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東北の基層文化を探る

2024.04.23 07:02

https://www.thm.pref.miyagi.jp/wp-content/uploads/2020/11/49d1be408dca53c75fcb1b5066c138fe.pdf【阿弖流為と坂上田村麻呂 - 東北歴史博物館 - 宮城県】

http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka01/kiso-01.html【東北の基層文化を探る】より

北の縄文文化

 かつて日本の開始は、大陸から進んだ文化を持った人々が渡来してきて、水田稲作を始めた弥生時代からと教えられた。「日本書紀」に記されたエミシは、五穀も家もなく、肉を食して深山の木の下に眠っていると記されている。ましてそれより遥か以前の縄文文化は、先住民族の遅れた人々の異文化であり、考古学の世界でも軽視されていた。

 ところが最近は、弥生文化に端を発する現代文明に疑問を感じる人々が増え、弥生時代以前に1万年も続き、森と共生してきた縄文文化に関心が寄せられるようになった。特に三内丸山遺跡の発見は、「未開の野蛮人」といった偏見を覆し、堰を切ったように縄文時代への関心が深まった。今や「縄文人は我々の祖先」というのが定説になっている。

縄文人の祖先

 最新の研究結果によると、縄文人の祖先は、東南アジアから中国を北上し北海道経由で本州に入った「北方系」の集団と、東南アジアから日本列島を北上した「南方系」の集団がいた可能性があるという。富山市の小竹貝塚で出土した多くの人骨DNA鑑定によると、北方系と南方系の人たちが一緒に暮らしていたことが判明している。

 我々の祖先は、既に縄文時代から、北方系と南方系が混住していたことが分かる。こうしたDNA鑑定による日本人のルーツ探しに興味がないわけではないが、むしろ東北の基層文化は、ブナ帯の自然と風土が決定的な要因になっているように思う。

1万年以上も続いた縄文文化

 氷河期の日本列島の植生は、北海道は森林ツンドラ、本州は針葉樹が主体で荒涼な環境が支配していた。やがて気候の温暖化によって、今から約1万5000年前になると、列島の多くがブナ、ミズナラなどの落葉広葉樹林とシイ、カシなどの照葉樹林で覆われ、今日の植生ができあがった。縄文時代は、この頃から約2300年前に稲作農耕が渡来するまで1万年以上も続いた。

▲ブナ ▲ミズナラ

縄文文化は東高西低・・・日本の歴史は、西高東低だが、縄文時代に限れば、東高西低だった。その最大の理由は、東日本の落葉広葉樹林と西日本の照葉樹林という植生の違いである。広葉樹林には、ブナやクリ、ナラ、トチ、クルミなどの実が豊富で、これらの堅果類が人間だけでなく、野生鳥獣にとっても貴重な食糧となっていた。

 さらに、山菜やキノコ、イワナやヤマメ、サクラマス、サケなどのサケ科魚類の宝庫でもあった。従って、狩猟漁労採集を生業とする縄文時代には、ブナ帯地域の人口が照葉樹林地域を大きく上回っていたことが分かる。

環境考古学・安田喜憲氏・・・ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林が広がる東日本と、シイ・カシを軸とする照葉樹林が拡大した西日本を対比させ、前者の方が狩猟・採集経済の社会では、人口の支持力が高かったと指摘している。

縄文時代中期の人口(小山修三氏の推計)・・・北海道を除く日本列島の人口は約26万人。うち西日本はわずか2万人程度で、全人口の7.7%に過ぎなかった。東日本は24万人、全人口の92%を占めていた。

佐々木高明氏「稲作以前」「日本の焼畑」・・・自然の豊かな東日本では、定着的な「成熟せる採集・漁労民社会」が発達した。これに対し、資源の貧困な西日本は、縄文後期・晩期になると、雑穀・イモ類を主作物とする焼畑農耕を中心に、採集・狩猟活動によってその経済を補う、いわゆる「初期的農耕社会」が、照葉樹林帯を中心に成立したと考えている。

「縄文ブーム」を巻き起こした「三内丸山遺跡」

 1796年、菅江真澄は、「すみかの山」の紀行文の中で、現在の三内丸山の遺跡から出土した土器や土偶などの遺物があったことを記している。

 「三内村の古い堰の崩れたところから、縄形、布形の縄文土器、あるいは、かめの壊れたような形をしたものを発掘したといってあるのを見た・・・また、人の頭、仮面などの形をした出土品もあり、ミカベノヨロイに似たものもあった」

 平成6年の夏、全国的に有名な三内丸山遺跡が発見された。それは5500年前から4000年前まで、1500年間500人が定住した全国最大の遺跡だと発表され、世間を驚かせた。この三内丸山遺跡の発見は、野蛮だという縄文時代のイメージを一変させ、「縄文ブーム」が巻き起こった。

大型掘立柱建物

 直径1m、高さ14.7mに及ぶクリの巨木を使った6本柱は、近付けば近付くほどその巨大さに驚かされる。この木を人力で運ぶには、屈強な男が100人も要するという。集落の大きさが容易に想像できる。見張り台や祭り、大型の建物説などがあるという。

日本最大の大型竪穴住居

 復元された大型竪穴住居跡は、長さが約32m、幅約9.8m、床面積250m2で、日本最大。集会場や共同作業場などに使われたのではないか。この中には300人も入るという。大きいだけでなく、木の表面を焼いて腐れや虫食いを防止する処理が施されている。ちなみに大型竪穴住居とは、長さが10m以上の竪穴住居で、この遺跡では11軒見つかっている。

縄文都市

 縄文時代の道は、けもの道程度と思われがちだが、道路跡の幅は5m~14mと広く、しかも平らに地面を削り、地盤が軟弱なところには硬い土がまかれていた。集落内の施設配置は、規則性が見られる。掘立柱建物群には道路が接続し、道路の両側には大人の墓が並んでいる。

 竪穴住居は、大人の墓とは離れた場所にあり、ゴミ捨て場などの盛土遺構で区画された範囲に作られている。つまり、大規模な土木工事によって縄文都市が形成されていたのである。

再生を願う子供の墓

 子どもの墓だけは、なぜか住居の近くに集中している。幼くして死んだ子どもは、再び戻ってくることを祈りながら、神に返したと考えられている。その幼い亡骸は、土器を母の胎内に見立てて、その中に納めた。思えば、つい最近まで、7歳までに死んだ子供は別の人間に生まれ変わることができると信じられていた。だから、そんな子供は墓ではなく、土間や台所などに埋める風習があった。

食料を保管した高床式建物

 ネズミなどの害を防ぎ、風通しを良くするために高床式にした食料保管庫と考えられている。驚かされるのは、木と木をつなぐ接合部(右の写真)。鋭利な石器で接合部を切り抜き、穴と凸部を組み合わせる高度な技術が、今から4,500年も前に既に確立されていたのである。

食料の栽培と縄文里山

 自然の恵みに加えて、クリをはじめ、ヒョウタン、エゴマ、ゴボウ、マメなどの栽培も取り入れ、1500年という長期にわたって安定した定住生活が続いた。また、ヤマブドウ、木イチゴ、サルナシ、ニワトコなどで、果実酒さえ作って楽しんでいたという。

 花粉のDNA分析などから明らかになったことは、ブナ林を中心とする落葉広葉樹が広がる自然環境に、資源の維持・管理を目的とした積極的な関与が行われ、クリ林やクルミ林、漆などの有用な樹種で構成された「縄文里山」と呼びうる人為的な生態系を成立させ、生業を維持していたことである。

▲ウルシの液を塗る様子 ▲5500年前の網カゴ「縄文ポシェット」

高水準の木工、編み物、装飾品

 食料の獲得と消費に係る道具だけでなく、生活用具や祭祀儀礼用具、装飾品など縄文文化を代表する道具類が極限まで発達していたことが分かる。木地物のルーツとも言える木製容器には、仕上げの最後に漆が塗られていた。

 有名な「縄文ポシェット」は、針葉樹(ヒノキ科)の樹皮を「網代編み」で編んだ小型の袋で、中には割れたクルミの実が一つ入っていた。現在、我々が使っているカゴ類のほとんどが縄文時代の早い段階で用いられていたのである。

 また、耳飾りや髪飾り、胸飾り、腕飾り、腰飾りなど、今日見られる装身具の大半は、既に縄文人が身に着けていた。しかも漆塗りの美しい装身具もたくさん発見されている。縄文前期には、高度な漆工技術が既に完成していたという。

▲北海道産黒曜石 ▲新潟県糸魚川産ヒスイ製大珠(たいしゅ)

遠隔地との交流

 北海道産の黒曜石、新潟県糸魚川産のヒスイ、岩手産の琥珀、秋田産のアスファルトなど、活発な交易がおこなわれていた。・・・全てにおいてビッグな遺跡である。

土器を必要とした理由

 何故、縄文人は土器を必要としたのだろうか・・・魚や獣肉は煮るよりも焼いて食べる方が美味しいと思うが、土器で煮てから食べる必要があった食べ物には、どんな物があったのだろうか。

 広葉樹の森には、ドングリやトチの実、クルミ、クリなどの堅果類が豊富な実をつける。その堅果類の多くは、ワラビやフキ、ゼンマイなどの山菜と同じく、アクが強くてそのままでは食べられない。石皿やスリ石などの製粉具と加熱処理してアクを抜き、食べやすいように軟らかくするために土器が必要になった。

 また、縄文人は、多くの貝塚を残している。貝類は、煮ると蓋を開き、良い出汁が出る。恐らく、貝類や海藻類も土器で煮て食べたに違いない。こうした煮ることによって食用にすることができる動植物が多く、それが土器を発達させたと言われている。

アニミズムと土偶

 火山の噴火や地震、雷、洪水、疫病など人智を超えた自然現象を恐れ敬い自然を崇拝していた。その儀礼祭祀用具の一つが土偶である。

 中期の北東北から北海道南部には、十字状や三角形状の板状土偶が、晩期には亀ヶ岡遺跡のシンボルでもある遮光器土偶が発見される。また土偶は主に女性を形象したり、男性のシンボルをかたどった石棒もある。中期になると、男根がよりリアルになり、中には2mを超える大型もつくられるようになる。

縄文カレンダー

 内陸部の縄文カレンダーによると、春は山菜採りと貝類の採取、夏はマス類を中心とした川漁、秋は木の実・きのこ採取とサケ漁、冬は野生鳥獣の旬の季節で雪を利用した狩猟という四季の生業パターンからなっている。これは、ブナ帯に生きるマタギの生業カレンダーとほぼ同じであることが分かる。

▲大湯環状列石(鹿角市)

東北は、関東・中部地方や北海道南部などと縄文文化の先進地であった。その証として北海道・北東北縄文遺跡群は、2009年、ユネスコ世界遺産暫定リストに記載された。2019年12月20日には、2021年の世界遺産登録に向けて、縄文遺跡群のユネスコ推薦が正式に決定した。その秋田県代表が鹿角市の大湯環状列石と北秋田市の伊勢堂岱遺跡のストーンサークルである。

▲伊勢堂岱遺跡のストーンサークル(北秋田市)

ストーンサークルは、高台を大規模な土木工事で土地造成し、数千にも及ぶ大石を設計に基づいて環状に配列した。これを「日時計」とする説もあるが、いくつかの集団の共同墓地と考えられる。縄文人は、太陽の動きとその周期を理解し、日没の光景に人間の死を見ていたのであろう。また石と墓地から連想すれば、今日の先祖崇拝、石神信仰のルーツは、既に縄文時代にあったことになる。

▲亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市)

司馬遼太郎「縄文芸術」(「街道をゆく-オホーツク海道」)

 明治20(1887)年、左足のとれた「遮光器土偶」とよばれる女性像が出た。両眼が、イヌイト(エスキモー)の使用する遮光器に似ている。異形ながら、いまにも発光しそうなほどの力を感じさせる。亀ヶ岡式土器文化の特徴のひとつは、漆塗りにある。黒漆の地に赤漆をぬって文様をつくりだした技術の高さと豪放な感覚は、"縄文芸術〟とよばれてもいいほどのものである。

 ・・・縄文人は、おそらく愉快にくらしていたにちがいない。

 日本の縄文時代は、ヨーロッパの"新石器時代〟の生活形態に相当する。おなじ採集と狩猟のくらしながら、比較にならないほどにゆたかだったはずである。えものも木の実も、日本列島は豊富だった。縄文人は各地に貝塚をのこしたが、じつに多様に栄養をとり、味覚を楽しんでいたことがわかる。

司馬遼太郎「豊かな縄文の生活」(「街道をゆく-オホーツク海道」)

 縄文文化における土器の役割は大きかった。・・・"煮炊きは第二の胃袋〟といえるが、別の表現でいえば、土器は体外の胃袋ともいえるのである。

 「これぞ文明の世だ」

 と、もし当時の縄文人が自讃したとしても、笑うべきではない。

 「米(農業)がないじゃないか」

 と、はるか後の弥生人はあざ笑うかもしれないが、たしかに農業は文明をおしすすめはしたものの、農家個々が縄文人よりいい暮らしだとはいえないのである。

 縄文人には、米に代わるべき澱粉食物としてドングリなどの木の実があった。とくに本州の東半分から北海道にかけては木の実が豊富で、苦しんで田を作る必要はなかった。蛋白質食物は、弥生時代から昭和30年ぐらいまでの2千年間の日本人よりも、東日本や北海道の縄文人のほうが、ずっと豊富に摂取していた。貝については、日本列島のどの海浜も豊富だった。日本では、ほんの半世紀前まで、どの干潟でも、ざくざく採れた。

▲弥生時代前期の反町(そりまち)遺跡・水田跡(岩手県奥州市江刺)

東北の弥生文化

 古代、東北地方には、稲作が存在しないと言われていた。つまり、昔から東北には弥生文化はなかったと思われていたのである。戦後、東北大学の伊藤信雄教授が「東北には、古代稲作が存在した」という仮説を提示した。

 青森県では、弘前市の砂沢遺跡や田舎館村の垂柳遺跡から水田跡が見つかった。しかも、垂柳遺跡は弥生時代前期のものだった。秋田県内では、籾痕のついた土器片が、男鹿市や井川町、三種町の遺跡から発見されていた。けれども水田跡はなかなか発見されなかった。平成8年、ついに大仙市・星宮遺跡で水田跡16枚が発見された。

 岩手県では、奥州市江刺の反町遺跡で水田跡18枚が見つかった。畔で区画され、ため池と用水路など、かんがい技術を伴った水田跡であった。稲作が困難と思われた北東北三県だが、弥生時代前期、既に水田耕作の技術体系がまるごと普及していたことが分かったのである。

▲復元北前船「みちのく丸」・・・日本海航路で海運を行った船

北へ移動するには、船で日本海の対馬海流に乗れば苦労せずに北上できた。7世紀、毎年二百もの船団を引き連れ、三度も北方遠征した阿倍比羅夫もこの海流を利用した。もちろん、江戸時代の北前船も同様である。

司馬遼太郎「東北の古代稲作実証」(「街道をゆく-北のまほろば」)

 「青森県の津軽地方に、もう一段以前の水田跡が出現した。・・・砂沢遺跡である。信じがたいことに、弥生前期のものだった・・・弥生文化が、北九州より発して東へ進行し、太平洋岸ではいまの名古屋あたりにやっと達したころ、日本海ではよほどスピードが速かったらしく、すでに津軽に達していた。・・・縄文時代には、日本列島を縦貫する道などはなかった。日本海を、舟で移ったに違いない。

 ・・・その後、東北各地でいくつかの弥生中期の遺跡が発見され、゛伊藤信雄仮説゛は全き形で実証された。・・・かれらの水田は、芸のこまかい装置をともなっていた。田に引く水は近くの岩木川から引いているのだが、途中で小さな溜池が築造されている。津軽は、西方の暖地と違い、水が冷たい。稲は元来熱帯・暖温帯の植物だから冷水は生育を害しかねないために、この装置によって水を温めたのである。・・・ただし、このように高い初期稲作も、どういうわけか、途中で絶えてしまった。」

 注意すべき点は、この頃、東北全体が稲作を中心とした弥生文化になったのではないということ。つまり、狩猟漁労採集の暮らしと農耕の暮らしが斑状に混在していたに過ぎない。だから、「斑状文化」と呼ばれている。

弥生の東進と縄文の抵抗・・・歴史学者・網野善彦氏は、「北九州に入った感光性の強いイネの品種が、東日本には生育せず、東日本にそれが受け入れられるためには、感湿性の強い品種が現れなくてはならなかったともいわれるが、端的に言って、弥生文化の東進を阻んだのが、最高度の発展をみた狩猟・採集生活を基礎とする東日本の縄文文化の抵抗であったことは確実といわなくてはならない」

▲秋田城跡(秋田市寺内高清水)

658~660年、最初の蝦夷征伐を行ったのは阿倍比羅夫である。彼は水軍を率い、北上して秋田と津軽を朝廷の支配下に組み入れた。阿倍比羅夫一族は、東北に早い時期から支配権を確立。前九年の役で朝廷と争った蝦夷の豪族・安倍貞任は、比羅夫の末裔とする説もある。

最北の蝦夷支配・・・秋田城、多賀城

 8世紀(奈良時代)に入ると大和政府は、蝦夷経略に意欲を燃やし、712年出羽国設置、733年には、秋田市寺内の高清水に出羽柵を移し、のちに秋田城と呼ばれた。また、760年代には多賀城を根拠とし、要所に柵を構築した。これらの柵には、防衛のかたわら耕作をする一種の屯田兵を数多く送り込んだ。

 政府に帰順した蝦夷を俘囚と称した。俘囚とは捕虜を意味し、依然として差別した呼称であった。蝦夷側にしてみれば、開拓と称して征服者たちが入り込み、横暴な行為を繰り返した。だから、抵抗するのは当然であった。774年、陸奥・出羽両国の蝦夷が蜂起、大反乱が起きている。

780年 アザマロの乱

アザマロは、俘囚ながら伊治城の守備隊長となり、政府の信任が厚かった。しかし、彼はかねてから俘囚に対する目に余る差別待遇や虐待に反感を抱いていた。780年、アザマロは、東北最高官の紀広純を殺害し、多賀城を焼討にした。

 朝廷は東北での反乱拡大を防ぐため、征東軍を組織し派遣する。その指揮官は、征東大使と呼ばれ、後に征夷大将軍と呼ばれるようになった。この征夷大将軍は、後に日本の武士の総大将という意味をもつようになる。それは・・・平家と奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が、1192年、武士の総大将である征夷大将軍となり、鎌倉幕府・武士政権をスタートさせたからである。

第一次征東・・・巣伏の戦い

 アザマロの反乱から8年後、789年、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使に任じ5万の将兵を授けた。古佐美は多賀城を根拠に衣川に布陣。この侵略に対し、胆沢の盟主・アテルイは、近隣の部族と連合し侵略を阻止するために立ち上がった。アテルイ軍は、馬や弓矢を巧みに操り、ゲリラ戦術で敵を大いに震撼させた。

 同年5月、中央からの矢の催促に古佐美軍は、6千の精鋭を二手に分け、胆沢をめざして進撃した。アテルイ軍は、陽動作戦により敵を巧みに誘導し、突如伏兵をもって反撃に転じ壊滅的打撃を与え勝利した。

第二次征東

 794年、第二次征夷大使に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を起用し、十万という空前の将兵を動員した。この時、坂上田村麻呂は副将軍であった。アテルイ軍に相当な打撃を与えたと推測されているが、降伏させるまでには至らなかった。

▲悪路王の首像(奥州市埋蔵文化財調査センター) ▲胆沢城復元模型(奥州市埋蔵文化財調査センター)

第三次征東・・・田村麻呂対アテルイ

 797年、田村麻呂は征夷大将軍に任じられ、801年、朝廷軍4万を率いて胆沢地方に侵攻した。田村麻呂は、従来の武力一辺倒による征討を改め、温情をもって心服させる方策をとり、アテルイ軍の孤立を策したと推測されている。

 802年 胆沢城造営が開始された。4月15日、アテルイとモレは、同胞500余人を率いて田村麻呂の停戦和平に応じた。十数年に及ぶ攻防で多くの同胞を失い、郷土は疲弊していた。胆沢の地を守るため降伏の道を選んだ。田村麻呂は、アテルイとモレを伴い京都に帰還した。

 田村麻呂は、彼らの武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷地経営に登用すべく、天皇に助命嘆願したが・・・「蝦夷は野性で獣のごとき心を、反復してあらわし、定まった服従心はない」との理由で聞き入れられず、同年8月13日、河内国で処刑された。

鳥海山大物忌神

 800年代、鳥海山は度々大噴火を繰り返した。蝦夷征伐の前線を北上させていた朝廷は、この度重なる噴火を蝦夷反乱の前兆であると恐れていた。その大物忌神の怒りを鎮めるために、鳥海山を必死になだめようと、次々に上位の神階を与えた。気がつけば、数ある東北の神のなかでも最高位にまで達していたのである。

▲秋田城復元模型

878年元慶の乱

 秋田城司の悪政(不公正な交易を強要)に対して、俘囚の乱が発生した。秋田城が攻め落とされ、雄物川以北の独立を要求した。反乱軍は、北緯40度線周辺北側・・・秋田市以北から米代川流域にかけての12の村々の連合勢力であった。

939年 天慶の乱・・・秋田城下でまた俘囚の乱が起きる。この時、大物忌神の鳥海山が燃えるとの占いがあるので祀り鎮めることが指示されている。

 こうした蝦夷の蜂起が繰り返されるたびに、彼らは同族的なつながりを強め、その中から知恵と力のある者が、豪族として成長していった。11世紀頃、出羽の豪族として知られるのが清原氏で、雄勝・平鹿・山本の3郡を支配し、横手市付近に根拠地を置いていた。同じ頃、陸奥国で大きな勢力を持っていたのが安倍氏で、奥六郡を支配する豪族であった。

 10世紀前半以来、一世紀にわたって軍事貴族の奥州派遣が続いたが、さまざまなトラブルをもたらした。だから1025年以降、25年にわたって鎮守府将軍の補任が一時中断された。その間、出羽国の秋田城では、筆頭在庁の清原氏が、雄勝、平鹿、山本、秋田、河辺の五郡の支配者で、かつ秋田城の事実上の最高責任者の地位を占めるようになった。

 一方陸奥では、奥六郡を支配していた安倍氏が鎮守府の事実上の最高責任者の地位を占めるようになった。安倍氏は、陸奥話記や中央の記録には、「東夷の酋長」「俘囚(服属したエミシ)」と書かれていることから、古代北東北の蝦夷直系の在地豪族(清原氏も同じ)とみられていた。そんな安倍氏が勢力を拡大し、衣川の線よりも南まで押し広げる勢いであった。(写真:衣川柵に近い平泉毛越寺)

前九年の合戦(写真:えさし藤原の郷、以下同じ)

 1051年、勢力を拡大する安倍氏は、ついに朝廷と衝突、前九年の合戦が勃発する。陸奥国守・藤原登任(なりとう)は、鬼切部で安倍軍と合戦するも、大敗してしまう。驚いた朝廷は、武勇の誉れが高い源氏の大将・源頼義を陸奥守として赴任させる。しかし大赦で一時休戦となる。

 1054年 藤原経清と安倍頼時の娘が結婚。1056年、後に平泉を開く藤原清衡が生まれる。

 1055年 源頼義が陸奥国守の任期を終えて京へ戻る途中、安倍頼時の次男貞任に襲撃されるという事件が発生する。これは東北支配をもくろむ頼義の謀略と言われている。再び、戦が始まるが、安倍氏側の圧倒的優勢が続いた。源頼義は、出羽の大豪族・清原氏に援軍を求める。

 1062年 清原氏の参戦で戦況は一変する。清原軍1万人と源頼義軍3000人で猛攻。安倍貞任は厨川柵で戦死。清衡の父・藤原経清は、裏切り者として鈍刀で斬首という残酷な刑に処された。

 源氏が権益を握るはずだった奥六郡胆沢城の鎮守府将軍には、出羽の清原武則が初めて任命された。清原氏は、出羽山北地方に加え、安倍氏の旧領地を事実上支配することとなった。源義家は出羽守に任ぜられたが、内心不満であった。この源氏の不満が、後三年の役へとつながっていく。

清原武貞は、なぜ安倍頼時の娘を正室に迎えたのか

 清原武貞の息子・武貞は、敗者の娘を正室に迎え、連れ子の清衡も引き取っている。普通は敵方の女性を正室にはしない。「炎立つ」の著者・高橋克彦氏によれば、清原氏と安倍氏の間には、長年にわたる複雑な姻戚関係があったし、「蝦夷の視点で見ると、清原も安倍も同じ蝦夷の一族だということだ。その同じ一族を、源氏が巧妙に二つに割ったと考えた方が、前九年・後三年の役の実態が見えてくる」(「東北蝦夷の魂」高橋克彦、現代書館)

複雑な清原三兄弟

 ①清原武貞の先妻の子・真衡(清原氏継承NO1)

 ②後妻の連れ子・清衡(安倍氏直系だが、清原系の血も流れているとの説もある)

 ③武貞と後妻の子・家衡(清原氏継承NO2)

 この複雑な関係の三兄弟と陸奥守・源氏の野望によって清原一族の骨肉の争いに発展していく。

後三年の合戦

 1083年 真衡の養子・成衡の婚礼準備の最中、黄金を持参した叔父で一族の長老・秀武に対し、威張り屋の真衡は見向きもせず碁を囲んでいた。これに激怒した秀武が反旗を翻し後三年の役が勃発した。

 秀武は、清衡、家衡に働きかけ真衡包囲の一族連合を結成した。清原氏を二分する戦いの火ぶたが切られる中、東北支配を悲願とする源氏の棟梁・源義家が、念願の陸奥守として赴任する。出羽に向かう途中、真衡は突然病死してしまう。これは源義家の策略だったと言われている。

 清原氏の直系は弟・家衡だけなのに、源義家は、奥六郡を二分割して与える。しかも、家衡には痩せた北の土地しか与えられなかった。つまり義家は清衡を優遇したのである。それを妬んだ家衡が清衡を攻撃して戦闘が再開するというストーリーは、義家の筋書き通りに展開したと言われている。

 1086年 家衡は、不満を募らせ、兄・清衡の館に火を放ち、清衡の妻子らを惨殺してしまう。清衡は、源義家のもとに走り、二人は、家衡討伐の兵を出す。迎え撃つ家衡は、今の横手盆地・出羽山北沼館の沼柵で防備を固めた。

▲「沼柵の攻防」(戎谷南山筆・後三年合戦絵詞)

 四方を水で囲まれた沼柵は、天然の要害で、義家・清衡軍は苦戦する。やがて冬・・・大雪に見舞われ、冬の寒さが苦手な義家軍は次第に疲弊していく・・・飢えと寒さで弱る兵士を義家自ら蘇生させたという逸話が残るほどで、一旦撤退せざるを得なかった。 

 家衡が武人の名門・義家を追い返したという報せに喜んだ叔父・武衡は、福島県いわき地方からはるばる沼柵に駆けつけ、家衡に加勢を申し出た。そして、沼柵よりも強固な金沢柵に移った。

 1087年、義家・清衡軍は金沢柵に軍を進めた。金沢柵は、「壁が立っているようだ」と言われるほど断崖絶壁に囲まれ、容易に人を寄せ付けず、苦戦が続いた。この頃、京から義家の弟・義光(子孫は佐竹氏)が加勢に駆け付けた。

 秀武の提案で、柵を包囲したまま「兵糧攻め」の作戦を実行に移す。これが功を奏して難攻不落の金沢柵がついに落城。焼けた柵の中は地獄絵と化したという。

▲「金沢柵陥落」(戎谷南山筆・後三年合戦絵詞)

 家衡は、愛馬を殺し、身分の低い者に変装して逃亡しようとしたが、見破られ討取られる。武衡は、柵内の沼に潜んでいるところを見つけられて首を斬られた。口戦で義家を罵倒した千任は、舌を金箸で引き抜かれたあと木の枝に吊るされ、さらに48人の首がさらされるなど、陰惨を極める戦いで、後三年合戦の幕引きとなった。

 義家が本性を現し「甚だしい謀反も私の努力で平らげた。速やかに清原氏追討の命令を」と上申する。朝廷は「不当な内政干渉である」として国府を解任する。源義家は、目論見が外れて撤退を余儀なくされた。この源氏の恨みが、平泉滅亡へとつながっていくのである。

 東北には、漁夫の利を得たかのように、清衡の勢力のみが残った。彼は安倍氏の孫であるが、父系は藤原・・・清原と訣別し、藤原清衡を名乗る。ただし、名は「藤原」だが、実態は「安倍氏」であった。

▲中尊寺金色堂覆堂と芭蕉翁句碑(手前左)

  「五月雨の 降り残してや 光堂」(芭蕉)

1099年 平泉開府

 清衡は、幼年期に前九年の合戦、青年期に後三年の合戦を経験した。特に青年期の身内同士の壮絶な争いが晩年期の彼の思想に大きな影響を与えたと言われる。中尊寺は、前九年と後三年の役の犠牲者を敵味方なく弔い、戦のない平和な国を作ることを目的に建立された。

▲東日本大震災(岩手県山田町)・・・災害写真データベース(財団法人消防科学総合センター)

平泉が世界文化遺産に登録された訳(「東北蝦夷の魂」高橋克彦)

 「東日本大震災が起きた時、被災地と呼ばれる地域は、偶然にも福島、宮城、岩手など藤原清衡が支配した地、奥州藤原氏の文化圏だった。その被災地の人たちの、自分のことより他者の辛さを思いやる姿が、ニュースとして世界中に流れた。

 世界文化遺産の登録を申請していた平泉、藤原清衡がつくった国は、もともとこのような国だったのではないか、そのDNAが今に受け継がれているのではないか、そうユネスコに受け止められたことが、実は登録につながったのだと思う。清衡が平泉で育んだ東北の゛和゛の魂は、今の東北の人々の中に受け継がれてきたのである。」

▲経蔵・・・中尊寺経を納めていたお堂

清衡の意志が読み取れる「中尊寺供養願文」

 この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる場所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きる者全てにあまねく平等に響くのです。奥羽の地では、官軍と蝦夷の戦いが幾ばくかあり、多くの者の命が失われてきました。

 それだけではなく、毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚、殻で身を守る貝も限りなく殺されてきました。その魂は、皆あの世に消え去り、朽ちた骨は今なお奥羽の塵となっています。この鐘の音が響き渡り、大地を動かすたびに、罪もなく命を奪われてしまったものたちの魂を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものです。

▲金色堂

平泉を本拠にした理由

 平泉は、奥州の「中央」であると同時に、祖父・安倍氏が支配した奥六郡の南端・衣川柵のあった地区に位置している。さらに、北緯39度ラインに位置し、アイヌ語地名の南端に位置している。だから、安倍氏の「東夷の酋長」の地位継承を意味していると言われる。

▲金色堂(えさし藤原の郷)

 平成23年、平泉がユネスコの世界文化遺産に登録された。この平泉文化は、奥州藤原氏初代清衡の精神が発端になっている。彼は、大きな歴史のうねりに巻き込まれ、虚しい戦に明け暮れた我が身を振り返り、戦も貧困もない理想郷を平泉につくろうとした。

初代清衡の大きな人柄を育てたものは何か

 「東北で一番の地位に立った清衡が、敵味方を問わず戦死した人々に厚い情をかけ熱い涙を注ぐ姿勢を示しているのは、彼の少年時代がやはり大きな意味を持っているのです。もし少年時代に物心ともに貧しい家に養われたものであったとしたなら、どんなに安倍と藤原の血をうけていたとしても、名武将としての教養も身につけることなどできなかったに違いないのです。

 安倍なきあとも、勝るとも劣らない清原氏という大豪族に養われ、御曹司として成人することができたからこそ、長い平和を築くことのできる大きな人柄を培うことができたのです。これは十一世紀の東北にとっても、またとない重要なことだったのです」(「ジュニア版 古代東北史」新野直吉、文献出版)

藤原三代アイヌ説

 藤原氏がアイヌ系であるとする理由は・・・

清衡は、先祖代々東北に住む「荒蝦夷の首長」と名乗ったこと

藤原三代の遺体は金色堂にミイラにして安置されていること。ミイラにして葬るのは、樺太アイヌの風習と似ていること。

清衡の着ていた小袖のねじり袖は、アイヌが着ていた袖と同じであること。

清衡の棺には、ドングリやクルミ類が一杯入っていた。これは狩猟採集の文化を思わせる。シカの角で作った刀は、蝦夷の刀を思わせる。

 昭和25年、この藤原三代のミイラ調査が行われたが、その結果は、アイヌではなく倭人であることが明らかになった。DNAは倭人でも、北の風土に育まれた心は、蝦夷・アイヌ系であることに変わりはないように思う。

▲平泉・毛越寺・・・奥州藤原氏二代基衡が建立した浄土庭園/大泉が池

都を凌ぐ平泉(「東北蝦夷の魂」高橋克彦)

 「有り余る砂金を使い、大陸との貿易で膨大な量の陶器、経典などを輸入した。あっという間に中尊寺は日本で最大の経典を所有する寺になった。・・・珍しい経典があれば誰しも勉強したいので、奈良や京の僧がこぞって平泉にやって来た。あの時代の僧たちは最高の知識人であり、平泉に日本の頭脳が集結・・・さらに馬産地でもある平泉は、都を凌ぐ力を持つ場所になった」

義経、鞍馬寺から平泉へ

 源義経は、平治の乱(1159年)で父を失い、京都の鞍馬寺に僧となるための修業をするが、15歳になっても髪を剃ることを拒んだ。1174年、16歳の時に京の鞍馬寺を出て、平泉の秀衡を頼ってきた。ここで22歳ころまで過ごし、武人として立派に成長した後、鎌倉の兄頼朝のもとへ行く。

平家滅亡~義経自害

 1179年、平清盛は、後白河を鳥羽離宮に幽閉して朝廷を完全な支配下においた。いわゆる平家の軍事クーデターが起きる。この平家の軍事独裁に対して、源氏勢力が相次いで蜂起、全国的な内乱へと突入していった。

 1185年3月、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。

 1187年、頼朝に追われた義経が平泉に亡命する。義経が平泉に入って数か月後、秀衡病死。秀衡は死の直前、次男泰衡を後継者とし、義経を大将軍として奥羽の国務をまかせ、主君として仕えるべきことを遺言した。

 1188年春、後白河は頼朝と妥協し、泰衡に対し義経の身柄の差出しを命じる宣旨を発する。鎌倉と京都の圧力に抵抗し切れず、泰衡が義経を襲撃し自害させる。泰衡は、義経の首を鎌倉に送っている。しかし、源頼朝は、なおも平泉攻撃の準備を進めた。頼朝の狙いは、義経ではなく、平泉を滅ぼす口実を得ることだった。

壇ノ浦で活躍した弟・義経を、なぜ頼朝は嫌ったのか

 頼朝は、自分の許可なく朝廷から官位を受けた武士は、関東に戻ることを禁止していた。ところが、義経は、壇ノ浦の戦い後、この掟を破って後白河法皇から官位をうけてしまった。後白河法皇は、頼朝の台頭を恐れて、その対抗馬として義経を重用しようとした。義経が朝廷の信頼を得て、武士たちの人気者になることは、朝廷から距離を置いて武家政治を確立しようとする頼朝にとって脅威でしかない。義経は、戦は上手いが、政治には疎かったといわれている。

▲厨川柵(えさし藤原の郷)

頼朝、蝦夷を征する征夷大将軍へ

 源頼義・義家親子による前九年・後三年の二度にわたる合戦は、源氏の名声を高めたが、一方、源氏が関与すると乱が起きるという理由で奥州から遠ざけられていた。源氏にとって、奥州制覇は、長年の悲願であった。

 「頼義にとって陸奥の最大の魅力は、軍事力に結びつく資源だった。矢羽根の鷲の羽根、防寒用の毛皮、武器の材料である鉄、刀鍛冶の技術、そして馬がある。・・・源氏は、とにかく東北を支配下に収めたかった」(「東北蝦夷の魂」高橋克彦、現代書館)

 源頼朝の奥州征伐は「9月17日、厨川柵」を目標に定めているが、これは頼義将軍が安倍貞任を討ち取った日と場所が一致している。つまり、前九年の合戦のやり直しととらえていたことは明らか。

 北に逃亡した泰衡は、大館で河田次郎に裏切られ、その首は紫波町まで北上していた頼朝に届けられた。頼朝は、頼義将軍が貞任の首をさらしたように、泰衡の首を八寸釘で打ち掛けさせた。その三年後、頼朝は、蝦夷を征する将軍・征夷大将軍に任じられ、名実ともに武家の総大将となったのである。

 当時「出羽・陸奥は夷(エビス)の地」と言われ、鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」には、頼朝の行動を田村麻呂になぞらえた記述もみえている。奥州征伐は、古代以来の「征夷」の延長として位置づけられていたことは明らかであろう。

北緯39~40度ライン

 アイヌ語地名の南限は、北緯39度ラインである。北緯40度ラインは、男鹿のナマハゲ、八郎潟の八郎太郎伝説、さらには縄文・蝦夷の末裔といわれるマタギの本家・阿仁を通るラインである。左図の北緯40度~北緯39度の斜めのラインは、積雪寒冷のため凶作・飢饉多発境界線・・・つまり、これより北は、稲作に不適な気候風土をもつ地域であった。

 おもしろいことに、北緯39度ラインと北緯40度ラインの間で、最北の蝦夷支配として設けられた秋田城、胆沢城、坂上田村麻呂×アテルイの戦い、前九年、後三年の合戦、源頼朝の奥州征伐・・・中央権力×蝦夷の激しい戦争が繰り返されている。・・・この辺りに東北の基層文化のヒントがあるように思う。

北の夏祭りと田村麻呂伝説

 青森ねぶたのルーツは・・・西暦800年代、征夷大将軍・坂上田村麻呂は、地理的に不案内の地では勝負が長引く。そこで,数万のタイマツに火をつけ、大きな灯篭を作り,太鼓や笛,鐘などを鳴らし蝦夷たちをおびきよせようとした。この派手な楽器や灯篭に、蝦夷たちはゾロゾロと集まり、たちまちのうちに捕まえられてしまった。田村麻呂のこの作戦が、後のねぶたになったとされている。

 能代ねぶながしのルーツも同じく、坂上田村麻呂が蝦夷を討ち払うのに、夜、米代川の川面に灯を流し、奇異に釣られて誘い出された蝦夷を平定したのが始まりと伝えられている。以下、弘前ねぷた、黒石ねぶた、五所川原立佞武多の伝説も同様である。

▲古四王神社境内の田村神社(秋田市寺内) ▲東湖八坂神社(潟上市)

疑問・・・東北に坂上田村麻呂の伝説が多いのは何故か

 秋田城に近い古四王神社には、801年、田村麻呂が蝦夷征討を祈願して田村神社を建て、大滝丸と称する蝦夷の首領を退治したという伝説がある。また、潟上市・東湖八坂神社の社殿によれば、坂上田村麻呂の創建となっている。こうした田村麻呂伝説をもつ社寺は、「秋田の神々と神社」(佐藤久治)によると、県内に85社もあるという。

▲青森市・善知鳥神社・・・由緒には、807年、坂上田村麻呂によって再建されたとある。

▲深浦町円覚寺・・・807年、坂上田村麻呂が創建したと伝えられる。田村麻呂が足を踏み入れていない津軽にも、その創建を伝える寺社縁起が数多く残されている。

悪路王伝説・・・平泉町・達谷窟毘沙門堂(たっこくいわやびしゃもんどう)

 平泉町・達谷窟は、賊の主・悪路王と赤頭がトリデを構えていた岩屋である。801年、田村麻呂は岩屋にこもる蝦夷を打ち破り、悪路王らの首をはね蝦夷を平定した後、国を鎮める祈願所として毘沙門堂を建立したという。

 坂上田村麻呂が征伐した蝦夷の酋長が悪路王だとすれば、悪路王は蝦夷のリーダー・アテルイ、赤頭はサブリーダーのモレということになる。事実、毘沙門堂境内の碑は「アテルイの碑」と呼ばれている。

長面三兄弟伝説・・・「房住山昔物語」

 1823年、菅江真澄は、坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の首領・長面三兄弟などの山岳信仰伝説「房住山昔物語」を記録している。

 「東国の蝦夷征伐の勅命があり、将軍坂上田村麻呂が下向し賜うた。蝦夷の首長を誅伐し、残党をくまなく探し出して男鹿の山まで追討した。しかし、その中に、そこかしこに隠れなかなか捕まらない蝦夷の強兵が11人、その中でも名に聞こえたる三兄弟がいた。兄の名をアケト丸、次をアケル丸、その次をアケシ丸と言った。」

 平成23年に自費出版された「マンガで読む房住山昔物語」には、房住山(409・2メートル)周辺を舞台に、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷の強者「長面三兄弟」を退治する伝説や町名の由来となった三種川にまつわるエピソード、房住山の寺院の歩みなどを収録している。

▲坂上田村麻呂像(奥州市埋蔵文化財調査センター) ▲悪路王の首像(奥州市埋蔵文化財調査センター)

 史実では、田村麻呂は秋田、青森まで来ていない。さらに、自分たちの祖先・蝦夷が賊・鬼で、それを滅ぼした敵が英雄という歴史観は受け入れがたい・・・なのになぜ、東北各地に田村麻呂伝説が、こんなに多いのだろうか。

蝦夷アイヌ説(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

 ①東北地方にアイヌ語地名が数多く存在する

 ②マタギ言葉にアイヌ語と共通する言葉が多く含まれる

 ③古代の多賀城、胆沢城には通訳がいた

 これらを勘案すると、蝦夷はアイヌ人であるという説である。

 この説が正しいとすれば、東北の先祖は、蝦夷アイヌを滅ぼした日本人であり、その先祖の英雄が坂上田村麻呂であるから、神社や祭りなどに田村麻呂伝説が数多く存在しても何ら不思議ではないことになる。

蝦夷日本人説、混住説

 遺跡発掘調査が進むにつれて、東北でも水田稲作が行われていたことが証明され、東北地方でも縄文文化の後にくるのは稲作を伴う弥生文化であった。だから、古代の蝦夷は、文化的にも人種の上でも辺境に住む日本人であって、アイヌとは直接の関係がないとする説である。戦後は、蝦夷日本人説が優勢になった。

 しかし、現在は、蝦夷の言葉はアイヌ語系統であったという説も出てきている。もともと蝦夷は、単一民族と考えるところに無理があるように思う。例えば、江戸時代の弘前藩国日記によれば、マタギとアイヌは共同で熊狩りをすることもあったと記録されている。つまり津軽には、江戸時代まで、アイヌが住んでいたことが分かる。だから、古代の蝦夷は、日本人とアイヌが混住していたと考えるのが妥当であろう。

▲平泉・中尊寺 ▲平泉町・達谷窟毘沙門堂

源頼朝と田村麻呂伝説

 1189年、「出羽・陸奥は蝦夷の地」と言われていた。源頼朝は、28万4千騎を率い、平泉藤原氏を滅ぼしている。鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある達谷窟に目をとめ、その名を尋ねると、「それは、達谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、城塞を構えていた岩屋」だと教えたという。

 そして源頼朝の平泉征討は、「坂上田村麻呂」になぞらえて書かれている。つまり平泉政権に対する戦いは、古代以来の「征夷」の延長として中央権力から位置づけられていたのである。

 かくして中央に従わない蝦夷系の反乱を防ぐために、中央文化の移植と同時に、「征夷」「武将」の英雄である田村麻呂伝説を東北各地に広め、強力な武家政権を推進していった。その結果、東北各地に田村麻呂伝説が数多く残ったということであろう。

▲円仁ゆかりの山寺(立石寺) ▲円仁ゆかりの毛越寺

田村麻呂伝説と慈覚大師伝説

 「旅する巨人」と言われた民俗学者・宮本常一が「宗教者のエネルギー」として絶賛する慈覚大師円仁の概要を以下に記す。(参考文献「日本人のくらしと文化」宮本常一)

 円仁は、第三代の天台座主の方で、東北の寺々は、円仁が開いたということになっている。それは、円仁が下野(栃木県)の出身だったからである。というのは、昔の優れた聖者たちは、その郷里を最も大事にしているからである。

 円仁が大変な坊さんだったということは、円仁の遺した「入唐求法巡礼行記」を読めば分かる。当時、彼ほど優れた人はいなかった。この人が五台山に行くまでにどんな苦労をしたかということを読んでみると、東北地方を歩くことは、円仁にとって朝飯前の仕事だったと言ってよい。あの時期の人の持っているエネルギー、見通しの確かさ、それは、今の人たちと比べ物にならないほど優れたものだった。こんな偉い人が千年も前に、日本におったのである。

 慈覚大師円仁ゆかりの寺は、象潟の蛆満寺、山形の山寺、岩手の黒石寺、中尊寺、毛越寺、天台寺、青森の恐山、宮城の名勝松島瑞巌寺・五大堂などである。そして東北の至る所に慈覚大師の伝説が残っている。そもそも、武力だけで蝦夷を支配し、人の心をつかむことはできないことは明白である。だから、仏教による懐柔策として、当時最も優れた坊さん・慈覚大師円仁を送り込んだと言われている。

 軍事的征服の象徴が坂上田村麻呂伝説であり、宗教的支配の象徴が慈覚大師伝説となって、東北の隅々にまで広がっていったということであろう。

ねぶた大賞から「田村麿賞」廃止

 青森ねぶた祭りでは、昭和37年制定の「田村麿賞」の名称が、平成7年度より廃止され、「ねぶた大賞」に改称された。ねぶたの最高賞として位置づけられていた坂上田村麻呂は、青森県域に遠征した史実やその際にねぶたを用いたことが立証できないこと、地元の側からみるといわゆる征服者であって逆賊ではないか、というのが廃止の理由とされている。

 古代、東北地方は中央政府の勢力圏外で、この地を出羽、陸奥と呼び、住民を蝦夷(エミシ)と称していた。もともと蝦夷とは軽蔑した言葉である。(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

日本書紀(659)に記された蝦夷

遣唐使が中国に蝦夷を連れて行った時の記述は・・・

天子「蝦夷の国はいずれの方にあるか」

遣唐使「東北にある」

天子「蝦夷は何種類あるか」

遣唐使「三種ある。遠方を都加留(ツガル)、荒蝦夷(アラエミシ)、熟蝦夷(にぎえみし)という。今回伴ってきたのは熟蝦夷・・・」

天子「蝦夷の国には五穀があるか」

遣唐使「五穀は無い。肉を食して生活している」

天子「蝦夷の国に家はあるか」

遣唐使「無い。深山のなかで樹木の本に住んでいる」

(注)熟蝦夷(にぎえみし)とは、大和朝廷に従う蝦夷のこと。一方、大和朝廷に従わない蝦夷を都加留(ツガル)、荒蝦夷(アラエミシ)と区別していたことが分かる。

(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

▲「清水寺縁起絵巻」・・・坂上田村麻呂軍蝦夷征討の図(奥州市埋蔵文化財調査センター)

 「東夷は性格が強暴で、村の長はなく、皆侵し盗む。夷の中で蝦夷が最も強く、男女父子の間の節度も確立しておらず、兄弟間でも信用し合わず、山や野を行くのは敏捷であり、恩を受けたことは忘れてしまうが、怨みを抱くと必ず報いる。・・・彼らを攻撃すると草の中に隠れ、追うと山に逃げ込む。昔から未だ王化に従ったことはない」

 これらの記述は、「蝦夷は、ヤマトに従わない未開の野蛮人」と蔑視、差別していることが分かる。また上の絵巻をよく見ると、敗走する蝦夷は人種の違う貧相な姿で描かれている。この絵巻は16世紀初めに畿内のひとが描いたもの・・・つまり、近世に入っても基本的な認識は変わっていないことが見て取れる。この偏見に満ちた歴史観の延長線上で「東北クマソ発言」が飛び出す。

東北クマソ発言(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

 昭和63年2月28日、TBS特集番組「首都移転問題」で、当時サントリー社長だった佐治敬三氏は、「仙台遷都などアホなことを考えている人がおるそうやけど・・・東北はクマソの産地。文化程度も極めて低い」と発言・・・大きな反感を買ったことがあった。

 ちなみに、「東北はクマソ(九州南部)」ではなく「エミシ(東北)」の間違いである。

東北人の怒り

 翌2月29日、河北新報が「東北差別の過激な発言」と題して報道。秋田県では、佐々木喜久治知事の指示で共済組合の保養・宿泊施設にサントリー製品の仕入れを停止した。東北で激しい反発が起き、サントリー・ボイコット運動へと発展した。

 3月4日、岩手・宮城両県議会は、「強い憤りを覚える」との抗議声明を採択した。3月9日、「八重の桜」の地・福島県議会もこれに続いた。特に、東日本大震災で甚大な被害を受けた福島、宮城、岩手で怒りが爆発している。

▲アテルイのイメージ肖像(奥州市埋蔵文化財調査センター) ▲NHK「アテルイ伝」

 河北新報社編集局「蝦夷-東北の源流」(1979年)には、「歴史は常に勝利者の手によって書かれる。東北が後進地と言われる全ての源泉はここにある・・・

 我々東北人は何をなすべきか。それは、蝦夷とそしられつつ滅亡を強いられた・・・アテルイ、安倍、清原、藤原氏の生きざまの中に見出せると思われる。・・・我々東北人の務めは・・・東北の大地に自らの足でしっかり立ち、エミシの歴史を背負って、エミシ文化を確立することではなかろうか」・・・アテルイ・蝦夷の復権を力説している。

出雲大社の謎

 出雲大社の巨大なしめ縄は、より方が普通の神社とは逆である。旧暦十月を神無月(かんなづき)というが、これは全国の神々が出雲に集るからである。出雲では「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。また祭神・大国主神(おおくにぬしのかみ)は、社殿が南向きなのに、西を向いている・・・「全てが鏡で映したかのように世間一般とは逆になっている」・・・これは神話の裏を読み取らないと、歴史の真実は見えてこないというサインではないだろうか。

上の注連縄は、オスとメスの蛇が絡まって交合している様を現していると言われている。日本は縄文時代から蛇信仰のメッカで、出雲大社はその流れをくむ「龍蛇信仰」でも有名である。

疑問:出雲弁(島根県)は、なぜ秋田と同じズーズー弁なのか

 松本清張の小説「砂の器」では、秋田の亀田と同じズーズー弁を話す地域が島根県の亀嵩にあった。つまり出雲弁もズーズー弁なのである。実際に出雲弁を何度も聞いたことがあるが、確かに東北の人だと錯覚するほど似ている。それにしても、なぜ東北から遠く離れた出雲が飛び地状にズーズー弁を話すのであろうか。

産後の胎盤-エナの埋め方の違い・・・東日本は、縄文以来、戸口に埋める習俗がある。西日本は、弥生以来、産室の床下・縁の下に埋める風習が広く分布している。おもしろいことに、その例外が出雲地方で、東日本と同じ習俗をもっているという。

出雲大社では、2000年、地下祭礼準備室を造るために掘り返していたら、巨大な3本柱が見つかった。年代測定などにより、これら巨柱群は平安時代末から鎌倉時代初め頃に造営された神殿のものと判明。かつて出雲大社の高さは、現在の約2倍、48mもあったことが裏付けられたという。

遺跡発掘調査の進展によって明らかになったことは、弥生時代後期に出雲が勃興し、ヤマト建国にかかわり、その後に衰弱したことが判明した。神話によれば、天照系の一派が日本にやって来た時、出雲を治めていた大国主命たちは快く国譲りをしたとされる。しかし真相は・・・

 平和的な国譲りなどではなく、ヤマト族が出雲を滅ぼしたと言われている。伝承によれば、出雲大社の本殿は130mを超す高さだったとされる。その塔は、敗者である出雲の神・オオクニヌシを幽閉するためだったとする説や、出雲の神・オオクニヌシの祟りを恐れて丁重に祀ったとの説などがある。

 岩手の作家・高橋克彦氏は、大陸から渡ってきたヤマト族に出雲の和人が敗れて、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた。そのうち「北へと逃れ、新たな民族を形成していったのが東北人のルーツ」だと、東北出雲説を主張している。

▲唐松神社参道のスギ並木(推定樹齢300年)

政治の中心から追われた物部氏

 聖徳太子の時代、蘇我氏と物部氏の対立があり、物部氏は政治の中心から追われた。東北の神社や鉱山の多くには、物部氏にまつわる伝承が残っている。例えば、大仙市協和の唐松神社に伝わる「秋田物部文書」の伝承によれば、殺された物部守屋の子の一人が船で日本海を北上して鳥海山麓に降り立ち、やがてその後裔が秋田の唐松林に定住したという。

▲唐松神社(大仙市協和)

物部氏と安倍氏の連携

 高橋克彦氏「東北蝦夷の魂」によると・・・物部氏が一番得意としたのは鉱山の開発と馬の飼育であった。もともとニギハヤヒノミコトを奉ずる出雲の民は、鉱山技術者の集団であった。金山、銅山、鉄山の場所には、物部系の技術者が派遣され、そこで集落を形成していった。伝説では、それらは全て金売吉次が開発したとされている。

 義経記によると、鞍馬寺へあずけられた牛若丸が、奥州藤原氏を頼って平泉に下るのを助けたのが金売吉次である。彼は、奥州で産出される金を京で商うことを生業にしていた。「゛炎立つ゛を書いていた時、金売吉次は物部の一族だという仮説を立てたら、NHKが資料を探してくれた。安倍宗任に従って九州に流された人物の末裔が今もいて、その家系図に金売吉次のルーツは物部氏だと記してあったのだ。」

 蝦夷の在地豪族・安倍氏は、物部氏と手を組むことによって、黄金や鉄を採取する手段を得て、奥六郡を手中にした財力を築いたと推理している。 

▲物部長穂記念館(大仙市協和) ▲写真右が晩年の物部長穂博士

出羽物部家の出身・物部長穂博士

 大正から昭和初期に活躍した物部長穂博士は、日本の水理学、土木耐震学、河川工学・ダム工学の草分け的存在で、土木工学関連の技術者で知らない人がいないほど、神様的な偉人である。彼は、出羽物部氏の家系である唐松神社の生まれである。

 もともと鉱山の技術と土木の技術は、兄弟みたいなもの。物部家から土木工学の草分け的な天才が生まれたのも、何となく分かるような気がする。

▲出雲神楽の代表・佐陀神能「八重垣」

ヤマタノオロチ伝説

 日本の龍信仰は出雲から始まった。神話に登場するヤマタノオロチ伝説は、出雲の斐伊川上流が舞台になっている。ヤマタノオロチは、出雲で神として崇敬されていた。天照系の神話では、スサノオノミコトが邪悪な怪物・ヤマタノオロチを退治してしまう。こうした征服者がその土地の神を退治するストーリーは、世界各地の神話と一致している。

 出雲神楽の代表「佐陀神能」には、ヤマタノオロチを退治する「八重垣」という演目がある。また秋田には、八郎太郎伝説や三湖伝説など龍信仰が多い。それは出雲を追われた国つ神たちは、龍信仰を持ったまま東北に来た証ではないかとの説もある。

▲男鹿市船越「八龍神社」

菅江真澄「男鹿の秋風」(1804年)・・・「船越の崎の八龍の社にはヤマタノオロチをまつり、芦崎の姥御前と呼ばれる社にはテナツチを、三倉鼻の老公殿の窟にはアシナツチがまつられていると伝えられる」・・・つまり八郎太郎=ヤマタノオロチである。

出雲の神・ヤマタノオロチ=八郎太郎伝説

 男鹿市船越の八龍神社には、八郎太郎伝説の主・出雲系のヤマタノオロチを祀っている。この八郎潟の神は、出雲系でズーズー弁とも一致する。

八龍神社は、八郎潟漁業者の信仰があつい神社である。漁業者たちは、八龍神(八郎太郎)に豊漁を感謝し、魚の霊を鎮める石碑を数多く建立している。最も古いものは「湖鰡(ボラ)供養碑」で1861年に建立されている。

▲写真集「潟の記憶」(川辺信康著)より ▲八郎潟漁労用具

干拓前の八郎潟には、40科72種の魚類が生息。うち漁の対象は、約40種である。「その漁獲高も面積の広い琵琶湖と比較にならないほど多く、きわめて豊富な漁場であった。」(昭和町誌)

 潟の漁師はよく「魚七ツに水三ツ」と言った。桶一杯に水を汲めば、7割が魚だという意味である。平均水深3mと浅く、小規模な道具で漁ができたことから、多様な漁法が生まれた。建て網、ひき網、刺し網、まき網など。干拓開始当時、漁民は約3千人、動力船700隻、無動力船1500隻もあった。

▲東湖八坂神社(潟上市) ▲日本の神話「ヤマタノオロチ」(天王グリーンランド)

八龍神社と東湖八坂神社・・・ヤマタノオロチを祀る八龍神社に対して、船越水道を挟んた対岸には、東湖八坂神社がある。この神社は、坂上田村麻呂の創建と言われ、漁業者の信仰があついヤマタノオロチ(八郎太郎)を退治した天照系のスサノオノミコトを祀っているのである。京都の八坂神社と同じく、「牛頭天王(こずてんのう)」を祀っていることから地名の「天王」になったのであろう。

 この神社には、蝦夷を滅ぼした大和朝廷の神話・・・スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する神話を劇のように再現した「統人行事」が、潟上市天王と男鹿市船越の両地区住民によって継承されている。歴史は古く、約千年前から現在の形で行われているという。

統人行事(国重要無形民俗文化財)・・・毎年7月7日に「牛乗り」と「蜘蛛舞」のクライマックスを迎える。この行事は長い歴史を持ち、素晴らしい民俗文化財であることは確かだが・・・歴史の表舞台だけいくら眺めていても、蝦夷の消された歴史文化は見えてこない。

 その昔、蝦夷征伐の最前線であった秋田城・・・その北側は、度々反乱を起こした。その蝦夷の反乱を抑えるには、蝦夷征伐の神・田村麻呂伝説と大和の神話・・・つまり中央支配のイデオロギーを必要としたことは言うまでもないであろう。だから、この地を支配していた八郎潟の主・ヤマタノオロチ(八郎太郎伝説の主人公・八郎太郎)を退治するというストーリーを東湖八坂神社の行事に持ち込んだのであろう。

菅江真澄「牛乗り」(1804年 男鹿の秋風)

 黒い牛に乗った男が、烏帽子・狩衣の装束で、顔には墨を塗りたて、鋭い矢をたばさみ、十握の剣を帯びている。牛のはなぐりに五尺の木の綱をつけ、これを引く男は編笠をかぶり、五人の頭人たちは牛に乗った人の前後左右を囲んでいる。この牛乗りこそ、恐れ多くもスサノオノミコトにたぐえ奉っているのである。・・・ 

船越地区住民による蜘蛛舞は、漁船の上で行われる。赤い衣装に身を包んだヤマタノオロチが、2本の柱の間に渡した綱の上で舞う。ヤマタノオロチが酒を飲んだり、スサノオノミコトに倒され苦しむ様子を再現している。

菅江真澄「蜘蛛舞」(1804年 男鹿の秋風)

 湖面には小舟をつなぎあわせて船越の浦の人々が漕いでくる。舟のなかにも屋形山が飾られ、たいそう賑やかである。・・・体に赤衣をまとい、腕にはめる筒形の布・脚絆・足袋も皆赤色の木綿で、頭には赤白の麻の糸を振り乱してかけてカズラとし、顔には黒い網をもって仮面のようにつけた者が、二筋のわら縄の上にのぼって、八つの山、八つの谷の間をはいわたり、八つのかめの酒を飲みにきたように、この湖の揺れる波の中をのたうちまわるように、のけぞるふるまいをしながら舟を漕ぎめぐっている。ヤマタノオロチのふるまいである。これを土地の人は蜘蛛舞という。まことに蜘蛛が巣をかけるさまに似ている。

・・・牛の背に乗った者は十握の剣を抜き、矢を射て、ヒの川上で大蛇退治をした所作をし、やがてそれも終わると・・・たくさんの見物人を乗せた数多くの舟は、蜘蛛舞が終わったので、蜘蛛の子を散らすように広い湖の面を四方に漕ぎ別れて行った。

 ・・・このように、翁とおうなが遠い神代の物語・スサノオノミコトのヤマタノオロチの大蛇退治を真似て、今の世までも怠らず行っている神事は、他に類例があるであろうか。

この祭りの不思議な点は、酒を飲んで酩酊するのは、ヤマタノオロチだけでなく、スサノオ役も終始酩酊状態である点である。天王本郷自治会館内に設けられた「酒部屋」で、非公開の秘儀が行われるという。そこから出てきたスサノオ役の男は、酩酊しているのか、意識を失った状態のまま船越水道に移動するのである。

 神話の勇猛な姿とは、あまりにかけ離れている・・・だから、単なる神話を模した行事には見えなかった。秋田は酒好き、というだけでは理由にならないであろう・・・何しろ千年も続く厳粛な神事である。その真意は何か・・・やたら気になった。

▲三湖伝説の主人公・八郎太郎出生の地を示す石碑(鹿角市大湯草木)

八郎太郎伝説に隠された裏を読み解く

○柳田国男「山の人生」・・・八郎太郎はマタギ

 「マタギは東北人及びアイヌの語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。例えば十和田湖の湖水から南祖坊におわれて来て、秋田の八郎潟の主になっているという八郎おとこなども、大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住民であった・・・津軽、秋田で彼をマタギであったと伝えたのには、何か考るべき理由があったろうと思う」と記している。 

▲大湯環状列石(鹿角市大湯)

八郎太郎伝説は縄文・蝦夷系を示唆する伝説

 大湯環状列石が発見された野中堂から万座地区の一帯は、昔から「開墾すれば禍が起きる」との伝説があったという。遺跡の北東2kmほどの所に、「黒万太(クロマンタ)」と呼ばれている三角山がある。その三角山は、草木地区の村長だった黒沢万太を神として祀った墳墓だとする伝承が残っている。

 さらに、その草木地区は、かつてマタギの集落で八郎太郎伝説の主人公が生まれた故郷でもある。また、万座という地名そのものが、多くの環状列石が座している場所を暗示しているような地名である。

 1807年、菅江真澄は十和田湖を訪れ、八郎太郎伝説を詳細に記している。休屋の小屋に入ると・・・

「飯を炊き、自ら採ってきたマイタケ、ヒラタケなどを煮ていたが、コタタキ、カツトリなどと聞いたこともない言葉を耳にした。これも何かの忌言葉かと思って、確かめると、このキノコ採りの人々の本来の職業は、雪が積もると山に狩猟に出て、クマ、サル、カモシカを撃つマタギであり、それらの使う山言葉というものであった」

 菅江真澄の記録を読めば、大湯から十和田湖一帯は、古くからマタギが活躍した舞台で、八郎太郎伝説の主人公がマタギであったという設定は、ごく当たり前のことであることが分かる。龍伝説の象徴・八郎太郎は、大湯環状列石のすぐ近くの草木村が出生の地であることは、マタギを生業とする八郎太郎伝説が縄文・蝦夷系の伝説であることを示唆しているように思う。

菅江真澄記「八郎太郎伝説」・・・十和田湖編要約

 昔、草木の郷に八郎太郎というまだ若いマタギがいた。この辺りの人々は、毎日猟で生計を立てていた。ある日、八郎は仲間と共に猟のために奥入瀬に入った。仲間二人は猟のために山中に入ったが、八郎は一人留守番で木を切り、飯を炊く係りになった。

 湖に水を汲みに行って、大きなイワナを見つけ、仲間の分も含めて三匹つかまえた。余りに美味そうなので、一匹食べたが、その美味さに残りの二匹も食べてしまった。すると、たちまち喉が焼けるように渇いた。岸辺から湖の水を飲み続けると、八郎太郎は八頭のオロチに身を変えてしまった。

 マタギの世界では、捕った獲物は平等に分配するのが掟である。その掟を破ったために天罰が下る。さらに出雲の神であったヤマタノオロチに変身する。この伝説の裏を読み解けば、蝦夷系のストーリーが潜んているように思う。

▲青森ねぶた「十和田湖伝説 八郎太郎と南祖坊」

十和田湖伝説では、湖の覇権をめぐって熊野修験道の南祖坊と戦うストーリーになっている。菅江真澄が記録した伝説によると、播磨の国から法華経を読む難蔵法師が十和田湖にやってきて、八頭のオロチと戦う。難蔵は、九頭のオロチに身を変え勝利・・・八頭のオロチ・八郎太郎は、南へと逃げ去った。

菅江真澄記「八郎太郎伝説」・・・七座山編要約

 八郎太郎は、米代川を下り、両岸切り立つ七座山を堰き止めて湖水をつくり、そこを安住の地とした。この地の天神さまは、八郎太郎を追い出すために語り掛ける。ウナギの寝床みたいで窮屈だろう。男鹿半島の方に行けば際限なく広々とした所がある。そこを住家にすれば龍王の宮殿になると勧めた。

 湖水をつくっている山に穴をあけるよう白ネズミに命じた。ネズミが岩山に穴をあけ、ついに水を通した。すると大洪水となって一座の山を押し流し、八郎太郎はその濁流に乗って米代川を下り天瀬川へ。

▲姥御前神社(三種町芦崎)

菅江真澄記「八郎太郎伝説」・・・八郎潟編要約

 男鹿がまだ島であった頃の話・・・七座山から下った八郎太郎は、天瀬川の老人夫婦の世話になっていた。本土と男鹿をつないで巨大な湖をつくり、この地を安住の地にしようと考えた。神の許しを得た八郎太郎は、世話になった老夫婦に「鶏の鳴く夜明けを合図に大地震が起きて大洪水になる」と告げ、立ち退くよう言っておいた。

 しかし、当日、老婆は忘れ物の麻糸を取りに戻ったところ、鶏が鳴き大地震が起きてしまった。八郎太郎は、老婆をとっさに蹴り上げ、対岸の芦崎に飛ばし、老翁は天瀬川にとどまって別れ別れになってしまった。以来、八郎太郎は八郎潟の主となり、老翁は夫殿権現(アシナツチ)になり、老婆は芦崎の地で姥御前(テナツチ)として祀られた。天瀬川と芦崎の人々は、鶏を忌み、飼うことも、鶏肉・鶏卵を食すこともなかったという。

▲菅江真澄絵図「氷魚の網曳」 ▲八郎潟「うたせ舟」

八郎太郎は狩猟を生業とするマタギであったが、十和田湖で出雲系の神に変身・・・ヤマト系の神々に追われて辿り着いたのが八郎潟であった。そして八郎潟の漁業の神として祀られている。八郎太郎伝説は、狩猟・漁労採集を生業とする縄文・蝦夷とつながっているように思う。

▲田沢湖の主・達子姫

三湖伝説を読み解く

 八郎太郎は、永遠の美と命を求め龍の姿となった辰子に惹かれ、田沢湖へ毎冬通うようになった。辰子もその想いを受け容れ、二人は恋仲となった。それを妬んだ十和田湖の主・南祖坊が八郎太郎を田沢湖から追い出そうと攻撃する。今度は八郎太郎が勝利を収めた。

 それ以来、八郎太郎は冬になる度に、辰子と共に田沢湖で暮らすようになった。主が半年間不在となった八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなく、ますます深くなったのだという。

 「辰子」という名前は、アイヌ語で「タブコブ(平野の中の小高い丘・たんこぶ山)」から来ているという。蝦夷系のマタギ・八郎太郎は、同じアイヌ・蝦夷系の辰子姫と恋仲になった。一方、十和田湖の主は、南から来た天台宗の坊主でヤマト系だから、辰子姫に嫌われたと解釈することもできる。

神話や伝説には、必ず表と裏がある。その裏を読み解かないと、消された歴史は見えてこない。おもいろいことに、三湖伝説は、南から来た坊主を嫌い、土着のアイヌ・蝦夷系の龍に味方している。三湖伝説は、素直にストーリーを読むだけで、古代蝦夷の文化が色濃く残る希少な伝説であることが分かる。

田沢湖・石神番楽

 田沢湖の中生保内石神集落に伝わる番楽は、山伏系の番楽であるが、大蛇を退治する「鐘巻」は決して演じないという。これは田沢湖の守り神=辰子の化身である大蛇に刃をむけることは、とんでもないことだからである。後発の山伏修験道の信仰より、古来からの信仰を重んじるところに民間信仰の凄さを感じる。

▲えさし藤原の郷

東北はアテルイ、前九年・後三年の合戦、平泉滅亡、戊辰戦争と度々大きな戦に巻き込まれたが、全て中央権力に敗北・・・「歴史をズタズタに書き換えられ、捨てられてしまっている」(「東北・蝦夷の魂」高橋克彦)。しかし、言葉と伝説まで消し去ることはできない。東北のズーズー弁と龍を神として祀る八郎太郎伝説は、岩手の作家・高橋克彦氏が言う「東北出雲説」を示唆しているようにも見える。

北東北のアイヌ語地名の存在やマタギ言葉にアイヌ語が多く含まれていることなどを加えると、蝦夷は単一民族ではなく、アイヌ系、ヤマト系、出雲系が入り混じっていたと考えるのが妥当ではないだろうか。

 そう考えると、ヤマト系の神話や田村麻呂伝説、出雲系の八郎太郎伝説が共存していても何らおかしくないし、アイヌ語地名、マタギ言葉にアイヌ言葉が含まれている謎、東北から遠く離れた出雲のズーズー弁の謎も、何となく解けたように思うのだが・・・。

▲菅江真澄絵図「アイヌ集落」 ▲菅江真澄絵図「ふたりのアイヌ」 ▲菅江真澄絵図「仕掛け弓」

菅江真澄「アイヌ文化と北東北の文化」

 菅江真澄は、1788年~1792年までの4年間道南を歩き、アイヌの文化を克明に記録している。その後、再び津軽、秋田を旅しながら、北東北にアイヌ語地名が多いこと、マタギ言葉にアイヌ語が多いことを発見している。例えば・・・

「高い橋を渡ると笑内(おかしない)という部落があった。松前の西の磯伝いにも可笑内(おかしない)というところがあった・・・何ナイ、かにナイという内(ない)は、もと沢という蝦夷の言葉で、昔はこの辺にも蝦夷が住んでいたのであろう」

 「山ひとつ越えると根子という部落があった。この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ねている。このマタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵している・・・かれらの使う山言葉の中には、獲物の肉をサチノミ、米を草の実といい、その中には蝦夷言葉もたいそう多かった。」

▲アイヌの衣服「アツシ」

さらに、北東北がアイヌの生活文化や習俗の影響を強く受けていることも指摘している。例えば、アイヌの生活労働着であるアツシが東北地方で着用されていることを見逃すことなく記録している。1788年、青森市瀬戸子の浜で、アツシというアイヌの刺繍衣を着て道づくりをしている人たちの姿を記録している。

 さらにその4年前の1784年、象潟でも同様の記録をしている。「行きかう人は、アツシ(アイヌの着物)という蝦夷の島人が木の皮でおり、縫ってつくった短い衣を着て、小さい蝦夷刀(マキリ)を腰につけ、火うち袋をそなえていた。」

 アイヌのイナウと秋田領の祝い棒はよく似ていることも指摘している。五城目町谷地中で見た「幸の神の祝い棒」は久保田で見たのと同じで、アイヌのイナウと似ていることを繰り返し指摘している。横手市のぼんでこ棒(祝儀棒)は、40cmほどの柳やコシアブラなどの白木を、削り掛け縮みという技法で削り着色した繊細な手工芸品であるが、これもアイヌのイナウとよく似ている。

 考古学によれば、道南から北東北にかけての地域は、縄文時代から古代にかけて共通の文化圏であったことが指摘されている。菅江真澄は、そのことを今から200年前に気づいていたのである。

▲真澄絵図「アイヌのイルカ漁」 ▲真澄絵図「ハタハタ漁」 ▲真澄絵図「人面土器」

日本の深層・・・縄文文化、東北の文化、アイヌ文化(「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」梅原猛)

 「古い文化、いってみれば日本の深層を知るには、縄文文化を知らねばならない。縄文文化を知るには、東北の文化を知らねばならない。・・・(しかし)東北人は、長い間、心の中に、密かになる誇りを抱きながら、蝦夷の後裔であることに、耐えてきていた。そして自分が、アイヌと同一視されることを頑強に拒否してきた。

 ・・・東北を、古くから倭人の住む、古くから稲作農業が発展した国と考える見解が、戦後の東北論の主流であったように思う。それは東北人を後進性の屈辱から救うものであったとしても、かえって東北特有の文化を見失うことになると思う。

 ・・・蝦夷の後裔であること、アイヌと同血であることを、恥とする必要は少しもないのである。むしろ、日本の文化は、蝦夷の文化、アイヌの文化との関係を明らかにすることによって、明らかになるはずである。」

北東北・・・コメは危険な作物

 司馬遼太郎は、「街道をゆく41 北のまほろば」で次のように述べている。

 「(青森県全体が)縄文時代には、信じがたいほど豊かだったと想像されている。津軽だけでなく、東日本全体(ブナ帯地域)が、世界で最も住みやすそうな地だったらしい・・・

 その頃は「けかち(飢饉)」はなかった。

 当然のことで、この地方の苦の種でもあった水田がはじまっていなかったのである。」

 コメが、この藩の気候の上からも危険な作物であったと述べている。これは積雪寒冷地に位置する秋田も同じである。特に北東北三県は、つい最近まで冷害多発地帯であった。

天明の大飢饉のひどさは、菅江真澄の記録を見ればよく分かる。もともと稲作は、熱帯原産の植物で、それが実るには夏の平均気温が20℃以上を要した。しかし天明3年(1783)は、春から冷たい雨が降り続き、夏になっても寒く記録的な大凶作となった。真澄が津軽に入ったのは天明5年8月だが、一昨年の大飢饉の被害は、いまだ悪夢のような惨状として残っていた。

菅江真澄が記した「天明飢饉の惨状」・・・「外が浜風」の要約

 天明5年(1785)、西津軽郡森田村の小道を分けていくと、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。ある男が言った。

 ご覧なさい、これはみな餓死したものの屍です。過ぐる天明3年の冬から4年春までは、雪の中に行き倒れたものの中にも、まだ息のかよう者が数知れずありました。その行き倒れた者がだんだん多くなり、重なり伏して道をふさぎ、往来の人は、それを踏み越え踏み越え通りましたが、夜道や夕暮れには、誤って死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腹などに足を踏み入れたり、その臭い匂いをご想像なさい。

 なおも助かろうと、生きている馬をとらえ、首に綱をつけて屋の梁に引き結び、脇差、あるいは小刀を馬の腹に刺して裂き殺し、したたる血をとって、あれこれの草の根を煮て食ったりしました。荒馬の殺し方も、後には馬の耳に煮えたった湯を注ぎ入れて殺したり、また、頭から縄でくくって呼吸ができずに死なせるといったありさまでした。その骨などは、焚き木に混ぜて焚いたり、野をかける鶏や犬をとらえて食ったりしました。

 そのようなものを食い尽くしますと、自分の産んだ子、あるいは弱っている兄弟家族、また疫病で死にそうなたくさんの人々を、まだ息の絶えないのに脇差で刺したり、または胸のあたりを食い破って、飢えをしのぎました。人を食った者はつかまって処刑されました。人肉を食った者の眼はオオカミなどのようにギラギラと光り、馬を食った人は全て顔色が黒く、今も生き延びて、多く村々にいます。

 弘前に嫁にやっていた娘が、この飢饉で母はどうしているかと訪ねてきました。母は冗談に娘に向かって『サルが丸々肥えているようだ。食べたらさぞ美味しかろう』と言いました。娘は薄気味悪くなって、夜、母の寝たすきを見て、逃げ帰ったということです。

馬も犬も食い尽くすと、弱っている人間を殺してまで人を食ったという恐るべき真実が記録されている。また、秋田領に戻る途中の長走村というところでは、一族をみな失って、乞食になっている人から、「人も馬もたしかに食べた」という証言を聞いて、そのまま記録している。飢饉が死語となった現代人にとっては、想像することすら困難なだけに、飢饉の実情を生々しく伝える貴重な記録である。

凶作飢饉と遠野物語(写真:大飢饉で餓死した者を供養した「五百羅漢」)

 天明の大飢饉は、遠野でも多くの餓死者が出た。苔生す山中の自然石に、500体もの羅漢像が線彫りで刻まれている。この地に立てば、凶作で餓死した者の喘ぎ、苦しみ、叫び声が聞こえてくるような錯覚に陥る。義山和尚は、その魂を鎮めるために、500体もの羅漢像を彫り続けるしかなかったのであろう。

 北東北は、稲作の北限に位置していただけに凶作・飢饉常習地帯であった。中でも、冷たい北東風「ヤマセ」によって冷害になる筆頭が岩手県北上盆地であった。その過酷な風土は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にも記されている。

 「日照りの時は 涙を流し/寒さの夏は オロオロ歩き」

 ちなみに平成5年の大凶作の年の作況指数は・・・青森「28」、岩手「30」、遠野「8」、宮城「37」、秋田「83」であった。東北の太平洋側が著しく低い。特に遠野は壊滅的な低さだ。

 「遠野物語」は、この世とあの世の境界がはっきりしない。むしろ交錯しているような不思議な物語ばかりである。それはヤマセによる冷害飢饉に加えて、大地震、そして一山越えると大津波が押し寄せるという過酷な風土から生まれた物語だからであろう。

▲佐々木喜善が生まれた村を望む ▲遠野市土淵町山口の水車小屋

東北は歴史的な飢饉多発地帯・・・参考:「昭和東北大凶作」(山下文男)

 「奥羽地方ほど頻繁に深刻な飢饉がおこったところはない」というのが歴史書の定説になっている。南部・盛岡藩を例にとると、江戸時代に大小あわせて94回、すなわち3~4年に一度の割で凶作に襲われ、実に16年に一度は飢饉に苦しむ歴史を繰り返している。

 「秋田県史」(二巻)によれば、藩政期約260年間に71回、4年に一度の割で凶作があったとされている。特に被害の大きかったのは、宝暦5年、天明3年、天保4年の凶作であった。

 近代になっても東北地方では、明治年間だけで24回もの凶作に襲われている。特に明治35年と38年の大凶作は、身売りや欠席児童が多いために学校教育が不可能に陥る村があるほどであった。

ザシキワラシと三内丸山遺跡

 遠野物語第十七話・・・「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり」。一般にザシキワラシは男の子だが、遠野では女子のザシキワラシも登場する。このザシキワラシも、飢饉との関係説がある。

 飢饉の際に生まれた子供は、育てることができず「口べらし」と称して間引きが行われた。当時は生まれたばかりの赤子は、霊的に未成熟で間引くことを神に返す行為とされた。だから、そんな子供は墓ではなく土間や台所に埋める風習があった。その間引きされた子供がザシキワラシになったと言われている。

 三内丸山遺跡では、子どもの墓は、墓地ではなく住居の近くに集中している。幼くして死んだ子どもは、再び戻ってくることを祈りながら、神に返したと考えられている。昔は、幼くして亡くなる子どもが多かったことから、「七歳までは神の子」と言われた。七五三は、七歳まで無事に生きた子どもたちの成長を氏神に見せて感謝する意味があるとされている。そのルーツは、縄文時代であったことが分かる。

「秋田の農村はどこも貧しかった」(「日本奥地紀行」イザベラバード)

  イギリスの旅行作家・イザベラバードは、明治時代、東北、北海道を旅し「日本奥地紀行」を書いた。例えば、米沢平野(置賜盆地)では、「まったくエデンの園である。鋤で耕したというより鉛筆で描いたように美しい。・・・実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。」と絶賛している。しかし、明治11年7月下旬、秋田に入ると一転、貧しい記録が際立つ。

 「虻川(飯田川町)というみすぼらしい村で一泊・・・屋根裏の部屋で、ノミが多かった。米飯はとても汚くて食べる気がしなかった。宿のおかみさんは・・・ひどい皮膚病にかかっていた。・・・村々の家屋はみな木造であったが、虻川村は古ぼけた倒れそうな家ばかりで、家を棒で支え、斜めになった梁は道路に突き出て、うっかりすると歩行者は頭を打つほどであった。・・・

 私の家の前には、裸同然の姿をした村中の人々が口を開けたまま黙ってじっと見つめながら一晩立っていた。豊岡(山本町)では・・・そこの人たちの着ているものは、特にボロボロで汚かった。

 士族村である檜山(能代市)は例外であった・・・家は一軒建てで、美しい庭園があり、深い屋根の門がつき、庭先には石段になっていて草木が植えてあった。洗練されて静かな暮らしを楽しんでいるように見えた。

 小繋周辺では・・・たいていの家は板張りで、端は粗末に釘で打ち付け、両側は粗末に縄で縛ってあった。家には窓はなく、どの割れ目からも煙が出ていた」・・・賞賛しているのは城下町だけで、秋田の農村はどこも貧しかったことが分かる。

秋田県農業の神様「石川理紀之助」

 石川理紀之助は、明治時代の農村指導者で、生涯を貧農救済に捧げた人物。「老農」あるいは「農聖」と敬称されている。明治5年(1872)秋田県庁の勧業課に勤める。明治15年、米の値段が急落、さらに冷害が重なり、どの農家も借金に悲鳴をあげた。至るところに盗人がはびこり、山田村もまた借金であえいでいた。

 明治16年39歳 県庁を辞職し、借金にあえぐ山田村25戸の救済を開始する。質の良い肥料を作り、これまでの倍の量を田んぼに施し、米の収量を増やす。無駄使いをやめ、養蚕をとりいれ副業に精を出す。仲間外れが出ないよう、助け合い、励まし合う、というものだった。毎朝3時、彼は掛け板を打って村人を起こし、農事に専念させた。

 村人の努力と協力によって、5年間で村の借金を完済。「寝ていて人を起こすことなかれ」・・・理紀之助が残した名言である。明治34年、九州・宮崎県の谷頭の農村建て直しにも尽力。

 晩年には、秋田県仙北郡の九升田の建て直しを依頼された。村人の借財は4万円(39戸)、利子の返済さえ困難な状況であった。翁の日記には、「空腹のため外に出る者なし。死んでも後始末する者がいない・・・貧乏風が隅から隅まで吹き荒れている」と記されていた。

 そんな村を救うべくやってきた翁に対し、脅迫状を送るほど心まで貧乏風が吹き荒れていた。翁は、徐々に体調が悪くなっているのも顧みず、大正4年亡くなる寸前まで九升田の建て直しに尽力した。当時の魁新聞には、「一斗の酒にも酔わない彼らも翁の至誠に酔った」と記している。 

 理紀之助は、どんなに貧しく、苦しくとも、未来を信じ、世の人々に期待して掛け板を鳴らし続けた。まさに、農村の救済活動に一生を捧げた郷土の偉人であり、彼を抜きにして秋田県農業の歴史は語れないと言われている。その遺志は、戦争の中でも一度も休むことなく開催された「種苗交換」に如実に受け継がれている。

売られゆく娘たち

 凶作が決定的となった昭和9年、秋田県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると、「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。

 身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる仙北・平鹿・雄勝三郡であった。一方、マタギの村・根子の記録によれば、昭和7年、戸数84戸のうち76名が農閑期に鳥獣の毛皮、熊の胆の行商で潤っていた。「年額8千円~1万円位の収入」があり、娘の身売り問題とは無縁であった。秋田では、コメの依存度が高いほど、「けかち(飢饉)」の悲惨な歴史があったのである。

米食悲願民族

 江戸時代、農民の食べ物は、租税、小作料納入の残りしかないから、米を常食にするだけの量はなかった。米は正月や盆の儀礼食くらいで、普段は麦、粟、稗であった。米中心主義のおかげで他の穀物は雑穀と差別的な言葉で呼ばれるようになったが、稗は冷害的気象条件にも耐えうる優れた作物であった。

 だから、青森県の下北や岩手県の閉伊郡、奥羽山脈の山間地帯では、稲を植えても実らない水田に稗を植えたという過去の歴史もあったのである。北東北は、気候風土から言えば、稲よりも稗・粟であったはずだが、それに逆らったために、凶作、飢饉を繰り返すことになったのであろう。昔から日本は「米食民族」などではなく「米食悲願民族」であったと言われているのも頷ける。

マタギ集落「百宅」

 鳥海山麓の百宅は、古くからマタギ集落としての伝統を保ち、かつては「鳥海の桃源郷」と称えられていた。ここには三組のマタギ集団があった。金五郎組(下百宅)、文平組(下百宅)、七蔵組(上百宅)である。水田は標高の高い山岳盆地に位置し、鳥海山麓の冷水では稲の実も熟さなかったであろう。昭和9年の凶作では、80haの水田が冷害で全滅している。農業だけではなりたたない村であることが分かる。また由利連合猟友会村上鳥海支部長によると・・・

 百宅は、冬になれば完全な陸の孤島と化す。里から肉や魚を買って来ることなど考えられない。動物性タンパク質と言えば猟で獲った獲物だけであった。従って農業と冬場の猟が主な仕事であった。ウサギの内臓はもちろん、皮や耳も食べた。冬場のどぶろくのツマミは、タニシを干して保存していたツブ貝の干物を食べるなど独特の食文化を持っていたという。

▲鳥海マタギの巻物「山達根本之巻」(由利連合猟友会創立60周年記念誌より)

▲鷹匠の里「上仙道桧山」 ▲名鷹匠を称える「狩猟師」の碑

農と狩りに生きる伝統習俗「鷹匠」の里・羽後町上仙道桧山

 羽後町上仙道桧山には、45人の鷹匠が生まれ育った。右上写真の石碑は、鷹匠として活躍した三浦親子を称える「狩猟師」の碑である。昔の武士やレジャーとして行われているタカ狩りは、ハヤブサやオオタカを使って鳥類をとる。一方、獲物を生活の糧にしてきた仙道の鷹匠は、それよりはるかに大型のクマタカを飼い慣らし、野ウサギやテン、タヌキなど獣類の狩りをしてきた伝統猟法であった。

 桧山集落は、戸数16戸、1戸当たり耕作面積はわずか4反歩。日照時間が短く、冷たい沢水を引いての湿田の収穫は少ない。こうした悪条件が鷹匠という伝統習俗を生み出した。

 秋田県内の山村には、狩猟を生業としたマタギ集落は、阿仁町、森吉町、上小阿仁村、田沢湖町、西木村、鳥海町、山内村、東成瀬村など、いずれも農業だけでは生きていけない山間の奥地に位置している。上仙道桧山集落も実はマタギ集落であった。古くから農耕を営みながら、狩猟期の冬と春には山岳を歩いて狩猟に専念していたのである。

▲ブナ帯の渓流はイワナの宝庫 ▲マタギ料理「骨付きのクマ鍋」

農業+狩猟・漁労・採集の複合文化

 明治、大正、昭和の農村の歴史を振り返ると・・・つい最近まで冷害、凶作に見舞われ、飢饉を招くことが昔から繰り返されてきたことが分かる。人々は凶作のための備蓄や食いのばし、食べられる山菜や木の実、きのこ、草の根などの利用方法を良く知っており、救荒食の体系も作り上げていた。

 簡単に言えば、積雪寒冷地の不利な農業だけでは、安定した生活は望めなかった。一方、ブナ帯の森の恵みは豊かであった。農業の合間に、春は山菜採り、夏は川漁、秋は木の実・きのこ採り、冬は狩猟に精を出した。それは農業と縄文的生業を組み合わせた複合文化とも言えるであろう。

参考・・・江戸時代の主食物4グループ(数量経済史の鬼頭宏)

第一群・・・縄文以来の伝統を受け継ぐクリ・ドングリ・クルミ・トチノミなどの木の実や、クズ・ワラビ・ユリ・山芋などの草根類は、非常時の救荒作物

第二群・・・粟・稗・キビなどの雑穀や、ソバ・大豆・小豆など

第三郡・・・弥生以来の伝統をもつ米・大麦・小麦

第四群・・・近世に渡来した甘藷・馬鈴薯・トウモロコシ

 北東北の山間部及び平地における庶民の主食物は、つい最近まで第一群と第二群に依存する率が高かったのである。それは食文化においても縄文的であったことが伺える。

性器崇拝「コンセイサマ」

 「遠野物語拾遺15」には、「この駒形神社は、俗に御駒様といって石神である。男の物の形を奉納する。」・・・駒形神社の本尊も、コンセイサマだという。コンセイサマ(金精様)は、豊饒や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされている。

 1785年、菅江真澄は、「けふのせば布」の紀行文で、「鹿角市松の木村というところにくると、石の男根をならべた祠があった。これは、信濃、越後、出羽、特に陸奥にたいへん多い。」と、記している。しかし、明治に入ると、男性のシンボル「コンセイサマ」は、野蛮かつ卑猥なものとして禁止令が出され、その多くは消滅した。

 それでも東北・関東では根強く残っている地域も少なくない。遠野市山崎のコンセイサマの社殿の中には、昭和47年に発見された高さ1.5mもの大コンセイサマを祀っている。今でも子宝と婦人病にご利益があるとされている。

▲黒湯温泉のコンセイサマ

古くから温泉は女陰であるとされている。だから、東北には温泉が枯れずに湧き続けるように男根である金精神を祀っているという温泉が多い。例えば、岩手県花巻市大沢温泉や秋田県鹿角市蒸ノ湯温泉、仙北市黒湯温泉などが知られている。

にかほ市横岡集落には、国重要無形民俗文化財「上郷の小正月行事」がある。上郷地区の横岡、大森などの集落では、小正月に雪中田植えや門柳立てなどとともに、サエの神行事が行われている。サエの神行事は、子どもたちが祭主となり、ワラ小屋づくり、小屋焼き、鳥追いなどを行うものである。

 横岡地域のサエの神は、村の境界4ヵ所に「男性のシンボル」が祀られている。こうした男性のシンボルを模した石棒や立石は縄文時代から存在し、祭祀に使用された。性器崇拝は縄文の昔から連綿と続いてきたもので、かつては石や木製の男根を祀った神社や祠が数多く存在した。

▲古代の巨石文化と似ている続石 ▲石碑群(遠野市)

石神信仰

 「遠野には多くの石碑が建っている。・・・講をつくって、出羽や日光や伊勢や金毘羅に詣った神々の霊によって、この村を悪霊から守るという意味が石碑に込められているようである。それゆえ石碑は町の境に建てられているのである・・・

 ・・・石は神なのである。石を神とする考え方も、また石器時代、縄文時代から伝わるものである。ここにもまた、縄文の文化の名残があるのであろうか。」(「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」梅原猛)

秋田には、大湯や伊勢堂岱遺跡などのストーンサークルをはじめ、民間信仰の証でもある石碑や石を神として祀る信仰がたくさん残っている。

ストーンサークルは祖霊信仰、石神信仰のルーツ

 祖霊信仰とは、先祖の霊を神として信仰すること。私たちの祖先は、山野を駆けめぐり、自然崇拝を行っていた。やがて、高台を大規模な土木工事で土地造成し、いくつかの集団の共同墓地・ストーンサークルを築いた。これは、石に霊が宿り、配石はあの世とこの世を分ける役割をもつと信じるようになったからであろう。

 墓の上に石を円く敷き詰めたり、円形に墓穴を配置した墓地の上に石を並べて、死者や祖霊の供養を続けるようになった。その延長線上に祖霊信仰、石神信仰があると言われている。

「西馬音内盆踊り」(国指定重要無形民俗文化財)

 夏の夜の一大娯楽でもある盆踊りは、お盆にこの世を訪れる祖霊や精霊を慰め、再び送るために行われ、同時に秋の豊作を祈る大事な祭りの一つである。また、無縁仏を鎮めたり、祟りを引き起こす悪霊を村の外へ追い払うという意味もある。

 西馬音内盆踊りは、阿波踊り、郡上おどりと合わせて日本三大盆踊りと言われている。毎年、8月16日~18日、羽後町西馬音内本町通りで開催されている。踊りのプログラムは「音頭(おんど)」と「願化(がんけ)」の二種類がある。日本の盆踊りの中でも最も美しい振りをもつ盆踊りと言われている。

 写真右の黒い覆面をかぶった彦三頭巾は、踊り手の表情がまったく見えず、亡者を連想させ幻想的な雰囲気をかもしだしている。彦三頭巾をかぶる若い女の子たちは、浴衣を着用する。写真左の端縫い衣装は、4~5種類の絹生地をあわせて端縫った衣装で、女性が多く用いる。この場合は彦三頭巾ではなく、編み笠をかぶり、帯の結び方は御殿女中風な形になる。

▲狩人の先祖・万事万三郎伝説をもつ山寺 ▲万事万三郎の祠があった岩穴

山寺とマタギの始祖・万事万三郎

 マタギの始祖と言われる万三郎は、日光権現の口添えで朝廷から奥羽地方の狩猟権をもらい、日光山から山寺に移り住んでいた。そこへやってきた慈覚大師・円仁に、この地を譲って秋田の方に移ったと言われている。万三郎は、大師の教えを受け開山に協力したので「地主の神」として祀られている。

 殺生を禁じられた万三郎は、猟場を求めて宮城県綱木山に移り住んだ後、秋田県阿仁町大阿仁に移った。万三郎伝説によると、阿仁マタギこそ万三郎の直系の子孫で、マタギの本家としての誇りを強く持っているという。

 ちなみに慈覚大師・円仁は最澄の弟子で、東北の名刹のほとんどは円仁の開基となっている。度重なる蝦夷の反乱を抑えるためには、仏教というイデオロギーが必要であったことは言うまでもない。その先頭に立ったのが円仁であった。もともと縄文文化が色濃く残る東北には、円仁のような天台密教・修験道が適していたと思われる。

山伏修験道と番楽・獅子舞

 秋田には、山伏系の番楽・獅子舞が非常に多い。マタギやナマハゲなどの習俗も修験道の影響を強く受けている。日本人にとって、山は、古くから宇宙の中心であって、自分たちの先祖が宿っているところでもあった。だから「日本の庶民信仰は山の宗教(修験道)を離れては成り立たない」と言えるであろう。

▲森吉神社のご神体「冠岩」

▲金峰神社のスギ並木(仙北市田沢湖) ▲秋田駒ヶ岳・男岳山頂(1,623m)の駒形神社

自然の中の神と仏(「日本の心、日本人の心 下」山折哲雄、NHK出版)

 日本の仏教は山の仏教として初めて大衆化した・・・それは平安時代―高野山を開いた空海、比叡山を開いた最澄以降のことです。それ以前の奈良仏教は、いわば都市仏教です。・・・言い換えれば、学問仏教、知識仏教であって、まだまだ日本人の心に触れるような信仰にはなっていない段階の仏教です。・・・日本人の心をとらえる信仰は、山岳という自然を媒介にして生み出されていった。

 ・・・その山の仏教で重要な意味を持ったのが、山そのもの、森そのもの、自然的景観がもつ意味でした・・・人々はその山や森の中に神の姿を感じ、仏の気配を感じるようになったからです。その感覚がやがて、日本人の神仏信仰の一つの重要な性格をなすようになっていったと思うのです。

▲木境大物忌神社境内(由利本荘市矢島町木境) ▲鳥海山福王寺(由利本荘市矢島町)

解説「神と仏」

 縄文人は、あらゆる自然物に霊魂を認め、それを畏怖し崇拝していた。稲作の伝来に伴って農耕生活に変わると、天候不順や自然災害による凶作、疫病の発生は死活問題に直結した。だから人智を超えた自然の災いは神の怒りと考え、八百万の神々を崇める傾向がさらに強まったと考えられている。

 農耕社会で定住生活が始まると、その土地を守ってくれる神・産土神を崇め、それを祀る社を作るようになっていった。さらに古来の祖霊信仰も合わさって、日本ならではの神々への信仰が根付いていった。

 平安時代になると、それまで国家鎮護が主だった仏教が、次第に庶民にも根付き、神も仏も尊ぶという、神仏習合の信仰が生まれた。明治になると、神仏分離令で、この神仏混淆の思想は禁止されたが、今なお神仏習合の習俗は多く残っている。

▲秋田駒ヶ岳「浄土平」 ▲鳥海山「賽の河原」

西方浄土と山中浄土

 浄土教は、人間が死ぬと「西方十万億土」の浄土に往生するという。太陽は西の方に沈むので、人間があの世に行く時は西方の方向に向かうというのは理解できる。しかし、山に囲まれた日本では、「十万億土」という無限の彼方は理解しがたい。そこで、日本列島に育まれていた山岳信仰をベースに、ふるさとの山の頂上が浄土だと読み換え、日本独自の山中浄土をつくりあげた。

 日本の山岳信仰の三点セットは、頂上の浄土、谷間の地獄、賽の河原である。亡くなった先祖は、山頂の浄土へと導き成仏させる。そして家の神様になってもらうのである。祖先の霊は、正月やお盆、お彼岸に山から子孫のもとにやってくるのである。その霊たちは子孫によって暖かく迎えられ、ある期間の間大切にあがめられ、又山に帰っていくのである。この神仏習合の信仰は、日本が独自に開発したものである。

(以下略)