偉人『岡本太郎 幼少期編』
岡本太郎といえば1980年台のマクセルのビデオカセット CM において「芸術は爆発だ」という絵面がやけに印象的で岡本太郎が真上を見上げていうそのセリフに度肝を抜かれた記憶が残っている。ピアノにペイントされた彼の作品が飛び散るようなシーンの後に出てくる彼の表情とあの名セリフが Too much 感が出てやりすぎのような気がしたのである。今から考えると一筋縄ではいかない彼の生き方を象徴していたことに悪目立ちしているように思えたのであろう。彼を取り上げた理由は画家としての顔よりもあの大阪万博の『太陽の塔』の造形がどうしても頭から離れなかったからである。
私が興味を抱いたのは彼が批判や酷評を浴びながらも自分の意思を貫き通したのはなぜなのか、どうしてそれができたのかを生い立ちから見ていこう。
1911年神奈川県川崎市高津区で朝日新聞の4コマ漫画を描く父一平と作家の母かの子の長男として誕生する。そして祖父可亭は書家で北大路魯山人の師匠でもあった。いわゆる芸術一家ということになる。父は当時かなりの売れっ子で内閣総理大臣の名は知らぬが、岡本一平の名は知っていると言われる程の人物であった。しかし収入の大半を酒代に充て電気を止められたり、妻のかの子程ではないが女性関係も奔放であった。一方母のかの子はといえば神奈川県川崎市高津区の大地主大貫家のお嬢様であり、私が20代の頃大貫家は大変大きな個人病院を開業し私の大恩人の医師もご親戚としてお勤めであった。蝶よ花よと育てられた母かの子は家事や育児はできず母恋しい3、4歳の頃には母の邪魔をするため帯でタンスに括り付けられてしまう。母かの子はときに奇人として捉えられてしまうこともあるが、夫の放蕩や身内の死により精神を病んだ母かの子の様子に父一平も改心し、妻の信奉者であり愛人の早稲田大学の学生との奇妙な同居生活を日本でもパリでも行った。そのようあまりにも常識から外れた中で育った岡本太郎もまた両親同様に18歳で父の仕事の関係で移り住んだパリで恋の遍歴を本人が理解できないほど繰り返したのである。現代もであるがカトリック教徒の多いフランスでは離婚が認められないため結婚をせずパートナーとしての事実婚が当時も多く、両親の生活スタイルにも影響を受けているがパリでの事実婚も影響し、彼はのちに事実婚であった女性を幼女として迎え全てを彼女に任せてこの世を去ったのである。
太郎の父と母の関係は側から見ると偏奇な関係性があるが、父一平は妻かの子愛人と言える人物との同居を受け入れることに関しても、かの子が精神を患い入院をしても受け入れ、夫婦で宗教に救いを求めていたりと一貫して妻に三行半を突きつけることなく、彼女を受け入れることを実行した。一平自身も放蕩経験があり妻の不貞も容認せざる終えなかったとの見方があるのも事実である。その親を間近にみてきた息子太郎にも大きな影響を与えていることは間違いない。先述したが親に構ってほしいとかの子の邪魔をしてタンスに括り付けられたことを記したが、太郎本人が母親は「親として最低の親だった」と語っているが一方で敬愛の情は示している。実は岡本家というものは三者三様一貫して事を成し遂げていると感じてならない。父一平は新聞社専属の漫画家として家庭を顧みず仕事に心血を注ぎ、母は幼くして腺病質という名の今では使用されていない病名であるが、虚弱体質、体格繊弱で胸郭扁平、筋肉の発達が悪く、頚部リンパ節結核で両親とは別居し療育母の育てられた。彼女は親の愛情を受けずに育ったのである。幸いなことにその療育母に文学を教えてもらい彼女は生涯を通して文学への道を開いたのである。そして息子太郎は枠に囚われない両親の元、自分の進む道を何ものにも囚われず自分の決めた芸術の道を一貫して歩んだのである。
このような環境で育った太郎は幼い頃から苛立ちを見せるこも多かったそうである。入学した小学校では漢数字を書けるかと問われ黒板一、二、三、四と書いたとき四の書き順が違うと教師から指摘を受けると翌日には登校拒否をし、改めて入学した小学校でも嫌いな先生の授業は耳を塞いで授業を拒み、そして馴染めずそのその小学校を入退学を繰り返した後、慶應幼稚舎に入学。しかしそこで待っていたのは過酷な寮生活でのいじめ体験である。それは子供達からではなく教師からも疎まれ、食事ではおかずはなくご飯に塩をかけたものだけを与えられるなどしたそうである。どうにか慶應を卒業し東京美術学校への進学を果たしている。
彼がなぜ思ったことを躊躇うことなく発言しどこに行っても人との衝突し、摩擦も気にしない行動に出ることになったのかは幼少期原因があることは確かである。愛情というものを受けてはいただろうが、親自信が自分を中心に行動するのをみて育った太郎は相手のことを慮る、相手の気持ちを考えたり汲み取るという経験が希薄で育ったと言える。そのために自分自身が感じたままをダイレクトに発言してしまうように育ったと考えている。その性格が彼自身を一人の芸術家として大成させたともいえよう。
太郎が子供の頃唯一の友人だったというのが「太陽」だったという。小学校1年生の時には太陽をモチーフに多くの作品を作ったとも言われている。彼の幼少期の生き様を表現しているのではないかと感じられるのが彼が手がけた1970年の大阪万博の太陽の塔である。
目を見開き現代を睨むような中央の『太陽の顔』、過去を象徴する『黒い太陽』の顔、未来に向かって輝く『黄金の顔』、実は当初は『地底の太陽』もあったという。太郎はこの塔の建設において建物以上の高さを有するとして再考を要望されたが頑として聞き入れず、当初の高さのまま建設を続投することとなり会場の天井を抜くことになったのである。彼が終始一貫ことを成し遂げるということは芸術家の道を邁進中であっても実行されたのである。
しかし彼の芸術家としての物事を突き通す成し遂げるというのは、子供の頃の思うことを空気も読まずにずけずけと言い放すということからは解脱し、哲学的に一貫性を持ち人間とはこうであるべきだということに確信を持ったからである。ある意味道徳的なことや安全に無難な選択をせず常識にとらわれることのない芸術家として、条件の中で無条件に生きること知り得たからである。破天荒な両親の間に生まれ、幼少期から破天荒な生き方をしたが、芸術を通して自らの力で人間とはどうあるべきかを導き出した偉大な人物でもある。彼の掲げる生き方とは学びの深いものであり、精神的に弱っている時にこそ彼の声に耳を傾けてほしい教えでもある。
日本万国博博覧会協会はテーマ展示プロデューサーに彼を選んだ理由をそのユニークな発想と斬新なオリジナリティー、力強い構成力と豊かな表現力、バイタリティーが高く評価したからだとしている。これは両親が行動で彼に指し示したことも関係していると考えるが、彼はフランスでの生活の中で哲学者との交流を持ち、自らの指針となるものに大きな影響を受け解釈し生き方に反映させている。人間というものは自分自身の道を選び進むときに必要なものとは何かということを提示している。次回はそのことについて考えてみる。