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修験道と自然

2024.04.21 13:53

https://www.chikyu.ac.jp>sato-project>thought4 【宗教における行と身体】より

修験道と自然 総合地球学研究所セミナー 2007年9月18日 鎌田東二

1、 本セミナーのねらい

2、 若干の南方熊楠に対するコメント(別紙資料参照)

3、 修験道とは何か?

日本列島の風土の中で発達した、自然として現われ出る神仏への讃仰と身心対話によって、深い叡智(即身成仏智)と力(法力・験力・霊力)を獲得しようと修行する日本独自のユニークな習合宗教文化。自然智(じねんち)・身体智の探究。自然智・自然力の獲得。自然智・自然力の観察・採取・再編集。

4、 二つの修験道類型――奥駈けと峰入り

海に向うこと(吉野から熊野へ、直行する)/山に入ること(回行・回帰する、出羽三山・羽黒修験・湯殿山の土中入定)

海という母胎と山という母胎ー死と再生(擬死再生)

山岳跋渉などの難苦身体修行により、心乱ることなき菩提心を得る。

十界修行(修行得験) 日本列島の風土の中で生まれた独自の習合宗教文化

5、 最近わたしが歩いた修験の山々:出羽三山、伯耆大山、日光男体山、白山、戸隠山、比叡山(回峰行

6、 修験の聖地の特色

ブナ林がある。豊かで清らかでおいしい水がある。その水で禊や滝行ができる浄めの場所がある。法螺貝が鳴り響く空間である。谷が深く、尾根が美しいが、細くて険しいこともしばしば。急峻。森厳。カミやホトケと感応道交しやすい霊的次元回路・立体交差路。大峰修験(吉野熊野修験)=奥駈け道/出羽三山修験(羽黒修験、湯殿修験)=峰入り道

7、「神」とは何か?  「カミ」とは、日本人が抱いてきた、ある特定の感情や情報や力や現象を取り込んだ「霊的フォルダ」である。

8、日本列島の宗教文化――自然崇拝・アニミズム・シャーマニズム・汎神論

チ・ミ・ヒ・モノ・タマ・ヌシ・オニ・ミコト

神威・神性・神格の包括概念的尊称としての「神」

「ちはやぶる神」の表象――「神」とは、ものすごい速さで振動し、立ち現れ、運動するエネルギー体

9、 神威・神格・霊威・霊格を表わす語群

「チ」系――イカヅチ(雷神)、カグツチ(火神)、ノヅチ(野神)、ククノチ(木神)、ミズチ(水神)

「ミ」系――ヤマツミ(山神)、ワダツミ(海神)

「ヒ」系――ムスヒ(産霊)、ナオヒ(直霊)、マガツヒ(禍霊)

「モノ」(物)系――オホモノヌシ(大物主)

「ヌシ」(主)系――オホクニヌシ(大国主)、コトシロヌシ(事代主)

「タマ」(魂)系――オホクニタマ(大国魂)

「オニ」(鬼)系――災いをもたらすもの、威力ある霊

ミコト(命、尊)系――イザナギ・イザナミノミコト

10、「行」と「教育」「研修」「自己開発セミナー」との違い

11、「行」をして「行」たらしめるもの――「行」の本質

12、「行」の起源とその展開――狩猟技術からの展開と身体技術

13、「行」による身心変容

14、トランスする身心と層を成す身体

15、修験道と歩行する身体――奥駈けと峰入りあるいは直行と回行、あるいは海に向うことと山に入ること

16、「行」と身体の座標軸と現代の宗教性

17、東山修験道の歩行経験から

18、「足の裏」で考える――わたしの脳は「足の裏」

参考資料

a. 鎌田東二「祭司の身体」(『神道のスピリチュアリティ』所収、作品社、2003年)

わたしが参拝によく行く奈良県吉野郡天川村の天河大弁財天社は、日本有数の水の聖地である。近畿地方第二番目の高峰・弥山(みせん)から流れ落ちる水は、南に流れて天の川・十津川・熊野川・新宮川と名前を変えて熊野灘に注ぎ込み、東に流れて宮川となって伊勢湾に注ぎ込み、西に流れて吉野川・紀ノ川と名前を変えて紀伊水道に注ぎ込む。

とすれば、弥山とは、三方四方へと流れ落ちる水源の山としての世界山・須弥山(シュメール)=弥山=水山である。そこでもまた女神を祀っているが、中世の神仏習合思想や修験道や密教においては、吉野金剛界(男性原理)と熊野胎蔵界(女性原理)の「金胎不二・男女冥会の地」にして「吉野熊野中宮」と称された。坪の内という地名をとどめる鎮座地は、天の川と弥山川との合流地点にあり、まさにその地形そのものが女陰であり、子宮であり、母胎と見える。修験者は山岳を跋渉しながらよくその地の気、天の気を感得し、そこを神仏感応の霊地、天河弁才天の社=寺としたのである。

火の女神の聖地としての伊豆大島と水の女神の聖地としての天河。興味深いのは、そのどちらも修験道の開祖・役行者の修行したことが伝承されている点だ。699年、役行者は遠流の刑を受けて伊豆大島に流されたが、その地で修行を重ね、鬼神を操り、霊峰富士まで飛んでいって修行したと伝えられる。また、それ以前、吉野の大峰山中で修行していた折、最初に感応したのが弁才天女で、役行者はこの水の女神を弥山山麓の天河に祀ったという。

かくして、火の聖地も水の聖地も両方共に役行者が訪れ、深い霊的感応道交を体験していたのである。彼の中にも濃密な「神道の感覚」があったことをわたしは疑わない。実際、彼は大和の葛城の賀茂氏の出身である。賀茂氏はヤタガラスの祖先伝承を持つ古代祭祀一族であった。

『新撰姓氏録』には、「鴨県主、賀茂県主と同じき祖(おや)、神(かむ)日本(やまと)磐余彦(いわれひこの)天皇(すめらみこと)、中洲(なかつくに)に向でまさむと欲(おぼ)しし時、山中嶮絶(さが)しくて、迷ひたまひき。是に、神魂(かみむすびの)命(みこと)の孫(ひこ)・鴨建津(かもたけつ)身命(みのみこと)、大なる烏と化如(な)りて、翔飛(とびかけ)り導き奉りて、遂に中洲に達りたまひき。時(そのとき)に、天皇、其の有功(いさお)を喜(め)でたまひて、特に厚く褒賞(ほ)めたまひき。八咫(やた)烏(がらす)の号(な)、此より始れり」とあり、神武天皇が山中で迷った時に、大きな鳥に化身して飛び巡り、「中洲」に導き至り、その功績によって「ヤタガラス」の「号(な)」を授けられたという。

この「ヤタガラス」は本当の名前を「鴨建津(かもたけつ)身命(みのみこと)」といい、出雲系の神・神魂(かみむすびの)命(みこと)の孫である。このように、鴨建津(かもたけつ)身命(みのみこと)は神の子孫でもあり、かつまた人間でもあり、さらに「大きな鳥」に化身することができる超能力的存在ということである。その姿は、鬼神を従え、天空を飛んだという役行者そのままではないか。まさに、この先祖にしてこの子孫あり、というべきである。

付け加えておけば、天河大弁財天社の宮司・柿坂神酒之祐氏はその役行者に付き従った鬼神の一人、前鬼の子孫であるという。そして、毎年2月2日、節分祭の夜に、天河では祖先神の鬼を迎える「鬼の宿」という特殊神事が行われる。祖先の神の来訪の聖なるひと時。翌日の節分祭では、年男が「福は内、鬼は内」と唱えながら、煎り豆を投げる。このような、奥ゆかしくも神秘な祭りが春迎えの神事として行われているのである。

ここにも「何か神々しいもの」の来訪を待ち受け、畏れ慎みの心を以ってそれと交歓しようとする「神道の感覚」がある。

ところで、「神道」という言葉には二つの意味がある。一つは、「神(から)の道(The Way from KAMI)」。もう一つは、「神(へ)の道(The Way to KAMI)」。(そしてもう一つ付け加えるならば、「神(と)の道(The Way with KAMI)」。

 「神からの道」とは、この宇宙が、この存在世界がこのようにあることの流れであり、道であり、自然の大道・生成である。天然自然として、森羅万象として、顕現し、現象していくことの中に現れる「神の道」。いわゆる「神ながらの大道」とは、このような宇宙的流れを意味している。その意味では、「神道」は「宇宙教」である。神道には明確な教義というものはないが、天地自然を書籍とし、宇宙の存在の声を畏怖畏敬の念を以って聴きとろうとする根本的な態度を持っている。万物の声に耳を澄まし、それとの共生・調和を図っていこうとする志向性を持っている。

 前述の天河大弁財天社の柿坂神酒之祐宮司は、ある時、祝詞奏上中に「神社は宇宙ステーションなり!」と朗々と声を出して参列者の度肝を抜いたが、その場にいたわたしはその祝詞にいたく感動し、「まことに、そのとおり!」と膝を打ったものである。神社は確かに「鎮守の森」であるが、そればかりではない。存在の根源である宇宙からの、永遠からの呼び声に応え、感応してきた聖なる場、神聖宇宙の斎庭(ゆにわ)なのだ。

 この「神からの道」としての「神道」に対して、「神への道」とは、人間がいのちあるものとしてこの宇宙の中に存在するようになったことを、心からの感謝と畏怖畏敬の念を以って、その根源的な力に源に向かって帰依し、祭り、祈っていこうとする道である。祈り、祭り、お供え、芸能は、そうした「神への道」に対する、子孫としての人間からの捧げものなのである。

いうまでもなく、わが「神道ソング」ももちろん、「神への道」への捧げものであり、それは遥か、スサノヲノミコトの「八雲立つ 出雲 八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を」の神歌にまで遡る由緒ある「敷島の道」なのである。

  (中略)

まず歴史的にいうと、8世紀までは「神主」はシャ-マン的な女性がほとんどであったが、中国の法制度である律令体制が導入されてからは、女「神主」に代わって男「神主」が増え、それに伴って、官僚的な国家祭司者としてのプリースト的「神主」になっていった。古代の女「神主」においては、「ホト」すなわち女陰(女性性器)の露出が重要な象徴的意味を持っていた。

それは、死と再生を司る身体器官であり、生命の現れ出てくる奥の院ないし奥宮であった。古代日本人の生命讃歌は、初代皇后が「ホト」の名をその冒頭に冠しているということによく表れている。つまるところ、セクシュアリティとスピリチュアリティとの関係は、身体と魂との関係と同様切り離せないものと考えられていたのである。そうでなければ、アメノウズメが、神がかりの最中に「ホト」を見せることはありえなかったことだろう。そこでは、「ホト」は他界への通路なのである。

また、「神主」は鳥のように空を翔け、神の声を聞き取り、未来を透視し、呼吸法と意識と身体の変成術に長けていた。それが日本における「祭司の身体」の原像である。

これに対して、「審神者(さにわ)」の身体とは、神がかる身体を相対化し、そこにあらわれるさまざまな「神秘」を社会的な現実に降ろしていく役目を果たし、ほとんどが男性がその役を務めた。理性と経験と学識に秀で、不可思議な神秘現象に一定の秩序を与える役割と力を持っていた。「さにわ」とは、もともと「神がかりの儀式を行う神聖なる庭」を意味していた。それが、この聖なる庭を統括しコントロールする役目の者を指すようになったのである。

古くは、この「神主」と「審神者」がペアとなって、「神事」が執り行われたのである。

僧の身体

 「僧」とは、もともと悟りを求めて出家修行し、仏教の道=真理を求める求道者の集団「僧伽(サンガ)」の意味であった。

 「神主」が神の妻として、性性と霊性とを不可分のものとしたのに対して、「僧」は性に対して禁欲的な態度をとることを通して、性を超越し、欲望やとらわれ、すなわち煩悩および執着を取り去ろうとした。

 そもそも、仏教の創始者・ゴータマ・シッダルータには、仏の相好として32の福相があると伝えられるが、その中の一つに、「馬陰蔵相」と呼ばれる相がある。それは、ブッダの男性性器が馬の性器のように隠れていて見えないという相である。その相が性と欲望の超越を表しているという。もともと、ブッダはシャーマニズムも魔術(呪術)も否定した人である。シャーマニズムが人間の欲望や苦悩を倍化させることがあるのをよく知っていた。シャーマニズムによっては人間の苦しみは根本的に解決されることがないということをブッダ悟ったのである。

 ブッダの悟りは、無我とか無常とか無自性とか空とかと言われる。要するに、人間は一般的に、物事を実体としてとらえ、それに執着するところに欲望の自縄自縛や業が生起して、結局、輪廻の鎖から脱け出せないのだという考えである。したがって、おのれの欲望の根っこに何があるのかを「正見」し、徹底的にその実体のなさに気づくことが根本的に大事になる。「空」という概念は、単なる無ではない。関係性の相対性・相依性・仮象性をあらわす概念である。

 僧の身体は、禅定すなわち座禅による三昧境に入るための修行する身体である。結跏趺坐という坐法は、足裏を両方とも両腿の上に載せ手、尾蹄骨や仙骨を刺激しない坐法である。ヨーガのように、尾蹄骨や仙骨を刺戟し、クンダリーニやチャクラと呼ばれる気や生命エネルギーのセンターを目覚めさせるのではなく、身体を限りなく透明化していく身体技法の瞑想坐法である。

 日本における禅宗(曹洞宗)の創始者・道元禅師は、『正法眼蔵』の中で「身心脱落」という言葉を使っているが、それは無念無想やあらゆるイメージや欲望や感情の消え去った空無の心境・境涯である。それは、「無の身体」あるいは「空の身体」としての僧の身体の極北を示している。

『正法眼蔵』には、次のような言葉でその「身心脱落」が表現されている。「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり」と。

この言葉は、どういうことを意味しているのだろうか。悟りを得るために仏教の修行をすることは、まずは、自分自身の本性を知ることにほかならない。自分を知ることとは、自己を放擲し、自己をまったく忘れ果てて、存在世界のすべてのものに自己を証されることである。森羅万象に自己を証されると言うことは、自分の身心を脱落して空っぽになり、「無」あるいは「空」という存在のリアリティ(実相)を体験することである。

 道元は、「即心是仏」という命題を措定した。その心がそのままにブッダであると主張するのである。ここには、道元の独自の人間観と存在論があるのだが、心は悟りを得ればそのまま仏であるというのが、ゴータマ・シッダルータ以来の仏教の本流であることはまちがいない。

 禅の「十牛図」においては、悟りを得るに至る階梯が十の段階として図像化されている。見失われた自己の本性(真実の自己=仏性)を牛に喩え、自己探しの旅に出た少年が牛を捜し求め、足跡を発見し、やがて牛を捕まえ、飼い馴らすまでになる。

 しかしながら、本格的な禅的探究はここからだ。というのも、牛、すなわち自己は見つかったと思うと、それはまたとらわれになるからである。だから、そのことを全部捨てねばならないのだ。そこで次には、道元が『正法眼蔵』で言ったように、「自己を忘れる」ことが重要になるのである。

こうして、「十牛図」の第7段階は「忘牛存人」という。それは、牛の存在を忘れ果てて、ただ在るという状態である。次の第8段階は、「人牛倶忘」といい、人も牛もすべてを忘れ果てている状態である。探しに行った自己も、探された自己も、ともに忘れ去られた状態、これこそが「無」であり、「空」である。主観と客観が未分化な、主客未分の境涯である。

これが、禅的な悟りの心であり、悟りの身体の位相である。これは、図像としては、円相の中に何も無い状態で描かれる。「無の円相」である。道元のいう「身心脱落」とか「即心是仏」とかは、こうした「身心」の位相である。

 このような道元の禅的身体論に対して、空海は密教的身体論を展開した。それは「即身成仏」という身体論である。道元が13世紀の人であるのに対して、空海は9世紀の人である。二人とも、当時の大文明国である中国に留学して、空海はわが国に密教を導入し、道元は曹洞禅を持ち込んだ。二人とも日本の天才的な仏教僧であるが、その思想と身体論は、180度ほども違う。

 というのは、道元がイメージを消す、無念無想の瞑想法としての坐禅を推奨したのに対して、空海は阿字観や月輪観などの図像的イメージを豊富に用いることを提唱したからである。瞑想とイメージないしヴィジュアリゼーション(視覚化・視像化)に対する二人の考えと実践は、まるで正反対なのである。

 同じ仏教僧ではあっても、この正反対なまでの対照性をわたしは面白く思う。イメージを消す坐法と、イメージをふんだんに活用する坐法の二つがあるのだ。前者の禅の坐法は、道元が主張したように、釈迦本来の仏教の坐法に基づいている。それに対して、空海の提唱した密教の坐法と瞑想法は、ヨーガあるいはヒンズー教の坐法と瞑想法と共通する。チベット仏教も基本的に密教であるから、空海の提唱する坐法や瞑想法と同じタイプである。

 空海はイメージを活用することによって自己を変身させようとする戦略をとった。それに対して、道元はイメージを消し去ることによって自己をリセットし、あるいは初期化し、自己本来の面目に至ろうとしたのである。空海は自己身体を、たとえば不動明王やその本体である大日如来一体化させるようなヴィジュアリゼーションをフル活用した。衆生の身口意の三業を如来の身口意の三密に同化させる瞑想法を身体技法と瞑想法の根幹にすえたのである。「三密加持すれば速疾に現る」とは空海の主著『即身成仏論』の中の言葉である。

 空海は、その名のとおり、自己を空と海に、また宇宙大に拡大しようとした。それに対して、道元は、その名のとおり、道の元に徹し、自己に対するあらゆる幻想を捨て去ることに専念し、自己を「無」に帰す道を辿った。この二人の身体論と身体技法は、僧の身体を考える上で大きな指標となるであろう。

修験者の身体

 日本の宗教は古来の伝統的な神道と新来の仏教と山岳信仰とがミックスした独自の神仏習合思想をつくりだした。それが修験道である。

修験道は、7世紀に活躍した役の行者に始まるとされる。役の行者の家は、賀茂氏という大和の古い神道の家系であった。若くして、山に入って修行し、神霊と交渉し、鬼神を使役したという。また、空を飛ぶこともできるほどの超能力を身につけたともいう。役の行者は、山岳を跋渉し、断食、穀断ち、滝行、瞑想、修法など、さまざまな修行法を体験した。そしてついに、彼は山伏・修験道の開祖となったのである。いわば、日本版・仙人である。

 役の行者は、日本の修行者の原型的人物である。なぜなら日本人の中で、役の行者だけが、「行者」という普通名詞が彼を表す固有名詞として用いられているからである。

日本は国土の75%が山岳である。緑なす急峻な山が多く、そのために多量の水を含んだ山や森から流れ落ちる水は清らかで、30年前までは全国どこでも、山から流れ落ちる水をそのまま手に掬って飲むことができた。今も聖なる山や森も環境破壊が進行しつつある。

わたしがよく参拝に出かける大和の吉野山中の神社・天河大弁財天社は、水の神サラスヴァティ、すなわち弁才天女を祀っているが、山頂付近のブナ林は酸性雨のために傷み、荒れてきている。この神社は、神仏習合と修験道の中核をなした神社で、中世には「金胎不二の地」とされた。すなわち、密教でいう金剛界(男性原理・ダイヤモンドや男根を象徴する)と胎蔵界(女性原理・子宮や女陰を象徴する)が二つにして一つであるという統合と合体の聖地とされてきた。

わたしは、20年近くこの天河神社(天の川を名前とする美しい神社であり、土地である)に通い、いろいろな修行や体験を積んだ。不思議なこと、神秘なこと、危険なこと、もろもろ体験した。そこで「祭司の身体」が何であるか、身をもって体験した。

そして確信した。「祭司の身体」とは、世界を媒介する身体であり、往還する身体である、と。

b.鎌田東二編『思想の身体 <霊>の巻』あとがき、春秋社、2007年

 500万年余に及ぶと言われる人類史のどこで「宗教」が生まれてきたのか。宗教学や宗教史は、「宗教」の成立過程において、目に見えない世界、すなわち「霊」的世界や形而上世界が浮上してくることを問題にしてきた。

それは言い換えると、人間の意識の中で「超越」が起こることを意味している。「超越」とは、今ある状態を超えていくこと、また、現象の背後に、あるいは基底に、あるいは高みに、何ものかがあってそれを動かしている、それたらしめていると信じること、またさらに、自己が自己でなくなるほどの変容・変化・変身をとげること、を意味する。人間とはかくもトランスする存在なのである。トランスしつつ自己と世界を変化させ続ける存在。それが人間であり、スピリチュアルということの人間学的位相であろう。

 「霊」あるいは「霊的」ないし「スピリチュアル」ということは特別なもの・ことではない。それはたとえば山に踏み入り、海に潜る時、わたしたちをおののかせるもの・こと・感覚である。具体例を述べよう。

最近わたしは「東山修験道」と称して、勤務先の京都造形芸治術大学の裏山から続く東山三十六峰を歩き回っているが、夕方から夜にかけて地図も懐中電灯も持たずに瓜生山や狸谷や比叡山に至る雲母坂などを歩いていると、暗闇の中で森が、山が、昼間見た美しさや秩序とは異なる貌を以って大きく立ちはだかってくるのを感じる。その時この森全体を、山全体を得体の知れない生き物のように感じとる。木々の葉擦れなどの小さな物音でも高波が覆いかぶさってくるように大きく聴こえてくることがある。森の中を移動するわたしの感官そのものがおのずと昼間とは異なったバンド(幅、帯域)に変化しているのだ。というよりも、普段使用することのない感覚領野が活性化し、身体の構えがシフトしている。

そのことは、方位感覚の変化で自覚できる。わたしたちが普段生活している時には意識せずとも前面感覚を中心に働かせている。だが山を歩いていると、前面感覚が後方に退き、側面感覚と背面感覚が全開し始めるのがわかる。もちろん、背中や後頭部に目がついているわけではない。ではないが、意識が後ろ側にも回っているのだ。背中が広くなっている。大洋のような茫茫たる背後世界が広がっているのを感じる。特に野性の感覚を頼りに、道なき道を探して這いずるように山を歩いている時、側面感覚や背面感覚が全開しているのがはっきりと感じられる。

この身体感覚の変化を大変面白く思う。そして、その身体感覚の変容の中で、自然にトランスしている自己と出会う。わたしはそのような感覚を「ナチュラル・ハイ」をもじって「ナチュラル拝」と呼んでいる。そこでは動物や植物が山を歩くわたしよりも遥かに強く、大きく、落ち着いて見える。彼らは自らであるがごとくに存在していると、畏怖畏敬の念を覚える。自分の小ささとこの世界の奥深さ、大きさ、底知れなさを感じとる。

こうして感覚帯域が押し広げられた結果、「奥」の感覚が研ぎ澄まされ鋭敏になることによって目に見えない領域、つまり「霊」的な領野が側面や背面からふるふるとせり上がってくるのだ。滝行をする時、滝の落ちてくる岩場が微細に震え、ぶーんと振動しているように感じることがあるが、世界が振動となり、ヴァイブレーションの波となって、どこまでも遠い奥行きと波紋が感受できる。その時、「奥」は単なる概念ではなく、世界のグラデーションとしての見えと聴こえの中に底知れぬ遠近をもって立ち現れてくる。

 さて本書は、『思想の身体』シリーズの一冊として出される。常識的に考えれば、「霊」とは「身体」からもっとも遠いものであろう。物質的な身体領域と非物質的な霊的領域という二元論的対立の構図があるからだ。霊と肉、たましいとからだ、などの二元論。

 しかし、そうだろうか。目に見えない、したがって計測できないと思われていた領域はわたしたちの感覚帯域の微妙な変化によって異なる地図を描き始める。それゆえ身体の中の霊的位相を炙り出し、霊性の中の身体性や感覚位相を露出させることが喫緊の課題となる。神秘主義とか密教とか神秘体験とか変性意識状態と呼ばれる領域を貫いている「霊」や「霊性」や「スピリチュアリティ」の位相に目を向ける必要があるのである。

c.鎌田東二「東山修験道」(モノ学・感覚価値研究会ホームページ「研究問答」掲載、http://homepage2.nifty.com/mono-gaku/)

2007年7月17日(火)

朝方、山は霧に包まれていた。昨日も今日も断続的に雨が降った。新潟では震度6の地震のため、大きな被害が出ている。異常気象という言葉も霞んでしまうほど、異変続きな気象と社会。世界全体が霧に巻かれていて視界が利かない。

こんな時には、霧の中に入って、霧と共に呼吸するしかない。時折、比叡山を望み、天気を伺うが、良くなる気配も悪くなる気配もない。ええい、レッツラ・ゴーだ!

と、叡山登拝に向かう。鷺森神社の前で大阪ガスが工事をしていて、道を塞いでいる。そのため、鷺森神社を遥拝。曼殊院弁財天と天神さんを参拝。山に入ってゆく。

一昨日の台風のためか、山は荒れていた。根こそぎ倒れて道を塞いでしまっている倒木がある。こりゃ、ひどいな。この道は人があまり入らないようなので好きだが、しかし海も山も気象を鏡のように映し出すものだな。誰かが、動物に較べて植物はおとなしく静的だというようなことを書いていたが、植物の中にも獰猛な植物もいる。動物の中にもとても穏やかやつもいる。いろんなやつがいるのだ。森にも海にも。

一挙に噴き出してくる汗を拭う間もなく、山道を歩いていると、ガサガサと音がした。「鹿か!?」と思い、音の方を見ると、茶色い四足動物が山を横切っていった。犬? それとも、狐? 犬だとしたら、ちょうど柴犬のような。でも、こんなところに柴犬が悠然と山を歩いているか? 野犬になっているにしては、ゆったり構えていたな、あいつは。なんだかわからないが、人間というヤツは実に野生の中では無能だ。なぜなら、身一つでは何一つ出来ないから。

まず、裸足で歩けない。裸で山歩きなどできない。服を着、靴を履き、装備を固めないと、動けない。身一つで生きている野生の動物や植物に較べて、ニンゲンサマは実にだらしない。文化や文明というものは、特に文明というものは、生命感や動物的な勘をスポイルする。

俺もこの山道を裸足で歩くことはできねーよな。そんなことをしたら、血だらけだぜ。100メートルも歩いたら、泣いてしまうぜ、ホント! そんな、よわっちい肉体の持ち主なんだよ、ニンゲンというヤツは。それがこの生物世界に我が物顔でのし歩いている。身一つでは生きられないくせに、文明という変身具を用いて身二つや身三つになって、横柄に歩いている。なさけない。かなしい。つらい。

二本足で歩くということは、山道などの起伏のあるところを歩くにはとても動きが鈍る。四本足の動物は起伏の多い山では匠にバランスを取りながら、道がなくても山を歩いていける、走っていける。あの茶色の犬か狐も実に敏捷だった。だが、俺は、じつに、にぶい。動きがのろい。緩慢だ。山を走ることもできない。道がないところではすぐに立ち往生してしまう。

だから、地震が来たりすると、たちまち身動きがとれず、避難するしかない。誰かの保護や救援を頼むしかない。ニンゲンが野生の中ではもっとも弱き存在だといつも思う。身一つでは最弱の存在、それがニンゲンだ。

2007年3月3日(土)

14夜の月が皓皓と照り輝き、東山の上空にかかっている。3夜つづけて、絶好の月見日和だ。こんなに月夜が美しく連続することはめったにない。今宵もナイト・ウォークとしよう。誘われるように、夜の森に入ってゆく。今夜は焦らず、じっくりと夜の森と山を味わおう。何しろ、昨日は30キロ近くも比叡山と東山を歩きに歩いたから。

 月光の影がくっきりと落ちている。影の中に入ると、一瞬眩暈がするほどに、真っ暗。それほど、白々とした月光が目を焼いているのだ。新月の夜にも歩いたが、満月の夜の方が道に迷うことがあることを実感した。意外や意外。満月光で道がよく見えるので迷うはずがないと思っていたら、そうではないのだ。むしろ、満月光ゆえに、その眩しさに道を失い、別のところを道と勘違いしてまったく別のところを歩いていたりするのだ。

 月光は人を騙す。人の目を目眩ます。落ち葉も月光が当たって光っているので、道でないところが道に見えたりして、気づかぬうちに別のところを歩いていて、いつしか道を失っていることがある。気をつけねば!

 一昨日は、バプテスト病院から瓜生山に向かったが、今日は京都造形芸術大学から瓜生山に向かう。造形大の住所は、「瓜生山2-116」だ。この辺り一帯が「瓜生山」と呼ばれている。その奥の院・奥宮に向かうのだ。瓜生山までに3箇所見晴らしのいい台地があって、御所や吉田山や京都タワーの位置を確認する。

 これが「都」なのだ。かつて千年以上も日本の都だった都市なのだ。その都市がこれほど深い森に囲まれているということを不覚にも今まで全く気づかずにいた。自然と人間、自然と文明の共生などというが、この京都というかつての「都」は、共生というのも恥ずかしいほど、山に覗かれている。共生ではなく、山に「強制」され、「矯正」され、「強請」されているのである。

 ここでは山は、森は霊界である。異界である。他界である。だからこそ、御所の東北にある比叡山延暦寺が王城鎮護の寺院として特別視されたのだ。まさにそこは霊界の窓、なのである。怖いところだ。そこをあの最澄さんが占拠し、牛耳った。凄いことだよ、このことは! 最澄は「霊的国防」をいうことをしっかり意識していたのだ。「鬼門」というのは、そういうところなのだ。そしてそれは、今でもそうなのだ。1200年もの長い間、叡山は「霊的国防」を握ってきたのだ。「玉体加持」も、回峰行者の「玉体杉」からの祈りもその一環としてあるのだ。

 瓜生山で、幸龍権現と将軍塚地蔵を拝するが、こんな美しい夜には、祝詞も般若心経も笛も吹きたくない。このまま、この風のそよぎ、月の光のささやき、鳥や山の動物たちが時折立てる物音。それだけでいい。いや、それだけがすばらしい。ニンゲンの声も、音もいらない。ニンゲンは不純だ。もちろん、わたしも含めて。ニンゲンが立てる音は野蛮だ。野生の音はそれに比べてずっとずっとエレガントでエネルギッシュだ。よけいな配慮のない、無駄のない、それとしてあるだけの音。そこでは、ニンゲンはただただ沈黙し、耳を傾けるだけ。それだけが、ニンゲンに美と倫理を与えるだろう。

 木漏れ日というが、木漏れ月という光の世界があるのだ。幽玄というのはこんな光と影の世界だろう。まさに、能、夢幻能の世界。霊界と境を接する時。

 曼殊院弁天社と鷺森神社を参拝し終えると、10時半を回っていた。今宵は2時間のナイト・ウォークだった。今夜はっきりと、満月の中に兎がいるのが見えた。とても耳の長い、しっかりした、エレガントで力強い兎。月兎がニンゲン世界を見てるよ。「おまえたち、このまま好き放題をしていたら、必ず滅びの時が来るぞ。心して生きよ!」

 思い出していた。いろいろなこと。あまりに美しく悲しかった時の数々。忘れようとしても、想い出せない、あの至高の時!