穏やかで理性的な「ミソジニー」に取り込まれる危うさ
ドラマ「不適切にもほどがある」を面白くみていた。
クドカンの脚本はおもしろいよな、やっぱり。
なんて。
そうそう、コンプラも行きすぎるとがんじがらめになるよ、などとも、思っていた。
非常にものわかりのよい素直な視聴者の一人だった。
だがある、Podcastの番組のフェミトークで、アンチコメントを聞いて、えりを正す。
まず「このクソばばあ」「なんだよバーカ」と返す、このドラマの定番である@不適切トークについて。
女性は「ババア」であることを前提にそれに対して反対意見を唱えるか、あるいは笑って「大人の対応」をするか、そのどちらかしか少なくともその時代は選択肢がなかった。
まずそこに怒り、なのだ、という主張だ。
そもそも女性に対しての言葉のチョイス、そしてババアと言われるのなんて、当たり前じゃんという悪しき「ウケ狙い」の前提が背景にあること、それ自体がはっきり言って、女性差別ってことでありフェミニズム無視の「常識」である、というものだ。
そそそうだよ。
ババアと言われることにどんな反論を・・・ではなく、「ババア」たちから産まれたおまいらはなんなんだ、女性たちをなんだと思っているんだ、という根本に目を向けねばいかんじゃないかと。
そして若い女性に対するセクハラについて取り上げた回で主人公は「自分の娘だとおもったら、そんなことしないよ、まずそこからだ!」みたいなセリフを言う。
さらに「フェミニスト」女性学者は娘たちに向けて「おとうさんを困らせちゃだめよ」とフォローする。
これに対してPodcastフェミトークでは、自分の娘に性暴力を働く父親もいるじゃないか! おとうさんを困らせるってなんだい、と、この「フェミニスト女性学者」の描き方の浅さ、にフォーカスする。
わたし、フェミニストだもん、などと鼻高々に言っている自分を恥じてしまう。
ひごろから「前提」や「常識」に疑問視を、などとわかったふうなことを言っている自分の浅さこそ見直す必要があるのではと思ってしまった。
「うん、わかるよあなたがた男性の気持ちも」「平等とか公平っていろいろな考え方もあるよね」と考えてしまうことがある。このときの思考に警戒心を。
穏やかで理性的な「ミソジニー」に取り込まれてしまう危うさがあることを常に意識しよう。