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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「全能の父である神」

2024.04.22 03:18
創世記17章1-8節
1. さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。2. わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」3. アブラムはひれ伏した。神は彼にこう告げられた。4. 「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。5. あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。6. わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
7. わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。
8. わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」

礼拝メッセージ

使徒信条シリーズ③

2024年4月21日

創世記17章1-8節

「全能の父である神」


 私はここ福井の教会に遣わされて2年が経ちましたが、2年の間に3回も日曜日の皆で集まっての礼拝を休会にしてしまいました。コロナとインフルエンザに感染したためです。私たちは、目にも見えない極めて小さいウイルスのせいで弱り、倒れてしまいます。身体の温度がたった2、3度上がっただけで、私たちは何もできなくなってしまうのです。

人は皆、万能ではありません。どんな器用な人にも出来ないこと、苦手なことがあります。どんなに知識のある人でも、この世界・宇宙は分からないことだらけです。私たち人間は有限な存在です。

それに対して、私たちの主なる神様は無限のお方。全知全能なる神様です。使徒信条で「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。」と告白します。

― 偉大な神様のご性質「全能」について、ふざけてはいけないのでしょうが、私は「ぜんのう」と聞くと、どうしても「全農:全国農業協同組合連合会、JA」が思い浮かんでしまいます -

冗談はさておき、もしも私たちが全能だったらと考えます。何でもやりたいことができる。願ったことが何でも叶えられるとしたら、何を願い、何を行うでしょうか?

マンガのドラえもんの中に、時々こんなお話が出て来ます。のび太くんがドラえもんのスペア(予備の)ポケットをこっそり盗み出して、欲しい道具をよりどりみどり取り出し、何でも自分の願いどおりにしようとします。すると世の中がとんでもないことに、取り返しがつかない大混乱におちいってしまいます。

のび太くんも次第に、何でも思い通りに行く現実に空しさを感じてしまいます。結局のび太くんは反省し、ドラえもんに「ごめんね」と謝ります。そしてドラえもんにお願いして、もう一度、世界をもとの状態に戻してもらうのです。

私たち人間が全能になってしまったら・・・、自己中心に、欲望のおもむくままに世界と周りの人たちを動かそうとするでしょう。罪人である私たちが全能になったら、地球はすぐにメチャクチャになり、滅びてしまでしょう。

では神様の全能って、どんなことでしょうか? 神様が全能でいらっしゃるということは、神様は良いことでも悪いことでも何でもおできになるということではありません。正しくは、神様はご自身がお望みになることを何でもおできなるのです。

正しくて愛に満ちておられ、すべてのことをご存知の神様が、私たちのために最善のご計画を立てておられます(摂理)。そのご計画通りに、神様の時に従って、何でもすることができるのです。特に私たち人を救い出し、生かすために神様は何でもしてくださるのです 。これこそ神様の全能です。

金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」それを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:25―27

「神様がお望みになることは何でも」ということは、裏返せば、神様がお望みにならないことは決してなさらない。お出来にならないということです。例えば、神様が罪を犯す。悪巧みをしてそれを実行する。正しいことをねじ曲げてしまう。私たちの不正に対して見て見ぬふりをしておく。偽りのさばきをされる。こういったことを神様は決してなさいません。

善意と愛に満ちておられる神様が、私たちの父であられ、全能であられるのです。何と力強く、素晴らしいことでしょうか!

私たち人は有限、限界だらけです。神様だけが全能なるお方です。

今朝は、自分たちの限界を嫌というほど知らされた夫婦が、そこで神様の全能の力を体験していった。そのような出来事を創世記のアブラハムから見ていきます。

創世記17章前後には、年老いたアブラムとサライ(アブラハムとサラと改名される)に、約束された子どもがなかなか与えられず、彼らが絶望しそうになっている姿が出てきます。結婚したのは、かれこれ数十年前。かわいい赤ちゃんをと願いながらも、「サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった」(創世記11:30)のです。そんなアブラムに創世記12章、神様から祝福の約束が与えられます。

「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」(12:1,2)

子孫祝福の約束でした。ただただ神様のこの約束を信じて、アブラムは見ず知らずの場所へ旅立って行きます。アブラム75歳、サライ65歳の時でした(12:4)。けれどもその後、いっこうに子どもは与えられません。

 10年後、アブラム85歳のときに神様は再び現れ、彼を夜の闇に連れ出して言われます。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」(15:5) この時もアブラムは、主なる神様は必ず約束されたことを成し遂げてくださると信じます。それでも、子どもは与えられません。

それから14年後、アブラム99歳の時に起きたことが、今日の創世記17章のみことばです。1,2節、

さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」

神様はご自身のことを初めて「わたしは全能の神である」と明かされます。それなのに20年以上待たされたアブラハムはこの時、神様の約束を小馬鹿にし、笑い飛ばしてしまったのです。 アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」(17:17)

この世の常識、自分の小さな頭で考えた思い込みにとらわれてしまったアブラハムは、神様の全能に賭けることができませんでした。夫は百歳、妻は九十歳。さすがに無理でしょう。アブラハムは主の前に「ひれ伏した」とあるように、神様を恐れ礼拝していますが、心の中では「いやいや、それは無理だ」と冷ややかに笑ったのです。

しかし神様は、アブラハムが100歳になるのを待っておられたのではないでしょうか。なぜでしょうか? それはアブラハムとサラの人間的な可能性をゼロにするためでした。「もうどう考えても無理だ。限界だ」と、自分自身にはより頼めないことを知らせてくださり、そこで神様が全能であることを「信じるか? 期待するか? すべてを明け渡して委ねるか?」と信仰のチャレンジを与えるためだったのではないかと思います。

 

私たちも「神様により頼まなくとも何とかやっていけるだろう」。「神様に必死に祈らなくとも大丈夫だよ」。まだそう思っているうちは、神様の全能の力を肌で体験できないのでしょう。徹底的に自分の無力さ・弱さ・罪深さ・限界を知らされる体験を通して、私たちは神様の全能の力を知らされていくのではないかと思います。

アブラハムは、神様の全能の力・このお方の約束を、「もういいよ、そんなこと無理だよ、ありえない・・・」と自分の考えで笑い飛ばしてしまいました。妻のサラも同じでした。創世記18章で3人の神の使いがやって来た時、御使いは言います。「来年の今ごろ、― あなたの妻サラには男の子が生まれている。」(18:10) それを聞いた

サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」(18:12)

その時、主は言われます。「主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」(18:14)神様の約束通り、1年後、待望の赤ちゃんイサクが与えられます(21:1-7)。

私たちは「神様は全能だ。不可能なことは何も無い」と告白していながら、本当にそうは信じ切れていないのではないでしょうか。アブラハムやサラのように、心のどこかで「聖書はそう言っていても、現実はもっと厳しいんだ。そんなことは無理だ・・・」と思ってはいないでしょうか。私自身、そういった信仰姿勢だなあと思わされています。現実ばかりに・この世の常識ばかりに縛られ、神様の恵みが・神様の祝福の約束が、なんだか真実味が無い言葉のように響いてくる。冷めた思い・あきらめの笑い・皮肉な思いで神様の約束を見てしまっている。私自身、アブラハムであり、サラだなあと思います。

「主にとって不可能なことがあるだろうか」この言葉はアブラハムとサラだけでなく、もう一人別の女性にも語られました。 イエス様のお母さんとなったマリアです。先ほど交読したみことばです。御使いガブリエルが処女であるマリアのもとに現れ、「あなたはみごもって、男の子を産みます。聖霊によって神の子が宿ります」と告げます。 マリアは驚いて答えます。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」(ルカ1:34)

確かにあり得ないことです。常識的に考えてマリアも分かっています。その時、マリアをさとすように御使いは言います。「神にとって不可能なことは何もありません。」(1:37)

それを聞いたマリアの口から、あの有名な言葉が出てきます。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(1:38)

マリアは神様のみことばは必ず実現すること。神様にはそれがおできになることを信じきったのです。そして神様の全能の力に自身を委ねたのです。自分の頭では理解できない。「なぜ?」と言いたくなってしまう。しかし人の思いではなく、私の思いではなく、神様の最善のご計画(摂理)がある。私のような者を通して、神様は最善のご計画を実現してくださる。だから神様の全能の力に、自分の全てをおゆだねしよう。私の人生も、私のこの体もたましいも、またこれから始まる結婚生活も、すべてを神様の全能の力に、神様のご計画にお任せしようと、マリアは信じて、従ったのです。

私たちも、このようなゆだねきる信仰を与えられたいと願います。全て自分で成し遂げないと気が済まない。全部を自分が知っておかないと、何もかも握り締めておかないとという人間的思いで生きるのではなくて、主の全能の力により頼み、御霊に導かれていく歩みを、心から祈り、願い求めていきましょう。

先週に引き続き、今朝も「ハイデルベルク信仰問答」の問いと答えから、全能の神様が私たちの父であられるすばらしさ・豊かさを味わっていきましょう。


問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか。


答  わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来については わたしたちの真実な神をかたく信じ、どんな被造物も この方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信するようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです。 

吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』(1997年、新教出版社)、29,30ページ。


「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。」と口で告白し、心からこのお方を信頼して歩んでまいりましょう。

祈ります。