井上 靖 原作 オペラ『猟銃』
だれでもからだのなかに
一匹の蛇を持っている
569時限目◎音楽
堀間ロクなな
井上靖という作家について国内と海外では受け止め方に大きな差があるらしい。その代表作といったら、日本の読者は真っ先に『天平の甍』『風林火山』などの歴史小説、『敦煌』『楼蘭』などの西域小説、『あすなろ物語』『しろばんば』などの自伝的小説を挙げるだろう。ところが、海外で高く評価されているのは『猟銃』のようなのだ。1949年、42歳のときに発表されたこの恋愛心理小説は井上のデビュー作だけに、後年の円熟した大らかな作風に較べると、われわれの目にはずいぶんと作りものめいた印象が強いのもやむをえないだろう。
ところが、である。この『猟銃』が書かれてから60年あまり、井上が83歳で世を去ってからも20年ほどが経過したいまになって、カナダでは映画監督フランソワ・ジラールらによって舞台化され(日本から中谷美紀が参加)、さらにはなんと、オーストラリアでトーマス・ラルヒャー作曲、カール・マルコヴィクス演出によりオペラ化までされたのだ。そして、わたしはそのブレゲンツ音楽祭における世界初演(2018年)の映像を前にしておぼろげながら理解した。確かにこれはただならぬ傑作かもしれない、と――。
ざっとこんな内容だ。語り手の詩人は、天城山中で猟銃を背にした上流階級の男性と出くわし、どこか寂寞とした「白い河床」のイメージを見て取る。その三杉穣介という実業家は13年前に新妻みどりがいながら、医師の夫と離別したばかりの彩子と不倫関係を結び、以来、彩子の娘薔子も含めて、3人の女性とのあいだで虚実ないまぜの生活を送ってきた。しかし、妻のみどりはとっくに秘事を見抜いていたことをいまになって暴露した。すると、彩子はただちに睡眠薬による自死を選び、母の日記ですべてを知った薔子も去り、みどりは夫に離婚を告げて財産分与を求め、かくして三杉はただひとり一丁の猟銃とともに「白い河床」をさまよっていたのだった……。
原作の小説では、詩人の短い叙述を前後に置き、おもに女性3人の三杉宛ての手紙で過去の経緯が明かされる仕掛けなのだけれど、オペラのステージでは、30名規模のオーケストラと6名のコーラスを右手に配置して、詩人、三杉、みどり、彩子、薔子に扮した歌手たちのアンサンブルがドラマを構築していく。すなわち、もとはモノローグ(独白)だったのがダイアローグ(対話)へ変換されたうえ、井上の文章をなぞりながらも日本語からドイツ語に移されたことで情緒性より論理性のほうがきわだつことになった。
オペラの序盤で、不倫の道に踏み入った三杉と彩子はこんなデュエットをうたう。
「人間はだれでもからだのなかに一匹の蛇を持っている。この小さい南方産のセピア色の蛇を、あなたもぼくも大して怖がるにはあたらないさ」
「その蛇とは、あるときは我執。あるときは嫉妬。あるときは宿命。そして、いまだけはわかります、それがもうひとりの私であることが」
終盤に至って、服毒自殺へと辿りついた彩子はこう洩らす。
「愛する、愛される。なんて悲しい人間の所業でしょう」
正直に言って、わたしは戸惑ってしまった。この間に13年の歳月が横たわっているにもかかわらずなんの発展もない、凡庸な論理の羅列。まるで少女マンガのセリフのようではないか。そこで、ようやく気づいたのだ。逆に、こうした凡庸な人間模様こそがこのオペラの主題だったことに。
おそらく近代ヨーロッパが成り立たせたオペラという芸術にあっては、人間の愛と死を取り扱うときに、どうしたってキリスト教の神の介在を避けて通ることはできないのだろう。たとえ無神論という形にせよ。その点、井上の原作は一見、フランスの心理小説にも通じそうなギャラントなたたずまいを備えながら、徹頭徹尾、神とは無縁のままに人間同士の虚栄と孤独だけのストーリーが運んでいく。それこそが、キリスト教世界の人々にとって重大な価値があったのではないか。われわれが持っているのは神ではなく、ただ一匹の蛇でしかない。そんな「白い河床」の情景を示してみせたことによって、『猟銃』は傑作となりおおせたのである。