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「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 2 尊王思想と佐幕思想

2024.04.27 22:00

「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 2 尊王思想と佐幕思想

 令和6年のゴールデンウィークは「宇田川版幕末伝」を書いている。実際に、「小説家」として、幕末の話は「庄内藩幕末秘話」「山田方谷伝」「暁の風 水戸藩天狗党始末記」など、いくつか上梓している。その時に共通に出てくるのが「尊王」「佐幕」と言う対立と「開国」「攘夷」という対立になる。

★ ちょっとつまらないが江戸時代の学問の流れ

 そもそも江戸時代の思想の中心にあったのは、林羅山からの流れを汲む林派による儒学、特に朱子学の流れである。朱子学とは11世紀頃南宋の朱子によって体系化され,中国をはじめ東アジアに大きな影響を与えた儒学の一大哲学体系。思想は,万物の存在を理と気によって説明し,人間は本来的に絶対善なる本然の性を具有しており,居敬・窮理という為学修養により気質の性の混濁を除去すれば,誰もが聖人になれるとした。万物の構成原質である「気」と,万物の理想的なあり方を示す「理」とを中心とする。天地,人性,道徳のすべての事象がこの理と気によって説明される。それはまた,当時の士大夫の存在意義,その目指す方向を,宇宙論的規模での理論づけに成功したものであり,それゆえこの思想は,以後の士大夫社会に常に安定した力をもち続けた。

この思想から、徐々に様々な思想が出てくる。日本では、まずは荻生徂徠が「農本主義に戻す」ということを考えたのに対して、その弟子である太宰春台が「経世論」で貨幣経済に移行する内容を出してきた。ちなみに荻生徂徠の農本主義派「原点に返る」というような思想に近いものがあったので、本居宣長の「国学」の流れに繋がる。この国学の流れが、水戸藩の水戸学と融合して「後期水戸学」の流れになり、幕末の一つの思想になる。ちなみにこの荻生徂徠の学問を「徂徠学」とし、この徂徠学を学んだ人が、幕府において要職に就く流れがあったことから、各藩の作った藩校では徂徠学をまなんだところが少なくなく、私が小説にした「庄内藩」の「致道館」でも徂徠学を学んでいたという。

このように朱子学の中にも様々な考え方が出てきている。ちなみに、その朱子学は中国の南宋時代に朱熹が儒学を基に起こした学問ですが、その朱熹を否定したのが王陽明であり、その流れが陽明学ということになる。

幕末の昌平黌(幕府の学問所)のトップは佐藤一斎であったが、彼は朱子学をやりながら陽明学も学んでいた。その為に彼の教え子、特に市授受の法の教え子の中には蘭学を学んだ渡辺崋山や佐久間象山があり、また、陽明学で私が本を上梓した山田方谷なども学んでいる。

このように考えると「儒学」の流れから「朱子学」が出て、その朱子学に反対するで「陽明学」が出てくる。朱子学の流れを汲む徂徠学と春台学が出てくることになり、そのうえで、徂徠学の「自己の開放」ということから、「国学」の流れと「西洋哲学」の流れが出てくることになる。

その国学が「尊王思想」の中心になり、朱子学の流れは、当然い昌平黌(幕府の学問所)なので、「佐幕派」ということになる。

★ 尊王思想と佐幕思想

現代も、そして当時もそうですが、「尊王思想」も「佐幕思想」も同じ儒教道徳の中において行われる内容である。儒教というのは、「目上の者を敬う」「所属する場所に忠誠を誓う」ということであると思います。問題は、それらは儒教の中では「一つ」しかないのに、日本の場合は「朝廷」と「幕府」というように二つの権力構造があるということになっています。

日本の政治というのは、古事記・日本書紀に示された神話の世界からそのまま現在まで続いている。もちろん幕末の時代もその内容がそのまま続いているということになる。古事記や日本書紀には、神々が地上に降臨してその地上を治めるということになっているということになる。しかし、地上にはさまざまな敵がいてまた、その神々の治政に反対する者がいる。初めはナガスネヒコであり、饒速日尊がそれだが、それ以外にも東北の蝦夷や九州の隼人などがその「敵」ということになる。神々は、出雲の大国主命から国譲りを受け、そして国を治めることになるように、説得するとか理を説くというような方法で治めるようになったものもあるが、しかし、武力をもって平定するということもある。

その内容から、日本武尊が薩摩隼人を討伐した(正確には暗殺をしたという方が正しいが)や、関東平定を行うなどを行い、そしてその帰りに伊吹山で死ぬというようなエピソードも出てきている。

そのような流れから、平安時代には、徐々に武家が出てきて、その武家が兵を率いて討伐をおこなう。隼人は既に討伐されているので、ほとんどが東北の蝦夷ということになるが、その蝦夷に対して、多賀城を作り討伐を行っている。そしてその後源頼義や源義家が前九年後三年の役などを行っている。

武士というのは、基本的には元々は清涼殿を守るということから、公家の中人々が武装して守るということを行った。その為に、大宝律令の中には兵部省jもあるしまた検非違使などの武器や警察権限を持った公家が出てきている。中には「鵺」や「酒呑童子」など、の魑魅魍魎や狐狸妖怪を相手にするというような戦いも少なくなかった。

公家の中での「武士」の名家は、源頼政や藤原秀郷などがこの時代は有名であるがそれ以外の人々も武士となっていた。そもそも「公家」とは天皇の治政を補佐する役目であるということから、「公の家」ということになっており、その中には治安平定なども含まれるということになるのであるから、公家が武装して治安を守り、また、外敵や夷敵を倒し、国民を安定させるということが、政治の一つの「補佐」ということになるのであるから、その内容をいかに行うのかということが必要になってくるのである。

さて、その武士が徐々に台頭してくるのは、摂関政治が終わり、院政の時代になって平清盛や源義朝(頼朝のお父さんです)などが活躍した時代である。そもそも藤原氏はもともと中臣氏であり天皇とは異なる血筋であるが、しかし、源氏と閉経は元が天皇という家柄であり、臣下に降りた形である。現在で言えば「旧宮家」というような感じであろうか。

武士は、一つには蝦夷の討伐など、僻地への出征や平将門の乱や藤原純友の乱など、地方での反乱の鎮圧ということが一つの役目であるが、もう一つは先ほども言ったように「天皇の警護」「清涼殿(皇居)の警護」ということが挙げられる。検非違使などが市内の警察ということになれば、武士はそのような内容になってくる。「北面の武士」などは、まさに護衛であろう。では、天皇もあるいは上皇などの院も、自分が信用できない人を護衛に着けるであろうか。絶対に自分の信用できる人を着けるに違いない。そのような意味であれば、「同じ天皇の血を引いた、血族」ということが最も大きな信用の中心になる。

そのような意味で、「源氏」「平氏」が武士のトップになってゆくことになる。

そして、平清盛が摂関家でもないのに太政大臣になり政治権力を手にした。そのことから、源頼朝は武士を統括するということから、征夷大将軍になり、武士を束ねるということになったのである。

さて、「征夷大将軍」は、律令の中には存在しない「令外官」というものに当たる。つまり「臨時の官職」ということになる。そして、その征夷大将軍が「武士」として、政治を行うということになる。ある意味で「臨時の軍政」が1192年(私は古い人間なので、昭和に習った征夷大将軍になった年が鎌倉幕府の始まりの年としている)から江戸幕府が滅びる1867年まで続いたという解釈になるのである。

その間建武の新政で天皇親政になるが、それ以外は全て武士が政治を取っていた。

ここでその幕府政治の構造を見てみよう。

本来の日本の政治は、「天上界から依頼された」としている天皇にある。

しかしその天皇が全ての政治を行えるわけではない。そのことから、他の人に任せることができる。大化の改新の時は「中大兄皇子」という皇太子に全ての政治権限を与えた。皇極天皇は皇太子にその権限を与えたのである。その後は摂関政治で藤原氏に、そして上皇などの院に、そして平家、その延長線上において「武士の棟梁」に内政を任せるということになっている。

しかし、鎌倉時代に元寇があったが、その元寇の若井の使者は全て朝廷に行っていて、鎌倉幕府では正式な対応は行っていない。つまり外交権限は全て天皇にあるということが鎌倉幕府時代に認められている。江戸時代の朝鮮通信使なども、全て京都であいさつした後に江戸の将軍に来ているので、そのように考えれば、国家元首は古くから天皇であったということが明らかではないか。

★ 佐幕論

このように国家元首である「国を守る」という観点に立ては「尊王論」になる。これは江戸時代の幕末において、ペリー来航などで、外国から日本を守るということ担おいて、そのリーダーは天皇であるというような感覚にあり、また、その将軍そのものも天皇に任命されたものであるのだから、外交権を持った天皇こそが崇拝され政治を行う主体であるべきだということであろう。

儒学において「政治のトップ」または「君主」に対して忠誠を誓うべきであるということが考えられ、その君主は日本国においては天皇であるという感覚になる。

一方、佐幕派は、自分の身分そのものが天皇に任命されたものではなく、自分の直属の君主(上司)に忠誠を誓うべきだというような感覚がある。単純に、自分を登用し武士としてとり立ててくれた大名やその大名を登用した将軍に忠誠を誓うべきというような感覚である。要するに「幕府」ということが中心になり、その政治体制を守ることが重要であるということが最も大きな関心になるということになる。

そのことが「佐幕論」の中心であり、鎌倉幕府から600年続いた武士の政府がそのまま継続すべきであるというような感覚に安る。

この二つの論拠の中心は、そもそも水戸藩による大日本史の編纂と、荻生徂徠の徂徠学からくる国学という学問が中心になり、なおかつ、皮肉なことに、江戸字ぢ亜が長きにわたる平和であったことから、様々な古い資料を研究する時間がたっぷりと会ったことからそのようなことができるようになったのではないか。

「上司」「君主」「忠誠」ということを言ったところで、その対象が誰なのかというのは、日本の場合朝廷と幕府という二重権力構造になってしまったことから、その内容をどのように考えてゆくのかということが最も重要になってくるのである。

これが、鳥羽伏見の戦いにおいては、この事が露呈し、井伊家や藤堂家、そして老中をやっていた稲葉家までが幕府を裏切り、尊王派になるという感じであった。この時期にはすでに徳川慶喜が大政奉還をしてしまっていたので、既に幕府そのものは存在していない。要するに佐幕派というものが存在しない状態いなっていたということになるのである。

このように「幕府」という価値観がある中で、尊王はが生まれるのは、ある意味で歴史的な必然であり、それを研究するだけの時間が、江戸試合には存在したということになるのである。