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Kazu Bike Journey

東京 (17/10/23) 江戸城 (43) 坂道巡り (11) 新宿区 (7)

2023.10.18 12:26

坂道巡り 新宿区 (7)



今日は定期検診の日。11時からエコー検査と血液検査、その検査結果を医師から聞くのが、1時半からになっている。病院が終わってからは、家に戻る途中の新宿区の坂道をめぐる予定。


病院が終わり、四谷に向かう。四谷を超えて荒木町、船町を通り、愛住町にに着く。この辺りは以前来たのだが、まだ通っていない坂道が残っている。

各坂の訪問記:坂町坂津の守坂 (荒木坂 小栗坂)合羽坂 (河童坂)新五段坂仲坂新坂 (荒木町)台町坂自証院坂安保坂大木戸坂茗荷坂念仏坂 (念仏段々坂)、安養寺坂、暗坂 (暗闇坂)、禿坂


法雲寺

道を東に進むと突き当たりになり、南北の道が通っている。Google Map ではこの通りが暗坂となっていたが、平坦な道だ。江戸時代の暗坂はまだまだ北側にある。ここ付き当たった所から階段下には法雲寺という寺がある。文化財の案内板があったので、有名な寺かと思い見学をした。文化財になっているのは銅造の梵鐘 (写真左上) で1723年 (享保8年) に法雲寺第四世順意が喜捨を受け、江戸鋳物師の河合兵部藤原周徳が鋳造したもの。


暗坂 (暗闇坂 くらやみざか)

法雲寺から道を北に進むと下り坂が見えて来た。案内柱も立っている。坂を下ると途中に靖国通りにくだる石段がある。元々の暗坂は先程の下り坂がこの石段に続いていたが、江戸時代から明治時代には石段ではなく、かなりの急坂だった。石段の脇の墓地に鬱蒼と生える竹樹が石段を覆い、昼間でも暗い道だったことでこう呼ばれていた。

自動車が通れない程の急坂だったので、階段上から迂回路が整備されている。Google Map ではこの新しい自動車道を暗坂と表示していた。


安養寺坂

暗坂を下り、靖国通りを曙橋駅方面に進み、駅の手前であけぼのばし通りの商店街を北への道を進む。


以前通った念仏坂の下を過ぎると、西へ下る安養寺坂に出る。坂上に安養寺あった事から、こう呼ばれていた。別名安養坂ともいう。


安養寺

安養寺坂の坂上には、その坂名となった清光山林泉院安養寺は浄土宗知恩院末の寺院が建っている。心蓮社深譽上人安阿貞公和尚が開山となり1574年 (天正2年) に創建されている。江戸時代には市谷左内町富士見坂のあたりにあったのだが、1656年 (明暦2年) に尾張藩上屋敷の囲い込みにより寺地明け渡しとなり、現在地に移ってきている。入り口にはペットの供養塔が置かれている。また墓地には徳川家旗本の墓が幾つかあるそうだ。


青峰観音

安養寺坂を西に下ると台町坂に出る。この坂を少しだけ下ると観音ビルという建物があり、その前の道路沿いに青峰観音が祀られていた。江戸時代、ここはここは市ヶ谷監獄首斬場だったという。明治以降、市谷監獄 (のちに市谷刑務所) となったが、大正時代に入り市谷監獄が移転し、跡地一帯の土地は払下げられ、宅地に整地され分譲された。刑場だった事でここで処刑された霊を弔うため、高村光雲作の等身大の聖観世音菩薩が建立され、同時に台町の守り観音として身替観音とか厄除観音として親しまれてきた。1941年 (昭和16年) に太平洋戦争が勃発、戦局の悪化する中、金属類回収令 (1943年 昭和18年) により、聖観世音菩薩像は兵器となるべく献納された。戦後、焼け野原となった台町の復興の際に、1954年 (昭和29年) に中国から渡ってきた青峰観音を元の場所に安置し、戦後台町の守り観音となっている。現在ではお堂も再建され、4月1日の市谷台町創設の日には青峰観音様の供養祭が毎年行われている。


地蔵尊

青峰観音から台町坂を渡り、西に進む。富久中町の牛込消防所前に地蔵が鎮座している小祠が置かれていた。古そうな地蔵で富久中町で管理されている。詳細については不明。


禿坂 (かむろさか)

道を進むと大通りに出る。この通りは東京医大通りと呼ばれ、道沿いに東京医大がある。南の富久町交差点に下っている。江戸時代は、こんなに道幅は広くない道で禿坂 (かむろさか) と呼ばれていた。禿 (かぶろ・かむろ) は、子どものおかっぱのことで、河童の意もある。坂の名の由来は不明だが、子どもの通ったのを見あやまって河童が歩いていたとか、河童が化けたとかがある。また、この坂は蜘切坂とも称され、渡辺綱の土蜘蛛退治の伝説に因んで名付けられたという。



瓶割坂 (かめわりざか)

禿坂から南の靖国通りに出て、富久町西交差点 (四谷木戸跡) を西に進む。

新宿1丁目北交差点から新宿2丁目北交差点までの坂は江戸時代は瓶割坂 (かめわりざか) と呼ばれていた。瓶は腹をさし、腹 (瓶) が割れるというのは、お産を意味していた。昔はこの坂の東の先に「弁慶橋」があり、義経と北の方の間に生まれた子を弁慶が取り上げたといった伝説がこの名の由来という。



次はJR新宿駅を西に越えて西新宿に向かう。


成子坂 (なるこざか)

成子坂かつての新宿区柏木1丁目、青梅街道にある坂であり、成子天神前から西へ、淀橋まで下っている。この辺りは昭和初期までは字成子だった事からこの坂を成子坂 (なるこざか) と呼んでいた。元々は鳴子坂と呼んでいた。地名となった成子 (鳴子) の由来に関わる伝承がある。

この地に住んでいた源左衛門は青梅街道で筵濁り酒などを売る露天商をしており、店先に鳴子を綱でぶら下げていた。客が来ると綱を引いて鳴子を鳴らし来客を知らせていた。その事で、この周辺を鳴子と呼び始め、転じて成子となったと伝えられている。

別の説ではこの辺りの水田を鳥獣の食害から護るために村人が鳥獣を監視するために建てた寝小屋 (ねごや) に鳴子あったからという。

また坂下に地蔵が置かれていたので、地蔵坂とも呼ばれていたそうだ。坂の途中には成子神社があり、縁日などには出店も多く、大いに賑わっていた。


成子子育地蔵尊

成子坂を淀橋方向に下りと、成子天神下交差点の所に、地蔵堂があり堂内に成子子育地蔵尊が安置されている。この地蔵尊に関わる言い伝えが残っている。

成子坂は、かつては豊島坂あるいは鳴子峠と呼ばれ、松や柏が生い茂る嶮しい坂道でした。江戸時代の頃、中野の貧しい農民が一人息子を江戸に奉公に出した。奉公先の藪入の際に息子が実家に帰ってくることになったが、父親には金もなく迎える支度が出来ず、そこで、青梅街道を通る旅人から物を奪おうとし、夕闇に成子坂に来て、通りがかりの旅人を殺して財布を奪い、急いで帰宅した。奪った財布を見ると奉公に出る時に息子に持たせてやったものだった。父親は息子を手にかけたことを知り、悲痛のあまり自らも命を絶ったという。村人は、親子の死をあわれみ、成子地蔵尊を建て供養を行った。

この地蔵尊は、第二次世界大戦の空襲で被害を受け、1951年 (昭和26年) に再興されたが、残っていた台座には1727年 (享保12年) に圓心によりで建立され、1838年 (天保9年) に文仙により再興されたと刻まれている。現在の地蔵堂は2002年 (平成14年)に、西新宿の再開発事業に伴い建て替えられたもの。


成子天神社

成子坂の途中には成子天神社がある。この地は柏木村鳴子と呼ばれていた。

成子坂から表参道が伸びている。赤鳥居とその奥に神門が見える。参道脇の案内板を見ると、鳴子瓜と呼ばれた真桑瓜が明治期までこの地域の名物だったと説明されていた。江戸時代に、幕府がこの瓜の原産地の美濃国真桑村から農民を呼び寄せ、府中の是政とここ鳴子に住まわせて瓜の栽培をさせ、神田川流域は土地の湿り気が多く適地だったので、この地域では栽培が盛んになったそうだ。


随神門

表参道を進むと随神門があり、ここを潜ると境内になる。随神門には風神 (右) と雷神 (左) が守り神として置かれていた。神社の随神門には通常は随神像と呼ぶ右大臣左大臣の豊磐間戸命と櫛磐間戸命が置かれているのだが、ここでは寺院の山門で時々見かける風神雷神になっている。(浅草の浅草寺の雷門が有名) 神仏習合の名残なのだろう。


神楽殿/御輿庫

随神門を境内に入ると、左手に神楽殿、右手に御輿庫がある。御輿庫には三基の御輿が保管されている。


大鳥神社、鳴子稲荷神社、大神宮

神楽殿の隣には末社が置かれている。白鳥居の奥には日本武尊を祀る大鳥神社 (右下)、 宇迦之御魂命を祀る鳴子稲荷神社 (左下) が置かれている。この二つの末社に挟まれているのが大神宮 (中下) で、菅原道真を祀り成子天神社が創建される前の神の天照大神が祀られている。


水神宮

その隣には赤鳥居があり、奥には灌漑の神、井戸の神の水波能女命 (みずはのめのみこと) を祀った水神宮 (下) が祀られている。赤い三角鳥居の所には手押しポンプの井戸が置かれている。


幣殿、本殿

現在の成子天神社が創建される以前には、天照大御神を祀った大神宮があったという。平安時代に菅原道真が九州太宰府でが亡くなったとの報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮はその死を嘆き、生前に彫られた菅原道真像を平安京 (菅原道真の配流先だった太宰府と書いているものもある) より持ち帰り、903年 (延喜3年) に、この柏木村鳴子祀ったのが成子天神社始まりと伝わっている。

その後、鎌倉時代に源頼朝により社殿が造営され、江戸時代、将軍徳川家光から土地を下賜された春日局が勧請し「天満天神社」として社殿を造営したという。寛文年間のに火災で、現在地に移転してきている。

1894年 (明治27年) に「天満天神社」を「成子神社」と改め、更に1928年 (昭和3年) に現在の名称の「成子天神社」に変更している。

第二次世界大戦中にも空襲により社殿が焼失。1966年に鉄筋コンクリート製の社殿を再建、2013年に境内に高層の分譲マンション、賃貸マンションと神社施設を新たに建築して現在に至っている。幣殿の奥は本殿になっており、拝殿には右大臣左大臣の豊磐間戸命と櫛磐間戸命が置かれている。


力石

本殿の前には、かつて例祭などの余興に人々の力くらべなどで使われた力石 (新宿区指定有形民俗文化財) が七個並べられている。力石七個すべてに銘文が刻まれ、重量や人名が刻まれている。四十貫 (約150kg) から五十八貫余 (約228kg) とかなり重い力石だ。人名は奉納者かその石を持ち上げた人と思われる。製作時期は記されておらず不明だが、江戸時代末から明治時代頃のものと推定されている。


成子富士

神社境内からの北参道の左手に小山がある。1920年 (大正9年) に、丸藤成子講により富士山の溶岩を加えて築いた成子富士と呼ばれる富士塚だ。1923年 (大正12年) の関東大震災で崩落したが、再建されている。


浅間神社

以前、山頂には木花咲耶姫命の像が置かれていたが、2011年の東日本大震災で落下し、現在では浅間社前に立て直されて祀られている。


七福神像

境内には、数ヶ所にわたって七福神像が見られる。表参道には漁業・商売繁昌の神の恵比寿天、財宝・福徳開運の神の大黒天、融通招福の神の毘沙門天。末社脇に知恵財宝、愛嬌縁結びの神の弁財天。北参道には招徳人望の神の福禄寿、長寿延命・富貴長寿の神の寿老人、笑門来福・夫婦円満・子宝の神の布袋尊が置かれている。

その他、境内には手水舎、狛犬、石碑、撫牛、燈籠なども置かれている。


蜀江坂 (しょっこうざか)

成子坂から北に進み北新宿に移動。ここには蜀江坂 (しょっこうざか) がある。かつては、この辺りが蜀江山だったのでこのように呼ばれていた。蜀江山の由来は,天慶の乱の時 平将門 (弟の将頼?) が蜀江錦の衣の袖を落とした事からからとか、江戸時代に三代将軍家光が鷹狩りでこの地を訪れた際に紅葉の美しさを 蜀江の錦のようだと賞賛したともいう。


この時点で4時半になっていた。新宿区の未訪問の坂道はまだ残っているのだが、日暮れも近くなってきているので、今日はこれで打ち止めとし、帰宅する事にした。



今日の訪問ログ