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ZIPANG-2 TOKIO 2020  ~ 石州瓦物語(その2)~「瓦のルーツを探る 日本での鬼瓦のもつ意味は、ルーツと同じで厄除け・魔除けです。」

2018.11.30 11:25

このたびの平成30年 7月豪雨、9月台風並びに北海道大地震により、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


『石州モノは、凍てに強く、水を通さない。』『とにかく固くて丈夫な瓦』瓦職人の間で、昔から語り継がれてきた言葉です。


島根「石州瓦」津和野色混ぜ吹き(株)丸惣施工例


島根「石州瓦」施工例。屋根には火事除けとして鯱(水龍)が複数飾られています。
お互い悪さをしないように見張りの意味があるそうですよ。

イギリス「レッド・ハウス」ウイリアム・モリスらのアーツ&クラフツ運動の拠点

19世紀のイギリスは急速な工業化による経済成長で、都市部は過密になり、周辺へのスプロール現象がおこり、平和な田園風景も失われつつありました。そして、一段落してみると、増え続けてきた住宅にも、質が求められる時代になってきました。当時のインテリ文化人であったジョン・ラスキン(1834~1896)は、こうした工業化による都市や建築の変貌を鋭く批判し、中世に範を求め、芸術や社会に人間性の回復を唱えました。これを受けて、美術、工芸に手作りの良さを取り戻そうと、実践したのがウイリアム・モリス(1834~1896)らの、アーツ&クラフツ運動です。そして、画家、建築家、工芸家等、志を同じくする若者が集まり、仲間で協力し、理想の家づくりを目指して建てたのが、「レッド・ハウス」でした。赤レンガの外壁で素朴なつくりで、家具デザイン、ガラス食器、キャンドル・スタンド、ステンドグラス、暖炉廻りのタイル、モリス自身も、刺繍の壁掛け等のデザインをしました。 科学が発達して西洋医学も進歩した時代でした。


長崎県「対馬」石屋根倉庫

板石をもって屋根を葺く習俗がいつ頃から始まったのかは、明白ではありませんが、瓦より堅固な石材が容易に得られる地方では、古くからあったと考えられます。 現在椎根で見られるような整形した石は格別で、この厚い砂岩の板石は浅海の島山から運んだと言われています。 この石屋根はどこも小屋と呼ばれる倉が主で、人家には使用せず、衣類の櫃と穀類の俵等が格納されていたそうです。 対馬の集落の佇まいは、人家の火災等から小屋だけは残るように配慮され、人家と小屋は離して建てられています。 椎根はそれが特によく分かり、人家は両側の山際に一列に並び、中央を流れる川の両岸に小屋が群をなしています。
※当時、対馬では瓦は武家しか使用できなかったので、母屋は杉皮や檜皮を使用。
台風対策として重要な物は石屋根倉庫に、内部は三部屋に仕切られ穀物、衣類、貴重品が収蔵されています。
対馬の中部地区のお屋敷では、倉庫とは別に茶室として使用されている所もあります。(拝見したのは30年程前ですが、現在も使われていると思います。)柱、建具、壁には用途に応じて松、モミ、栗などが使用されています。柱は平柱で高床式です。


瓦のルーツを探る

石州瓦。山陰地方は島根県の西部、大田市から江津市、浜田市、益田市に展開する地場産業です。石州瓦は今から約400年前、江戸時代の始まり頃に誕生、現在日本第2位の生産量を有するまでに成長している瓦屋根材。平成19年3月に地域ブランド認定を受けた典型的な地場の伝統産業です。


前号に続き、より多くの皆様に、山陰の田舎町(失礼!)で綴られたモノ造りの物語を知っていただきたく、ここにご案内いたします。



呪術的な装飾として発展した瓦


中国における瓦の歴史の中で特筆すべきは、風水害から住居を守り保護する機能面だけでなく、呪術的な意味合いを込めた装飾性を持っていたことです。


古代中国の遺跡から出土している瓦には、樹木や鳥獣を配したものや、青龍、朱雀、玄武、白虎といった東西南北を守護する聖獣を紋刻したもの、「長生無極」「千秋万歳」などめでたい文字を刻印したものが多く見受けられます。

石州瓦「鬼面(きめん)」家の厄除け・魔除け。家を守ってくれる鬼瓦(株)シバオ施工例


瓦は飛鳥時代、仏教とともに伝来しましたが、この時呪術的装飾性も同時に移入されます。いわゆる鬼瓦です。それは鯱(しゃち)、帆立、立浪、大国様、鳩など実に多彩で、日本的デザインに昇華されたものになりました。


鬼瓦は、西洋文化の影響を大きく受けているようです。 そのルーツは、現在のシリアにある世界遺産でローマ帝国支配時の都市遺跡である『パルミラ』の入口の上にメドゥーサを厄除けとして設置していた文化が、シルクロード経由で中国に伝来したということのようです。 日本の鬼瓦の歴史としては、およそ1400年前の飛鳥時代の奈良県法隆寺、若草伽藍(がらん)跡から発掘された蓮華紋鬼瓦といわれています。当時の鬼瓦は鬼の顔ではなく、蓮の華の形をしたものでした。同じような瓦が朝鮮半島でも見つかっていることから、朝鮮半島から伝来したと言われています。

日本での鬼瓦のもつ意味は、ルーツと同じで厄除け・魔除けです。

七福神(大黒様):豊かさと幸福の願いを込めて

但し、鬼瓦には、厄や魔を払ってくれるように恐ろしい形相で睨み付けている様な鬼面(きめん)の鬼瓦だけでなく、縁起よく、家が代々栄えるように願いが込められた「七福神」や「打出の小槌」などをあしらった鬼瓦も多く屋根に飾られてきました。


屋根自体は、風雨などから家(建物)を守る大切な場所。
また、厄除け、魔除けや家内安全、健康長寿など、家(家族)を守る願いを込めた鬼瓦を屋根の棟端に飾らてはどうでしょうか。(株)シバオには、鬼師(鬼瓦を作る職人)が居て、ご依頼者の願いを受けて、心のこもった鬼瓦を作り続けています。


釉薬瓦の登場


瓦伝来から200年もすると、瓦は寺院だけでなく、宮殿や儀式用建築物にも使われるようになってきます。仏寺以外の瓦葺き建築物のはじまりは、藤原宮(694~710年)の儀式用建築物、朝堂院と言われ、これは大陸の建築様式が寺院以外に初めて取り入れられたケースとされています。

奈良「平城宮」世界遺産


こうして瓦葺きの建物は東北や九州にも波及していきましたが、需給逼迫に伴う品質の劣化からか、奈良時代後期から平安期になると瓦の需要は激減し、代わりに檜皮葺きや柿葺きが隆盛となっていきました。


そして瓦では、釉薬瓦の元祖「緑釉瓦」が誕生します。遣隋使や遣唐使によって、当時の長安一帯の唐三彩や彩釉陶の技法が導入され、その釉薬技法が新しい釉薬瓦を生み出したのです。


釉薬瓦は、767年、平城京の東院玉殿の瑠璃瓦が初めてと言われていますが、これは鮮やかな古瓦の出土や、緑釉、三彩釉、灰釉などの瓦窯跡の発掘で裏付けられています。


さらに昭和62年には、平安京の大内裏、豊楽殿と推定される建物の軒瓦、丸瓦、シビなどが発掘されましたが、それらは濃い緑色の釉薬瓦でした。



続く・・・


鎹八咫 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使


協力(敬称略)

石州瓦工業組合 〒695-0016 島根県江津市嘉久志町イ405 TEL 0855-52-5605

(一社)対馬観光物産協会 〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま TEL 0920-52-1566

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話 03(5253)4111


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