弘法大師入唐1200年記念 空海と高野山
https://www.aac.pref.aichi.jp/aac/aac38/aac38-2-2.html 【弘法大師入唐1200年記念
空海と高野山】より
弘法大師空海は真言宗の開祖であるばかりでなく、日本の社会史・文化史に大きな足跡を残している。「鎮護国家」と「済世利人」を掲げた空海は、嵯峨天皇の勅許により国の安穏を祈るとともに、四国八十八箇所をはじめ各地で民衆に直接語りかけ、祈雨や貯水池の修築を行い、日本最初の庶民学校綜芸種智院を創設した。また詩文にも優れ日本三筆の随一とされる能書家であり、日本初の文芸評論書や字典を著述している。そして今日でも空海は、四国や和歌山では「お大師さん」、京都では「弘法さん」と深い敬愛をこめて呼ばれ、全国から四国遍路に集まる人々は、空海と共に歩む気持ちを「同行二人」という言葉で表している。
和歌山県北部の高野山は、弘仁7年(816)43歳の空海が真言密教の根本道場として開いた聖地であり、承和2年(835)ここで62歳の生涯を終えた空海は、現在も生身のまま禅定(安定した瞑想の境地)に入っていると信じられている。高野山の歴史は仏教文化の発展史であるとともに、空海を慕い高野山を心の拠り所として憧れた人々の思いの歴史でもある。空海が密教を求め唐に渡ってちょうど1200年となることを記念して開催する本展覧会は、空海の時代から近世まで約千年にわたって高野山に蓄積されてきた宝物の全容を紹介するもので、出品物は2件の建造物を除いて21件の国宝すべてと96件の重要文化財を含む145件という空前の(そして恐らく絶後の)内容である。
展覧会は5章で構成されている。第1章〈空海と高野山の歴史〉では空海を偲ばせる遺品と高野山の歴史を概観する文化財を集めており、特に「高野山三大秘宝」と呼ばれる品が含まれている。空海24歳時の《聾瞽指帰》は出家宣言といえるもので、仏教と儒教・道教を比較した思索と、既にして自在で堂々たる筆跡を見ることができる。その後31歳の延暦23年(804)5月に遣唐船で出発した空海は12月長安に到着し、翌年青竜寺で真言密教第七代祖師の恵果に入門。間もなく恵果は二千人の門人から空海を後継者に選び、12月に没するまでに密教の奥義全てを伝えて仏典や宝物を授けた。空海が唐から持ち帰った《諸尊仏龕》は、代々の祖師が継承したものという。《飛行三鈷杵》は、帰国直前の空海が日本での修行の場を求めて投げ放ったところ高野山の松に掛かったという伝説をもつ。
第2章〈空海の思想と密教のかたち〉には空海の密教思想を物語る作品と、密教造形の代表である曼荼羅など。「血曼荼羅」と呼ばれる巨大な《両界曼荼羅》は、平清盛が自分の血を絵具に混ぜて大日如来の宝冠を描かせたとされる。第3章〈信仰の重なりとその美術〉では、密教美術の発展とともに、高野山をひとつの浄土とみなす思想による阿弥陀浄土信仰の流入など複合的な展開を紹介。落雷で焼けた堂宇復興のため宗派を超えて集まった人々が共通して営める法会として釈迦の涅槃会が始まり、応徳3年(1086)銘《仏涅槃図》(後期展示)は日本に現存する最古にして最高の涅槃図とされている。また、高野山に納められるということは美術の制作者たちにも特別な思いを抱かせただろう。鎌倉時代の運慶作《八大童子立像》や快慶作《孔雀明王像》などは彼らの代表作となっている。第4章〈山の正倉院〉には、皇族や武家などから寄進された品々や各地の戦乱をのがれた宝物を集める。飛鳥・奈良時代からの仏像仏画や経典があり、来迎図の最高傑作《阿弥陀聖衆来迎図》(前期展示)は、信長の比叡山焼き討ちから逃れ、のち秀吉を経て高野山に奉納されたもの。中国や朝鮮からもたらされた絵画や書物には、本国では類品が遺っていないものも多い。第5章〈近世の高野山〉では武将たちが寄進した経典や武家の肖像画、池大雅や狩野探幽など著名な絵師の作品などを展示。
この貴重な機会に、空海と高野山の奥深さを堪能されたい。
(T.M.)
上から
国宝/仏涅槃図(ぶつねはんず) 平安時代 金剛峯寺
弘法大師座像(萬日大師)(こうぼうだいしざぞう・まんにつだいし) 桃山時代 金剛峯寺
国宝/諸尊仏龕(しょそんぶつがん) 唐時代 金剛峯寺
国宝/聾瞽指帰(ろうこしいき) 弘法大師空海筆 平安時代 金剛峯寺
重文/孔雀明王像(くじゃくみょうおうぞう) 快慶作 鎌倉時代 金剛峯寺
国宝/阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅらいごうず) 平安時代 有志八幡講十八箇院