ヘイトスピーチよりも厄介なもの
Facebookの友達が、とても深い記事を書いたのでシェアします。
私も書こうと思っていた内容なのだけど
残念ながら、こんなに端的に客観的にまとめることができないので
もうコチラを是非読んでいただきたいです。
で、あえて蛇足をつけるなら
私は、こと障害における差別とは
「障害=劣っている」という価値観だと思うのです。
ずいぶん昔の話。
4年くらい前かな〜?
娘が発達障害と不安障害、その他もろもろの不調で
不登校だった時です。
やはり不登校だったお子さんを持つお母さんに
「子供が学校に行けないって辛いですよね?」と声をかけたら
「うちの子はオタクとは違うから!」と
憤然として言われちゃいました。
まぁ、なんていうか
「障害児とウチの子を一緒にすんじゃねぇよ」って事でした。
普段は娘にも優しく声をかけていてくれたのですが
それって障害児で可哀想で哀れだったから。
可哀想な子だから優しくしてたわけです(^_^;)
一緒にされて憤然としたのは
うちの子をそんな劣っている子と一緒されたと思ったからです。
(本当はそんな事言ってないのだけどね)
でも違うんですよ〜!
障害=劣っている
のじゃなくて
障害=違っている
ってことなんです。
「違っている」って「劣っている」って事じゃない。
そりゃ世界は多数派に便利なようにできてるから
違っている少数派にとっては
住みにくい生きにくいところではあるけど
障害を持つ娘にとって
この世界は時に、過酷な世界になるかもしれないけれど
でも引け目を感じる必要はないんです。
そもそも障害は誰にでも起こりうる事だしね。
今日の健常者は、明日の障害者かもしれないのよ〜。
でしょ?( ´ ▽ ` )ノ←おいっ!
だから障害者を見て「可哀想」(何が?)とか
「優しくしてあげないと」(障害者相手に限った事ではないでしょ)とか
「天使だ」「心が綺麗だ」(障害者にだってエゴがあるんだよ)とか
そういう美談的発言は嫌いです。
どちらも
汚染された潮汐干潟の匂いを香水でごまかしてる感じがします。
言葉も意識も差別なんて微塵もないのだろうけど
その裏側から微かに匂ってくるのよね。
ある意味堂々とするヘイトスピーチなんかよりも
善意に隠れた差別の方が
よっぽど人にも(自分にも)悪影響を与えるんだよ。
うん、でも、まあ。
人と同じでなければならないという価値観を持ってると
障害という違いは受け入れ難いものなのだと知ってます。
はい、身をもって体験しています(苦笑)
というわけで障害者とご家族のかた。
「普通」という枠組みを手放したあたしらは、
「自分も子供も人と違っていても良いのだ」
という許可を自分たちに与えたあたしらは、
ちょっと自分たちを誇ってもいいんじゃないのかな?
と思いますが如何でしょう(笑)