三井楽と宮古
https://note.com/jiyuji/n/n51ef830dfda5 【三井楽と宮古】より
字遊児(じゆうじ)
少しばかり私生活でバタバタしていまして、落ち着いて記事を書く気になれなかったのですが、前回の記事を振り返り、少し付け足したいことも出て来ましたので、今日はそちらにお付き合い下さい。
さて、死者に会える "みみらくの島" という、謎めいた存在を題材にした和歌を取り上げてみた前回の記事ですが、その比定地である、長崎県五島列島の福江島に在るという三井楽(みいらく)の崎、ここを色々とネットで調べているうちに、幾つか気になることが在りました。
一つ目は、三井楽半島の西の沖に浮かぶ、嵯峨島(さがのしま)の存在。Google Maps で見てみると、この小さな島には、アコウの木が観光名所に成っている場所が在るみたいなのです。
アコウと言えば、南西諸島で良く見かける木で、珊瑚石灰岩の岩場の露頭に、気根と呼ばれる露出した根を張り巡らせて張り付いていたりします。良く似たタイプの木に、有名なガジュマルの木がありますね。
温暖な気候を好むので、日本だと九州、山口、四国や紀伊半島の南部など、限られた場所にしか生息しないようです。
もっとも、九州に関しては、ほぼ全域で見られるようなので、何もこの島だけに限った存在ではない訳ですが、それでも、観光名所に成るほど繁茂していると聞くと、何やら南の島との縁を感じてしまいます。
次に気に成ったのが、三井楽半島の西端にある、"スケアン" と呼ばれる史跡です。
スケアンは、石干見(いしひび)漁法という、古代の漁法を行っていた跡の残って居る場所らしく、平坦な岩場に石垣などを築いて、干潮時に人工の潮だまりが出来るようにし、そこに取り残された魚介類を採るという漁法らしいです(スケアンは、スケ網の意味で、潮だまりで魚を掬う所から来ているようです)。
それを知って自分が直ぐに思い出したのは、柳田国男が、「海上の道」の中で取り上げている、宮古島周辺の "干瀬(ひせ)" のことでした。
干瀬は、珊瑚礁の中でも特に、干潮時に浅瀬に姿を表すようなものを指すのではないかと思われ、宮古島の周辺には、有名な "八重干瀬(やびじ)" が在ります。
「海上の道」では、稲作民族が、とある貴重な海産物を求めてこの干瀬にやって来たのが、南西諸島に人のやって来た最初ではないかという考察がされています。
石干見漁法は、これ又広く、九州各地の沿岸で行われていたということらしいので、やはりこのスケアンに限られた伝統と言う訳でもないようなのですが、古代の九州周辺の漁労民達は、何処か南方に起源を持つ生活様式で暮らしていたような気がします。
最後に、これはちょっとこじつけの感が強いのですか、三井楽半島の中心部の地名が、嶽(たけ)と言うらしいのです。何となく、沖縄の聖地である御嶽(うたき)を思い出させるような名という気がしませんか?
以上のような事から、三井楽と言う場所は、実は、宮古島辺りから流れ着いた古代の人々が、故郷を思い出しながら暮らして居た場所なのではないかと言う気がして来て、それが今の自分の仮説(妄想?)と成っています。
もしそうだとしたら、彼等が辿ったのは、正に黒潮に沿った「海上の道」そのものだった訳で、何ともロマンに満ちた話だなぁ~なんて思うのですが、実際の所は、やはり単なる駄洒落とこじつけに過ぎないんでしょうかね?……(笑)
http://ktymtskz.my.coocan.jp/B4/ryukyu2.htm 【一 琉球文化の成立「南島」から琉球へ】より
琉球文化の成立「南島」から琉球へ
1 琉球世界への胎動
2 「南島」の島々
二 琉球王国の形成
1 グスクと版図の拡大 琉球王国の領域と島嶼世界
2 大交易の時代 対外関係と朝貢品
三 近世琉球の展開 日本と中国との関わりのなかで
1 江戸幕府・薩摩と琉球、中国と琉球
2 改革政治の時代 羽地朝秀と蔡温
3 銀・黒糖・ウコンと中国・日本市場
4 港湾都市那覇
5 泡盛とその流通
6 海上交通の状況
7 漂流民と琉球
図48 正保国絵図「沖縄諸島図」
江戸幕府の命により全国的に6度作成された国絵図の内、
琉球のそれは正保度(1645~46)、元禄、天保度の3回。
奄美諸島、沖縄諸島、両先島諸島の3枚からなる。
一 琉球文化の成立「南島」から琉球へ top
1 琉球世界への胎動
三つの文化圏
今日までの考古学研究の成果によれば、琉球列島は大きく三つの地域文化圏に区分して考えることができる。
すなわち、種子島・屋久島と周辺の島々からなる北部圏、奄美諸島と沖縄諸島を合わせた中部圏、宮古諸島から八重山諸島までの南部圏である(国分直一「南島の先史土器」『考古学研究』第二二巻第二号、一九六六年ほか)。
三つの地域文化圏の中で、九州島に近い北部圈は、縄文・弥生文化段階から今日まで、終始、九州島の文化的影響を受けてきた。
これに対して、中部圏は北部圏を通じた日本の影響も見られるが、基本的に独自の文化を育んだ。
また、南部圏では十~十二世紀頃まで、北部圏はおろか、中部圏との関係も全く持たない先史文化が存在した。
しかし十~十二世紀をすぎると、中部圏と南部圏はしだいに関係を深め、両文化圏が融合して琉球文化圏を形成する。
従って、今日、一般に琉球文化圏と呼ぶ領域は、十~十二世紀以降に作り上げられたものなのである。
琉球列島の洪積世人骨
さて、後に琉球文化圏を形成する中部圏と南部圏では、およそ一万年前までつづいた洪積世段階の化石人骨が多く発見されることで知られる(沖縄県教育委員会「港川人と旧石器時代の沖縄」『沖縄県史ビジュアル版2 考古①』)。
その代表的資料が沖縄県具志頭村(ぐしかみそん)の港川人(みなとがわじん)である。
沖縄では珊瑚石灰岩を切出して、石垣や墓などの石造建築材料に用いることが多い。
港川人はこの珊瑚石灰岩の石切場の大きな割目(フィッシャー)に溜った堆積土中から発見された。
少なくとも五体以上の人骨があり、これらはすべて約一万八〇〇〇年前頃に位置づけらわる。
一号男性人骨の推定身長は一五三センチ、他の女性人骨三体の平均身長は一四三センチで、男女ともやや小柄である。
図49 港川人一号男性頭骨
頭骨はやや大きめで、眉間が突き出し、鼻の付け根が窪んで、頬骨が張るなどの特徴を持つ。
この港川人と繩文人との形質学的な類似性を指摘し、港川人を縄文人の祖先と考える研究者もある。
しかし、沖縄以外での分析対象となる人骨類例資料が少ないことから明確ではない。
このほかに、化石人骨が出土した遺跡として、約三万二〇〇〇年前とされる那覇市山下町第一洞窟や、久米島下地原洞窟などが知られる。
これまでのところ、これらの遺跡では化石人骨に伴う石器が出土せず、わずかに利器として加工したようにも見える鹿の骨角などが確認されるのみであった。
このため、洪積世人類が残した旧石器を主な研究対象とする、他地域の考古学的調査・研究成果と比較・検証することが難しい。
このような状況を踏まえ、洪積世段階の琉球列島には、旧石器文化ではなく、独自の骨角器文化が存在した可能性も考えられた(高宮廣衞「近隣の後期旧石器文化に見られる骨角器」『肥後考古』第八号(三島格会長古稀記念 交流の考古学))。
しかし、周辺地域に類例文化がなく、否定的評価が一般的である。むしろ、この問題については、琉球列島での旧石器文化に関する調査・研究の不足を指摘する意見も強い。
やっと一九八〇年代以降になって、中部圈に属する奄美大島笠利(かさり)町土浜(つちはま)ヤーヤ遺跡や喜子川(きしがわ)遺跡、徳之島伊仙町(いせんちょう)天城(あまぐすく)遺跡などでは、旧石器時代の遺跡が確認されつつある。
形質人類学的研究だけではなく、これら人類の残した遺跡・遺物を分析対象とした、考古学による旧石器時代研究の進展が待たれるところである。
氷河期の終りと新たな文化 洪積世段階の地球は氷河期であったが、約一万八〇〇〇年前の最盛期を境として、しだいに温暖化する。
この結果、地球の中緯度地域までを覆っていた氷河は、約一万年前になると、現在と同じく北・南極の周辺のみに残る状態となった。
また、氷河が溶けたことによって、海氷面は除々に上昇し、アジア大陸と陸続きであった琉球列島は、大陸から切り離され、今日のような点在する島々の姿に変った。
さらに、温暖化による気温の上昇やこれに伴う海流の働きなどによって、琉球列島の中・南部圈は亜熱帯気候帯に含まれることなった。
これに応じて、植物相や動物相もしだいに変化し、琉球列島に居住する人類は、これに対応する新たな文化を生み出していった。
中部圏の先史文化――沖縄貝塚時代文化
このような変化の中で、中部圏に根付いた文化は海洋性にんだ狩猟・漁撈・採集の文化である。
この文化については縄文土器に類似する在地土器が存在すること、また九州南部地域で作られた縄文土器のいくつかが出土すること、さらには九州産黒耀石を用いた縄文文化特有の石鏃が見られることなどを踏まえ、日本の縄文文化に含まれるとする意見が一般的である(高宮廣衞『沖縄縄文土器研究序説』)。
しかし、中部圈では旧石器文化から縄文文化への推移過程を示す遺跡や遺物が見つからないこと、石器や土器の形や組み合わせなどが縄文文化とは微妙に異なっていること、さらには縄文文化の特徴的遺物である土偶や石棒などの祭祀遺物が存在しないことなど、縄文文化との相違点も多く指摘される。
特に、旧石器文化から縄文文化への推移を示す遺跡や遺物については、旧石器文化段階の遺跡が奄美大島や徳之島でしか確認さわていないことに加えて、現在のところ中部圏全域において、縄文時代開始期に遡る遺跡が確認されていないことが大きい。
物理学的年代測定法を用いた年代批定でも、縄文時代前期に並行する段階からの遺跡が知られるに過ぎず、縄文文化に含まれるとしても、日本本土とは出現時期にかなりのズレが認められることとなる。
中国や台湾などを含めた東アジアの先史文化と比較した場合、内容的に最も近いのは縄文文化であるが、中部圈の縄文文化は亜熱帯島嶼という環境に順応したきわめて地域色の強い縄文文化と理解すべきである。
なお、日本では縄文文化につづいて、大陸から伝わった稲作農耕を基盤とする弥生文化が定着し、韓半島を通じて大陸文化を吸収しながら、しだいに古代国家への歩みを進めて行く。
これに対して、琉球列島中部圈では弥生文化に見られるいくつかの文物の流入は認められるものの、基本的には従前からの狩猟・漁撈・採集による文化を継続する(高宮旅衛・知念勇細「貝塚後期文化」『考古資料大観』12)。
沖縄考古学では、前代の縄文文化段階を含めて、これを特に沖縄貝塚時代文化と呼んでいる。
沖縄貝塚文化を担った人々は、初め海岸河口に近い砂丘地に遺跡を形成することが多く、しだいに内陸部へ進出し、弥生文化併行期以降、再び海岸砂丘地に占地する傾向を持つ。
この時期の遺跡の主な出土遺物である土器は、縄文土器をはじめとする日本の土器と比較して、文様や器形などの変化が少ない。
また、石器も石匙や槍などの器種がなく、斧を中心とした単純な組成を持つ点に特徴が見られる。
この沖縄貝塚時代文化は、日本の古墳時代をへて、平安時代末の十~十二世紀頃までつづくとされるが、この間に古代国家を形成した日本では、琉球列島を南島(なんとう)と呼び、関係するいろいろな記録を残すこととなる。
南部圏の先史文化
一方、南部圏の先史文化は、今のところ、およそ四〇〇〇年前頃と一五〇〇年前頃に中心を持つ、年代的にも不連続な二つの文化が確認されているにすぎない。
前者は海岸に面した丘陵端部に立地することが多く、分厚い鉢状土器(下田原式土器)や刃部のみを磨いた不定形石斧を指標とする。
後者は海岸砂丘に立地し、土器を持たず、磨製のシャコガイ製斧や石斧を伴う。
両文化とも狩猟・漁撈・採集文化であるが、二者の間に系統性は認められない。
また、現在までの南部圏の研究では、両者以外の先史文化は確認できない。南部圏の先史文化については、地理的関係や海流の影響から、東南アジアや台湾との関係を模索する傾向にあるが、これらの地域の先史文化もあまり明確ではない。
このため、これら二つ以外の文化の存在を含めて、南部圏の先史時代研究については、今後の調査や研究の進展に期待される部分が大きい(沖縄県教育委員会「考古」『沖縄県史』各論編2)。
海によって隔てられた二つの文化圏
いずれにせよ、約一万年前から十~十二世紀までの琉球列島中部圏と南部圏は、ともに狩猟・漁撈・採集に依存する文化を持ちながらも、両圏の間での通交の痕跡が全く見出せない。
その要因としては、中部圏の沖縄島と南部圏の宮古島との間の約三〇〇キロにおよぶ海が障壁となったと考えられる。
おそらくはこの海域を北上する黒潮の強い流れが、両圏の間の安定的往来を著しく妨げたのであろう。
両圏の人々が安定的通交関係を持つには、これを乗り越えて行き来する海上移動のための船舶と、これを運航する技術や知識の修得が必要となる。
遣唐使船を派遣した律令期の日本古代国家や、中国の隋王朝や唐王朝では、琉球列島に関するある程度の地理的知識と造船・航海技術が備わっていたものと考えられる。
しかしこの段階の琉球列島中・南部圏には、これを我がものとする社会的文化的状況はできていなかったのであろう。
これを獲得し、相互の間の安定的通交が生まれるには、日本における平安時代末となる十~十二世紀まで待たなければならない。
2 「南島」の島々 top
南島の登場
南島とは、大隅半島以南から台湾までの間に放物線を描くように連なる島々の総称で、現代の地理学的呼称によれば、大隅諸島、奄美諸島、琉球諸島からなる。
南島の語は『続日本紀』文武天皇二(六九八)年四月十三日条に初見するが、元々日本古代国家がその支配のおよばない南の島々を指して用いた歴史用語である。
従って七〇一年の大宝律令施行以後まもなく種子島・屋久島を中心に多褹島(たねしま)という行政区が設置されると、大隅諸島は南島の範疇からは除かれることになる。
こうした南島が日本の正史に登場するのは推古天皇の時代である。
当初は掖玖(やく)という語が漠然と南島を指す呼称として用いられた。
『日本書紀』推古天皇二十四(六一六)年条には、掖玖人が三月に三人、五月に七人、七月に二〇人、あわせて三〇人やってきたこと、そして彼らを朴井(えのい)というところに安置しておいたところ全員死亡したことなどが記されている。
またそれから四年後の推古天皇二十八年にも披玖人二人が伊豆島に「流来」しており、さらに舒明(じょめい)天皇元(六二九)年四月には田部連(たべのむらじ)某(なにがし)なる人物が披玖に派遣され、翌二年九月に帰朝したこと、そして同三年二月には掖玖人が「帰化」しかことが『日本書紀』には見えている。
『隋書』(ずいしょ)流求(りゅうきゅう)伝にも大業四(六〇八、推古天皇十六)年のこととして、朱寛が流求から持ち帰った「布甲」をみて、人貢中の倭国使(わこくし、遣隋使)が「これは夷邪久国(いやくこく)人の用いるところなり」と言ったと記されている。
ここに出てくる夷邪久が掖玖と同じ概念であることは疑いない。
となると少なくとも大和の人たちは正史に登場する以前から掖玖人に関する知識を持っていたことになる。
南島の特定の島が最初に史料に現れるのは「海見島」すなわち奄美大島である。
『日本書紀』斉明(さいめい)天皇三(六五七)年七月三日条では、筑紫に漂泊した覩貨邏(とから)国の男二人・女四人が「初め海見島に漂泊した」と話したことを伝えている。
ただ覩貨邏国については十島村のトカラ列島ではなく、今のタイ国、メナム河下流のモン族の王国、ドヴァーラヴァティと見る説が有力である。
興味深いのは、彼らがどうして筑紫に漂泊する前に漂泊した島を海見島であると報告できたのかということである。
漂泊した際に彼らが島人から聞いたのか、あるいは筑紫の官人が彼らの説明を聞きそのように認定したのであろうか。
いずれにしてもこの時すでに奄美大島の存在がその島名とともに知られていたのであろう。
図50 『附書』「流求伝」の末尾部分
次に個別島名が出てくるのは多禰島(たねしま)すなわち種子島である。
天武(てんむ)天王六(六七七)年二月には、多禰島人が飛鳥寺(あすかでら)の西の槻(つき、ケヤキの古名)下で酒食のもてなしを受けている(『日本書紀』同年是月条)。
また同八年十一月には、大使と小使をおいた本格的な調査団が多禰島に派遣されている(『日本書紀』同)二十三日条)。
彼らは約一年一〇ヵ月滞在し、同十年八月に帰朝し、「多禰国図」を提出するとともに、風俗や産物などについても詳細な報告を行っている(『日本書紀』同二十日条)。
それによれば、多禰島の人々は頭髪を短くして、草の衣装を着ているという。
また粳(うるち)の稲は毎年豊かに稔り、「一たび殖えて両(ふた)たび収む」とある。
これは一度収穫した後にヒコバエが成長し、二度収穫できることを意味する。
上毛(どもう)すなわち当島の特産物として、「支子」すなわちアカネ科常緑低木の梔子(くちなし)と、筵(むしろ)の原料となるガマ科の多年草の「莞子」(蒲=がま)が挙げられており、このほか、海産物が豊富であると報告されている。
天武天皇十一(六八二)年七月には、多禰人・掖玖人・阿麻弥(あまみ)人がそれぞれ禄を賜っている(『日本書紀』同二十五日条)。
多禰人は種子島の人、掖玖人は屋久島の人、阿麻弥人は奄美大島の人のことである。
掖玖の語はここに至って従来の漠然とした南島の総称から個別の島としての屋久島を指すようになったとみられる。
このように推古・舒明期までは漠然と掖玖として認識されていた南島が、天武期になるとしだいに分化していく様子がうかがえる。
版図の拡大
文武天皇二(六九八)年四月に、務広弐(むこうに)文忌寸(ふみのいみき)博士ら八人に戎器(じゅうき)を給い南島に遣わし国を覓(もと)めしめている(『続日本紀』同十三日条)。
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この時初めて南島という語が用いられているが、文忌寸博士(博勢=はかせ)はその三年前の持統天皇九(六九五)年三月に多禰島に派遣された人物であること、「覓国」(くにまぎ)とは未知の国(島)を探検するという意味であり、また武器を携行せしめていることを考えると、この時の遣使がこれまでにない特別な任務を帯びていたことを想定せしめる。
翌三年七月条には、多褹(たね)・夜久・奄美・度感(とかん)などの人が来朝したことが見えているが(『続日本紀』同十九日条)、「度感島、中国(大和の国家のこと)に通ずるけ是に始まる」と、度感島すなわち徳之島の入朝の実現を強調しているのは、覓国使派遣の目的の一つが版図の拡大にあったことを示唆する。
和銅七(七一四)年十二月には、少初位下の太朝臣遠建治らが南島の奄美・信覚・球美などの島人五二人を率いて帰朝している(『続日本紀』同五日条)。
翌年の霊亀元(七一五)年正月の朝賀の儀式に陸奥(むつ)・出羽(でわ)の蝦夷とともに南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美などが方物を貢じたことが見えているので(『続日本紀』同一日条)、遠建治らが率いた南島人五二人の中には奄美・信覚・球美のほかに夜久・度感の人も含まれていたことがわかる。
ここに新たに登場した球美は新井白石が比定したように久未島とみて間違いないであろう。
ただ信覚については新井白石が石垣島に比定したことについては否定的な見解も多い。
しかし他に代案を示すべき島が見あたらないため、依然として通説の地位を保っている。
『続日本紀』養老四(七二〇)年十二月八日条には、南島人三二二人に遠人を懐(なつ)くるためとして位を授与したことが見える。
また神亀四(七二七)年十一月八日条には一三二人の南島人が来朝したので位を授けたとある。
一度の来朝人数としては多いこと、また事前に南島への遣使記事が見えないことなどから、これは南島人の主体的な「朝貢」のようにも見える。
「朝貢」といっても南島人の意識はあくまでも交易でしかない。
ところで鑑真(がんじん)の伝記『唐大和上(とうだいわじょう)東征伝』には、天宝十二(七五三)歳十一月十六日に四船で蘇州の黄泗浦(こうしほ)を出発し、同月二十一日に第一船と第二船が同時に「阿児奈波島」に到着したとある。
第三船は十日の夜にすでに到着していたが、第四船は途中船尾部分から失火し船団を離れたという。
鑑真に随伴した思託(したく)の伝記には、「阿児奈波島」到着した際、唐僧義静(ぎじょう)が石窟の中で魍魎(ちみ)に遭通し失心したため、檳榔(びんろう)を採り義静を救った記事がある(『国史大系』第三一巻「延暦僧録」第一 「思託伝」)。
ここに出てくる阿児奈波を、中国音のアルナプまたはアイナプであるとすればエラブに通ずるとして口永良部に比定する見解もあるが、沖縄本島を指すというのが今日の通説である。その訓みについてアコナワ、アジナバ、アルナワなど様々あるが、東恩納(ひがしおんな)寛惇(かんじゅん)は島民の語音ウチナフを表記したものであるうと述べている(『南島風土記』)。
『続日本紀』天平勝宝六(七五四)年二月二十日条によれば、故小野朝臣(おののあそん)老(おゆ)が大宰府の大弐であった天平七(七三五)年に高橋連(たかはしのむらじ)牛養(うしかい)を南島に派遣して牌(はい)を建てさせたが、年月をへて今は朽ちて壊れてしまっているとして、大宰府に対して元のように牌を修復するよう命じている。
これは鑑真を随伴した遣唐使が復命の際に問題としたことを受けての対応策である。
牌には漂着船に「帰向」する所を知らしめるため、その島の名称、船の停泊処および水のありか、次の島までの行程などが記されていたようである。
なお、この天平勝宝六年の記事を最後に南島の島々は正史から姿を消す。
日本古代国家との交流
ところで近年になって、大宰府跡の天平年間の遺構から「檳美嶋」「伊藍鵤」の文字が見える付札(つけふだ)木簡が出土した。
「掩美嶋」は奄美大島に、「伊藍鵤」は沖永良部島にそれぞれ比定されているが、これらの木簡は、両島から大宰府に送られてきた産物を、京に送るまでの間、大宰府に留め置かれた際、整理・保管のために取付けられていたものである。
これによって八世紀段階に南島からある産物が大宰府に運ばれたことが確実となったわけである。
それでは南島の産物とは何か。
今のところ史料的に裏づけられるのは赤木(あかぎ)のみである。
すなわち『延喜式』民部下の年料別貢雑物条には、大宰府が貢進すべき雑物の一つとして赤木が見え、そこに「南島進むる所。其の数は得るに随う」と説明が付されている。
この南島の赤木は大宰府から中央の内蔵寮に送られた後、内匠寮で軸に加工され、内記局で親王の位記軸として用いられたことも『延喜式』によって確認できる。
従ってこれらの木簡が取り付けられた南島の産物は赤木であった蓋然性は高い。
ただ、赤木のように南島からの貢進を裏づける明確な史料は存在しないが、日本において酒をつぐ杯(盃)や螺鈿(らでん)に奄美以南に生息する夜光貝が用いられていることから、その可能性も捨てきれない。
いずれにしても、八世紀に南島産の物資が大宰府をへて中央政府のもとへ運ばれていたことが大宰府木簡で裏づけられたことは重要で、これに加えて南島人の古代国家への交易を目的とした「朝貢」、また遣唐使船の寄港といった、南島と日本古代国家との交流を通して見えてくる南島社会は、身分階層が顕然化したいわゆる階層社会である。
そのリーダー的存在の人間が後に按司(あじ)として成長していくことになる。
二 琉球王国の形成 top
1 グスクと版図の拡大 琉球王国の領域と島嶼世界
グスクの出現
琉球列島の中の沖縄島とその周辺の島々には、二百数十に上るグスクと呼ぶ場所や構造物がある。
グスクには城の漢字が当てられ、一般には城郭と理解される。
丘陵の先端部や尾根上に占地し、地形に応じた曲線的な石垣を巡らすことによって、幾重かの郭を造るものが多い。
主だったグスクでは継続的な発掘調査が行われており、その出土遺物からすれば、十三世紀頃に築造されはじめたことが知れる。
やがて十四・十五世紀には最盛期を迎えるが、十六世紀代に入ると一部の城を除いてしだいに用いられなくなる(沖縄県教育委員会「ぐすく――グスク分布調査報告書(I)-沖縄本島及び周辺離島-」『沖縄県文化財調査報告書』第五三集)。
類似する構造物は奄美諸島や宮古・八重山諸島にも見られ、奄美諸島ではアジ屋敷やグスク、宮古・八重山諸島ではスクなどと呼ばれる。
ただし、奄美諸島では石垣を巡らすよりも、尾根に幾段かの平らな面を作り出し、その前後を溝で掘り切ったり、土塁を造ったりして区画する例が見られる(三木靖「奄美の中世城郭について」『南九州城郭研究』創刊号、同「奄美の中世城郭(個別編)」『南日本文化』第三四号)。
また、宮古・八重山諸島では屋敷地ほどの小空間に石垣を巡らし、これをいくつか連結させた例がある。
従って、同じような名称で呼ばれる構造物でも、地域によってそれぞれ少しずつ異なることが明らかになりつつある(沖縄県教育委員会「ぐすく-グスク分布)調査報告書(Ⅱ)-宮古諸島-」『沖縄県文化財調査報告書』第九四集、同「ぐすく-グスク分布調査報告書(Ⅲ)-八重山諸島-」『沖縄県文化財調査報告書』第一一三集)。
図51 沖縄島周辺諸島の主なグスク分布図
グスクと琉球史研究
十三~十六世紀の琉球列島中・南部圈に、このような構造物が広く分布することについて、これまでの考古学・歴史学研究では琉球王国の形成過程と関連づけて理解してきた。
その背景には、十六世紀に沖縄島の首里に王城を構えた中山王(ちゅうざんおう)によって、琉球列島の中・南部圈が統一されたという記録の存在がある。
その記録とは、琉球に関する十四世紀後半段階からの記事が収録された、中国明王朝や韓半島高麗(こうらい)・朝鮮王朝の正史および琉球玉国内に残された外交文書、十七世紀以降にまとめられた琉球王国の正史などである(これについてはⅡ-二-2参照)。
文献史学ではこれらの文献資料を読解きながら、琉球史という特化した地域史研究を確立しており、そこでは必然的に琉球王国の成立とその存在を前提とした研究が進められてきた。
この影響は考古学研究にもおよび、グスクは琉球王国の成立や琉球列島の統一全長付ける遺跡として取扱われるとともに、その研究は後に王城が置かれた沖縄島での調査を中心に展開することとなった。
このため、先述した奄美諸島や宮古・八重山諸島に分布するグスクに類似する構造物についても、沖縄島を中心としたグスク研究や琉球王国成立史の成果を前提として理解することに終始してきたのである。
グスク時代
この影響はこの時期の時代名称にも現れ、この間を一般にグスク時代と呼ぶ(高宮廣衞「沖縄」『日本の考古学』Ⅳ-古墳時代(上)-)。
グスク時代の名称は考古学研究上の土器分類と編年の必要性から使用されはじめたものであったが、しだいに琉球列島中・南部圈における琉球王国成立までの歴史的段階を示す時代名称となった。
奄美諸島や宮古・八重山諸島については、この時期の遺構や遺物についての検討が進まないにもかかわらず、いつのまにか両地域をも包括した時代名称として用いられることが多くなっている。
しかし、先述したような研究状況からすれば、沖縄島およびその周辺諸島での研究によって作られたグスク時代という概念や時代像の下に、十三~十六世紀の奄美諸島や宮古・八重山諸島を完全に含み込むことには、まだまだ検討の余地があることが明らかである。
琉球文化圏成立前夜
では、この時期の琉球列島の中・南部圏はどのように考えるべきなのであろうか。
これを明らかにするためには、後に琉球王国の版図となる琉球列島中・南部圏が、いつの段階から同一文化圏を形成するのかが問題となる。
これについては、グスクに代表される構造物が出現する十三世紀をさらにさかのぼって、十世紀代とする考えと、十二世紀頃とする考えが提示されており、定見を見ない。
この二つの考え方の違いは、両文化圏の間で出土する共通した遺物に対する年代的評価の違いによる。
その遺物とは類須恵器(るいすえき)、滑石(かっせき)製石鍋、中国南宋代白磁製品である。
類須恵器とは日本の須恵器に似た無釉(むゆう)の陶器であり、鹿児島県出水(いずみ)平野から沖縄県与那国(よなくに)島・波照間(はてるま)島までの間に分布する。当初、日本の須恵器の一種とも考えられたが、一九八三年に徳之島カムイヤキ古窯跡群が発見され、ここで生産されたことが明らかとなった。
さらに、その後の詳細分布調査によって、カムイヤキ古窯跡群は十二支群一〇〇基以上の窯跡からなると推測されるに至り、類須恵器のほとんどは徳之島で生産された可能性が高くなった。
ただし、その技術系譜については、須恵器の伝統を引く日本の中世陶器とともに、韓半島高麗時代無釉陶器との関係が取り沙汰されている。
カムイヤキ古窯跡群の出土資料による類須恵器編年は確立していないものの、放射性炭素年代測定法などの自然科学調査成果では、十一~十三世紀頃に操業していたとする結果が出されている(池田榮史「須恵器からみた)琉球列島の交流史」『古代文化』第五二巻第三号)。
図52 久米島ヤジャーガマ洞窟選跡出土の類須恵器
つぎに、滑石製石鍋は長崎県西彼杵(にしそのぎ)半島に分布する滑石露頭から切り出された鍋形製品で、十世紀頃から生産がはじまったとされる。
しかし、近年の研究では十一世紀後半から十二世紀にかけて、西日本一帯に広まったことが明らかとなりつつある。
また、十二世紀には鍋の形状が縦耳状把手の付くものから鍔付(つばつき)のものへと変化することも知られる。
琉球列島出土の滑石製石鍋の中で、口縁部の形状が判別できる遺物には縦耳状把手(とって)を有するものが多く見られ、その模倣土器も広く存在する(木戸雅寿「石鍋の生産と流通について」『中近世土器の基礎研究』Ⅸ)。
中国南宋代の白磁には玉縁椀がある。この時期の貿易陶磁器について、研究がもっとも進んだ福岡県大宰府遺跡群出土資料の編年によれば、白磁玉縁椀は十一世紀後半から十二世紀前半に位置づけられ、十二世紀後半にも一定量の出土が見られるという。
なお、これら三種の共通遺物のうち、類須恵器や滑石製石鍋については白磁玉縁椀を伴わないで出土する遺跡が見られ、白磁玉縁椀よりも先行する可能性が考えられる(太宰府市教育委員会「大宰府条坊跡ⅩⅤ-陶磁器分類編-」『太宰府市の文化財』第四九集)。
これらの共通遺物はすべて琉球列島以外から持ち込まれた製品であり、その出土状況やそれぞれの年代的位置づけを踏まえれば、琉球列島の中・南部圈でこれらの共通遺物が出土しはじめる年代は、十一世紀後半から終末頃に置くことが穏当と考えられる。
また、これらの外部から持ち込まれた共通遺物は、在地の土器製作に影響を与えており、その模倣土器も出現する。特に、滑石製石鍋は中部圏・南部圈双方の在地土器の器形に大きな影響を与えたと考えられ、それぞれの文化圏ごとに、以前にはなかった新たな土器型式を生み出す。
この結果、中部圏においては新たな土器型式がしだいに従来の貝塚時代土器を淘汰することもおこった。
また、土器製作が一時途絶えていた南部圏では、再び土器が製作されることとなった。
このような文物の流入とこれに触発された新たな土器型式の出現などを契機として、両文化圏は狩猟・漁撈・採集に依存する文化から、農耕を基盤とする文化へ推移したと考えられる。
琉球王国形成への道
さて、琉球列島中・南部圏での共通する文物の流入と農耕社会への変化には、両文化圏における内的展開とともに、琉球列島に持ち込まれた文物の生産地である中国や日本などからの外的影響が大きかったものと推測される。
日本の文字記録において、南島と呼ばれた律令期の琉球列島は、行政的には日本国家の枠外でありながらも、この地域の産物を日本へ運ぶ不定期な貢納関係があったとされる(鈴木靖民「南島人の来朝をめぐる基礎的考察」『東アジアと日本 歴史編』)。
これらの文字記録の存在は、九州を経由した日本律令国家と南島との間の通交を物語っており、この時期の南島は日本をはじめとする周辺地域と完全に隔絶していたわけではないことが知れる。
このような通交関係は、縄文・弥生文化段階に存在していた九州と琉球列島中部圏との交易の継承の土に存在したものと考えられるが、類須恵器や滑石製石鍋、白磁玉縁椀などの出土状況は、これらの通交が以前にくらべて量的にも質的にも飛躍的に増大したことを示している。そして、これを契機として、琉球列島の中部圏と南部圏は双方の間の関係を強め、同じ亜熱帯島嶼という環境に即した社会や文化を形成するのである。
文献史学・考古学双方とも、これらの通交が飛躍的に増大する明確な理由を提示できないが、琉球列島中・南部圏に共通する文化圏が形成されはじめたことの歴史的意義はきわめて大きい。
ただし、共通する文化圏の形成といいつつも、その歩みはそれぞれの島ごとに異なる。
また、いくつかの隣接する島々のまとまりごとによっても少しずつ異なったことが、先のグスクおよびこれに類似する構造物の存在などによって明らかである。
中部圏の奄美諸島では九州島を通じた中世日本や韓半島からの影響の大きさが予測され、沖縄諸島では周辺の島々にくらべて圧倒的に大きい沖縄島の優位性が考えられる。
南部圏の宮古・八重山諸島については、考古学的調査資料が少なく不確定な部分を含むが、台湾を含めた東南アジアからの影響を推測せざるを得ない。それぞれの島ごとの自然的環境に加えて、これらの地理的環境が大きく作用することによって、共通する要素とともに、それぞれの地域性を生じたものであろう。
しかし、やがて十四世紀後半に入り、中国明王朝が成立するにおよんで、明王朝との間の朝貢関係を結んだ沖縄島の諸勢力とその他の島々の勢力との間では、政治・経済・軍事など多くの点で優劣の差があらわれる。
そしてこれを背景として、しだいに沖縄島の勢力による琉球文化圏の政治的統合、すなわち琉球土国の版図の確定が行われることとなるのである。
2 大交易の時代 対外関係と朝貢品 top
琉明関係の成立
一三六八(洪武元)年、朱元璋(洪武帝)によって樹立された明(みん)国は、周辺諸国へ積極的に使者を派遣し、明国への朝貢(ちょうこう、進貢)を促した。
その要請に応えて、琉球国中山王の察度(さつと)に一三七二年に王弟の泰期(たいき)らを派遣し、ここに琉球と明国との間に公的な外交関係=朝貢関係が成立した。
この琉明関係の成立は、明国による新たな対外秩序の構築という歴史的な動向の一環にあった。
成立間もない明国にとって、周辺諸国と朝貢関係を結ぶことは、皇帝を頂点とした伝統的な中華秩序(=華夷(かい)関係)の再建を意味した。
それは内政面における秩序の安定と連動するものであった。しかし、明初の中国大陸沿岸部では、反明勢力の存在や倭寇・海賊らによる密貿易活動によって治安は乱れていた。それらへ対処するために、洪武政権は倭寇と密貿易集団との関係を断ち切るための海禁政策を採るとともに、一三八〇年代には倭寇や海賊の襲撃を防ぐため、沿岸部に多くの城塞や衛所の軍事施設を作いていた。
密貿易集団を排除し、沿岸部の治安を回復するという明国の施策は、正規の朝貢使節とだけ対外貿易を行うという、朝貢貿易体制に結びつくことになった。
琉球国は、このような明国の海禁政策と朝貢貿易体制に組み込まれたのである。
明初における琉明関係の特徴は、他の朝貢国にくらべて優遇されていた点にある。
略記すると、その第一は、朝貢頻度(貢期)における優遇である。
一三七二年から一四七四年までは貢期の制限がなく、ほぽ一年一貢であったが、一年に数回朝貢することも許容されていた。
第二は、大型海船の無償支給である。明国が海路での朝貢活動に便宜を与えたのは琉球に限らなかったが、琉球はその支給船の多さと長期にわたる面で優遇されていた。
たとえば、一三八五年から永楽年間(一四〇三~二四年)までの支給合計は三〇艘を数えた。
また、その無償支給期間は、一五四○年代頃まで続いたと考えられる。
第三は人材面での優遇である。船舶の乗組員(船頭や水主(かこ))、通訳など朝貢関係を実務面で支える人材が明国から派遣された。
那覇港の一角には、始期は不明であるが華人集団の居留地=久米村(くめむら、唐営とも呼称、後に唐栄と改称)が形成されていた。
その淵源は明初にさかのぽると推測されるが、彼らのすべてが明朝から公的に派遣された人々ではなく、むしろ私的に中国・琉球間を往来する民間の華人らが多数を占めていたと思われる。
そのような華人の拠点=久米村に明国から朝貢活動を支援する人々が派遣され、それ以前からの華人と融合し、後世になると「閩人三十六姓」の末裔(まつえい)という自己意識を持つようになった。
久米村人らは、近世になると対中国外交の専門集団として位置づけられた。
以上のような物資(船舶)と人材、そして明国側の受入れ態勢(貢期など)の諸側面において、琉球国は優遇されていたのである。
対外交易の拡大
このように明国との公的な関係=朝貢関係の樹立は、その後の琉球の歴史展開に決定的なインパクトを与える出来事であった。
というのは、対外関係の面において、琉球の交易活動圏は対明関係だけでなく、朝鮮、日本、そして東南アジア地域へも一挙に拡大したからである。
東アジア海域から東南アジア海域にまたがる広大な交易圏における中継貿易を琉球国が実現できたのは、前述した明国から無償で支給された大型のジャンク船とそれを操(あやつ)る華人集団を琉球側が組織化できたことにある。
また明国の海禁政策によって、民間の華人たちの交易活動が厳しく禁圧されていた状況も琉球には有利に働いた。
東南アジアでの交易の相手は、暹羅国(シャム、現在のタイ国にほぽ相当)、満刺加国(マラッカ、マレー半島の南部西岸側の港市)、仏大鉈国(パタニ、同半島の中部東岸側の港市)、旧港(パレンバン、スマトラ島南東部の港市)、蘇門答剌国(サムドラ、同島北東部の港市)、爪畦国(マジャパヒト、ジャワ島中央北部)、巡達国(スンダ・カラパ、同島西北部)、安南国(ベトナム)などであった。
図53 東南アジア・琉球王国の交易図
シャム国との交易関係
史料の制約から、これらの国や地域へ派遣された琉球船の正確な回数は不明だが、最多の派遣先はシャム国(アユタヤ朝)であった。
その派遣回数は、少なくとも四八回を数え、また確実な派遣期間は一四一九年から一五七〇年までとされている。
しかし、琉球からシャム国へ宛てた最古の文書(一四二五年の咨(し))には、洪武(一三六八~九八年)・永楽(一四〇三~二四年)年間以来、琉球はシャム国へ使者を派遣していたという記述がみられる(『歴代宝案』)。
また、一三八九年には、シャム国の主要な交易品である蘇木(そぼく、六〇〇斤)や胡椒(こしょう、三〇〇斤)が琉球から高麗へ献上されていた(『高麗史』一三七)。
さらに、一三九〇年からは明国への朝貢品として蘇木三〇〇斤、胡椒五〇〇斤が登場するようになる(「明実録」)。
これらのことからシャム国との交易関係は、一三九〇年にはすでに成立していたと言えよう。
また、これらの事実は、シャム(市街アジア地域)から高麗(東アジア地域)におよぶ広大な海域にまたがる琉球の中継貿易が、この頃には形成されていたことを物語るものでもある。
シャムだけでなく東南アジア諸地域との交易において、琉球のおもな輸出商品は明国から入手した中国陶磁器であった。
シャムとの交易関係はもっとも長く続いたが、当初は次のような問題を抱えていた。
官による統制交易
一四一九年にシャムへ派遣された琉球使節は、同国の貿易担当官(港務官)から「礼物が少ない」という理由で陶磁器を「官買」(官による強制購入)され、さらに蘇木の購入のさいにも官の統制による「官売」(公的なルート外での私的売買の禁止)措置がとられていた。
そのため琉球側の損失は大きかったという。
その後も、琉球側の要望する自由売買での交易は実現しなかったため、一時的に琉球は交易を中断したこともあったが、事態は打開されず「官買売」による交易がつづいた。
ところが、一四三〇年に、詳しい点は不明だが、港務官(管事の頭目)は不正を理由にシャム国王によって免職されたという。
その情報を得た琉球は翌年、官買の免除と蘇木の購入における「両平」(公正)な交易を要望している。
前年の港務官の免職が琉球側にとって有利に働いたかは不明である。
というのは、その後も琉球はシャムとの交易においては常に公正な取引を要望しつづけていたからである。
図54 「坤與万国全図」にみる琉球の位置
ともあれ、琉球にとってシャムとの交易は他の交易地(港市国家)にくらべると制約のある交易を強いられていたことは間違いないが、同国との交易が長期に及んだ理由は、これらの制約以上に利益をあげることのできる交易相手国であったことによるものと思われる。
朝貢品の変遷
琉球はシャムをはじめ東南アジアの港市国家との交易目的を「大明御前」(だいみんぎょぜん、中国皇帝)への朝貢に備えるためだとしばしば表現していた。
もちろん、その言い回しを額面どおり受取ることはできないが、かといって全くの虚構でもなかった。
というのは、たとえば一四七〇(成化六)年の明国への朝貢品は馬(一五匹)、硫黄(二万斤)、象牙(四〇〇斤)、束香(そくこう、二〇〇斤)、胡椒(四〇〇斤)などであった。
馬と硫黄は琉球産であるが、それ以外は東南アジア産である。
ところが、これら以外に国王の交易品(附搭(ふとう)貨物)として蘇木(六〇〇〇斤)、番錫(ばんしゃく、五〇〇斤)、胡椒(一〇〇〇斤)が同年の進貢船に積載されていた。
琉球国王は皇帝への朝貢と同時に貿易活動の両面を行っていたのである。
このように東南アジア各地から入手した交易品は明国への朝貢と貿易活動の元手となったが、それだけではなく前述の馬・硫黄に見るように琉球産も含まれていた。琉球産の硫黄は明初から王国末の一八七四年まで継続された唯一の朝貢品であるが、その他の朝貢品は時代とともに変遷が見られる。
たとえば、前述の蘇木は、一五七一年を最後に朝貢品、および国王の交易品からも基本的に姿を消す。
前年の一五七〇年を最後にシャム国への派遣は中止され、琉球の対東南アジア貿易はほぼ幕を閉じたことによるものであった。
ただし、完全に朝貢品から消えたわけではなく、たとえば一六四六年の明清交替時に琉球は南明側へ蘇木一〇〇〇斤を朝貢している。
これは直接、東南アジアの現地から入手したものではなく、福州などで購入したものを朝貢品に充(あ)てたものと思われる。
馬の朝貢は明初から一六八〇年までつづいたが、その後は薩摩藩を通して入手した錫(すず)に変更された。
また、ヤコウ貝の殼(螺殼=らかく)は一四二五年頃から登場し一回の朝貢で約三〇〇〇個を朝貢していたが、一六九〇年に朝貢品から除外された。馬とヤコウ貝の殼は、いずれも清国側では無用品とされたからである。
琉球は清国との朝貢関係の樹立時には、その関係を円滑にするために、入手困難となっていた東南アジア産品(瑪瑙(めのう)や烏木(うぼく)など)の免除を要請した。
そのかわり清国にとって有用な銅六〇〇斤を一六六六年から朝貢品に加える措置を講じている。
その後、一六八二年から銅三〇〇〇斤が王国末まで朝貢され続けるようになる。
明清への朝貢品でやや変ったものに紅花(べにばな)がある。
琉球国内での紅花の産出に関する最古の記述は、『朝鮮王朝実録』の一四九七年条に、多良間(たらま)島から首里王府へ紅花を貢納していたというものである。
琉球産の紅花が、明国への朝貢品として登場するのはかなり遅れて、一六〇四年からであるが、その後は皇帝の即位時など不定期に朝貢品(紅花一〇〇籠)に充てられていた。
以上のことから、明清への琉球の朝貢品の変化を大局的に見ると、東南アジア貿易を展開していた時期には同地域から入手した蘇木などと琉球土産の硫黄・馬などを基本としていたが、同地域からの撤退後は、琉球国内産品に日本から入手した銅・錫を加えたものへと移行していたのである。
三 近世琉球の展開 日本と中国との関わりのなかで top
1 江戸幕府・薩摩と琉球、中国と琉球
徳川政権の成立と琉球
十六世紀に入って揺るぎだした琉球国の東アジアと東南アジアを結ぶネットワークの要としての位置は、この世紀の末を迎えて、さらに大きな変動を余儀なくされようとしていた。
すでに戦国期を通じて島津氏の領国形成運動が展開されるなかにあって、陰に陽にその余波をうけつつあったが、天正十五(一五八七)年島津氏が豊臣政権によって組み敷かれた後は、琉球計略には統一政権の意志が反映されるようになっていった。
対明外交の仲介を琉球に負わせようとしていた秀吉は、早くも翌年にはその入聘(にゅうへい)を促した。
やがて琉球が使節を派遣すると、これを服属の証と認識し、その後小田原征討の慶賀使(けいがし)派遣を要求、そして天正十九年には朝鮮出兵の軍役を課すまでにいたった(上原兼善『幕藩制形成期の琉球支配』)。
こうして朝鮮出兵を契機に琉球支配の実体化が進められたが、しかし豊臣政権は慶長三(一五九八)年秀吉の死とともに崩壊し、琉球はあらたに政権の座についた徳川氏と向合うことになっていった。
誕生したばかりの徳川政権は、東アジア世界に自らを位置づけるために、明国との通交を大きな外交課題とし、このため琉球は対明交渉の窓口として、朝鮮とともにあらためてその役割が注目されるところとなった。
明国との関係樹立交渉は、これまでの歴史的経緯から朝鮮とは対馬の宗氏があたり、一方琉球とは島津氏がこれを担うことになったが、徳川幕府は、慶長五年、奥州伊達領に琉球船が漂着すると、早くも漂着民の送付を通じて琉球と公的な接触を求める動きを示している。
すなわち家康は島津氏に漂着人を丁重に送付するよう命じ、これに対する返礼の使者を要求するという形で、交渉の糸口が模索されている。
しかし、たび重なる島津義久(島津家当主)の催促にもかかわらず、琉球はただちにこれに応じようとはせず、状況は緊迫の度を深めていくことになっていく。
島津軍の琉球出兵
慶長七(一六〇二)年になって、ようやく琉球よりは報恩寺(ほうおんじ)憎が立てられているが、同僧が帰帆(きはん)にあたっては朝鮮出兵の際の軍役の不履行、亀井茲矩(かめいこれのり)の一件(天正十年亀井が秀吉に乞うて琉球を与えられ、文禄元年に出兵を願ったが、島津氏が秀吉に工作してこれを阻止したとする件)に関する返礼の欠如などについての釈明を負わせている。
このことにうかがわれるように、島津氏によって琉球に示された態度は、前政権によって認められた上位の権力としての強圧的なそれであった。
しかしこれに対して、その翌年島津忠恒(義久の弟、義弘の子)の家督相続を祝うために派遣されたものとみられる安国寺僧に家康への聴聞の遅滞、そして先に報恩寺僧に託された一件について、何の回答もないことを責める琉球国王あての義久の書が託されていたことからすると(『旧記雑録後編』巻五七)、琉球側は島津氏の要求をことごとく無視していた様子がわかる。
こうして徳川氏への聘問問題が膠着するなかにあって、慶長十年、福州より帰帆の琉球船が平戸に漂着したのに対し、その送付に幕府は再び関与している(『旧記雑録後編』巻五九)。
この時幕府が積荷のうち薬種類を押収しているのも、琉球側の反応を期待してのことであった。
しかしその後の島津義久の恫喝(どうかつ)にもかかわらず、琉球は徳川氏の聘問要求に応えず、ついに慶長十四(一六〇九)年には島津軍の侵攻をこうむることになっていったのであった。
明との勘合復礼を望みながら、ついに幕府が島津氏の琉球への軍事行動を認めたのは、明国を交渉の場に臨ませるためのデモンストレーションであったという見方も成立ちうる。
しかし、そうであったとするならば、幕府の意図は見事に裏切られたといえるだろう。
まずそうした冊封(さくほう)圈域への日本の軍事行動は、豊臣政権の朝鮮出兵ともダブって宗主国明国に衝撃を与えた。
この年は琉球出兵ばかりでなく、有馬晴信(ありまはるのぶ)軍の台湾偵察、朝鮮に対する明国への修貢路の提供要求が行われており、これらのことが明国の緊張をいっそう高めたのである。
一連の出来事が幕府の意図とどのような関わりをもつかは今後検討されなければならないが、ともあれ、それによって幕府の明国との勘合復活の望みは遠のき、かつ琉明関係にも大きな変化が訪れることになる。
すなわち、慶長十七年には明国への朝貢も二年一貢制から一〇年一貢制へ変更を見ることになり、元和八(一六二二)年に五年一貢制へ改められるものの、それが実質的に旧制へ復帰するには実に二〇年後の寛永十(一六三三)年をまたねばならなかった。(以下略)