百年戦争11-フランス3分の1が英国領
2018.11.28 03:33
イングランドではエドワード3世の時代から2院政ができていった。聖職貴族は「貴族院」となり、平民のほうの議会は「庶民院(ハウスオブコモンズ)と呼ばれるようになっていく。また爵位が確立し、「公」「侯」「伯」「子」「男」という5段階ができた。
庶民院は、騎士と市民から成り、騎士は37州から2人ずつ、市民は80の都市から2人ずつ選出された。庶民院の議員は、市民からの請願を受け取って審議し、国王に上程した。重要な議題はともかく税金であったが、市民の同意なしにはできなくなった。それはペストによって王の基盤が封建農地ではなく、金になってきたからである。やがて庶民院の同意がない法律は無効という習慣ができていった。
1359年のポワティエの戦いの戦後処理で、エドワード3世は仏王の要求放棄と引き換えに、フランスの3分の2の領地と4百万エキュを要求し、すっかりロンドンボケした仏王ジャン2世はあっさりOK。しかし王太子シャルルは、パリに全国三部会を招集してその名のもとにこれを拒否してしまった。英仏が議会を使う時代となった。
英軍はフランスに侵攻したが、シャルルは挑発に乗らず。冬の到来で英軍が帰ったあと、春になると仏のカードであるアヴィニョンに居る教皇をかつぎだして、和平交渉を再開した。そして領地を3分の1にまで減らし、王の身代金を3百万エキュに下げたうえ分割払いを了承させた。60年10月24日、平和条約がカレーで締結され、仏王は国に戻った。
下はここまでの百年戦争経緯と領土