはり夕方になると悲しくなるわ……。
日がただ暮れただけだというのに寂しくなって、そんなくだらない理由でも大好きな彼が確実にそのラブコールに応えてくれると「女」は信じている。
感情の一進一退があろうとも、時間が経つにつれて恋人たちの愛が次第に深まり、最終的なゴールである恋愛の成就が少しずつ近づいているのがわかる。
作品における季節の移り変わりは、平安らしき美意識の表れでありつつも、2人の運命の進行をつかさどるものでもある。気が向いた時にしか訪問してこない兼家にたらい回しにされるみっちゃんとは大違い。彼女がしたためた21年間の記録は、ただ時間の経過を示しているものにすぎず、そこは『和泉式部日記』に感じるような超自然的な力、愛の強さは微塵もない。
どちらの恋愛も後世まで残った
どちらの作品も情趣美に溢れた、王朝恋の世界の一端を映し出す。さらに、和泉ちゃん、みっちゃんともに工夫を凝らして、ストーリー以上に自らのメッセージを読者に届けることに成功しているからこそ、真逆な女像が見えてくる。
存分に愛された女と、思い描いていた結婚生活を手に入れることができず、過ぎ去っていった半生を振り返って、ただただ身の不幸を嘆いている女……。ただし、それはぞれぞれの作者が意識的に作り上げているイメージゆえに、彼女らを「敗者」「勝者」として簡単に片付けられないところもある。
みっちゃんは実際、訪れが完全に途絶えた日まで苦しみ続けて、和泉ちゃんは少なくとも日記の対象となっている10カ月の間には宮の愛を一身に受けていたはずだ。
しかし、読み手の想像力に強烈な印象を残すという意味では、うざい妻vsわがまま愛人のバトルの結果は引き分け、どちらも勝っていると言える。幸福だったかどうかは別として、2人とも自らの恋が存在していたことを歴史に刻むことができたからである。
1つひとつの言葉に隠されている平安女子の意志の強さ、抜かりのない文学的センス……何回読んでも感服させられてしまうもの。来年もまたきっと読み返すことになるだろう。