Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 4 幕末の正義と正義の戦い

2024.04.29 22:00

「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 4 幕末の正義と正義の戦い


 令和6年のゴールデンウィークは「宇田川版幕末伝」を書いている。実際に、「小説家」として、幕末の話は「庄内藩幕末秘話」「山田方谷伝」「暁の風 水戸藩天狗党始末記」など、いくつか上梓している。そのことから、今回のゴールデンウィークは、日本の幕末ということに関して見てみたいと思っている。

ちなみに、ゴールデンウィークは、皆さんご存じのように、「前半」と「後半」がある。元々は、4月29日が昭和天皇の天長節(天皇誕生日)で、5月3日が憲法記念日、5月5日が子供の日で、そこの間に日曜日が挟まることによって連休が取りやすくなる。これが昭和天皇崩御に伴い、本来であれば、4月29日は休みではなくなりゴールデンウィークは解消されるはずであったが、徐々に連休を取りやすくするということから、4月29日を「みどりの日」「昭和の日」と名前を変えながら休日を維持し、また5月4日を「休日に挟まれている」という理由で「国民の休日」として休日になることを固定した。この事から、4月後半と、5月前半で二つの連休ができるようになったのである。しかし、4月30日、5月1日、5月2日の三日間は、土日が重ならなければ、長期連休にはならないのであり、そこに有給休暇を入れるということによって、長期休暇が実現することになる。

なお、私個人に限って言えば、本日が4月30日で、明日が5月1日で「誕生日」である。昔から、誕生日は仕事をしないので、今回のように「ゴールデンウィーク特別」年ながら、5月1日は、ブログの更新をしないので、文字通り、誕生日の前後でゴールデンウィークの前半と後半が分かれることになるのである。

さて、その意味で今回は「ゴールデンウィーク特別前半の最後」として、幕末に関して私が色々お持っていることを書こうと思います。なお、後半は、今回は取材旅行に行ったところが萩であったことから、長州藩を中心にした人々について、私の考える内容を書いて行こうと思います。

では、前半の最後をお楽しみください。

★ 薩長土肥の四つの藩

 幕末明治維新というか尊皇派を代表する藩が「薩摩」「長州」「土佐」「肥前」と言われる。薩長土は、幕末期、志士たちの交流や薩長同盟・薩土同盟で連携関係を結んでおり、特に薩長は全国の他の諸藩よりも藩政改革が早く、不平等条約による開国という状況や幕末という時代変化にいち早く対応していたため、倒幕の立役者となる人材を多く輩出していた。戊辰戦争の頃から、倒幕運動には不熱心だったが藩政改革が進んでおり開明的だった「雄藩」の肥前を仲間とみなし、肥前藩にも明治政府に人材を供給させた。

明治政府の上位官職を薩長土肥で一時期ほぼ独占する状態となり、藩閥政治と非難された。しかしながら、実際に薩長土肥により明治政府が運営されたのは、1871年(明治4年)から明治十四年の政変(1881年・明治14年)までで、明治十四年の政変以降は薩長出身者が政府・軍部の中核をほぼ独占し、土肥出身者の一部は政府に残りつつも大半は外野から薩長藩閥を攻撃するという展開となっている。

各般について簡単に見てみよう。

「薩摩」は、島津氏が大名の藩で現在の鹿児島県、当時の石高で54万石である。島津斉彬が若者を登用し、西郷隆盛や大久保利通などまたは黒田清隆や東郷平八郎などが排出される。斉彬の死後久光が藩主となり、イギリスとの間で戦争を行い、薩摩単独では戦えないということを悟った薩摩藩は、イギリスと組んで幕府討伐をするということになる。初めは斉彬が幕府を支えるというか、公武合体を推進する為に、自分の養女である篤姫を更に五摂家筆頭近衛家の養女として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍・徳川家定御台所としているが、最終的には薩長同盟を結び、そのうえで討幕を行う原動力になっている。

「長州」は、毛利氏が藩主で現在の山口県36万石である。聴衆に関しては今回のゴールデンウィークの後半でしっかりと見てゆく。なお、木戸孝允、山形有朋だけでなく、伊藤博文なども長州出身であるし、何よりも途中で刑死した吉田松陰が幕末の原動力になっている。

「土佐」は、山内氏が大名の藩で、現在の高知県。なんといっても坂本龍馬の里であるとしているが、後藤象二郎、武市半平太、板垣退助など、やはり様々な意味で強く幕末をけん引している。

「肥前」は、鍋島氏が大名の藩で、現在の佐賀県。肥前はどこよりも早く大型船舶の建造や大砲の鋳造を独自に行うなど、かなり先進的な技術を持った藩であった。大隈重信などがここの出身である。幕末の戊辰戦争では他の反よりも強い軍隊であったとされる。

★ 何故「四藩」なのに「維新の三傑」なのか

 さて、維新に活躍したのは「薩長土肥」の四つの西国雄藩ということになります。現在とは事なし、太平洋が表玄関ではなく、日本海側、そして朝鮮半島や現在の南中国やフィリピン等からの情報と技術の流入があり西国の方が様々な意味で国際的に明るかった。しかし、そもそも公武合体や尊王攘夷ということを大きく動きていたのは長州である。薩摩は初めのうちは京都守護職の会津藩松平容保と共に京都の主語を行っていたはずだ。このほかに公武合体で動いていたのは越前の松平春嶽や宇和島の伊達宗城などがあった。一方佐幕派としてしっかりと動いていたのは、先ほど挙げた松平容保だけではなく、備中松山の板倉勝静や、庄内藩の酒井忠篤などがあげられる。ちなみに、酒井忠篤に関しては「庄内藩幕末秘話」でまた、備中松山藩に関しては「山田方谷」で小説にしている。そして討幕・尊王派の論理的なっもとになっているのが、水戸藩の後期水戸学、つまり、藤田東湖の思想ということになる。ある意味で、江戸幕府は御三家の水戸藩から出てきた尊王思想によって、後期水戸学を推進した徳川斉昭の息子徳川慶喜が大政奉還をせざるを得なかった状態になったのである。

そして、その思想を具現化したのは、主に薩摩と長州ということになる。そしてその中心人物が、「維新の三傑」といわれる人々である。本来このような場合は、各藩から一人出てくるのが普通なのに、上記のように薩摩が二人、長州が一人で土佐と肥前は三傑の中に入っていない。

これは、土佐は「坂本龍馬によって薩長同盟を成し遂げた」ということであり、被前半は、特にそれまでは何もしなかったが、最も強い軍隊を持っていたということから

薩摩と聴衆が戊辰戦争で引き込んだということになる。実際に、一貫して当時の日本における産業革命を推進してきた佐賀藩は、パリ万国博覧会 (1867年)に出展するなど、日本有数の軍事力と技術力を誇ったが、中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けた。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、国内でも珍しい「鎖国藩」といわれた。しかし1867年には、藩主直大が新政府から北陸道先鋒に任命されて、佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上、江戸における上野戦争などで戦い、その結果、明治政府に多数の人物が登用された。明治維新を推進させた人物を輩出した藩を指す薩長土肥に数えられ、副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らが活躍した。

要するに肥前佐賀藩は、基本的にはあまり明治維新には貢献していなかったということになる。

このようなことから、薩摩と聴衆が中心になる。そして「維新の三傑」も薩摩と聴衆からしか出てこないということになるのである。

★ 水戸藩は何をしていたのか

 本来は尊王の思想の中心にいたのが水戸藩である。しかし、その水戸藩は藩の中で、派閥争いが起きていた。そもそも絶対的な力を持っていた徳川斉昭がいたが、その徳川斉昭の死後、藤田東湖や戸田蓬軒も安政の地震で亡くなってしまっている。残った武田耕雲斎も謹慎するなどあまり大きな指導力を発揮することができずに、結局は、宝の持ち腐れになってしまっていたのではないか。

能力のない人の、常套句として、急進的な改革などを批判し、そのうえで、その改革に陰謀論や罪悪論につなげて罪人に陥れるということを行う。そこに権力が絡むとお互いが殺し合うということになってしまい、そのことから、その国(藩)全体が弱くなってしまう。

水戸藩も同様に、そのような争いが起き、天狗党の乱をはじめ結局は明治維新に取り残される形になった。どちらの派閥も基本的には殺し合いでほとんど人材がいなくなったということになる。斉昭に藤田東湖そのような優秀な人材がいながら、そして御三家でありながら、結局は時代の変わり目に何もないということになるのである。

★ 何故幕末にはあれだけの人材が出たのか

 実際に、日本には人材が豊富にあるが、律令または制度によってその人材が自由に活躍することが制限されてしまっている。その活躍が制限されていることがなくなった場合には日本人は、ある一定程度以上の能力を発揮するということになるのではないか。

べく松野日本人の識字率は、正確に測ったわけではないが、だいたい7割程度あったのではないか。そもそも識字率が高いということは、書物を読んだり、もちろん楽しんだりということから、様々なことができるということになる。

そしてもう一つは、日本の人bとは「考え方」があれば、宗教間や民族間が同じであるということから、同じ方向に向かって考えるということになる。その同じ方向に向かって考えるのであるが、しかし、その手段論が違うので、そのことから、争いが起きる。そのように考えれば、幕末に何が起きていたかはよくわかるのではないか。

幕末の特徴は、「尊王・討幕派」も「佐幕派」も、儒教的にも道徳的にも「正義、である。」ということである。正義と正義の戦いであるから、その内容に関しては悲劇もありまた度^地らが勝ってものおあしな話でhな愛ということになる。レkしいというのは現在続いているほうを「正義」としてしまうが、日本の幕末の争いに関しては、双方が正しいということを理解しなければ、その内容を理解することができないのである。