霊木
https://blog.goo.ne.jp/kenken1948/e/a1bb4cea0ecb506cca0e001884a427bf 【<玉桂寺のコウヤマキ> 「世界一の霊木」 2本の親株が65株にも!】より
【弘法大師の御手植え? 樹齢は600年とも】
コウヤマキ(高野槙)は日本と韓国・済州島に自生する1属1種の常緑針葉樹。名前の由来は高野山に多く生えていることによる。2006年にお生まれになった秋篠宮悠仁親王のお印になったことでも知られる。そのコウヤマキが圧倒的な存在感をもって群生しているお寺がある。滋賀県甲賀市信楽町の玉桂寺(ぎょっけいじ)。本堂に続く石段の両側に65株ものコウヤマキが密集して林立している。
もともとは左右にそれぞれ1株植えた親株から繁殖したという。とりわけ本堂に向かって左手には43株(うち5株は枯れ死)が亭々とそびえ立ち、その様は壮観そのもの。最も高いものは31.5m、樹幹周囲は6.1mにも達する。玉桂寺は「世界一の霊木」と自負し、滋賀県は1974年、コウヤマキが繁殖する広さ425㎡を天然記念物に指定した。このため、その周りにロープを張って立ち入り禁止にしている。
玉桂寺は奈良時代末期に、淳仁天皇が造営した離宮「保良宮」の跡に空海(弘法大師、774~835年)が一堂を建立したのが始まり。寺伝では空海は天皇供養のため、中国から持ち帰ったコウヤマキ2株を植えたという。ただ、現存するコウヤマキの樹齢は600年ほどともいわれる。同寺は「ぼけ封じ三十三観音第5番」で、毎月21日は「弘法さんの日」。とりわけ秋季大会式が行われる9月21日は毎年多くの参拝者でにぎわうそうだ。
国内にはコウヤマキの老木・名木が各地の寺や神社などに存在する。愛知県新城市・甘泉寺と宮城県大崎市・祇劫寺のコウヤマキは国指定の天然記念物。福島県西会津町・鳥迫観音妙法寺のものは樹齢1200年ともいわれる。このほかにも京都・槙尾の西明寺、埼玉県新座市・平林寺、栃木県益子町の西明寺、日光・二荒山神社、北茨城市・花園神社などのコウヤマキも推定樹齢が600年を超える。ただ、そのほとんどは独立した大木。玉桂寺のように境内の狭い範囲に群生しているコウヤマキは珍しいようだ。
では、どのようにして株が増えたのだろうか。境内の一角にあったコウヤマキの説明文には「もとは各1株を植えたものから、下枝がイチゴやユキノシタのように地について根を下ろして新株となり繁殖したもの」とあった。お寺が作成したものと思われるが、コウヤマキは果たしてそんなふうに増殖していくものだろうか。滋賀県教委が作った別の説明文には「親株から種により円状に繁殖し、第2世代、第3世代の新株が生まれた」とあった。いずれにしても玉桂寺のコウヤマキがこれからも風雪に耐え、落雷の被害に遭わないで豊かな緑を湛えてくれることを願うばかりだ。
https://natori-shiryokan.jp/historicspot/254/ 【那智神社の高野槙(こうやまき)】より
熊野那智神社拝殿の前にある懸造り門の脇に立ち、その名は熊野信仰とも関わりが深い高野山に多く生え、その霊木になっていることに由来しています。杉科の常緑針葉樹で、福島県以北では自生できない樹木であり、名取老女が紀州熊野三山の神仏を分霊・勧請した際に運び植えたと伝わっています。そのため、熊野信仰の象徴的な樹木となっています。
https://shunjudo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-2cde.html 【霊木化現という考え方】より
まず、井上正氏の唱える「霊木化現」について、その要旨を述べると、神の依り代であった神木が、神に代わって仏が出現する霊木として造形されたのが、一連の未熟で粗雑に見える素木の仏像であり、霊木に宿った仏が徐々にその姿を現し、霊木から仏が姿を見せる途中の各段階と解釈されるのが、立木仏、鉈彫、目や耳、螺髪、宝髻などを彫らないままの像がそれに当たる。というのが論旨の一部です。井上氏は行基との関係、檀像の問題とからめて論じていますが、ここでは、神の宿る霊木を御衣木として仏像を彫るという点についてとりあげてみようとおもいます。
井上正「古仏巡歴 1~36」 『日本美術工芸』 527~562 1982年8月1日~1985年7月1日 日本美術工芸社
井上正「古密教系彫像研究序説 ー檀像を中心にー」 『論叢仏教美術史』 1986年6月10日 吉川弘文館 501p~530p
井上正「古密教彫像序説 」 『古佛ー彫像のイコノロジーー』 1986年10月25日 法蔵館 9p~26p
井上正「古密教彫像巡歴 1~36」 『日本美術工芸』 580~615 1987年1月1日~1989年12月1日 日本美術工芸社
井上正「化現する仏と立木仏 」 『日本の美術』 253 檀像 1987年6月15日 至文堂 76p~80p
井上正「第一章 神仏習合の精神と造形/3,霊木化現の仏と神 」 『図説日本の佛教 第6巻 神仏習合と修験』 1989年12月5日 新潮社 70p~81p
井上正「霊木化現仏への道」『芸術新潮』 42-1(493) 【美術史の革命】 出現!謎の仏像 1991年1月1日 新潮社 79p~94p
井上正「行基仏への旅 」 『芸術新潮』 42-2(494) 【美術史の革命】第二弾! ローカル・ガイド大特集 謎の仏像を訪ねる旅 1991年2月1日 新潮社 103p~108p
井上正「Ⅱ 奈良時代/9 檀像と霊木化現仏 」 『7ー9世紀の美術 伝来と開花』岩波日本美術の流れ 2 1991年12月13日 岩波書店 81p~90p
井上正「古仏への視点 1~24」 『日本美術工芸』 652~675 1993年1月1日~1994年12月1日 日本美術工芸社
この問題について、初めて反論らしき論考を目にしました。 山本陽子「祟る御衣木と造仏事業ーなぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのかー」『明星大学研究紀要[日本文化学部 言語文化学科]』15 2007.3.25 です。
山本陽子氏はまず、“神木に刃物を入れるという行為に、恐怖や抵抗感がなかったのだろうか。”という疑問から論が始まります。史料には神木を切ったために、神が怒り祟りがあったという話が多くあることを指摘しています。その一例が長谷寺十一面観音像の縁起です。それには、観音像の御衣木がその霊木の祟りのためにしばしば中断し、その困難を克服して造仏したという物語になっています。(寺川眞知夫「御衣木の祟ー長谷寺縁起ー」『仏教文学とその周辺』 1998.5.30 和泉書院) 奧健夫氏は、もともとこの木は人々に死をもたらす「疫木」であったと指摘しています。(奧健夫「木彫像の成立」p226~p227『日本美術館』 1997.11.20 小学館)
つまり、山本陽子氏は、井上正氏の論じるように、神木を用いた未熟あるいは未完成の仏像は、山林修行者が霊木の中から出現した仏の姿を感得し、その過程を霊木に表現した「霊木化現仏」であるという解釈だと、祟る霊木の場合の説明ができなくなる。と反論しています。
【大寺薬師観音菩薩立像(小像)】
それでは、なぜ祟る霊木で神仏の像を刻むのか、という疑問がわいてきます。山本陽子氏は“霊木での造仏とは、祟る木を仏となして祀り鎮めてしまうことに他ならない。”と結論づけています。仏像を彫ることは神木の抵抗と祟りに会いながら、仏師は霊木と対決していたという説話の例を紹介しています。
井上正氏は、目を彫らないなどの未完成の像は、霊木から化現している過程の像である、という推測をしていましたが、山本陽子氏は、“御衣木に尋ねながら彫る。未完成であっても霊木が拒否すれば、それ以上は刃を入れずにそのまま仏として祀る。目的は仏像を仕上げることではなく、霊木の祟りを封じることが目的なので、仏像の完成度は問われない。”としています。
両者の論考を比べてみると、たしかに、仏像の造像説話には、霊木の抵抗にあって願主・仏師と対決したという話が多くあります。霊木の中に潜んでいる仏像を化現させるという“いい話”ばかりではありません。このことについて井上正氏は、あえて触れてこなかったのではないかとおもわれます。
山本陽子氏の論では、霊木を使った造像が、祟り封じのためであるのは理解できても、それが未完成でもいいというのは、説得力に欠けるようです。たとえば、太平寺阿弥陀如来像のように、目のみ未完成で他はすべて完成している像は、どこが霊木を封じている像なのでしょうか。現存している像での具体的な説明がほしいところです。
注:山本陽子氏の論文は CiNii - NII論文情報ナビゲータ に掲載されています。フリーワード【仏像】でさがすとヒットします。PDFファイルで論文全文が公開されています。直接論文をリンクしてみましたが、リンクできないようです。